レンブラント光線

紫水街(旧:水尾)

一日目

――雲の切れ間からまっすぐ差し込む光のことをレンブラント光線っていうんだよ。


 ぼくにそれを教えてくれたのは、彼女だった。


――えっ、天使の階段じゃないの。


――それもあるけど。レンブラント光線っていう名前は、画家のレンブラントさんがよく描いたからそんな名前が付いたんだって。私も死んだあと、そんなふうに自分の名前がどこかに残ったらいいなあ。


 そう言って笑う彼女がなんだかとても愛おしくて、ぼくはふわふわした気分になったのを覚えている。



 ある日ぼくが仕事から帰ってくると、家で待っているはずの彼女の姿はなかった。買い物にでも行っているんだろうか。

 ソファでくつろいでいたら、電話がかかってきた。

「もしもし」

「もしもし、◯◯さんですか」

「そうですが、どなたですか」

「警察です。あなたは××さんと一緒に住んでいますね?」

 はあ、そうですが、と答える。

「非常に申し上げにくいのですが、××さんが交通事故に遭われました。つい先ほど病院から亡くなったと連絡が」

 彼女は、本当にあっけなく死んでしまった。よくある話だ。飲酒運転の車に跳ね飛ばされて、彼女の頭は花でも咲くみたいにぱっくり開いてしまったらしい。


 その次の日、彼女の故郷で葬式があった。もちろんぼくも参列したし、お焼香だってした。その間、ぼくは一度も泣けなかった。

 悲しくなかったわけじゃないけど、なんだか頭がぼうっとして、何も考えられなかった。周りの風景が奇妙に歪んで見えた。人の話し声も遠くから聞こえてくるようで、深い水の底にいるような気分だった。

 あんなに元気で物知りでお喋りで、少しだけわがままだった彼女がもう喋らない。そのことが信じられないまま、ぼくは彼女の親族に挨拶してまわった。

 棺桶の中の彼女の顔には綺麗に化粧がされていて、ぼくは、普段の彼女はもう少し化粧が下手だったなあ、なんて愚にもつかないことを考えながらそれを眺めた。人の顔じゃなくて精巧なマネキンの顔みたいで、実際にそれは人形だった。からくりのねじが壊れて、もう自分からは動くことのないただの人形。


 葬式が終わって、帰りの新幹線の中で窓から外を眺めていると、雲の切れ間から太陽の光が射し込んでぼくの顔を照らした。

 なんだっけ、そう、レンブラント光線だ。

 天使の階段とも言う。でも、階段というよりはスロープだ。ぼくは天使があの光を歩いて降りてくる様子を想像しようとしたけど、なんだかうまくできなかった。


 駅から家まで歩いていく。小さなマンションの一室は二人で住むには少し狭かったけど、一人で住むには少し広すぎる。家にある彼女の私物をどう処分するかについて、相変わらずぼんやりした頭で考えた。涙も流さずにそんなことを考えている自分がとても冷徹な人間のように思えて、少しだけ嫌になった。

 ぼくが玄関の鍵を開けると、部屋の中には電気が付いていた。消し忘れたのだろうか。

「ただいま」

 何も考えずそう言ってしまってから、ぼくは後悔した。返事などもう二度と来るはずがないというのに。来るはずがない……そのはずだったのに。


「おかえり」


 聞き慣れた声が台所から聞こえてきた。

 呆然と突っ立っているぼくの前に、おたまを持った彼女がパタパタと歩いてきた。

「ごはん、できてるよ」

 そう言ってにっこり笑う彼女は別に身体が透けているわけでもなく、いつもと何も変わらない姿だった。いつも気にしていた低い身長も、笑うときゅっと細くなる目も。ぼくは一瞬、自分は夢でも見ているのかと思った。

「……なんでいるの?」

 ぼくはやっとのことでそう尋ねた。

 彼女が悲しそうな顔をして「いないほうがよかった?」なんて言うものだから、ぼくは慌てて首をぶんぶん横に振った。

「ううん、全然そんなことないけど……でも、君って……」

 彼女は頷いて「死んでるよ」と言った。そうだ、彼女は死んでいる。

「ねえ、どうだった? 私の葬式」

 彼女が興味津々といった様子で聞いてきた。死んだあと自分の葬式がどうなるのか、やっぱり気になるのだろうか。ぼくは死んだことがないから、よくわからない。

「皆とても悲しそうだったよ。君が皆に好かれていたことがよくわかった」

 うんうんと彼女は頷いた。ポニーテールがぴょこぴょこ揺れた。

「そうでしょうとも!」

 そして、不思議そうに「上がらないの?」と言った。

 ぼくは自分が玄関に立ち尽くしたままだったことに気付き、慌てて靴を脱いで家に上がった。


 食卓にはぼくの好物が並べられていた。ごはんとかぼちゃの煮付け、きゅうりのサラダ。

「迷惑かけちゃったからね、おわびにと思って君の好物ばかりにしたよ」

 そう言って彼女は申し訳なさそうな顔をした。

「ごめんねえ、びっくりしたでしょ?」

 ぼくは大きく頷いた。

「まだびっくりしてるよ」

「そうよねえ」

「ぼく、君の骨をほんの数時間前に拾った気がするんだけど……」

「知ってるよ。丁寧に拾ってくれて嬉しかった」

 はにかむように言う。

「恋人に自分の骨を拾ってもらえるなんて、私って幸せ者」

「じゃあ……」

 ぼくは、恐る恐る彼女に尋ねた。

「君は、幽霊なのかい?」

「そうかもね。でも私、透けてないよ」

「……触ってもいい?」

「どうぞ」

 彼女は少し頬を染めながら、手を差し出した。ゆっくりと握ってみると、それは確かに存在していて、ぼくの指を心地よい弾力で押し返してきた。何回も繋いだことのある、彼女の手だった。でも、その手はかなり冷たくて、なんだか直前まで冷蔵庫に入っていたみたいだった。

「冷たいよね、ごめんね」

「ううん、ひんやりしてて気持ちいいよ」

 彼女は微笑んだ。

「そう言ってくれると思ってた」

「ねえ、幽霊じゃないとしたら、君は一体なぜ骨壷の中じゃなくてここにいるんだい?」

「それはねえ」

 彼女は話し始めた。


「死んだあと、私ね、すごく駄々をこねたの。まだ死にたくないって叫んで、私をどこかに連れていこうとする、天使みたいな格好の人たちの向こう脛を蹴っ飛ばしたりして」

 ぼくは思わず笑ってしまった。天使の脛を蹴っ飛ばすなんて、彼女以外にはできない芸当だろう。

「でも、もう戻れないんだよって言われてね。嫌だ、まだやり残したことがあるって言ったら、じゃあ七日間だけ戻っていいって言われて」

 ぼくは驚いた。案外融通がきくらしい。

「そういう約束で戻してくれたの」

 へえ、とぼくは相槌を打った。

「じゃ、ぼくはこれから七日間も君と過ごせるんだ」

「そういうことよ。でも、今日で一日使っちゃったからあと六日ね」

「六日か……でも、六日もあるんだ。嬉しいなあ!」

「ほんとに?」

「ほんとに。嬉しくないわけないじゃないか」

 よかった、と彼女は笑った。

「じゃ、残りの六日間、一緒に過ごそう。やり残したことを全部やらなきゃ、死んでも死にきれないもの!」

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