Be my hope
小梅かん
第一章
猫の誘拐
時が経つのって早い。あれ、いつの間にか私高校三年生なんだけど。ついこの間入学してきた…はさすがにないけど、去年の秋に修学旅行に行ってから時が止まってる感じ。
三年になったといっても、うちの学校は2年からクラス替えしないから、見慣れたクラスメートと担任とあと一年一緒。あと一年って、長いのか短いのか。たぶんすぐに過ぎるんだろう。
今期初めてのHRでは今さら自己紹介も何もなく、書類とかプリントとか配られてその日は午前で終わった。午後には新入生の入学式が行われるから、仕事がある者以外は早く帰れと担任に教室を追い出されて、お腹も空いたし寄り道せずにさっさと帰ろうと学校を出た。
校門を出て坂を下る。立ち並ぶ桜の木は上り下りするのが億劫なこの坂をピンク色に染め上げてくれるので、この時期だけは好きだ。ひらひらと舞う桜の花びらに、春だなあとぼんやり思う。
次にこの桜を見ながら歩く日は来ない。来年の卒業式に桜は間に合ってくれないから、これで最後なのかと思うと少し切なく感じた。
坂を下りきってしまうと桜並木も終わってしまう。コンクリートの灰色が続く道を進みすぐ近くの信号で止まると、横断歩道の真ん中を真っ黒な猫が優雅に歩いていた。
信号は赤だ。だけど車もそんなに通らないし、猫はすばしっこいし大丈夫だろう。
そう、思っていた。
急に車の走る音が聞こえて、猫は。
思わずぎゅっと目を瞑る。身体が動かない。心臓の音が身体の中で大きく響く。轢かれた?だって、黒猫って不吉っていうし、いやそんなの信じてないけど、でも。
怖くて目を開けられない。もし轢かれてしまったのなら、そんな無残な死体なんて見たくない。おばけは大丈夫だけどグロいのは苦手なんだ。だけどこのまま突っ立てるわけにもいかない。目を開けた瞬間死体を見てしまうことにならないように、ゆっくりと顔を下に向けてそっと瞼を開けた。
「………あれ、緑…」
目の前に広がるのは、緑。芝生だ。…え、芝生?いやいやいや、なんで芝生。
私は確かにコンクリートの上に立っていたはずなんだけど…もしかして死体見るのがいやすぎて幻覚見てる?いや、何それ、頭ヤバい人じゃん。
恐る恐る顔を上げて前を見つめた。何処にも猫の死体はない。猫の死体どころか、横断歩道のしましまも信号もない。
「……街…どこ?え、なんで私丘にいるの…?」
目の前に広がるのは、見慣れた景色じゃない。街だ。ビルやらマンションやらよくわかんないタワーやら、ぎゅうぎゅうに押し込められた、窮屈そうな街の風景。
そんでもってここが市で一番の夜景ポイントですみたいな感じで紹介されてそうな、緑豊かな丘にいる私。
意味がわからなかった。あ、夢かこれって対処するにはいやに意識がはっきりしてるから、絶対に夢じゃない。だとしたらなんで私はこんなところにいるんだ。
大勢の人の前で話をする時みたいに、足ががくがく震えている。もういっそのこと座ろうかと力を抜くと、後ろから誰かの腕に支えられた。
「ひっ…」
身体がぞわっとして小さく悲鳴を漏らす。振り返っていったい誰なのか確かめることも、離れて叫ぶこともできない。恐怖を感じると一切身体が動かなくなる自分が、このときは本気で恨めしく思った。
身体が動かないので仕方なく視線をその腕に向けた。脇の間から伸び私の腕を引っ掛けるようにして支えているその腕は、色白で細いけれど、男の人のものだとすぐに分かった。
落ち着け落ち着け。大丈夫、素早く逃げればいいだけのこと。それでもし追いかけてきたりしたら、思い切り急所を蹴ればいいんだ。でも逆上されたら困るからやっぱり急所はやめておこう。
大きく深呼吸をしていざ脱出――…!と身構えたところで、なぜかパッと離された。
なんだかんだで後ろの男に体重をかけていた私はそのまま地面に座り込んで、逃げるタイミングを微妙になくしてしまった。
本気でヤバいと動けなくなっていると、後ろにいた男が私の正面までやってきた。顔を上げることをしないまま固まっていれば、男はそのまま腰を下ろして私と視線を合わせる。
黒いフードのついたパーカーを着ている男。深くフードを被っているけど距離も近いし目も合わせてくるしで顔ははっきりと見えた。
クラスの女の子たちがキャーキャー騒ぎそうな、端正な顔。無表情だし怖いけど、今さら目を逸らすこともかなわない。
男は被っていたフードを脱ぐ。フードのせいか少し乱れた色素の薄い猫っ毛は、無機質に見える彼の印象をだいぶ柔らかくした。
「アリス?」
「あ、ありす…?」
意味がわからない。ありすって、どういうこと。首を傾げれば彼は困ったように眉を下げた。
「君、アリスでしょ?」
私が、アリス?違う…いや違わないのか、確かに私はアリスとあだ名で呼ばれたことはある。でもそれは小学校の時の話だ。今じゃ私をそう呼ぶ人なんて、たぶんいない。
じゃあどうして見ず知らずの彼がその名前を?
「…あの、あなた誰なの?」
「俺?」
男はきょとんとしてから、すぐにああそうだよねと笑った。
「俺は猫田」
「ね、猫田…?」
名乗ってもらえるのはありがたいんだけど、全然記憶にない。誰よ、猫田さんって。
いまいち理解しきれてない私に彼は続ける。
「無理やり連れてきちゃって申し訳ないんだけど、今はあまり時間がないんだ。だから悪いけどざっくり説明する。何となく理解してくれればそれでいいから」
彼は顔を歪め、ため息交じりに話し始めた。何となく理解と言われても、理解できる自信がないのだけど、どうやらこちらの事情は無視らしい。
「ここは君の住んでた時代より未来の世界なんだ。昔じゃ考えられないようだけどこの世界にはタイムスリップ装置があって…まあ違法なんだけどね。それでなんで君がここに連れてこられたのかというと、今ちょっと状況が悪くてさ。君にしか頼めないってことで、有無を聞かずに拉致って来たってわけ」
大丈夫?話ついてこれてる?と顔を覗き込んだ猫田さんだったが、やはり頭が追い付かない。というか、理解しちゃいけないような気がしてしまう。
何言ってんの?ドッキリ?今日なんかある日だっけ?なんでこの人、意味の分からないことを喋ってるの?不思議系なの?
不信感とセットで疑問ばかりが浮かぶ。新たな宗教の勧誘なのかと思い始めた頃に、考えすぎて疲れたのかお腹が鳴った。…もちろん私の。
「あ」
思わずお腹を押さえる。なんでこの状況でお腹が鳴ったりするんだ。神経太いと思われそう、恥ずかしい。恥ずかしすぎる。
あまりの羞恥に顔が熱くなった。自然と下がる頭。健康なのはいいことだけど、自分の素直なお腹に腹が立った。
彼はというとしばらくの間をおいてから、堪えきれなかったとでも言うように吹き出した。顔を上げれば楽しそうに笑う姿が見られ、さらに恥ずかしくはなったものの警戒心が緩んだ。
「ああ、久しぶりにこんな笑った気がする。ごめん、昼まだ食べてなかったんだね。なんか奢るから、立って」
ほら、と差し出された手のひら。簡単に掴めるわけもなく、本当に大丈夫なのかと疑ってしまう。
「警戒するのはわかるけど、俺は君に危害を加えたいがために君をここに連れてきたんじゃない。何もしないって約束するから、ご飯食べに行こう?実は俺もまだ昼飯食べてないんだ」
柔らかく笑う猫田さん。悪い人ではなさそうだけど、やっぱり少し怖い。だけどこのまま何も答えず動かずは悪いし、お腹も空いてる。
私は恐る恐る猫田さんの手のひらに自分の指を乗せた。猫田さんは小さく笑って、手を掴む。少し体温の低い猫田さんは、細いくせに意外と力があった。
ぐい、と引っ張られて立ち上がる。春の柔らかい風がスカートを揺らした。
「じゃあとりあえず丘を下りよう。街に行けばいろいろ店あるし」
「あの、猫田さん」先に歩き出した彼に声をかける。振り返った彼は返事の代わりに小さく首を傾げた。
「猫は」
「猫?」
「猫は、どうなったの。車に轢かれそうになった黒猫…」
私はあの猫が轢かれたところを見たわけじゃない。怖くなって目を瞑ってしまったから、結局あの子がどうなったのかわからない。
どうして今自分のことより猫の心配なんかしてるのか、自分でも呆れるけど、心配だから。ここが未来なら、きっとわかるだろうし。
猫田さんは私の言う猫がなんなのか理解したのか、ああ、と笑った。
「猫は死なないよ。大丈夫、そんな心配しないで」
その時の猫田さんの笑顔はすごく綺麗だったけど、同時に切なさみたいな、青色の感情が混ざったような笑顔だった。
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