いつかの僕へ、去りゆく君へ

夏野陽炎

いつかの僕へ、去りゆく君へ

 終電の窓辺を離れて電車を降りると、冷えた外気がコートの中まで入ってきた。暖房の効いていた車内は心地よく、つい数分前まで寝入ってしまいそうだったのに、その眠気も一瞬で覚まされ、溜まっていた疲労がどっと戻ってきた。

 肩を上げながら深く息を吸い込んで吐き出すと、閑散とした駅のホームに白い煙が浮かんで消えた。電車から降りてきたのは自分を含めて、五、六人程度しかいない。もともとこの駅を利用する人は少ないし、終電ならいつもこんなものだ。

 数十分前まで目の前に広がっていた街の灯りが頭に焼き付いていたせいか、いつものことながらなんとなく現実味が無い。

 駅前にぽつりと寂しげに佇んでいる自販機で熱い缶コーヒーを買い、しばらく懐炉代わりに手を温めてから飲むと、体の中が温まった気がした。これが家に帰るまでの唯一の暖を取る方法なので、歩きながら少しずつ飲む。

 今日は友人の結婚式だった。中学時代からの付き合いで、高校を卒業するまではよく一緒に遊んだのをよく覚えている。高校を卒業した後に別の大学に進学した友人は、そこで出会った女子学生と付き合い始めた。彼らは大学を卒業した六年後の今日、ついに結婚式を挙げたのだ。友人の彼女とは一度しか会ったことが無かったが、綺麗で性格も素直な人だったという印象が残っている。

 ただ惜しまれるのは、彼らの結婚式に自分が行けなかったということだ。本来は出席する予定だったのだが、急な仕事が入って行けなくなった。式が始まる前を見計らって電話をかけ、欠席せざるを得ない旨を伝えると、友人は怒る様子など微塵も垣間見せずに、ただ「気にするな」と返してくれた。そんな友人の気遣いが申し訳なく、そしてありがたかった。

 帰路の途中にある公園のベンチに腰掛けて、煙草に火を点ける。最近は昼間に公園で喫煙するだけで刺々しい視線を受けるのだが、こんな深夜であれば咎める輩もいない。携帯灰皿に煙を落としながら、点々しか星の見えない街の夜空を眺めて煙を呑む。昼間の喧噪など、今はもうどこにも残っていない。

 自分も今年で二十八になる。友人の結婚は昨今の晩婚化を考えれば比較的早く感じたが、生まれてこの方独り身を続けている自分よりは随分とマシだろう。かといって今すぐに出会いを求めているわけではない。何年も前の片思いが自然消滅した時から、以降他人を好きになるという感覚がよく判らなくなったのだ。

 女性に魅力を感じないわけではないし、別段同性愛者というわけではない。ただ単純に心揺さぶられなくなり、魅力を感じる以上のものを失ってしまったのだろう。

 原因として思い当たる節と言えば、最後の片思いだろうか。いつまでも過去に囚われないように必死になって忘れようとした。それから二度と自分がこんな痛みを感じないようにと心を閉ざして、誰も好きにならないようにした。思いだけではどうにもならなかったから、自分の夢や目標を叶えるため、邪念を振り払うようにして、ひたすらに、がむしゃらになってその道へ進んでいた。

 しかし果てに残ったのは破れかぶれになった夢の残骸と、取り残されて乾ききってしまっていた自分だった。そうやって残されたものが今の自分なのだ。あまりにも虚しかった。

 それでも振り返るのは許されなかった。歩んで来た道は踏むたびに崩れており、底の見えない崖だけ残っていない。過去への否定を恐れて足が竦み、ただひたすらに前進するしかなかった。

 結局のところ、夢も目標も全く叶うことはなかった。地球上のどれだけの人間が抱え続けた夢を叶えるだろうか。そんなのは決まっている、一握りの人間だけだ。努力をした人間の中でも、本当に運のいい人間。何度も何度もふるいにかけられ、それでも残った幸運な者だけが輝かしい未来を手にする。

 その幸運な人間は英雄のように称賛される。両親から、友人から、知人から、時には見知らぬ人からも。逆に不運な失敗作に与えられるものは、罵声や中傷、嘲笑だ。そして最も救われないのは、それらを受け止めることを嫌がって、自分の目を閉じて逃げ出すこと。その時点で自分を否定していると判っていながらも、痛々しい自分に触れたくないと避けているのだから。自分はまさに救われない人間だった。

 あまりにも若々しく青々として、誰の抑制も耳に入れようともせず、躊躇いも恐怖も跳ね除けて突き進んだ結果の先。今となっては苦い記憶の一つとなっている。そして最後には空っぽの自分が完成してしまった。

 誰かが悪いわけではない。より優れた人材が選ばれるのは理に適っている。もし悪者を仕立て上げるとするなら、きっと自分自身だ。

 一陣の冷たい風が吹くと、煙草の先に溜まっていた灰が飛散して見えなくなった。駅から歩き始めて十分程しか経っていなかったが、さっきまで見えていた星空はいつの間にか雲に隠れてしまっていた。

 今夜は雪が降るだろうか。明け方の日差しが真夜中に降った雪を融かしていくように、このセンチメンタルな気持ちも一緒に融かして、川へ流してくれたらいいのに。やがて海へと流れついたこの気持ちが、遠いどこかの国で誰かに拾われ、受け止めてもらえたら、それは自分にとってどんなに救いになるだろうか。

 缶の中身は既に尽きていた。吸殻を携帯灰皿に入れるのが億劫で、缶の中に突っ込んでしまおうと思った時だった。

「感心しないな、そっちの携帯灰皿にしまったらどうだい。リサイクル業者が迷惑するぞ」

 誰も居ないはずの公園で聞こえてきたのは、老人の声だった。声の主を見るべく辺りを見回すと、公園の入り口に老人が立っており、少しずつこちらへ近付いて来ていた。

 グレーの帽子で目元を隠し、ワインレッドマフラーに、古びた黒いコートを着た老人だった。老人の顔は帽子としっかり伸びた無精髭に隠れて窺えなかった。怪しげな風貌を一瞥して、この男を心の中で不審者と疑った。しかしどうしてか、この老人の声には聞き覚えのあるような気がしてならなかった。

 無言のままコートの胸ポケットの中から携帯灰皿を取り出して、吸殻を見せしめるように仕舞う。そうしている間に老人は腰かけていたベンチの、少し距離の空いた所へ座っていた。横からでもはっきりと老人の顔は見えなかった。

「こんな夜更けに、それもこんなに寒いのに、どうして一人で公園なんかにいたんだい」

 老人の質問に答えるべきか、ほんの少し考えた。不審者には出来るだけ関わりたくないし、会話をするなど以ての外だ。

 いつもならそう考えているはずなのに、なぜか口が勝手に動くように答えてしまっていた。

「……考え事をしていたんです。仕事のこととか、色々と」

「そうか。考えるのは、いいことだ」

 老人はゆっくりと、噛みしめるように言った。その声は不審者じみた風貌とは全く異なった、穏やかで温かみのある声だった。

「考えたり、悩めたり出来るうちはいい」

「いや、逆じゃないですか。悩んでるってことは、現状に不安や不満があるってことですよ」

 自分の返答に対して、老人は口元を緩ませて首を横に振った。

「考えたり悩んだりするのはね、どうにかして今を変えようとしているってことだ」

 本当にそうだろうか。毎日、ただ出勤しては疲れて帰ってきて、食べて眠るだけのような日々を過ごしているだけで、現状を打開したり、改善しようとしたりしただろうか。一方的に降りかかってくる現実を拒むことが出来ずに、ただ受け止めるしか方法を見出せないだけではないだろうか。

「でも、自分は何も出来ていませんよ。どれだけ考えたって結果を出さなきゃ意味がありませんよ」

「ああ、そうだな。結果を出すことも大事だ」

「ほら、やっぱりそうじゃないですか」

「だけどそれだけでは、あまりにも自分が疲れてしまう。結果を出せない自分を追い込んで、気持ちが潰れていってしまう。だから、過程を認めてあげる自分も、時には必要なんじゃないだろうかな」

 まさに自分のような「ゆとり教育」の世代が言われてきたような言葉だ。みんな違ってみんな良い、オンリーワンだとか、耳触りだけは良い言葉をすり込むように言われてきた。

 しかし今では手のひらを返したように、そんな言葉たちも、刷り込まれてきた自分たちまでもが、甘ったれた人間と言わんばかりに否定されている。

「本当にそうですかね。あなたくらいの世代がよく判っているんじゃないですか。僕みたいな歳だとゆとり世代って言われて、年上の人から馬鹿にされるんです。何も悪いことをしたわけじゃないんですけどね。こっちは社会が勝手に決めたことに巻き込まれただけですよ。それなのに情けないやつだとか甘ったれだとか、そんな風に言われるんです」

 だから結果を出さなければ認められない。自分はマイナスからのスタートなんだと思って取り組まなければ、まず誰も社会人として認めてさえくれない。

 何よりも自分は空っぽの人間だから、成果を挙げられなくなった時点で無価値な存在になってしまうのだ。

「なんにせよ、君はそうやって考えることが出来るじゃないか」

「どうでしょうかね」

 老人と会話していると、闇の中で白く光る雪が降ってきた。身体に落ちて、触れるとすぐに水になって融け、服の中に染み込んだ。

「そういうのは若いうちだけに出来る特権さ。考えるだけじゃない、挑んでみて、失敗することだって。私もね、若い頃は君のように焦っていたんだ。年を取るにつれて親しかった友人とも疎遠になり、仕事だけのために毎日を過ごしてね。時には失敗ばかりで頭を抱える日々もあったものさ」

 自嘲するように話すが、その境遇はまさに自分とも似ていた。

「ある日、自分だけが世の中から取り残されていくのかと思うと、途端に怖くなった。暗い部屋の中で老いた自分は、ろくな生活も出来ずに独りで死ぬのだろうと、そんな光景さえ思い浮かんだ日もあった」

 老人の孤独な生活をイメージしてみた。スーパーの惣菜にパックの白飯、所々に散らかったワンカップの酒瓶に、決まった曜日に出されず溜まったゴミ袋。外の世界と隔絶するように閉め切られた厚いカーテン、訪問者のない切れかけた蛍光灯の部屋。

「じゃああなたは今、独りで暮らしているんですか」

「いや、今は妻と暮らしているよ」

 それを聞いた途端に、自分の予想と老人に期待していた回答に裏切られた気がした。

「君には恋人がいるのかい」

「いませんよ、そんなもの」

 ぶっきらぼうに答えて、二本目の煙草を取り出して火を点けた。

「人を好きになるってことが判らないんです。それに、どうすれば人を好きになるか、どういう感情が人を好きになるってことなのかも判らない――いや、忘れちゃったんですよね」

「過去に嫌な失恋でもしたかね」

 あんなものは失恋とは言えない。ただ一方的に好意を寄せて、一方的に破滅したのだから。

「答えたくないのなら答えなくたっていい。だがもし君が過去の出来事に囚われて前へ進めずにいるなら、早々に断ち切った方がいい」

 老人の余裕を持った発言に納得と安心感を覚える反面で、風貌とは裏腹に幸福な生活環境にある老人に対して、嫉妬心のようなものが湧き立ってきた。

 そこで鎌をかけるように、老人の妻についてを訊いてみることにする。

「奥さんとはどこで出会ったんです」

「妻と出会ったのは……三十歳になる前くらいだったな」

 老人はたどたどしく懐古するように、ゆっくりと思い出しながら話し始めた。

「仕事から帰る途中に出会った。夜中に一人でふらふらと歩いている女性がいてね、人通りも少ないし、見ている分にも危なっかしいから思わず声をかけたんだ。大丈夫かと訊ねたら大丈夫だと返ってきたが、足元も覚束ないし、意識も朦朧としていてね。

 どうしたんだと訊くと高熱が出ていると言うから、家まで送って行ったのさ。家に着くなり後日お礼をするからと連絡先だけ訊いて、妻は私を帰そうとしたんだが、何となくそのままにしておくのも心配になってね。一晩看病したんだ。それから私たちは紆余曲折あって交際するようになった」

 その話を聞きながら、一つだけ違和感を覚えた。

「恋愛結婚なんですか」

「うむ、そうだが。別に珍しくはないだろう?」

「いやだって、あなたくらいの歳なら、まだ見合いの方が多かったんじゃないですか? うちの両親の祖父母はどちらも見合いだとか、親類の紹介で結婚しているんで」

 自分に指摘されると、老人はしばらくして「ああ……」と小さく呟くと、何かに気付いたように「ふむ……それもそうだ」と、どこか納得した様子を見せた。

「確かに君の祖父母のように、見合いや親類の紹介で結婚した人は多かった。たが当時は恋愛結婚が少数派だっただけで、決して皆無というわけではなかったんだよ」

 彼の口調はその時だけ話を誤魔化すように、やけに早口だった。

「でもそういうの、いいですね。羨ましいです」

 しかしそんな言葉を放つ半面で、自分の本心は老人に嫉妬しているのだと理解していた。他人の幸福を妬む、あまりにも醜い感情が感情の奥底でぐつぐつと煮えていた。

「君は焦っているのかね」

「え?」

 老人はそんな自分の影の部分を見破っていた。

「私にはそう見えるがね。今を打開出来ないことに絶望しながら、焦燥しているんじゃないかな」

「まるで俺のこと、判り切ったみたいに言うんですね……」

「若い頃の私とよく似ているからだよ」

 老人のグレーの帽子には、融けきれないままの雪が積もっていた。老人からは人の熱が感じられないようだった。老人の持つ輪郭だけがこの世から浮いており、一つのオブジェと化しているように思えてしまうのだ。

「焦っているからなんです。そうでもしなきゃ生きられない、だから毎日を繋ぎ止めるように働いて、食べて、眠るんです」

 そこに自分の幸福な生活など無くても、自らの色を失って灰色になり、煤けてしまっても、今を生きるためには自らを犠牲にしなければならない。もう自分は子供ではない、一人の大人であり社会人なのだから。

「日々の中にだって、輝きは必ずあるものさ」

 老人は鉄製の煙草ケースを懐から取り出すと、中から紙巻き煙草を取り、時計盤の彫刻が施されたライターで火を点け、煙をゆっくりと息を吸い込むと、煙混じりの白い息を吐いた。

 高級ライターなど詳しくはないが、老人の使ったライターは品があり、随分値の張る物に思えた。

「肝心なのは、チャンスを見逃さないことだ。ありふれた日常の中にもそれらはちゃんと潜んでいる」

「自分がそれを見逃してるって言うんですか」

「視野が狭くなりすぎるとチャンスを見逃すし、生き辛くなる。自分だけじゃない、周りにいる人までも息苦しさを感じてしまうんだ。だから必然的に自分から他人が遠ざかってしまう。今の君はまさにそう見えるぞ」

「……生憎自覚はあるんですがね、つまらない生き方をしているって。でも現実はそう上手くはいかないものです」

「肩の力を抜くことも必要だろう。例えば趣味に興じてみるなんてのは気晴らしになっていい。ハハ、こんなつまらないものでも、一つの娯楽なのさ」

 そう言うと彼は再び煙を呑んで、ほんの少し空を見上げた。依然として雪が降り続けては、老人のコートや帽子に積もっているが、彼はそれを掃おうともせずに、融けずに残る彼らを受け入れている。

 空を見上げる際に、微かにだが老人の顔が露わになった。髭の生えていない部分には所狭しに細かい線が蔓延っていて、目元は眠そうな深い皺がくっきりとあった。

 それなのに彼の目には確かな生命力が宿っていた。自分と老人では五十歳だか六十歳だかの年齢差があるはずなのに、腐敗したまなこを持つ自分よりも、彼の瞳には躍動する生命の火が宿っている。

「終わりない冬などこの世には無い。冬が過ぎれば空は晴れ渡り、降り積もった雪は春の日差しに融ける。それは今を生きる若者きみ運命さだめもまた同じ」

「待てば春は来ると」

 老人は静かに頷き、ベンチを立ち上がって歩き始め、また少しして立ち止まった。

「来るさ。きっとね」

 彼の声には確信を持った笑みが含まれていた。そして懐に手を突っ込むと、何かを取ってこちらへと投げた。慌てて手に取ると、それは先程使っていた時計盤の彫刻が施されたライターだった。

「そいつは餞別だ。受け取っておきなさい」

「いいんですか。これ、結構高いんじゃ」

「さて、どうだろう。だが私のような老いぼれが使うよりも、君のような若者が使ってくれた方が、そいつも喜んでくれるというものさ」

「――それは、どうも。……ありがとうございます」

 ライターを握りしめて一礼する。

「うむ。さて、そろそろ。あまり冷え過ぎるといけない。この歳になって風邪を引くと、なかなか治らなくて困るんだ」

 自嘲気味に言いながら公園の出口へと足を進めた。自分はベンチに座ったままで、去っていく老人の背中を見送っていたが、老人が去ってしまう前に一つだけ訊ねたくなった。

「あの。最後にちょっとだけ、いいですか」

「ん。何だろう」

「――あなたは今、幸せですか」

 彼は最後にこちらを振り返ると、一番の笑顔でゆっくりと頷く。

「ああ、とても。とても幸せだとも」

 それだけ答えると、やがて老人の姿は雪に紛れるように、すぐに見えなくなった。

 ぽつりとただ一人残された自分もまたベンチから立ち上がって、すっかり短くなった煙草を携帯灰皿の中に突っ込んで、公園を後にする。

 どうしてだろうか。

 自分があの見ず知らず老人に出会った時から、懐かしさと親しみを感じていたのは。



 皺だらけの自分の手には、別の皺だらけの手が重なって、決して力強くないものの温かく握っていた。その手が誰のものなのか、顔を見なくたって判る。長年連れ添った妻の手だ。

「目が覚めましたか」

 柔らかで穏やかな声は、耳の中へすっと入ってくる。

「ああ……」

 どれだけ振り絞っても出てくるのは掠れた声。もはや腹どころか喉に力を入れることすら間々ならない。それだけではなく、ほぼ全身が自分の言うことを聞かないみたいに重く感じた。

 病室のベッドで横たわったまま、窓から吹いてくる春風を味わった。今年はまだ桜を見ていない。窓からは病院の敷地に植えられた桜の木が見られたはずだから、あとで覗いてみようか。

「今度はちょっとだけ長く寝ていましたね」

「夢……夢だったかな……。まあ、夢みたいなのを……見ていたんだ……」

「どんな夢?」

 妻と一緒に看病してくれていた娘が、どこか心配そうに訊いてきた。

「遠い昔の……古い友人に、会ってきた……」

「それは、まぁ」

 それが夢なのか、それともベッドの上で考え事をしているうちに浮かんできた妄想なのかは曖昧だが、冬の公園で生き方に迷っている若かりし頃のがいた。

「母さんと結婚して、あれから……随分と経ったなあ……」

「ええ。あっという間に、お互いこんな年寄りになってしまいましたよ。今じゃあほら、この子だってこんな立派な大人になって」

「そう……だなあ」

 妻と結婚して、娘が生まれ、成人し、結婚して、また次の時代を生きる子供が生まれる。自分はちゃんと最後まで見届けることが出来た。自分の時代ときは過ぎ、移りゆく時間の中に存在すら淘汰されていくだろう。それが人というものなのだから。

 しかし私は孤独ではない。ここには妻と娘がいる。窮屈に生きていたあの頃に比べれば、どれだけの溢れんばかりの輝きが、どれだけの幸せがここにあるだろう。自分が消え往くその瞬間を看取ってくれる、大切な人たちがここにいる。それは何物にも代えがたいものなのだ。

 そうか、これが人生の宝物なのだ。私と私以外の誰かが互いに刻むと言う、生きたことの証明なのだ。

 それを見つけられたなら、これほど嬉しいことはない。死への恐れだって無い。私はまた長い、長い、もう一つの旅路をゆくだけだから。

「母さん」

「どうしました?」

 今の私は笑えているだろうか。

 もはや微笑む気力も体力もろくに残されていない。

 息苦しくて、声を出す力も徐々に奪われている。

 だから、せめて伝えておきたかった。

「ありがとう。いい、人生だったよ」

「ええ。私もですよ、あなた」

 乾いた皮膚に、ぽたぽたと温かい雫が落ちた。きっと妻はもう時間切れだと判っている。だからこそ目に浮かんだ涙など気にも留めず、笑っていてくれた。きっとまた、互いに会える時が来るから。

 それまでの辛抱だ。

 白髪だらけになった妻の姿がゆっくりと闇に消えていく。違う、私の視界が暗くなっているのだ。それに誰かが大声で叫んでいる。私の名前を呼んでいる。必死になって眠りから引き戻そうとしている。しかしもう手遅れだ。目覚められそうにない。私の役目はここまでだ。

 今度は、どんな夢を見るだろうか。どんな人と出会えるだろうか。そうだ、娘が生まれた頃に戻ってみたい。赤ん坊の娘を抱いている私は、どんな表情かおをしていただろうか。

 視覚が失われたからか聴覚が鋭敏になって、病室に置かれていた古いラジオから流れている、とある歌が聞こえてきた。

 歌は生きることの難しさも、辛さも、熱さも、何度でも立ち上がる大切さも、訴えるように届けている。

 若い頃によく聴いていたその歌を静かに、飲み込むように体に流し込んでいくと、意識は深い眠りへと落ちていった。



 公園を離れ、帰宅している最中だった。

 自分と同じくらいの歳であろう一人の女性が、雪で反射する街灯の光を受け、ふらふらと前を歩いているのが視界に入った。

 女性は足元に雪が積もっているにも関わらず、覚束ない足取りで歩道を進んでいる。時に電柱にもたれ掛ってはしばらくじっと休んで、またしばらくすると再び歩き始め、その一連の動作を繰り返しながら雪道を進んでいた。

 見ず知らずの女性であるが、見ているこちらまで不安になってくる程に彼女の様子は危なっかしく、気がかりにさせられる。あれではいつ滑って転んでもおかしくないだろう。

 ――仕方ない、たまには善行の一つくらい積んでおこう。

 胸の中でそう呟き、二人だけになった世界を駆ける。

「あの、大丈夫ですか」

 そう声をかけた瞬間、世界は急速に色を変えた。

 運命はここから始まるのだと。

 この女性との出会いが、長い冬の雪を融かしてくれるのだと。

 心のどこかで、静かに想ったのだ。

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