麻生洋明ここにあり

三浦サイラス

第1話 洋明の幸福! 洋明の絶望!

「るんるんるんるんるん~~~るるるる~」



 昨日テレビで流れた軽快な音楽を口ずさみながら着替えをする男が一人いた。


 彼の名は麻生洋明(あそうひろあき)。久住(くすみ)高校一年一組の十六歳。身体共に健康であり、特に目立った所もなく幸せに暮らしている男子だ。


 洋明は学校近くのアパートに一人で住んでいる。


 しかし、だからと言って遅刻ギリギリまで寝ているワケではない。始業のチャイムが鳴る三十分前に家を出て、五分以内に学校に到着する習慣をつけており遅刻は一度もしていない。部活には所属しておらず、帰りのHRが終わると基本的にすぐ下校する。その途中スーパーによって夕飯の材料を購入し、その後帰宅するのが日課となっていた。


 両親は海外を飛び回っており、週一で短いやりとりの電話をしている。毎日元気だと報告するのにはもう慣れ、いつも同じ事を言っているので洋明は辟易していた。


 何の隙もなく何の心配もない一日。


 十代とはとても思えない自己管理、完璧な一人暮らしだ。この歳にして近所付き合いも大変良くその暮らしに隙は無い。一人暮らしコンテストなんてのがあるなら、洋明の優勝は間違いなかった。


 だが、今でこそこんな毎日を送れているが、以前の洋明はとてもこのように暮らせてはいなかった。


 それは、ある問題がずっと解決されず洋明の活力を奪っていたからである。



 「おお、まだ時間は余ってるな~っと」



 充実がない。


 それが十六歳になって直面した洋明の問題だった。


 洋明には好きになれるもの、自分を満たしてくれるモノが何もないのだった。


 今までこんな事に悩んだ事はなかった。おそらく、環境の変化から来たモノだからだろう。両親から離れて暮らすのは始めての事だし、その両親が会いに行ける距離にいないというのも大きな変化だった。



 「こりゃ、早く起きすぎちゃったな。ハハハッ」


 一人暮らしには憧れていた。そして知らない土地というのにも洋明は憧れていた。田舎に住んでいた洋明は都会への羨望が強く、高校は都会にと決めていたのだ。


 そこに両親の長期の海外行きが被り、神タイミングとばかりに一人暮らしを洋明は半ば強制的に実行した。高校が地元から遠いのもあり、洋明の要望は多少渋られたがめでたく決定した。この時は飛び上がる程嬉しかった事を洋明は覚えている。


 しかし、思わぬ所で一人暮らしの弊害が襲ってきた。


 両親は海外へと出て行き洋明は高校へと進学した。何もかもが新しい環境だったが、同時に孤独という未知の感覚に襲われる事となったのだ。新環境による変化が洋明から充実感を奪い、孤独感と虚脱感を植え付けたのである。


 変化した環境に適応するのは難しく、いつまで経っても新しい土地に慣れなかった。ホームシックに似たようなモノなので、元住んでいた場所に帰れば解決するのだろうが、それはできなかった。海外に行った両親に心配はかけたくないし、何より自分のワガママを通しているのである。それで泣き言をいうワケにはいかなかった。


 しかし、意地やプライドにも限界はある。


 日々が過ぎていくに比例して洋明の精神は衰えていった。外見に変化はなくとも雰囲気はとても明るいとは言えず、言葉を発さない日々が続いていった。家でも学校でも何もせず、休みなど全く動かず終わる日もあった。



 「さ~て、今日もみんなボクに寄ってきてくれるかな~」



 だが、あくまでそれは“当時は”だ。


 新環境について行く事ができず、ただ衰えるだけの洋明がなぜ“現在”のような模範すべき十代の一人暮らしをする事ができているのか。


 その答えは簡単だ。


 彼女ができたからである。



 「ほらみんな~。今日も餌の時間だよぉー」



 眩しい朝日に目を細めながら洋明はパンくずを持ってベランダに出た。すると、待ってましたとばかりに小鳥達がパンくずをついばむため手のひらにやってくる。


 パンくずを手のひらに広げるとあっという間になくなっていく。パンくずを撒くのを待っている小鳥は十匹程。日に日に増えるのでパンの量を増やす必要があるだろう。


 一生懸命ついばむ小鳥の姿は見ていてかわいい。思わず笑顔が綻んでしまう。


 ついばむ小鳥達を見る洋明の顔はお釈迦様のような暖かみがあり、背中からは後光が射している。見る人が見れば、神そのものと思われかねない程だ。



 「あら、また餌あげてるの麻生さん」



 「ええ、コイツらが私を待ってるものですから」



 「今日もまた小鳥が増えたんじゃない? フフフ」



 向かいの家。アパートの前を掃除する管理人のおばちゃんである吉(よし)野(の)和(かず)子(こ)が玄関前を掃きながら洋明に話しかけた。前に鳥達へ餌をあげる洋明を見て気に入ったらしく、今ではたまに洋明を夕食に呼んだりする間柄になっている。洋明も慕っており、このアパートに引っ越してきてよかったと思っていた。



 「あ、麻生さん……」



 「お? 幸恵ちゃん何処か遊びに行くのかい? 気をつけていくんだよ」



 女子中学生の佐中幸恵(さなかゆきえ)はアパートの前を通るとベランダにいる麻生を見て赤面した。今日は日曜日なので何処か遊びに行こうとしているようだった。



 「は、はい……ありがとうございます……」



 モジモジしながら幸恵は通り過ぎて行く。幸恵本人はなぜか顔を鞄で隠しながら歩いて行くのを見て、洋明は首を傾げた。


 ちなみに、この佐中幸恵も吉野和子と同じく洋明の知り合いである。


 足を滑らせ、水溜りに倒れそうになった幸恵を偶然支えてあげたのがきっかけだった。洋明のアパートの前が幸恵の通学路なっており、朝通りかかれば会話をしているのだ。会話は毎日続いており、今もこうして仲良く関係を築けている。



 「さ~て、そろそろいかなきゃなー」



 洋明は彼女ができてよかったと心から思っている。そうでなければ今もまだ洋明は死人同然か、もしくはネガティブな人間になっていたに違い無い。


 もし彼女と会わなければ小鳥に餌をあげる事はなく、吉野を見てはウザいと思い続け、水溜りに倒れそうな幸恵を蹴り倒し家路を目指したはずだ。


 だが、そんな心配はもうない。今の洋明は穏やかで平穏な心を手に入れたのだから。



 「いってきまぁぁぁぁぁす」



 高鳴る胸が止まらない。身体から飛び出す程に暴れている心臓を落ち着かせるのは難しく、今日という日を洋明がどれだけ楽しみにしていたかを表していた。



 「もう来てたりするのかな~~~」



 今日は彼女とデート、東京アメリカンネズミングパークに行く日だ。彼女はネズミングパークが大好きで自然とデートの行き先はそこに決まった。


 彼女も今日という日を楽しみにしている事だろう。それを考えるだけでも洋明の脳内は幸福の文字で埋め尽くされる。



 「来ているだろうからな。急がないと」



 横断歩道を渡ると駅が見える。その駅の入り口に彼女、桑島彩香(くわしまあやか)は立っていた。


 強い日差しに目を細めつつ、彩香は麻生に手を振った。



 「ここですよー、洋明さ~ん」



 華奢な手で自分に手を振る姿に鼻の下が伸びそうになるのを洋明はグッと堪える。自分の情けない姿をさらす事はできない。



 「か、かわいい……」



 桑島彩香と知り合ったのはGWが過ぎ去った五月の終わり頃だった。雨の中、バス停でズブ濡れになっていた彩香に傘を渡したのだ。


 あれは変な出会いだった。それに彩香に傘を渡すなど、かっこつけすぎたなと今でも思う。しかし、それが縁となり洋明は彩香はまた出会う事ができたのだ。


 同じ学校なのもあって二人は再会し、そのまま親しくなっていき、やがて二人は結ばれた。



 「なんて素敵な笑顔だ……目に入っただけで心と思考がとろけてしまう」



 情けない姿はさらせない。しかし、情けないセリフは漏れてしまう。


 脳内の九割を占めている女性であり、それ程まで洋明は彩香にゾッコンなのだった。


 艶のある黒髪が風に靡く姿は大草原に立つ少女を思わせ、新調したであろうフリルブラウスは彼女の雰囲気を優雅に見せている。芸術作品のような美しさを彩香は携えており、まさしく絵画に描かれる少女そのものだった。



 「フフフッ。早くですよ~洋明さ~ん」



 ニッコリと彩香が笑う顔は今日も眩しすぎる。太陽とどちらが眩しいのか検証すべく洋明は日光をガン見するが、彼女のほうが眩しいと判断した。


 全力疾走しているのに彩香へと近づく一歩一歩がもどかしい。それだけ早く彼女と会いたいという事だろう。おそらく、光の速さで走っても同じに違い無い。



 「早く! 一刻も早く彩香の元へッ!」



 駅の傍にあるバス停を越えた頃。彼女との距離が二十メートル程になった時だった。


 彼女の後ろ、どんなに多くの人々に紛れようともわかる“異様な誰か”が現れた。



 「ん?」



 鉄仮面を被り、マントを羽織った人物が彩香の側を通ろうとしていた。


 仮面の顔部分はガラスになっているが、黒で覆われているため表情を見る事はできない。 他は頑強な鉄で覆われており、被っているというよりもはめ込まれているように見える。重量感があり見た目にもとても重そうだ。


 マントは両手や両足をすっぽりと隠しているので、大きな筒が歩いているような錯覚をうける。まるで普段からそんな格好をしているかのような慣れた足取りだった。


 この辺りの人間なのか洋明は少し考えるが、こんなヤツを見たならすぐにでも思い出せるだろう。この鉄仮面――――知らない人間だった。



 風が吹きマントが捲れ上がり全身が見えすぐに鉄仮面はマントを正す。



 (よくあんな格好で町を歩けるな。オレはというか常人には無理だね)



 たまにいる変人ろう。珍妙不可解な服装で出歩く人間は意外と多いのだ。



 「をっと、いかんいかん」



 つい気を取られてしまったがそんな事はどうでもいい。早く彩香と合流しなくては。



 「ごめん、もう来てるとは思わなくて」



 待ち合わせ十分前。彩香は洋明よりも先にやってきていた。


 待ち合わせをするといつも彩香のほうが先に来ている。十分前に来ようと、二十分前に来ようと、必ず洋明よりも先に待ち合わせ場所へ来ているのだ。


 そして「洋明さんより先に来ちゃいました」と呟くのがパターンとなっている。


 洋明は彩香のこのセリフを聞きたいがためにいつも遅れて来ている。このセリフがあまりにもかわいらしいため先に来る事ができないのだった。


 だが、なぜだろう。今日はそのセリフが出てこない



 「さっきの見た? すぐ傍を通ったからビックリしたんじゃない?」



 と、ここで麻生はふと違和感に気がつく。


 鉄仮面が傍を通りすぎても何の驚きも見せないのはまあいい。だが、待ち合わせの際に言ういつものセリフはどうしたのだろう? ずっと洋明の方を向かずに俯いていており、何やら様子がおかしいように見える。



 「どうかした――――」



 ここで洋明のセリフは止まった。


 彩香が背中を押されたように前のめりに倒れたからだ。


 倒れた彩香は眠るように地面に突っ伏し、洋明がどんなに話かけても返事をしない。


 洋明がうろたえず救急車を呼べたのは奇跡と呼ぶに等しかった。

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