二日目
次の日の朝早くに、ぼくは会社に電話をした。
「一週間ほど有給を取りたいんですが」
同棲していた彼女が亡くなったことを伝えると、課長はすぐに許可を出してくれた。ぼくの声があまりに淡々としていたので課長はなんだか不安になったみたいで、最後には「休みたいだけ休みなさい、会社に来るのは落ち着いてからでいい」なんて言ってくれた。
その彼女は、ぼくの横で真剣な顔をしてテレビに観入っている。
「ねえ、それがやり残したことなの?」
そうよ、とテレビの画面を見ながら上の空で答える。
「録画しておいたドラマ全部観なきゃ、死んでも死にきれないよ」
ぼくはやれやれと首を振った。七日間だけ戻ったのがドラマを観るためだったと知ったら、脛を蹴られた天使もさぞかし悲しむに違いない。どう考えても蹴られ損だ。
「ねえ、こっちに来て」
「何だい?」
「ここに座って」
彼女はぼくをソファに座らせると、足の間に座った。そのままゆったりとぼくにもたれかかって、嬉しそうに言う。
「あったかくていい気持ち」
そのまま二人でドラマを観た。ひんやりした彼女の体温と共に、改めて彼女が死人だということがぼくに伝わってくる。それでもぼくは、彼女が死んだという実感が湧かずにいた。
テレビの中では、よくCMに出ている人気俳優が、これまた人気のある女優を抱いて泣き叫んでいる。
おい、陽子、目を開けろよ。
なあ、陽子ってば!
陽子!
返事をしてくれ!
「ねえ、君もあんなふうに泣き叫んだの?」
彼女がいたずらっぽく聞いてきた。
「ううん、泣いてないよ。なぜだかわからないけど、涙が出なかったんだ」
「ほんとうに? 君って案外冷血漢なのね」
「そんなことないって言いたいけれど、たぶん君の言う通りだ。ぼくはきっと冷たい男なんだ」
冗談よ、と言って彼女がぼくに体重を預けてきた。彼女の身体はやっぱり冷たい。きっと、通っていた血液が事故のときに全部流れ出てしまったんだろう。
「君が優しい人だってことは、私がよく知ってるよ。ちょっとからかっただけでそんな顔しないの」
「そうだといいけどね」
ぼくは彼女の身体に腕をまわして、そっと抱きしめた。髪からはいつも使っていたシャンプーの香りがして、ぼくは思わず彼女の髪に顔をうずめていた。少しだけ泣きそうになったけど、やっぱり涙は出なかった。
そのまま黙ってドラマを観ていると、彼女の息が少しずつ寝息に変わっていくのがわかった。
ぼくに体重のほとんどを預けて気持ちよさそうに眠る彼女は、どこからどう見ても死んでいるようには見えない。でも実際に彼女は死んでいて、きっともう生き返ることはないのだ。ぼくは彼女の寝顔を眺めながら、不思議な感情にとらわれていた。
人はあっけなく死ぬ。今この瞬間だって、世界中でたくさんの人が死んでいる。彼女の死もその一つに過ぎなくて、彼女がいなくなった世界は、これからも特に何事もなかったかのように回り続けるのだろう。
でも、それを素直に受け入れられるほど、ぼくは大人じゃなかった。
どうして彼女が。よりによって。
そんな思いが頭の中に渦巻いて、消えてくれなかった。彼女がどんな罪を犯したというんだ。なぜあんな酷い死に方をしなければならなかった。どれだけ問いかけても仕方のない問いが次から次に湧いてきて、ぼくはやり場のない怒りを持て余し、気持ちを落ち着けるために彼女の頭をゆっくりと撫でた。
「しょうがないよ」
彼女の声に、ぼくはびくっとした。いつから起きていたんだろう。
彼女は、ぼくの心の中を見透かすようにゆっくりと言った。
「私が選ばれたことには何の作為もないもの。私が悪いわけでも他の誰が悪いわけでもないの。天使たちもそう言ってた……誰が決めたわけでもない。誰も悪くない。強いて言えば運が悪かったんだ、ってね」
「それで納得できるのなら、こんなに苦しんじゃいないさ」
ぼくはつぶやくように言った。そうね、と言って彼女はぼくを優しく撫でてくれた。
ドラマを見終わったのはもう夜で、彼女はその間に三回もぼくの腕の中で眠った。
「君、結局ドラマの三分の二ぐらいしか観てないだろう」
「でも、やり残したことのうち一つはちゃんとできたよ」
「ドラマを観ること?」
「ううん、実はね、やり残したことってドラマ観ることじゃないの」
「でも君、今日一日ドラマ観る以外のことしてないよね」
彼女は、恥ずかしそうに笑った。
「のんびりドラマを観ながら、君の腕の中で眠りたかったの」
ぼくは何と言うべきか散々迷ったあと、結局「そうですか」とだけ言った。そのあと、ゆるんだ顔を見られたくなくて慌ててトイレに行くふりをした。
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