雷神の馬蹄と異界の坩堝

1章:少年が戦う理由と境遇

欣勝寺透の日常

 ピピピピピ、ピピピピピピ。けたたましく耳障りな機械音が鳴り響く。本日2度目の目覚ましのアラームだ。

 ああ、うるさいな。どうしてもっと小鳥の囀りのような、静かで、安らぎを与える様な音にしないのか。これではただただ不快なだけじゃないかと寝惚け頭で思考し、不快じゃないと誰も起きないなと一週遅れた頭で納得する。

 もぞもぞとベッドから抜け出て、少し離れた目覚ましを止める。七時十一分二十六秒ジャストだ。いや、どこもジャストじゃないな。



 冬の寒気はとうに過ぎ、夏も間近に感じるこの季節。ウグイスは既に伴侶を見つけて風情の無い声で鳴き、早い所ではセミが婚活を開始する頃だ。この例え方に、自分が恋愛脳であることを改めて再確認する。お花盛りのピンク色だ。

 そんな季節でありながら、足の裏に触れる床は少し冷たく心地よい。俺はまぶたを擦って目やにを落としつつ、そのまま寝室を出てリビングに向かい、朝食の支度をしている母に声をかける。


 いつもと何一つ変わらない、欣勝寺きんしょうじ家の朝の光景だ。


「おはよう」

「おはようとおる。もうすぐできるわよ」

 フライパンを回しながら答えた母の手元からは、焼けた卵の臭いが漂う。成る程、今日はスクランブルエッグかと心の中でガッツポーズを作る。

 特別この料理が好きな訳ではないが、たまにとんでもない料理を繰り出してくることがあるのだ、この母は。

 黒砂糖麻婆入り軟骨餃子なる本場の中国人もビックリな創作中華を振る舞われた時には、七割残して学校に向かった。母には怒られたが、この珍妙奇天烈な物体Xを三割食べたことを評価してほしい。

 その点、まだスクランブルエッグはいい。塩と砂糖を間違ってもまだ食べられる。ケチャップがあれば万々歳だ。


 しかし、その期待は裏切られることとなる。そう、あれは、所謂死亡フラグというものであったようなのだ。粉々に切り刻んだ卵を皿に盛りつけた母は悪魔の調味料を手に取る。かの大英帝国様が生み出した発酵調味料、その名もマーマイト。

「そうだ、今日は通販で買ったコレでもかけてみようかしら」

「!? ちょっ――」

 多幸感に酔いしれていたせいか、静止の声が一瞬遅れる。その間にどどめ色の絶望がスクランブルエッグを覆い尽くしていく。おおおお、マジか。


 朝の食卓で発生した痛ましい惨事から現実逃避するように、俺はテレビのリモコンを手に取り、コロコロとチャンネルを回していく。

 やがて目当ての番組に辿り着くと、そこから流れるニュースに耳を傾ける。今日も変わらず真面目な報道からおちゃらけた音楽情報やいまひとつ役に立たない雑学まで、バラエティに富んだ情報を垂れ流している。

 番組の企画でサバイバル経験のある色黒の芸人が体験談であると銘打ち、披露した日常生活には到底役立ちそうにないサバイバル雑学に、わははと笑いながら番組を見ていると、司会の案内で突然画面が切り替わる。

「報道フロアから緊急ニュースです。今朝スペーシー、五時四十五分発の北京発東京行き六〇五便が日本海上空で消息を絶ったとのことです。外務省は日本人の……」

 怖いこともあるものだ、と思いながらチャンネルを再び回す。

 次はピリリとスパイスの効いたコメントを出すことで有名なタレントが司会の番組だ。髪に白いものが見えてくる年頃のタレントが、眉に皺を作りながら回転するボードに手を叩きつけ、いじめ問題について声を荒げている。


「いじめ、か……」


 小さく、しかし胸を刺すような鋭い痛みに顔を顰めたその時、「ご飯できたわよー」と終焉のラッパを思わせる声が聞こえた。

 ……スクランブルエッグマーマイト仕立てはまだ、ギリギリ食べられたものだった。



 朝食を頑張って平らげた後、洗面台に行って歯を磨き、顔を洗う。

 生え始めたヒゲを剃りながら、自分の顔を観察してみる。黒く、癖がありそこそこ長い髪。まるで昭和のスターみたいだと父には称された。眉は細く短く、鼻は一般的な日本人のように低い。しかし全体的な顔立ちは整っており、やや焼けて小麦色になった肌が精悍さを醸し出している。

 目は切れ長で、その眼差しは幼いころ爺さんに見せてもらった、鈍く輝く短刀に似ているように思える。ツリ目でもタレ目でもないが、やや三白眼染みている。どうにも、成長するごとに顕著になってきたこの目が少し気になってきている。カラコンで誤魔化せないだろうか? 近くでカラコンの安い店って何処にあるかな? 宿里やどりに聞いてみるか。

 そんなことを考えながら顎に塗ったクリームを洗い流し、濡れそぼった顔をタオルで拭って制服に着替え、出かける用意をする。

 


「あ、透。今日はいつ帰ってくるの?」

「近々大会があるから、七時くらいかな」

「じゃ、それくらいにご飯を用意しとくわね。いってらっしゃい」

「いってきまーす」

 朝礼が行われる五分前に高校に到着するように家を出る。

 普通に歩けば遅刻しかねない時間設定だが、少し走れば十分に間に合う。朝のジョギングも兼ねるこの登校習慣は実に健康的だ。別に朝に弱い訳ではない。健康のためだ、信じてくれ。


 軽く走りながら、空を見てみる。今日は雲一つない快晴だ。抜けるような青空。まるで気を抜けば、……そんな空だった。


 少し走ると、歩道橋が見えた。よたよたと、背の曲がった老婦が荷物をもって登っている。目の前の信号に目を向けると、既に青く点滅している。俺は歩道橋を渡ることに決め、駆け上がろうとしたその時だった。

 老婦が風呂敷包みを落っことし、中の荷物をばらまいてしまったのだ。

 元々曲がった腰をさらに折り曲げ、散らばった荷物を拾い集める老婦。その動きは起きたばかりのパンダの如く緩慢だ。立ち止まってよく見てみれば、荷物の内容は菓子類のようだ。それを優しく労わるように、そっと風呂敷の上に戻していく。

 ふと考える。今、ここで人助けをすれば遅刻は免れないかもしれない。見過ごせば遅刻はしないだろうが、今日一日心にしこりが残るだろう。

 その二択。その二択を天秤にかけるより先に、頭を振る。そうだ、何を迷うことがある。誰も見ていないさ。俺の体は動いていた。

 人助けを優先しよう。すぐさま落ちた荷物――散らばった菓子類を拾い集め、風呂敷の上に戻し、それを包み、短く声をかけた。

「どうぞ」

 すると、まるで拾ってもらうのが当然のように老婦は荷物を再び背負い、「ふん」と鼻を鳴らし信号の方に歩いて行った。信号は、すでに赤を超して青く染まっていた。

 ……けして、礼を求めていたわけではない。しかし、無言のまま立ち去られるとそれはそれで堪えるものだ。わずかなしこりと、2度目の鋭い痛みを胸に覚え、俺は再び走り出す。信号の方に行くのはどこかはばかられたので、そのまま歩道橋を駆け上がった。


 しばらく走っていると、高校の校門が見えてきた。後はあそこまで一直線。校門に緑色は見えない。間に合った、と思った次の瞬間。

 緑のジャージを着た熊のような図体の教師がのっそりと這い出てきた。

 目は小さいがぎらぎらと輝き、ついでに頭も輝いている。荒々しい歯をむき出しにし、遅刻者はいねがぁ~と言わんばかりに辺りを見渡す。皆がつけたあだ名は「ナマハゲ」だ。略してハゲだ。要するにハゲだ。

 しかし、いま重要なのはナマハゲが禿げていることでも、植毛に失敗したことでも、最近歴史を習った娘さんに「前方後円墳みたい」と言われてちょっとナイーブになっていることでも無い。

 このナマハゲが遅刻者を取り締まる生活指導の先生であるという事だ。ここからでは校舎についている時計は見えない。が、ナマハゲが出てきたという事は遅刻時間が間近に迫っているという事である。ヤバい!

 ラストスパートだ!エンジン全開、イグニッション!心の中でどこかのヒーローっぽい口上を叫びながら校門に猛ダッシュをかけ、豪快に頭から校門に滑り込む、擦れて痛い!

 そしてナマハゲの顔色を伺う。こちらをジロっと眺め、口をついて出る「お前、大丈夫か?」の声。――勝った。遅刻では、ない! 本日二度目の心中ガッツポーズ。おっと、死亡フラグを立てないよう細心の注意をもってゆっくり腕を持ち上げる。


 しかし、まだ油断はできない。「間に、合いました、よね?」と恐る恐る確認する。

「ああ、ギリギリだがな。次は、というかこれからはもうちょっと余裕を持って来るんだぞ。それに、無意味にヘッドスライディングするんじゃない。怪我でもしたらどうするんだ、全く……」と、やや心配の色を見せるナマハゲ。

 それに対し、「ええ、はい、すいませんでした」と上辺だけ謝っておく。……いい先生ではあるのだ、弄りやすいだけで。嫌いではない。

 そのまま膝と胸を払い、下駄箱へ向かう。後ろからナマハゲの怒声が聞こえる。本当にギリギリだったのだろう、危なかった。

 

 下駄箱に靴を入れ、まだ新しい机の香りがする教室へ向かう。

 老朽化が問題となっていたこの学校は、つい最近改築されたそうだ。コンクリート自体が古くなってきたので、鉄筋を使って強化したらしい。

 その際に中のものを殆ど新しいものに入れ替え、床も張り替えたそうだ。おかげで校内は埃一つないくらいにピカピカになっている。不意に、窓のサッシを指でなぞってみる。埃があった。吹いて散らしておく。


 その時、「何してるの? もうすぐ朝礼はじまるよ?」と、後ろから声をかけられる。振り向けば、癖のある茶髪の長髪をアップのポニーテールにし、長いリボンでまとめた少女がそこにいた。


 「お、宿里やどりじゃねえか。」

 彼女は溝呂木宿里みぞろぎやどり

 幼稚園から高校まで、ずっと同じ学校に通い続けている俺の幼馴染だ。

 目はパッチリ開いており、若干ツリ目。小顔で、鼻や口も小さくまとまっている。

 バストは残念なことになっているがスタイルはよく、知らない人にモデルと言っても信じてもらえるだろう。

 ……うん、控えめに言っても美人だ。

 親が関西から越して来たらしく、そのせいかどうかは知らないがノリがいい。

「いや、ちょっと小姑ごっこをだな」とボケをかますと、

「あんた子供いないでしょ、というかまず男でしょうに」と小気味よくツッコミが帰ってくる。まるで阿吽の呼吸だ。こだまとキヨシの関係だ。これは違うな。

「で、お前は何でまだ廊下にいんだよ」と尋ねると、

「トイレよ」と恥ずかしげもなく言い放つ。ああ、こいつはそういう奴だった。

「おいおい、もうちょっとデリカシーってものは無いのか?」

「うっさい、あんたに言われたくない」

 そんな軽口を叩きながら、俺達は教室へと向かう。


 退屈な朝礼を聞き流し、窓際の席から快晴の空を眺めながら思う。

  色々言いながらも正直、俺はこいつの事が好きだ。ずっと一緒に過ごしてきたし、誰よりも思い出を共有してきたという自負はある。も、俺を見放さないでいてくれた。……しかし、こいつはどう思っているのだろう。俺よりほかに好きな人がいるんじゃないだろうか。


 過去、こいつが告白されているところを見たことがある。その時彼女は他に好きな人がいるからあなたとは付き合えない、ごめんなさいと断っていた。それが、もしかすると俺じゃないかと思った。しかし、もしそうでなかったら。本当は俺じゃない別の誰かを選ぼうとしているのではないだろうか。狙っている奴も多いと聞く。

 そうして、時間が経つごとに、俺の中の不安は膨れ続けている。だが、俺は何も言い出せない。……今の心地よい関係を続けていたくて、どうしても言い出せない。

 それが俺の、今の日常なのだ。


 朝礼が終わり、チャイムが鳴る。1時間目は現国だ。

 教室を移動する必要はないのでぼうっと空を眺めながら過ごすことにする。すると、宿里が声をかけてきた。

「ねぇ、ちょ、ちょっと……今日の放課後、時間ある?」と少し上ずった声で話しかけてきた。

「急になんだ?っていうか何だその声、変な物でも食ったのか?」

「ベ、別にいいでしょ? それより、どうなの?」少し喉の調子が戻ったのか、今度は普通のトーンで聞いてきた。

 しばし逡巡した後、「放課後なぁ、あー……陸上部の地区予選が近いから練習だな。悪い」と、誘いを断った。

「そ、そう……」と残念がる宿里。

「? まぁ、今度の休みでよけりゃ聞くぜ。また荷物持ちか?」

「いやー、そういう訳じゃ……」と言葉を濁された。目線は少し上に逸れている。

「そうか……あ、そうだ宿里。この近くで、安いカラコン売ってる店……」とまで言いかけて、俺は気づいた。宿里の視線は上に逸れている訳ではなかった。ぽかんと呆けて、。何かと思って宿里の見ている方角――窓の外からさっきまで眺めていた空を見て、俺は驚愕の声を上げた。



 「なんだありゃ……」と俺が呟くと同時に。



 、巨大な穴が空に産まれた。


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