黄昏の果ての再誕叙事詩
白雨 蒼
序幕
「――こりゃ……間違いなく貧乏籤を引いたかな」
黒髪に黒衣の少年は、暗鬱とした空の下で壁に背を預けながら溜め息を漏らした。辺りを警戒しながら、少年はそっとすぐ傍にあった鉄扉に手を掛け、ゆっくりと開く。
同時に後ろ腰に吊るした
薄暗い――のではない。殆んど真っ暗闇と変わりのない廊下。滑るように、少年は開いた扉の隙間から中に入り、音を立てぬように鉄扉を閉じる。
そうして、ようやく少年は安堵の一息を吐いた。思わず全身から力が抜け、その場に座り込む。
しかし、それも一瞬のこと。状況は、何一つとして好転してはいない。言うなれば、一難去ってまた……というやつである。
「もっとも、一難どころか、十難くらいありそうだが……」
思ったことを口にし、少年は嘆息一つと共に立ち上がる。その所作の多くはまだ熟練とは程遠い――しかし素人というには手馴れている、一流と二流の狭間。故に、初歩的な
踏み出した足の先に転がっていたのは、中身が空っぽの容器だ。少年の爪先が容器を捉え、カランカランと子気味良い音を響かせる。
無人で無音の空間に、その音は異様なほどに響き渡り、木霊した。
同時に、少年は顰め面になってその場で立ち止まる。そしてしくじったことを理解し、天井を仰ぎ見た。
さて、どうなる? 投げられた賽は、どう転ぶのか……というのは、言うまでもなかった。
ぞろり……
何か――何か、とてつもなくおぞましい存在の気配が、
ぞわり……と、肌が粟立つ。
ぞろり……と、緊張が走る。
ぞくり……と、悪寒が襲う。
全神経が鋭敏にそれを感じ取り、生命としての危機本能が警鐘を鳴らしているような感覚に、少年は拙いと直感した。同時に諦念にも似た苦笑を漏らし、そして納得する。
――ああ。これが、
そう感じると同時――暗闇の中からひとつ、ふたつ……さらに続々と姿を現してきた化生を目視し、そして断言する。
――ああ。お前たちが、
『
異形。
異形。
異形。
――異形の群れ。
人でもない。しかし、獣でもない。そのどちらでもない――
血というよりも、炎を彷彿させる双眸が爛々と闇に咲く。そして異形の双眸と、自分の視線が交錯した。
一秒。二秒。三秒……そして動く。
動いたのは異形が先。最も近くにいた氷肌の異形が立ち上がり、地を蹴った。驚嘆するほど鋭く疾い踏込みで、異形が瞬く間に距離を詰めにかかる。
少年も動く。気配を探り、視線を巡らせ――唯一異形がやってこなかった通路に向かって走り出し、同時に手にした銃を異形へと向けた。
そして射撃。マズルフラッシュが闇の中に咲き、同時に銃口から弾丸が排出された。音速で空中を疾駆する弾丸が、少年を襲おうとした異形の腹部を襲い――爆発。
炸裂音が閉鎖した施設内に木霊し、その間隙を縫うように異形の悲鳴にも似た呻きが漏れ聞こえ、異形の身体が巻戻るように吹き飛ばされていく。
刹那、奇妙な不協和音が施設内を震撼させた。
警報、ではない。
それは異形たちの咆哮だった。
彼らに同族意識があるのかは不明だが、響く咆哮には明確な敵意と殺気が込められているのだけは肌に感じた。
兎にも角にも、少年はその場から逃れるように全力で床を蹴り、駆け込んだ廊下を一目散に疾走する。
一拍遅れて、背後から追跡の音が無数に響き渡った。地を揺るがすような凄まじい足音と疾駆の気配に、少年は死を予感しながらそれでも走る。角を曲がり、更にその廊下を走り抜ける。
此処は自分の死に場所じゃない。だから逃げ切らなければいけない。
そう、自分に言い聞かせながら。
◇◇◇
――大地は暗雲に呑まれた。
古くからそう呼ばれている理由は、三〇〇年以上一度として晴れたことのない地上全土を覆う暗雲にある。
そして、当時の文明技術は現在よりずっと優れており、今を生きる人類では到底生み出すことのできない高度な技術によって造られた道具が幾万と存在し、誰もがそれを自由に手にすることができたのだという。
しかし、それも今となっては過去の話。
晴れることのない暗雲によって太陽の光が届かなくなり、また雲下の全土に蔓延する毒素――
栄華を極めた時代の技術の殆んどは、過去という名の歴史の中に埋没した。過去の繁栄を象徴する様々な技術の結晶たちを造り出そうとしても、知識もなければ相応の技術を持たぬ今の人類に、それは再現不可能な代物だった。
故に、過去の文明を思わせる遺物は希少価値が高い。
時に
そして、その高額の報酬で一獲千金を夢見る人間もまた少なくなかった。
危険を顧みず、超高温のプラズマが嵐の如くうねる暗雲――クラウドの下に広がるかつての都市群へと、鋼の翼に乗って降り立ち、そうして何処かに隠れている技術の粋を求めるは、ある意味必然だと言えるだろう。
ただし、そんな旨味を確実に手にすることのできる人間はほんの一握りだ。
地上に降りて遺物の探査に向かい、そして遺物を持ち帰れる人間は、一〇〇人に一人いれば運がいいほうだと言われている。
死の大地と化した地上に溢れている危機は無数。それは世界を崩壊させた悪しき負素のみではない。
その負素の影響で変異したあらゆる動植物たちは異形と成り果て、地上に降りてくる人間を容赦なく襲い、喰らうのだ。
かつて地上を支配した人類だが、今では彼の異形たちこそが地上の支配者となり替わった。
故に、異形たちは牙を剥く。
自分たちの支配域を犯す人間たちへ。自分たちを見捨てた、かつての支配者たちへ。
そして、同胞たちへ――
◇◇◇
地鳴りのような足音が断続的に響いていく。壁ひとつ向こうに感じる音に身がすくみそうになるのを必死に抑えながら、少年は祈るように銃を握り、銃口を今し方自分が飛び込んだ鉄扉へと向けた。
来るなら来い。頭に一発叩き込む気概でその扉が開かれるのを待ち構えるが――結果として、それは取り越し苦労となった。
気づけば足音は遠ざかり、あの背筋が凍るような気配が遠ざかるのを感じ、ようやく少年は安堵の吐息を漏らす。勿論完全に安全が訪れたわけではない。所詮は一時的なものだが、この一時を生き抜けたことを喜ぶくらいの時間があってもいいだろうと思いながら、少年はゆっくりと立ち上がって辺りを見回した。
無機質で、かつて人が出入りしていたのか不思議になるくらい生活感の欠いた一室。箱に硝子板を嵌め込んだ機械――
ぽっかりと……まるで誘い込むかのように開いた穴。近づいてみればそれは階段で、どうやら地下に通じているらしい。
その階段の前に立ち、少年はしばし逡巡した。そして、
「……嫌な予感はするけどさ……ここまで来たら、行くしかない――だろ?」
誰に言うでもなく、少年は引き攣り気味の笑みを口元に張り付けて、銃を手にしたまま、一歩、また一歩と階段を下り出す。
一歩一歩と地下に踏み入るたびに、少年の中で何かが蠢いていた。
ただ、それは恐怖ではない。
どちらかといえば――昂揚。
何かがこの先で待っている。そんな予感がするのだ。
そしてそれは、一歩ずつ階下へ進むごとに強くなっていく。
――何かが、いる。
漠然としたその予感に突き動かされて、少年はどんどん降りていく速度が上がっていき、それはやがて早足になり、ついには飛び降りるような勢いで階段を駆け下りていた。
駆け下り、辿り着いた先へと踏み入れる。
まるで見たことのない様々な機器に埋れたような空間が広がっていた。何の目的のために造られ、何を目的として使われていたのかは想像もできないようなその場所で、呆然とその光景を見回す少年。
辺りを警戒しながら、奥へと進む。自分の中に生じた予感に従って。
まるで呼ばれているかのように。
まるで誘われているかのように。
少年の足は、自然と――そして迷いなく進んでいく。
そして、それを見つけた。
「……なんだ、これ?」
目の前に現れたそれを見据え、少年はそんな風にぼやく。
――円柱状の水槽。
一言でいうならば、それはそういう代物だった。この空間の、壁全体に備え付けられた無数の箱と、そこから伸びる何百何千という配線とが混濁するかのように空間全体に張り巡らされ、そのすべては中央に座すかのように設置された水槽に繋がっていた。
思わず、辺りを経過することも、銃を構えることも忘れ、少年は光源を得て暗視効果の切れゴーグルの奥にある青い瞳を瞬かせる。
巨大な水槽――というより、どちらかといえば培養槽のほうが正解なのだろう。うっすらと光を発するその培養槽の中に浮かぶものを見て、少年は息を呑む。
「……これは……何の冗談だよ?」
少年は此処に『ある物』を探しに来ていた。
そしてこの施設は、その『ある物』を作るための施設だということまでは調べ上げていた。そしてその最奥で、未だ手つかずの『ある物』が存在しているということも……だ。
一月近く、何度も
しかし、しかしどういうことだろうか。蓋を開けてみればこの有様。そこにあったのは、少年が探していた『ある物』とは似ても似つかない、自分と大差ない年頃の、少女が培養槽の中をぷかぷかと浮いているだけ。果たして生きているのか死んでいるのかも分からないその少女を見上げ、少年は愕然としたように暫しその姿を見上げ――やがて大きく肩を落として溜め息を吐く。
「あー……やっぱり貧乏籤か。やってられないな」
あれほど危険な――それこそ命の危機にすら瀕したというのに、得るものが何もなしなんて、救いがなさすぎるだろう。
項垂れるがまま数秒、その場で立ち尽くす少年だったが、ふと気になって培養槽を――その中にいる少女を見る。
何故、この娘はこんな場所にいるのか?
それは何の変哲もない、そしてある意味当然の疑問だ。此処は地上にある数少ない『ある物』を造りだすための研究施設だ。そんな場所の最奥に、どうして年端もいかない少女が存在するのか。
そしてもう一つ。この少女は――何者なのか。
人類が地上に住めなくなってから三〇〇年余り。その間、この少女はずっと此処にいたとでもいうのだろうか? だとすれば、この少女は……
「まさか……」
そこまで考えて、少年はある答えに行き着いた。しかし、そんなことが本当に有り得るのだろうか。自分の中に生じた推測が、あまりに荒唐無稽過ぎて自信が……それどころか現実味すら欠いていた。
しかし、もし自分の推測が正しかった場合、自分がどのような行動を取ればいいのか少年には判断がつかない。もしこの培養槽の中身が本当に『ある物』であった場合、国の研究施設に引き渡すのが正しいはずなのだが、とてもじゃないがそんなことをする気にはならない。
結局どうすればいいのか手をこまねいて、少年はああでもないこうでもないと悩み、首を傾げ続けていたが――やがて、
「……どうにでもなるか」
諦念にも似た想いで決意をし、培養槽へ歩み寄る。そして培養槽の周囲を見回し、それを見つける。
何らかの装置。おそらくこれも情報端末の一種だ。それも、この培養槽と直結するもの。
細かいことは少年も知らないが、かつての人類はこういった端末を用いてたくさんの機械を操っていたらしい。現在も似たような物は存在するが、これほど子細な情報端末はまず存在しないだろう。
過去の情報端末などほとんど触ったことはないが、それでも完全にチンプンカンプンというわけではない。似たようなものは現代(いま)も存在するのだ。ならば要領はそれと同じだろうと自分に言い聞かせながら、カタカタと端末のキィを叩く。
「しかし、
ブツブツと独り言を漏らしながら、何とかシステムを励起させることに成功した。すると画面上に無数の言語が羅列する。少年にはやはり馴染みのない、恐らくは前時代に使われていた言語だった。だが、完全に読めないわけではない。文字の形や文面に齟齬はあるが、それでも部分部分を公用語に無理やり置き換えれば読めないこともなかった。
面倒臭い。そう思いながら文面を読み解き、操作する。すると、画面上に突如、緑色の光を発する文字が大きく表示された。同時に機械音が辺りに響き、無機質な声が何処からともなく響き渡った。
『
エラー。その言葉に少年の眼が驚愕に見開く。何か操作の際に失敗があったのだろうかと思考を巡らせるが、その思考を妨げるようにけたたましい
その光が視界を染めた瞬間、どうしてこう、嫌なことというのは続くのだろうか? と何処か別の世界の出来事のように現実逃避に耽る。しかし、それも一瞬の事。
『――
再び何処からともなく聞こえてきた無機質な声。同時に目の前の培養槽が震え出し、上部の蓋のような場所から蒸気が噴き出した。
咄嗟に身構えながら培養槽を見上げる。
『――《神器》近域に生命反応あり。対象を《
……なんだって?
何か、何かとてつもなく不吉な言葉が聞こえたような気がしたのだが、少年がそのことを訝って声を上げようとするよりも早く、それは施行されていた。
少年の上正面。正確に言えば、培養槽の正面に突如出現した幾何学模様の方陣。その中央部分に何かが――光が凝縮していくのを見て、本能的にこれはヤバいと直感した時には遅かった。
溜まりに溜まった光は、まるで押し留められていた貯水池(ダム)の水が決壊するように突如吹き出し、まるで矢のように少年へと飛来した。
避ける間もなかった。そもそも躱すということを考える間隙すらなく、その光は少年の胸元に一直線に飛び――そしてその身体を容赦なく貫いた。
それは矢――と言うよりも槍。あるいは楔のようなものが突き立てられたような感覚だった。光が胸を貫いているというのに、少年は何故かそのことが別の世界の出来事のような錯覚を抱く。
痛みはない。血も流れないし――肉を穿たれる感覚もなかった。
ただ、代わりに頭の中で何かが、それこそ歯車の歯が噛み合ったようなかちりという音がしたような気がした。
まるで何か――膨大な何かが生み出した濁流に、脳味噌を直に晒されたような感覚。
同時に、右腕が燃えるような熱さが走った。熱さはそのまま痛みとなって少年を襲う。なにが起きたのか判らず、慌てて右腕の服をまくると、其処には見たこともない刻印が浮かび上がっていた。
最早この施設に来てから何度目の「なんだ……これ?」だろうか。再三に渡る不可解の中でも、これは最大級な気がする。
訝しげに自分の腕に浮かんだ刻印を凝視する少年。だが、それもつかの間。ぞくり……と背筋に空寒いものを感じ、少年は振り返った。
――ぞろり……
濃厚な死の気配が無数。警報と共に辺りを赤く染める光の中でも、決して光を失われることのない爛々と輝く紅い双眸が並んでいた。
死んだな。
客観的に自分の未来を予見し、少年は笑えばいいのか泣けばいいのか判らず、苦虫を噛み潰したような表情と共に左手の銃を持ち上げ、更に先ほど刻印の浮かび上がった右腕で腰に吊るしていた剣の柄に手を伸ばし、皮肉にもならない科白を零す。
「……食べれるものなら食べてみろ。せめて何匹か
言い切るよりも早く、
どさり……
と、音がした。
一瞬、真剣に死を思った。もし音の正体が今視界の彼方に並び立っている異形たちの同胞であるのならば、振り返るよりも先に少年は死ぬ。慌てて振り返り――振り返れたことに安堵しながら音の正体を見る。
ああ、中身だ。と、少年は思った。
そう。いつの間にか、あの培養槽が解放されていた。そして、その中身が今地面に横たわったのだと理解する。
素っ裸の少女が全身を濡らしたまま、ゆっくりと面を上げて、ふらふらと立ち上がり、ゆらゆらと視線を彷徨わせ、無表情のまま、まるで硝子のような双眸で少年を見据えて――そして無機質な声で言った。
「――貴方が、私の
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