新世界のゼロ

伊吹ハルカ

CHAPTER:1 -覚醒-

1

 知らない部屋で目が覚めた。

 汚れひとつない真っ白な天井を見上げながら、僕は痛む頭を押さえて身を起こす。

 ――どこだ、ここ。

 周りをぐるりと見渡してみる。部屋は全面1メートル四方くらいの真っ白なタイルで埋め尽くされていて、その中心に備えられたベッドに横たわっていたようだ。家具のようなものは何もなく、壁には出入口がひとつあるだけだ。ベッドはなんの飾りもない簡素なもので、汚れ一つ無いシーツが眩しい。

 周りを観察しながら、記憶を掘り返す。でも、何も思い出せなかった。記憶がない。ここに来た記憶どころか、来る前になにをしていたのか、どこに住んでいたのか、僕が何者なのか――すべて忘れてしまっていた。不安が一気に押し寄せてくる。

 痛みで考えがまとまらなかった。頭の中を直接かなづちで殴られているような気分だ。喉がからからに渇いて、息をするのも辛いくらいだった。胃の中は空っぽなのに、不安はどろどろに溶けて胃の底に固まっているみたいに感じた。

 空腹と脱水に押されて立ち上がろうとするけれど、僕はベッドから転げ落ちた。足に力が入らない。怪我して何日も入院したときみたいに、筋肉がすべて衰えているようだった。僕は床を舐めながら、いうことをきかない腕をむりやり動かして、なんとか出口の引き戸にたどり着いた。

 まともに立ち上がれるようになったのは、開かない扉に四苦八苦して30分くらい経ってからだった。




 部屋を出てみると、先の見えない長い廊下が右側に続いていた。左側は50メートルくらい先に壁がある。廊下は部屋と同じように全面タイル張りで、照明もないのに目がくらむほど明るい。

 戸惑いながら右側に歩き出そうとすると、どこかから足音が聞こえてきた。左側の廊下の突き当たりから人影が現れる。いや、突き当たりだと思っていたけど、横に通路が続いているようだ 。

 見知らぬ場所で不安に押しつぶされそうだった僕は、安堵のため息をついた。なぜか、僕以外の人間がどこにもいないんじゃないかと錯覚していたからだ。

 まっすぐ通り過ぎようとしていた人影は僕を見て、進路をこちらに変えて歩いてくる。僕は涸れて貼り付いた喉から無理やり声を絞り出した。

 「あっ、の、ここは――」

 紙をくしゃくしゃに丸めたような声が出てしまって、僕は喉をおさえて咳き込んだ。

 「ここ、どこですかっ。僕はっ」

 僕の目の前で立ち止まっていたその人は、15歳くらいの小柄な女の子だった。全身白ずくめで、肌までもが着ている白衣と同じくらい白い。まるで生気が感じられなくて気味だ。綺麗に保存されたゾンビみたいな顔で、僕を見上げたまましばらく微動だにしないものだから、びくびくしながら口を開こうとすると。

 「Language――JAPANESE、クリア。声紋・容姿解析――被検体J0003、クリア。診断――オールグリーン、クリア――」

 僕をさえぎって、恐ろしい早口で彼女が呟く。かろうじで聞き取れたのは最初の方だけで、しばらく機械的な声を発し続けていた。その小さな声が聞こえなかった僕は、戸惑いながらもう一度彼女に話しかけようとする。

 「あの」

 「おはようございます。ハル様。飲み物をご所望でしたら、食堂へ案内します。どうぞ」

 「あ、うん、ありがとう」じゃなくて。

 僕は振り向いて歩き出そうとした彼女の腕を掴んだ。

 「あのっここ、ここはどこなの? なんで、僕はなんでこんなとこに、君はっ、ええと」

 「……私はSurvive Assist and Regenerate for human Androidです。サラと呼ばれています」

 サラは僕に向き直って、慌てる僕を落ち着かせるように、ゆっくりと事務的な口調で説明した。

 アンドロイド。流暢な発音だったけれど、英語が苦手な僕でもたしかに聞き取れた。アンドロイド――ロボットってことだ。でも、どう見ても人間じゃないか。こんなに精巧なロボットが造れるなんて、聞いたことがない。さっき掴んだままの手を確かめても、人間にしか見えない。ぬくもりもちゃんとあるし、絶対にあるはずの機構の継ぎ目がどこにも見当たらない。さっき歩いてくる動作だって、完全に人間のものだった。

 「記憶に障害が生じているようですね。ハル様は自らの意思でこの施設にやってきました」

 僕がまじまじと観察していると、ずっと黙っていたサラが口を開いた。僕は我に返って、慌ててつかんでいた手を放した。

 「この施設の機密書類保管室にハル様がサインした書類、およびデータが保管されています。風化を抑えるために保管室全体にコールドスリープを施して――」

 僕がここに自分から来ただって? そんなはずない。記憶がないにしたっておかしい話だ。起きる前に僕が何をしていたのかはわからないけれど、こんな得体のしれない場所にすすんで来るはずがない。

 「ハロー、ハロー、ハル様。……精神値が不安定ですが、どうかしましたか」

 サラが感情のない顔で覗き込んでくる。動揺して話をぜんぜん聞いていなかった。

 思い出せない記憶のことはあとにして、まず現状の把握を済ませることにしよう。

 よし、と呟き、僕は頭を振って考えを振り払った。前に向き直って、僕を見つめるサラに気づいてしまう。

 「ハル様」「なんでもないよっなんでも」

 返事のない僕が異常と感じたのか、さらに顔を近づけてくるものだから、僕は恥ずかしくなって顔を背けてしまう。機構の継ぎ目はないけれど、ロボットだけあって綺麗な顔立ちだった。

 サラは首を傾げて、ひとまず食堂へ案内しますと言って歩き出した。僕はさっきふり飛ばしたはずの不安が背中に張り付いているのを感じながらも、喉の渇きを思い出して素直に従うことにした。

 「ごめん、さっきちゃんと聞いてなかったんだけど、ここはどこなの?」

 僕は歩きながら、先を行くサラに再び問いかける。耳を澄ましてみると、サラの歩く足音に紛れて金属が擦れるような甲高い音が聞こえる。なるほど、肌はなにかの素材でコーティングしてあっても、やっぱり内側はロボットらしく機構が張り巡らされているのだろう。

 「ここは政府直属の研究所、アルクトゥルスです。旧東京都千代田区霞ヶ関にあたる土地が現在の座標です。水面下131メートルが現在の深度で、施設における地下31階にあたる部分です。このアルクトゥルスは60階層、620平方キロメートルの敷地を備える施設となっていますので、無闇に歩き回らないようにお願い致します」

 驚きの連続だった。東京の地下にそんな施設があったなんて、都市伝説でしか聞いたことがなかったのに、ほんとうにあったのか。それに、620平方キロメートルだって? 23区の地下がまるまるこの施設になっているということになる。

 僕は天井を見上げた。部屋で目覚めた時と同じタイル張りの天井だ。この上にいくつもここと同じ層があって、さらにその上には蜘蛛の巣のように走り回る地下鉄の線路があって、地表はその先にあるのだという。まるで信じられない話だった。

 「僕はなんでここにいるの? 僕なにも覚えてないんだ。寝て起きたら、もう、空っぽだったんだ。ねえ、昨日まで僕はなにをしてたの? ここで暮らしてたの?」

 矢継ぎ早に聞くと、サラは僕が落ち着くのを待つように、しばらく無言で歩き続けた。耐え切れずに早歩きでサラに追いついて覗き込むと、僕の顔をちらと見て言った。

 「昨日ではありません」

 サラは言葉を選んで話しはじめたようだった。まるでロボットとは思えないその仕草に違和感を覚えて、余命を宣告される病人みたいな気分で次の言葉を待つ。

 「あの部屋はハル様、および他の被験者である9999名のために用意された個室です。コールドスリープによってハル様の生命、および身体の状態はコールドスリープ前とほとんど変化することなく維持されました。その過程で発生したロスとして、記憶障害、身体能力の低下、覚醒時の空腹・脱水などはシミュレートの一環で確認した事例ですが、生命活動には問題はありません。アルクトゥルス研究員は、このコールドスリープが約2億年間継続可能と想定し、ハル様を含む10000名を計画に迎え入れました」

 いつの間にか僕は立ち止まっていた。どういうこと? 10000人って、そんな人数がこの施設に、そのコールドスリープとやらで眠らされているっていうのか。からからに渇いていたはずなのに、汗が滝のように流れ落ちる。無意識にきつく握り締めていた手は、じっとりと濡れていた。いや、それよりも――。

 「2億年、って……」

 僕は嫌な味がする唾を飲み込んで声を絞り出した。もう喉の渇きなんてとっくに忘れて、何かに祈りながらサラの答えを待った。

 「……ハル様が眠りについたのは平成30年」

 サラが無機質な声で言う。

 「およそ1億8000万年前です」




 東京ドームくらい広い食堂に案内されてからも、僕はまだ現実を受け入れられずにいた。サラが勧めてくれた椅子をぼうっと見つめたまま、サラの言葉が頭を目まぐるしく回り続ける。1億8000万年――ここに眠っている10000人が、順番に生まれて死んだとしても足りないほど膨大な時間だ。そんな長いあいだ、僕たちが眠っていたのはなぜだ? なにか理由があったのか? 僕はまだ夢の中にいるんじゃないか。そうでなければ、映画の撮影かなにかじゃないか。不安と疑問が湧水のように溢れてくる。なんだこれ、これから僕はどうすればいいんだ?

 目の前のテーブルに、水の入ったコップが置かれる。顔を上げると、トレイを抱えたサラが僕をまっすぐ見つめていた。

 「どうぞ」

 いまの現状をいちばん把握しているのは、おそらく彼女だ。この絶望的な状況のなかで、サラがそばにいてくれたのは救いかもしれない。僕は貰った水を一気に飲み干して、椅子に座った。

 「サラ、ほかの人ってどこにいるの? 僕以外の、その、眠ってる人たちって」

 食堂には丸いテーブルと椅子が端までまんべんなく設置してあり、人影はどこにもなかった。この広大な施設のなかで、サラ以外の人間はどこにもいなかった。ほかの9999人もだ。

 「覚醒した方はハル様を含めて3名です。当施設の被験者は、コールドスリープ開始の順番に応じてナンバリングされており、ハル様はJ0003、3番目の被験者となっております。ハル様の前に覚醒されたJ0002、およびJ0001の両名は、覚醒後すぐに施設を離れ、現在の消息は不明です」

 施設を出た、ということは、自宅に帰ったということだろうか。いやでも、1億8000万年もの時間が経っているのだ。自宅なんてもう残っていないだろうけれど、その2人は記憶があるのだろう。向かうべき場所があるから、ここを出たのだ。なんだか浦島太郎になった気分だ。そうなると、ますますなくなった記憶が気になってくるものである。僕はコールドスリープ前に亀でも助けたんだろうか。

 「そうだっ僕の記憶!サラ、僕が眠る前、何やってたか知らないっ?」

 僕は思いつき、立ち上がってサラに食いかかってしまう。テーブルが揺れて、空になったコップが倒れる。思った以上に大きな声が出てしまい、申し訳なくなって腰を下ろした。

 「……残念ながら、私はハル様のコールドスリープ以前の記憶は存じません。全ての被験者のプライバシーは、どんな形であれ侵害してはならないというプラグラムですので」

 サラは驚いた素振りも見せずに、取り出したハンカチでテーブルについた円形の水滴を拭き取る。倒れたコップを取り上げ、トレイに載せてどこかへ去っていく。

 期待はしていなかった。けれど、ほんの少しでも希望だった。すがるものがなにもなくなったせいで、僕はまた途方にくれることになる。でもすぐに、食堂の奥から香ばしい匂いが漂ってきて、からっぽになった胃を刺激してなにも考えられなくなる。サラが運んできた豪華な食事をすぐに平らげると、それに合わせてサラが暖かいコーヒーを出してくれる。

 「私はハル様の過去は存じません。ですが、地上にはハル様の記憶を探る手がかりが存在するのではないでしょうか」

 食べ終わった食器を、すこしの音も立てずにトレイに載せながらサラは言った。

 「私はここから出ることができませんが……他のお2人は覚醒後地上に向かい、そして戻っていません。ですので、確証は持てませんが、外の世界に行けば、あるいは――」

 僕はすこし悩んでから、ゆっくりと立ち上がった。どのみちほかに手がかりはない。

 「行くよ。ご飯、ありがとう。出口はどこなの?」

 サラは僕の返事を聞いて頷く。

 このときの僕は、この新しい世界を知らなかった。他の2人が地上に向かい、戻ってきていない――そのことを聞いたときから、地上には何かしらの手がかりが残っているはずだと。でも現実は、僕が思っているよりも絶望的で、2億年という時が、世界にどれだけの影響を与えたのかを、甘く見ていたのだ。

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