怪奇図書館
@ITK
死神のペンダント
その日は一際雨が酷かった。霧がかった街を出歩くものは誰もおらず、やけに暗さだけが増長された町並みが広がっていた。
あまりにも静か過ぎる町並みは、不気味な美しさを孕んでいる。
そんな中、ふと雨音に混じって水溜りを踏む足音が静かな町に響き渡る。
足音には規則性が無く、水飛沫を立て続けに撒き散らす様は足音を立てる主が何かに焦り、急いでいることを如実に証明していた。
そして、急ぎ足の足音はやがて一つの建物の前で立ち止まる。周囲に人気は無く、雨が地を叩きつける音だけが休みなく木霊し続けていた。
「あと、一分……」
建物の前で立ち止まった足音の主。背広のスーツ姿にサングラス、キャスケット帽、極めつけにマフラーを口元までキツく巻いて身を隠した男は、ポケットから古風な懐中時計を取り出して時間を確認した。
二十三時五九分。
もうじき日を跨ぐ時間だ。
男はある時間を、建物の前でじっと待っていた。
その姿は周囲の風景と同化して、幽霊のような不確かで不可解な印象を抱かせる。更に言えば、男が立っている場所そのものが本当に存在するのか? 現場を見るものが居れば、そんな疑問と錯覚を引き起こしたことだろう。
「……あと、」
何せ、男の前に広がる建物には扉や窓のようなものが一切存在しないからだ。
あるのはコンクリートか何かで形を整えた灰色の壁だけ。
まるでそこだけが隔絶されたかのように、建物の周りには一切の照明は灯っておらず、遠くから差し込んでくる光だけが、より暗闇を強く引き立たせ、陰影を色濃く映し込んでいた。
「十秒……」
幽霊めいた男は、懐中時計の秒針が動くのを何かに憑りつかれたかのように見続ける。
降りしきる雨の音だけに支配された時間は、男にとって非常に鈍く感じられた。
九、八、七、六、五、四、三、二、一…………零。
「……」
男が懐中時計から目を離し、建物の壁を見たその時、轟々と降り続けていた雨が止み、鈍く澱んだ静寂が訪れた。
この世のものとは思えない何かを孕んだ静寂。
心の内側から狂気に侵食されてしまいそうな停滞した空気。
自分一人だけが異界に取り残されてしまったかのような孤独感。
しかしそれはほんの一瞬で、次の瞬間には先程の出来事が嘘だったかのように、豪雨が夜闇を突き抜け、地面を断続的に叩く音が男の意識をはっきりと取り戻させる。
今しがたの身の毛もよだつ現象は夢か幻だったのではないか。常人ならきっとそう思うに違いない。
だが、男は常人という枠組みに当て嵌まる存在では無かった。
“ここ”に来れば非現実的な現象に見舞われることを理解した上で、平然と周囲の変化を受け入れて立っている。
「いやはやこんな雨の中、ご足労いただきありがとうございます。ささ、体を冷やしてはいけません。どうぞ、中へお入り下さい」
だから、男は今まで壁しかなかった目の前の建造物に扉と窓が設えられ、その中から漏れ出す人工的な灯りが煌々と辺りを照らしている事にも、扉越しに大袈裟に胸に手を当てて頭を下げる小太りな紳士が自分に声をかけた事にも、決して驚きはしなかった。
「失礼する」
男は躊躇いもせず、小太りな紳士の言葉に応じて建物の中へと足を一歩踏み入れた。
口元まで隠していたマフラーを解いて丸め込む。
外の冷え込んだ空気とは打って変わり、しっかりと暖の通った空気が男の冷え切った体を包み込む。
と同時にえも言われぬ異質な怖気が、寒気が、狂気があらゆる目に見えない何かが男の来訪を歓迎し、取り囲んだ。
「…………」
男は建物の玄関に立ち尽くして宙を睨みつける。その姿はさながら、肉食動物が威嚇をする姿に似ていた。
「“ここ”の空気は少々、外とは違いますのでね。大丈夫ですか?」
「問題無い」
小太りな紳士が男の顔を窺ってきたが、言葉とは裏腹に気味の悪い笑顔を張り付けた表情が視界に映り、男はすかさず視線を逸らした。
「クク、客間にご案内致します」
男が視線を逸らしたのを知ってか知らずか、薄く笑った小太りな紳士は先導して案内を始める。
その後ろをついてゆきながら、男は改めて小太りな紳士の姿を観察した。
暗色がかった赤色のスーツを着こなし、一切の汚れが見えない純白のシルクハットを被った姿は、一見すればサーカス団員か手品師の類に見えなくもない。
しかし小太りな紳士が歩く度、その背中から床に伸びる“影”がブレた写真のように何重にも重なり、残像のように見えるのは、手品如きの芸当で可能なのだろうか。
男が今歩いている廊下には、そんな凝った仕掛けを施せるような場所など一つも見当たらなかった。
怪しいものがあるとすれば、天井に幾つも吊るされた淡い光を放つ白熱電球の照明だが、何ら仕掛けが施されていない事を男は自分の影を利用して証明していた。
照明の灯りに照らされる男の影は、くっきりと自分の歩幅に合わせて追従していたからだ。
それに、あの異様な影が手品ではなく本物の怪奇現象であると、男は直感していた。
「ここが客間です。どうぞ、お入り下さい」
小太りな紳士が、廊下の一番奥にひっそりと佇んでいた木板の扉を開けて、恭しく道を譲った。
客間からは、先程とは打って変わった眩し過ぎるぐらいの照明の灯りが廊下に漏れ出している。
男は一礼してから、その光の元へと一歩、足を踏み入れた。
客間に入った瞬間、逸早く男の目に留まったのは、所狭しと並べられている本棚だった。分厚い本、薄い本、古ぼけた古書、雑誌、漫画、図鑑、ありとあらゆる本が区分けもされずに収納されているのが特に目を惹く要因だった。
一見すれば、ただ適当に詰め込んだだけのように見える無数の本が、どうしてか規則性を維持して整頓されている。しかも、一冊でも欠けてしまったら全ての本が崩れてしまいそうな、そんなバランスを保っているのだ。
「ここはね、特殊な力場で成り立っているんですよ。不安定なものほど安定する……」
いつの間にか横に立っていた小太りな紳士がそう言って、男を視線で促した。
視線の先には汚れ一つない円形の白テーブルと、男の知らない国の紋様や文字が刻まれた肘掛け椅子が向かい合う形で二つ並んでいた。
そして、白テーブルの先から一人の女性がこちらを見ていた。
女性はこの辺りではまず見かけない艶やかな朱色の着物を羽織っており、白色の秀麗な肌には傷一つ無い。
男の視線に気付いた女性は丁寧に一礼し、再び顔を上げ、その拍子に今まで髪に隠れていた顔が露になった。男の目が女性の顔に釘付けとなる。
「どうぞ、こちらへ」
女性の顔には、あるべき場所に目と口が無かった。
目が本来あるべき部分に二つの口があり、代わりに口の部分には一つ目が備え付けられたその顔貌は、女性のぷっくりとした唇と、凛とした目つきが相まって、酷く滑稽な様相を呈している。
ついさっき、この客間に入ってすぐに小太りな紳士が言っていた言葉の意味を男は改めて実感した。
怪異の女性の姿に目を奪われるのも束の間、男は女性に勧められた腰掛け椅子に臆せず腰を下ろす。
小太りな紳士は、だんまりを決め込む男と怪異の女性の姿に薄ら笑いを浮かべながら、男と向かい合う形で腰掛け椅子にどっしりと座り込んだ。
「さて、遅れてしまいましたが改めて。ようこそ我が図書館へ。どうか、ごゆるりとお寛ぎ下さい」
図書館。
確かにこれだけ様々なジャンルの本が置かれている場所は図書館以外にはまず無いだろう。
しかし、この異質な現場は図書館と一言で片付けるには無理があった。
「改めてご挨拶を。私に名前はありません。代わりにマスターとでもお呼び下さい。この図書館のね」
腕組みをして、膝を白テーブルにつけながら上目遣いで小太りな紳士――マスターは自己紹介をする。
「そして、こちらの女性は私の秘書見習いです。人見知り故、私以外とはあまり喋りたがらないのですが優しい娘ですよ」
マスターに紹介されて、怪異の女性が恥ずかしそうに顔を俯かせた。その一連の動きだけを見れば、何処にでもいるシャイな女性にしか思えなかった。
「……俺は」
名乗り返そうとして、名乗るべき名前も経歴も、自分はもう失っている事を思い出し、男は口ごもる。代わりにここに来た目的を伝えた。
「ここは本だけでなく、曰くつきの物品の回収もしていると聞いた。このペンダントをそちらに預かって貰いたい」
男は幾つもある深いポケットの口を何度か探り、目当ての品を取り出すとテーブルの上に置いた。
テーブルの上で、煤けたペンダントの鈍い輝きが怪しく光る。如何にも年代物といった感じで、ペンダントを首に架ける為のチェーンも錆びついており、元は銀色の光沢を放っていたであろう金属は赤錆だらけになっていた。
「ほほう。確かにこの図書館ではこういった品の回収もしておりますが、何処でこれを?」
「…………」
「言えぬ事情がありますか。興味本位でお聞きしただけですので、こちらの品は有難く預からせて頂きます」
マスターがペンダントを愛でるように優しく手繰り寄せる。そして男に向かって恭しく一礼し、それを見た男は早々にこの場を離れようと席を立った。
「おっと、お待ち下さい。折角、このような品を提供して下さったのに何もお返しするものが無いのは、こちらの示しがつきません」
「それさえ預かって貰えれば、俺はもう充分だ。謝礼など必要無い」
マスターからは少しでも自分を長くこの場に留めさせようとするような魂胆が見え隠れしていた。だから男は尚も食い下がろうとするマスターの静止を振り切り背中を向けたが、次にマスターが放った一言に足を止めた。
止めざるを得なかった。
「でしたら、このペンダントに纏わるお話を少し聞いて頂けないでしょうか?」
振り返る。
相も変らぬ気味の悪い笑みを張り付けたマスターに男は無表情で問いかける。
「ペンダントに纏わる話とは何のことだ?」
その返しを期待していたのか、マスターはふくよかな顔を満足気に膨らませた。
「先程、ご自分でお言いになったじゃないですか。“曰くつきの物品”と。つまりこのペンダントに秘められている怪異に貴方は触れた経験があるということです」
「……」
「そうでなければ、今ここに居ること自体無かったでしょうからね。聞きたくはないですか? ご自分を襲った怪異の正体を?」
男の目がマスターの目に釘付けになり、離せなくなる。
マスターの目は人間のそれとは思えない程に淀んだドブのような汚い色をしており、何処までも深い、深い深淵を覗いているかのような気持ちにさせられる。
同時に興味をそそられた。
目の前に居るこのマスターと名乗る男が何処まで知っているのか。男の心から殆ど失せていた好奇心が、マスターの淀んだ眼光に掻き立てられる。
「分かった。話を聞こう」
男はマスターから目を離さず、テーブルに戻り、ゆっくりとした挙動で椅子に座り直した。
「ありがとうございます。そう来なくては」
テーブルに両手をつき、腕を組みながらほくそ笑むマスターは、横で呼吸音一つ漏らさずに立っていた怪異の女性に目配せをした。
それに応えて、丁寧に頭を下げた怪異の女性が男性に尋ねる。
「お飲み物をお持ち致します。お客様は紅茶か珈琲。どちらをお飲みになりますか?」
男には珈琲を。マスターには紅茶を差し出して怪異の女性は後ろに下がった。
陶器はどれも手入れがされていたが、柄や形は統一されておらず、様々な国の陶器を適当に選んで使っているようだった。
「さてさて、準備も整いました。長くなります故、リラックスしてお聞き下さい」
オッホン、と陳腐な咳払いを一つしてマスターが語り出す。
奇怪だが、意外に何処にでも有り触れていそうな、そんな話を――。
――これは今から大分前のお話。
あるところに一人の男が居ました。
その男は随分とみすぼらしい身なりをしていて、溝鼠のように路地裏を這い回る生活を送っていました。
男にとって、それは当たり前の生活であり、生まれてからずっと変わらない人生でした。
男は幸福や裕福といった言葉とは無縁の存在だったのです。
しかし、そんな男にも楽しみが幾つかあります。
少ない金を叩いて、遊女相手に性を満たすこと。
自分と同じ腐臭のする野良猫に餌をやること。
そして、寂れた酒場で荒くれ者達と賭け事に興じること。
時間は緩々と過ぎていきます。
代わり映えの無い時間が一日、また一日と経っていく内に男の心も枯れていきます。
そんなある日のこと。
町と共に風化していく男に遂に変化が訪れました。それは幸運や裕福とは無縁の存在の男にとって、奇跡に等しい出来事でした。
男はその日、仕事で微量の金属を換金して貰い、浮かれ気分で折角手に入れた金をいつも通りの酒場で賭け事に費やしていました。
酒場の客には常連も居れば、新参者や異郷の人間も訪れます。
常連客の男にとって、その客の移り変わりを見守り、適当に声をかけてみるのが密かな楽しみでした。
よう、今日もお疲れさん。今日はゴミの中からどデカい金属を発掘したんだ。それは良かったな。そっちのお前さんは新しく来たのかい? 大変だろうが、まあ野垂れ死ななきゃ何とかなるさ。あっちではまた戦争か。その内ここも戦争になるのかね。嫌だなぁ。嫌だねぇ。
こんな感じです。
不幸な不幸な新参者は、まず情報を得るのが最優先です。そうでなければ、この町では生き残れません。
だから男は会話の輪から外れて、酒も飲まずに影でひっそりと佇んでいる新参者に目が留まりました。日頃から酒場に通っている男の目には間違いはありません。つい昨日まで、その新参者はこの酒場に居ませんでした。
「よう、何処から来たんだ?」
声をかけます。
新参者は近くで見ると随分とほっそりした体型をしていて、暗灰色のフードを着込んでおり、如何にもこの町にお似合いな気配を発していました。
「遠い国から来た。ここは陰気臭くて良いところだな」
顔はフードに隠れて見えませんでしたが、ふっと口で笑っているのが丸分かりです。男はむしろ、その度胸を讃えて、新参者の座っている椅子とは反対側の椅子に座ります。
「遠路遥々ご苦労さん。なかなか面白い奴だな」
どれ、新参者の顔を一つ見てやろうと男は覗き込みました。しかし驚いたことに、どんな角度から覗こうとしても新参者の顔が見えないのです。
見えるのは顔一つ分の暗闇だけで、男は自分の目を疑いましたが、すぐに酔いが回っているだけだと結論付けました。
それに顔が見えずとも、相手のことを知る方法なら幾らだってあります。この町ならではのやり方です。
「賭けをしないか?」
男の言葉に興味を示したのか、新参者が顔を上げます。
「ほう。何を賭けるんだ?」
「ああ?お前もしかして酔ってんのか?賭けるっつたら、そりゃぁ金に決まってんだろ」
男の言葉になるほど、と呟いて新参者は小さく頷き、何処からともなく手元から一枚の硬貨を取り出してテーブルの上に置きました。
それは男が見たことのない外国の硬貨で、男は思わず舌なめずりをします。
こちらも一枚の硬貨と、賭けに必要な一枚のコインを取り出して机の上に置き、男と新参者の賭け事が始まりました。
コインの表と裏をそれぞれ決め、コインを投げてどちらが上になるかで勝敗が決まるシンプルなゲームです。
男は表。新参者は裏となり、お互いにコインを二回ずつ投げて、自分の決めた目が多く出た方が勝利します。
結果は表が一回。裏が三回で新参者の勝ちでした。
「では、頂くとしようか」
賭け金の硬貨を手元に手繰り寄せた新参者に対し、男は熱が上がっていきます。
たかが賭けではありますが、長年賭け事を繰り返してきた男にとって、負けたまま引き下がるのは寝覚めが悪いのです。それに、どうしてもどうしても新参者の取り出した硬貨が欲しくて堪りませんでした。
それから男は幾度となく新参者と賭けを繰り返し、ようやく新参者から一本勝利を収めた時には、随分と酔いが回っていました。
取られた分に比べれば、はした金でしかありませんが、男はそれでも新参者から勝ち取った一枚の硬貨を大切に巾着袋にしまいます。
新参者の硬貨は、男が今まで見たどの金属よりも光り輝いていました。
もしかしたら、既にこの時から男は魔性に憑かれていたのかもしれません。
「きゅ、休憩します。長々と喋るのはやっぱり疲れますねぇ」
マスターが角砂糖を紅茶に加えながら深い息を吐く。体型を裏切らない運動不足のようだった。
男はマスターの話をじっと聞いており、再び話が再開するのを待ち望みにしている。
怪異の女性の淹れてくれた珈琲には一口も口をつけていなかった。
「困ったな」
新参者は困ったように両手を上げながら言います。
「手持ちはそれだけなんだ。これじゃもう賭けるものが一つしか無いや」
男が新参者に一勝してからも、賭けは幾度となく続けられましたが、どうしてどうして新参者はそれから一度も勝てていませんでした。
酔いに酔って、ぐでんとテーブルに体を預けている男は、自分の勝利と美酒と金に乾杯しながら笑います。
「身包み剥ぐほど俺は外道じゃねえよ。一部はお前に返してやるさ」
男の言葉に、新参者はとんでもないと首を振ります。
「勝負は勝負さ。あんたのもんはあんたのもんだ」
そう言う新参者に男は怪訝な顔をしますが、すぐにどうでも良くなりました。今はただ賭けに勝ちに勝ったという快感に溺れるだけで精一杯だったのです。
だから、次に新参者が提案した内容にも首肯してしまったのです。
「最後にもう一度だけ賭けをしないか? 賭けるのはこれだ。俺の最後の持ち物だ」
新参者が最後に取り出したのは、銀色に輝くペンダントでした。
どうしてこんなものを?という思考は泥酔した男には出来ません。ただ、目の前に金目のものがあるということ。
それだけ分かれば充分です。
「良いぞ。受けて立とう」
男の同意に新参者は更に提案します。
賭けは最初にやったコインの表と裏を決めるゲームにしようと。
それにも男は同意します。今の酔った頭では、シンプルなゲームほど好都合でした。
「俺は命を賭けてやろうじゃねえか」
硬貨の入った巾着袋を丸ごとテーブルの上に置いて、冗談交じりに男が賭け金を提示します。
最後のゲームが始まりました。
ゲームが始まれば、酔った頭も冷水を浴びたように覚めていきます。何年、何十年と賭け事をする内に男が培った特技の一つです。
指に弾かれたコインが、虚空を舞いながらテーブルに落ちていきます。
表。
裏。
表。
表。
男が提示したのは表で、新参者は裏でした。
敗北した新参者は、さぞや悔しそうに天井を見上げながらやけくそ気味に笑います。
完敗だ。完敗だよ。あんたの勝ちだ。これから先、あんたの人生にはこのペンダントと同じ輝きが射すだろう。
男には新参者の言葉など聞こえません。只々、自身のものとなったペンダントを掲げて勝利の雄叫びを上げるだけ。そして、勝利の余韻と共に睡魔が襲ってきて男はその場で眠ってしまいます。
泥酔し切っていた男は深夜に目を覚ましました。
ぼんやりとした頭で、寝る前の出来事を思い起こし、新参者と賭けをした事を思い出した男は飛び起きます。
あんな都合の良い出来事なぞあるはずが無い。もしや夢だったのでは?と疑いましたが、男の手元には硬貨の入った巾着袋と、あの銀色のペンダントが置かれていました。
男は今更ですが、盗もうとしている輩が居ないか周囲を見渡し、そっとペンダントを巾着袋に入れて酒場を後にしました。
その日から男の人生には新参者の言葉通りに、ペンダントと同じ輝きが射すことになります。
不思議なことに男は採掘をする度に大きな金鉱を掘り当て、みるみるうちに裕福になっていきました。今まで暮らしていた路地裏とはおさらばし、自分の家を手に入れて、人生に対する価値観もそれに従って変わっていきました。
とはいえ、それも長くは続きません。
大金もいずれは尽きるもの。節約という言葉を知らぬ男の懐が寒くなるのは必然でした。
一時の幸せを謳歌し尽くした男の元に、再びあの新参者が姿を現れたのも必然だったのかもしれません。
困り果てた自分の元に再びやってきた新参者に、男は笑いに来たのかと問いかけます。
新参者は遠慮もせずに頷きました。
「勿論さ。これが笑わずにいられるか」
どうしてか、男は新参者に怒りを覚えませんでした。
新参者が去るのを待ち望みながら、只々黙って項垂れます。
「さて、また賭けをしようじゃないか」
いつまでも去りそうになかった新参者から出た言葉に、男は苦い笑みを浮かべます。
「賭けるものなんざ、何一つ持っちゃいないさ」
あっちへ行け、と手で振り払おうとする男に新参者は首を振って返します。
「あるじゃないか。賭けるものなら。気付かなかったのか? あの賭けをした時からあんたの人生は大きく変わった。だからまた、賭けようじゃないか?」
――人生を。
男の全身に途端に怖気が走ります。目の前の新参者に恐怖し、同時に欲を見出しました。
幸せという感覚を知ってしまった男には得体の知れない恐怖よりも、このまま自分が不幸のどん底で果てる恐怖の方が遥かに大きかったのです。
澱んだ欲望が、男の眼に宿ります。
「分かった。賭けようじゃないか」
未だに思い出の品として残し続けた、あの時の賭けに使ったコインを男と新参者が交互に投げます。
今回も男が表で新参者は裏。そして勝利したのは男でした。
「やった! やったぞ!」
喜びの余り半狂乱しながら、男は苦々しげな新参者の顔にコインの表を見せつける。
勝ったんだ。俺はお前に勝ったんだ。ほら早くそっちが賭けたものをこっちに寄越せよ!
新参者は仕方ないといった素振りで、男に銀のペンダントを見せるように言いました。謎の要求を訝しみながらも、男は素直に銀のペンダントを新参者に手渡します。
「このペンダントに再び、幸せを込めておいた。また幸せを使い切ったら会いに来るよ」
それだけ言い残して、新参者はすぐにペンダントを男に返すと、すぐに消えてしまいました。
一方、男は新参者には目もくれず、銀色に怪しく光るペンダントを崇めるように両手で掲げながら高らかに笑います。
また奴が来たら、再び勝って追い返してやればいい。男は新参者が最後に残していった言葉に対して、その程度の楽観的な意識しか持ちませんでした。
「先の分かりやすいお話だな」
マスターの語る話に対して、男は苦笑する。
「でしょう? ですが、最後までお聞き下さい。ここからが面白いのですから」
二杯目に突入していたマスターの紅茶に、何個目かも分からない角砂糖が溶け込んでゆく。
紅茶の香りが部屋の中にふわっと広がった。
男は再び幸せを手に入れました。
生まれ故郷から外に旅立ち、幾つかの町を転々とし、やがて運命の女性との出会いを果たします。
それがきっかけで、手に職を就けた男は幸せな家庭を築きます。
諦念のドブ沼に浸かっていた男は、人生に希望を見出すことに成功したのです。幸せな男に生まれ変わったのです。
家族を養うことに充足感を覚えた男は賭け事からも離れていきました。
けれども、新参者との賭けに使ったコインと銀のペンダントだけは肌身離さず持っていました。
男にとっての御守りだったのです。
しかし、何事にも終わりは付き物です。
また会いに来ると新参者が告げてから、かなりの年月が経ち、記憶も曖昧になってきたある日のことでした。娘達を寝かしつけて一息ついていた男の元に、新参者が姿を現したのは。
家の中にも関わらず突然現れた新参者は、あの頃と一つも変わらない姿で賭けをしようと持ちかけます。
この時、男は死の恐怖を抱きました。
昔の独りだった男にとって、新参者との賭けで自分がどうなろうと関係ありませんでした。しかし、今は男に危険が迫れば心配する人達が居ます。
いっそのこと、今ここで賭けをしなければ男は救われたのかもしれません。
ですが男には、ここで賭けをしなければならないという暗示めいた使命感がありました。そして、直感的にこの賭けで負ける訳にはいかないとも感じていました。
「分かった。賭けよう」
肌身離さずポケットの中に入れていたコインを取り出して、新参者と賭けを開始します。
今までと同じでコインの表は男。コインの裏は新参者です。
最初にコインを投げたのは男。弧を描きながら宙を飛んだコインは裏でした。
焦りと恐怖が男をせせら笑うかのように背筋に張り付きます。
次は新参者の番です。軽快に投じたコインは表になりました。
ひとまず一安心。男は安堵の溜息を漏らして、再びコインを投じます。
結果は――裏でした。
体が震えます。次に新参者が表を出さなければ男の敗北が決まるのですから。
新参者が最後のコインを投げます。
男にはコインが鈍い光を放ちながら落ちていく様が、とても遅く感じられました。この一投によって自分の運命が決まるのです。
そして、床に落ちたコインは無情にも裏でした。
「俺の勝ちだ」
新参者の高笑いが家の中に木霊します。
絶望に暮れながら、男は床に落ちている一枚のコインを放心して見続けます。
負けたのです。男はこれからどうなるのだろうかとぼんやりと考えていました。何せ相手は得体の知れない存在。どんなことが起こっても不思議ではありません。
「パパぁ、何してるのぉ?」
もうすぐ六歳になる娘の声に、放心状態だった男は目を覚まします。
きっと新参者の笑い声で起きてしまったのでしょう。
どうか家族だけには危害を加えないでくれ! そう心の中で叫びながら、男は娘にこっちに来てはいけないと声をかけようとします。
しかし、その声は届きませんでした。
「ああ、何でもないよ。ほら、夜も遅いんだから寝直しなさい」
代わりに届いたのは、男の目の前に居る自分そっくりの娘の頭を撫でる父親の姿でした。
自分がどうなったのか分からない男に向かって、父親の姿をした何者かが不敵な笑みを浮かべます。
「俺は死神なんだよ」
娘に聞こえないように、そっと父親の姿をした何者かが男に自分の正体を明かしました。
その時、男は全てを理解しました。
見えていなかったのです。
娘に自分の姿はもう見えていなかったのです。
娘と共に寝室へと向かう偽物の背中に、男は絶叫し、頭を押さえました。
死神との賭けに負けた男は人生を奪われてしまったのです。
「めでたしめでたし……ではありませんが、これでお話は終わりです。最後まで聞いて頂きありがとうございました」
マスターが小さく会釈をし、話が終わった。
「まるで実際に見てきたかのような語り方だったな」
男は皮肉げに口元を歪める。
「いえいえ、これは都市伝説や昔話の類のお話でして。実際に本も出版されているのですよ」
まるで最初から用意していたかのように、怪異の女性が横から一冊の本をテーブルに広げた。古めかしい装丁をしていて、タイトルには『民間説話大全』と書かれていた。
「これに、か?」
「ええ」
驚きを隠せない様子で男が首を振った。
「……そんなに年月が経っていたんだな」
「ええ」
相槌を打つマスターに、男は顔を向ける。その顔には自嘲めいた笑みが張り付いていた。
「貴方はこのお話の登場人物です」
「何時から俺の正体に気付いていたんだ?」
「確証を得たのはペンダントをお見せ頂いた時でした。もう一つ付け加えるなら、この図書館にお客様が足を踏み入れても動じなかったからです」
なるほど、と男は一つ頷いてから立ち上がる。もうここには用は無かった。むしろ、充分過ぎるぐらいに有意義な話も聞けた。
近くで静かに立っている異形の女性が、何処か寂しそうにこちらを見ていることに気が付いて、男は元気づけようとぎこちない笑みを浮かべる。こうして笑顔を浮かべるのも、他人を気遣うのも、ここに来ていなけれ男には不可能だっただろう。
「ところでお客様。最後に私と賭けをしませんか?」
再び、マスターに呼び止められて男は振り返る。
マスターが銀のペンダントを指に引っ掛けて持ち上げながら、あの澱んだ瞳で男を見ていた。
「何故だ?」
「貴方の“本当の正体”を知っているからですよ。それとも、また賭けに負けるのが怖いのですか?」
マスターの挑発は、誘いに乗るには充分過ぎるものだった。
男の胸中に、何時ぶりかも忘れてしまった勝負師としての炎が灯る。
未だに肌身離さず携帯していた賭けに使うコインを取り出し、テーブルの真ん中に置く。マスターはそれに合わせて銀のペンダントを男に差し出した。
「お互いに命を賭け金の代わりとしましょう」
「お前は……」
男は一瞬迷いを見せたが、すぐに賭け事に専念する時の表情に切り替えた。マスターならば、大丈夫だと信じたのだ。
「私は裏を選びます」
「俺が表か」
お互いに確認を取り、賭けが始まった。
「では、私から」
マスターが、一見不器用そうな太い指でコインを器用に弾き、テーブルに落ちたコインが暫く回転し続ける。
やがて、力を失って倒れたコインが上を向いていたのは裏だった。
「次は俺だな」
男がコインを投じる。豪快に空を飛んだコインは、一度も跳ねることなく、衝突するようにテーブルに落下した。
結果は表だった。
前半戦は引き分けとなり、両者に緊張と熱気が奔った。
マスターが深く深呼吸をしてから、コインを弾く。美しい弧を描きながらくるくると落ちていったコインはテーブルで二度三度と跳ね、端っこで止まる。
お互いに結果を覗き込むと、コインは表を向いていた。
次に男が表を出せば男の勝ち。裏になれば引き分け。
賭け事でしか味わえない独特な空気を男は堪能しながら、コインを力強く弾いた。
軽快な音を上げながら宙を舞うコインが回転しながら落ちてゆく。
表か裏か。
それで勝負の全てが決まる。テーブルに落ちたコインが放物線状に落下した。
落ちてゆくコインの姿が、男には魂が尽きていく瞬間のように見えた。マスターにはどう見えていたのか? そんな事を男が考えている内に、コインはテーブルに縦の状態で落下し、テーブルの上で円を描きながらやがて動きを止めて横に倒れた。
結果は――男の勝ちだった。
表を向いているコインが、男の勝利を称えるように光り輝いている。そして、男もまた光り輝く何かに変じようとしていた。
「貴方の本当の正体は“死神”。人の命を刈る死神です」
マスターが男の正体を明かす。
男は答えに満足しきった表情で頷いた。その顔には、今までの何処か欠けた笑顔とは違う微笑みが浮かんでいた。
「お前の命は複雑過ぎて俺には奪えない。だが、それでも俺は賭けに勝利した」
「ええ、先程の賭けは紛れもなく、貴方様の勝利でございました。死神としての任、お疲れ様でした」
静かにマスターが頭を下げる。その姿は今までの何処かわざとらしかった態度とは、全く異なる真摯な態度によるものだった。
徐々に徐々にと男の姿が霞んでいく。
「あり……がとう」
最期にそう言い残して、男の姿が完全に消えて失くなる。唯一残った銀のペンダントが、床で乾いた音を立てた。
マスターは死者を悼むように、そっと銀のペンダントを掬い上げる。
長年、あらゆる場所を彷徨っていたであろう銀のペンダントは不思議にも傷一つついていなかった。
しかし、これからはこのペンダントにも時間が戻るのだろう。手入れをしなければ埃を被り、乱暴に扱えば傷が付く。
そういった代物になったのだ。
「あの……“死神”とは結局、何だったんですか?」
ペンダントを眺めたまま、時が止まったように動かずじまいだったマスターに怪異の女性が声をかける。そこでようやく、マスターは顔を上げた。
「命の手綱を引く者。一般的にイメージする死神とは少々違いますが本質は変わりません」
マスターはテーブルに座り直し、怪異の女性にもう片方の椅子を促す。そこには結局、一口も飲まれることがなく冷め切った珈琲が置かれていた。
「貴女は命とはどういったもので語られると思いますか?」
怪異の女性はマスターの質問に暫し黙り込み、やがて二つある口から持論を述べる。
「……認識でしょうか。他人に存在を認識されれば、それを一つの存在として語ることが出来ます。仮に誰にも知られなかった命があるとしたら、それを語る言葉もきっと生まれないでしょうから」
なるほど、とマスターが首肯する。
「それもまた一つの解答ですね。このペンダントに込められていた死神も、他人の認識――そこに生まれる命を言葉通りに奪うものでした」
古めかしい装丁の本。『民間説話大全』を開きながらマスターは続ける。
「死神と一概に言っても色々とあります。今回の死神は言うなればシステムです。誰が作ったのか。何が始まりだったのか。それは私にも分かりませんが、いわば世代交代を続ける呪いのようなものですね。
命を測るものさしは人生にあります。人生を奪われれば命を奪われたと同義ではありませんか?」
紅茶が空になっていたことに気付き、角砂糖の容器からそのまま角砂糖だけを食べようとしていたマスターを怪異の女性が嗜め、話の続きを促す。
「死神は男と賭けをすることによって、男の人生を育ませました。そして人生が熟した頃合を見計らって命を刈り取ったのです。こうして死神の任に就いていた者は男の人生を手に入れ、代わりに命を刈り取られた男が死神の任を継ぎ、ペンダントの呪いと共に再び彷徨い始めるのです。これがこのペンダントの真相。男の正体です」
怪異の女性は真相を聞き終えると、寂しげに一つ目を細めた。客間の照明によって艶美な黒髪が微かに光沢を放っている。
「あの人は報われたのでしょうか?」
「ええ、彼は死神の呪いに最期まで抗い続けました。だからこそ、“そんなに年月が経っていたんだな”と仰ったのです。恐らく彼は自分と同じ被害者を二度と生まない為に、別の答えを探して彷徨っていたのでしょう。だから、この図書館に辿り着くことが出来た。
当初は呪いの元凶たるペンダントだけを私達に預けて、永遠に役目を終えられない死神として去るつもりだったのかもしれません」
「何だか悲しいですね」
「――ですが、これからは誰も死神の呪いに悲しむことはありませんよ。世代交代に失敗した呪いは雲散霧消し、このペンダントも只の値打ち物に成り下がりました」
何処か名残惜しそうにマスターがペンダントを撫でる。
「マスターは呪具のままの方がお気に召しましたか?」
「本音を言うとそうなりますか。死神のペンダント、噂に聞いてからずっと探していた一品ですからね。ただ、私は彼の願いを尊重することにしました」
人生を奪われても尚、呪いに立ち向かった男の意志に、マスターも自然と胸を打たれていた。
怪異の女性はマスターの本音を聞くと静かに微笑み、物欲しそうに糖分の塊を見つめていた主の為に紅茶を淹れに客間を後にした。
「怪奇を引き寄せる図書館。私はこの図書館のマスター……次はどんな怪奇に巡り会えるのでしょうね」
誰に言うでもなく、一人空のカップを手に取りながらマスターは瞑目する。
やがて瞑目していた双眸を開くと、マスターは『民間説話大全』の死神のペンダントの項目を広げた。
「忘れていました。物語の続きを書き足さなければいけませんね」
常備している万年筆を取り出して、丁寧になぞられた文章の最後に特徴的な文字を加筆していく。
そこには、決して命を奪うことのない死神の物語が描かれていた――。
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