六章 不浄《ふじょう》
不浄/1
小鳥遊と田原は辛抱強く尾行を続けていた。
比翼と連理が学校にいる間は、ずっと彼らを外で待ち、夜は夜で、彼らが別行動を取るときは、比翼には小鳥遊が、連理には田原がついた。しかし、比翼と連理は一向に怪しい素振りを見せることはなかった。そして、彼らの尾行も、遂には実を結ばずに打ち切られることとなってしまった。
「ったく……未成年を守るのは、大人の仕事だよな?」
田原と小鳥遊は、小鳥遊の家にて酒を飲んでいた。尾行を打ち切られて数日後の本日、六月三十日のことだった。
「まったくだ。絶対にあいつらに間違いないんだ……それなのに、なんでだ。なんで証拠がないんだ……」
小鳥遊はビールを一気に飲み干す。彼の表情からは疲労の色が濃く浮かんでいた。
数週間に渡り、彼らは比翼と連理を尾行していたが、何も怪しいところはなかった。夜中に出掛けるような癖はあるものの、どれもこれも、怪しいところに行っているわけではない。
木曜日に行方不明になっていた被害者も、今は出ていない。もしかしたら、比翼と連理が感づいたかもしれない、と彼らは考えた。しかし、火曜日に行方不明になった女子高校生を最後に、この小樽市で行方不明になった者は誰一人としていない。
木曜日に行方不明者が現れていたのはただの偶然。これ以上の捜査は無駄。それが、上層部の下した判断だった。
「……ん?」
「なんだ、義信?」
「そういえば、恵は?」
「俺が帰ってきたときにはいなかった。この時間ならゴミ捨てだろうさ。ここのゴミ捨て場所は少し離れてるしな」
「ゴミ捨てはそんなに時間がかかるのか?」
小鳥遊が壁に掛けてある時計を見た。八時五十分。恵は、八時ちょっと過ぎた頃に、いつもゴミを捨てに行っていた。例え、ここの住民と話していたとしても、身重な恵はここまで遅くならない。
「恵はどれくらいにゴミを捨てに行ったと思う?」
田原のその言葉に、小鳥遊の体からは、一気に血の気が引いていく。
「いつもと同じ時間だろうな」
小鳥遊が懐に警察手帳があることを確認し、立ち上がる。
「普通はこんなにかからないな?」
そう言いながら、義信は玄関へと足を進める。
「当たり前だ」
それに小鳥遊も続く。
四、五十分。他の住人と話しているせいで、それぐらになる可能性も捨てきれない。しかし、彼らを不安に陥れるには、充分な時間。エレベーターを待つ時間すらも惜しいのか、彼らは階段を駆け下りていく。
「義信! 銃は持っているな?」
「馬鹿野郎! テメー発砲なんかするなよ!」
「知るか! 恵を傷つける奴はぶっ殺さないといけないんだ!」
「お前はいつもあいつのことになると冷静さを欠くんだもんなぁ……」
田原がぼそりと愚痴をこぼしながら、小鳥遊に続く。
彼らはエレベーターを待つ時間も惜しいのか、階段を駆け下りていく。小鳥遊は、拳銃の弾丸残数を確認している。
今までは半分冗談でものを言っていた田原だったが、小鳥遊の異様な気迫に不穏を察した。
「真。もう一度言うぞ。冷静になれ」
「……俺は、あいつになにかあったら……」
拳銃はすでに手に添えられている。何かあれば、小鳥遊はいつでも発砲するだろう。それほどまでに、小鳥遊にとって、恵と言う存在は、とても大きい。
「真。絶対に、大丈夫だ」
田原はいつもとはまた違った笑みを彼に向けた。
それは親友を思う笑顔。
「あぁ、当然だ。お前もいるからな」
小鳥遊もまた、彼に笑顔を向ける。
不浄/2
世界が流転している。
彼が、連理が殺人を犯すとき、いつも世界はぐるぐるぐるぐると、回り続けている。
今、目の前には妊娠している女性がいる。旦那が、ある事件に巻き込まれている、あなたの力が必要だ。そう言っただけで、彼女はすぐに連理についてきた。それは、なんと愚かなことだろう。深く知らぬ相手の言葉を信用し、それについてきた、彼女の不手際。そのせいで、今彼女は、全てを失いそうになっている。
「比翼。本当にやるのかい?」
「当然でしょう? ねぇ、連理。あなたは、このままでいいの?」
「いいや……」
「だったら、やるべきでしょう?」
比翼は、右手に角材を持っている。それは、工事現場から余ったものをもらったものだ。それで、今目の前に倒れてる女性の頭を殴りつけたのだ。
「こんな簡単に、人間は気を失うんだね」
今まで何度も殺人を犯してきた連理すらも、人間の脆さに感動していた。
「今更そんなことを考えてるの?」
「感心してるんだよ」
「ふふふ、そう」
比翼は楽しそうに微笑んだ。
「比翼、どうするんだい?」
「彼に選ばせましょう?」
「あぁ、なるほどね」
産まれてくる命と、今愛している女性。
小鳥遊がどちらを取るか。彼らには、とても楽しそうだ。
「連理、この人は何週間くらい?」
「さぁ? 結構お腹でかいし、予定日近いんじゃない?」
歪んだ笑顔を、連理は比翼に向けた。
「ねぇ、連理。早く」
「そうだね」
連理は、ナイフを舐める。
そして、彼はナイフを逆手に持って、大きく深呼吸する。
これから産まれてくる生命に、精一杯の祝福を込めて、彼は今、神に成り上がる。一つの命の行く先は、彼に託されたのだ。
「さぁ、誕生の時だよ」
ナイフを思い切り振り上げ、彼女の腹部へと突き刺した。
皮膚を突き破り、肉を切り裂き、血が噴き出す。
今まで気を失っていた彼女が、一瞬で大きく目を見開いた。彼女はすぐに自分に起きた異常に気付き、悲鳴を上げた。
「いやぁぁぁああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
突き刺したナイフを、力強く下へ下へと動かしていく。
ぎち。
びちゅ。
ぢゅ、ぢぢ……。
徐々に、彼女の内側が姿を現す。
「やめてぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇえ!」
必死に彼女は抵抗しようとするが、両手両足を鎖で頑丈に支柱に縛られているために、ただ体をじたばたと動かすことしかできない。
そんな彼女の様子など気にもせず、必要な分まで裂き終わった連理は、その切り口に両手を添え、力一杯に拡げる。先程の音とは違った音が、この場所で響く。
「痛い! 痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!」
開ききった腹部に現れるのは、小さな命。
連理は、体中の血液が沸騰するのではないかというほど、興奮するのを感じた。
目の前の命の鼓動。それが今、自分に託されている。
あと少し。この子に繋がっている臍の緒を引きちぎり、誕生させる。
「ははっ。凄い。凄すぎる……何だろ、この感じ。駄目だ、おかしくなりそうだ」
興奮に、快楽を伴う。
あと少し。あと少しで、この子は、誕生する。
「わかるかい? 君を今誕生させるのは、他の誰でもない、この
……」
満面の笑みを、これから産まれる命へ。
絶対的な力を、今自分よりも圧倒的に脆弱な相手に、全力で向ける。
「僕だ」
再びナイフを握り締め、薄い膜に思い切り突き刺した。
先程の肉とは違い、あっさり膜は裂け、羊水が溢れ血と混じり合う。
「さぁ、おいで……」
連理は、新しい命を誕生させた。
どうやら、女の子らしい。
臍の緒を適当に切り捨てると、赤子は産声を上げる。
「この子の名前は?」
連理は、彼女……恵へと問いかける。
恵はというと、諦観を孕む瞳で、涙を流し、今のこの現実と言うものが夢であるようにと、心の中で祈るだけだった。
「僕が、いや、君が名付けてくれ」
連理が比翼に向く。
「そうね。私達に誕生させられたんだし、それに関する名前がいいわね」
「偕老同穴?」
「可愛くない」
「まぁ、何でもいいさ。恵さん。君は、今産まれたこの子と、自分の命。小鳥遊がどっちを取るか、わかるかい?」
最高の選択。
愛する者か。
愛する者と共に創り上げた命か。
彼はどちらを選ぶだろうか。
「ねぇ、君はどっちだい?」
「私は、今、愛している人」
「そうか。僕とは反対だね」
今産まれたばかりの赤子を、毛布で包み、連理は愛おしそうに口付けをする。
「メールしないと」
「うん」
連理は恵の携帯電話で写真を撮り、それをメールに添付して送る。内容は簡潔なものにしないといけない。
『あなたの愛する人と、今誕生する命。どちらが大切ですか? あなたの愛する人を選ぶなら、この携帯電話を頼りに。誕生する命を選ぶなら、必死に探す他ない』
連理はそのメールを小鳥遊へと送信する。
泣き喚く赤子を、連理はあやす。
「この人を一目見たとき、僕はこのようなことになるなんて想像していなかったよ」
連理は恵を見ながら言う。
「そうなんだ」
「今産まれてくる命を犯す権利なんて、誰にもないんだ」
「そうかもね」
連理は赤子を愛しさを込めて抱きながら、優しく額へと口付けをする。すると、赤子の泣き声が、少しだけ小さくなる。
「だから、僕は、あいつがこの子を選ぶという確信がある」
「ふぅん」
連理の言葉に、心ここにあらずというように、比翼は曖昧な返事を繰り返していた。
「どうしたんだよ?」
「別に。それよりも、これ」
比翼は、連理の着替えを差し出す。今の服と何ら変わらない、白いシャツ。
「あぁ、着替えないと駄目だもんな。でも、この服はどうしようか?」
「大丈夫だよ」
「君がそう言うならいいけど……」
比翼の頭の中には、これからの計画のことが浮かんでいた。それはとても幸せな家族計画。
愛する者と暮らす、永遠の日々。
「そう言えば、この子は、どこに隠そうか?」
「あぁ、それは……」
比翼は、恵に聞こえないように、連理に耳打ちをした。
不浄/3
小鳥遊と田原は、マンションの近くを散策していた。
ゴミは捨てられている。しかし、恵がどこに行ったのかという痕跡は残っていなかった。
「真。本署には連絡しておいた」
「助かる、義信。俺はもう少し……」
小鳥遊の言葉の途中だった。彼の携帯電話が震える。小鳥遊はそれをすぐに手に取り、送信先を確認した。
「恵からだ」
「良かったな……」
田原は、胸を撫で下ろし、煙草を取り出し火を点けた。
「んで、愛しの奥様は、なんだってよ?」
「……殺してやる」
「はぁ?」
田原は、小鳥遊から携帯電話を取り上げた。
「なんだよ、これ……」
携帯電話の画面には、『あなたの愛する人と、今誕生する命。どちらが大切ですか? あなたの愛する人を選ぶなら、この携帯電話を頼りに。誕生する命を選ぶなら、必死に探す他ない』。その文章と共に、腹が開かれた恵と、産まれたばかりの血塗れの胎児の写真がそこには載っていた。
「真、落ち着け!」
「落ち着いていられるか!」
田原から携帯電話を取り返し、小鳥遊は恵へと電話をかけた。数回のコール音の後、「モシモシ」という、機械的な声が携帯電話から聞こえた。
「お前らぁ!」
「アハッハハッハハハッハハハハッハハハッハハハッ!」
ぶつっ。
「あいつら……こんな機械まで使いやがって!」
「真。本署に連絡し直せ。お前は待機だ。このままだと犯人を射殺しかねん」
「義信。俺はあいつらを殺さないといけないんだ!」
「いいから落ち着けって!」
田原は、小鳥遊の腕を掴む。
「だから、落ち着いていられるか!」
それを乱暴に振りほどき、小鳥遊は駐車場へと向かった。
田原は舌打ちをし、背中を向けている小鳥遊へと大きく叫んだ。
「真、動くな!」
小鳥遊が振り向くと、田原は拳銃を小鳥遊へと向けていた。
「なんの、つもりだ」
「飲酒運転は重罪だ」
「お前、こんなときに!」
小鳥遊が一歩踏み出す。それと同時に発砲音が響く。銃弾は小鳥遊の足元のアスファルトを深く抉っていた。
「俺は本気だ」
「お前……」
「お前の妻は、小鳥遊 恵は、助ける。だが、お前がいつものように冷静になれないと言うのなら、お前を連れて行けない。犯人を、殺させるわけにはいかない」
今まで静寂を保っていた、周囲がざわめきだす。近隣に住む住人たちが、今の発砲音に気付いたのだ。
「馬鹿か、義信。そんなことのために、銃を使うなんて……」
「親友が殺人犯になるくらいなら、これくらいなんともない」
小鳥遊が大きく溜息をつく。
「悪かったよ。だがな、言い訳くらい考えておけよ。いくらなんでも、発砲はやりすぎだ」
「よし、まずは本署に連絡だな」
「あぁ……」
田原は拳銃を懐へとしまうと、小鳥遊が携帯電話を取り出し本署へと連絡をする。
「小鳥遊だ。すぐに逆探知を頼む。対象者は小鳥遊 恵、俺の妻だ。最優先で頼む、彼女は妊娠している。番号は……」
小鳥遊が電話をしている間に、田原はタクシーを停めていた。
「あいつらのマンションだな」
「あぁ、今なら証拠を消す時間も少ないだろう」
二人はタクシーへと乗り込み、自分達が目を付けていた容疑者の自宅へと向かった。
そこへはものの数分。
二岡 清貴、秋華、連理、比翼。その四者の住むマンションだ。
「まずはあの二人の身柄を確保する」
小鳥遊がマンションの九階を睨み付ける。
「証拠がないぞ」
「あいつらの高校の行方不明者だ。なんとでもなる」
「あいよ」
二人が意気込み一歩を踏み出したときだった。
「二人とも、何か御用ですか?」
小鳥遊と田原の空気に溶け込むような女の声がする。二人は咄嗟に懐にある銃を手に取り、その声の主へと振り向き、銃口を向ける。
「動くな!」
彼らの視線の先には、双子の比翼と連理。手にはコンビニ袋を提げている。
「何ですか、急に」
連理が呆れたように言い、溜息をつく。
「お前らを殺人及び誘拐の容疑で……」
「はぁ? あんたら正気? 信じられない」
比翼は、心底二人を見下すように睨みつけた。
「事情を説明してください。それと、令状はあるんですか? それがないと逮捕できないはずでは?」
「ちっ。最近のガキは変に頭が回りやがる」
田原は銃口を彼らに向けたままゆっくりと歩み寄る。
「撃てるもんなら撃ってみなさいよ。公僕」
「侮辱は許さん」
田原は連理へと照準を移し、小鳥遊は比翼へと照準を移す。
「連理、お父さんを呼んできて」
「わかったよ」
連理は小鳥遊と田原の間をわざと通り抜けマンションの入り口へと向かった。
「ほら、撃たない」
「俺たちの目標はお前だ」
連理がマンションの自動ドアを潜り抜けた。それと同時に、比翼を大きく深呼吸をする。
「連理はコンビニに行く途中でどこかへ行きました。大体……三十分かな? 連理が待っていてくれと言ったので、適当なところで座ってました」
比翼の態度の変化に、小鳥遊は片眉を上げる。
「何のつもりだ?」
「いい加減面倒なんですよ」
田原と小鳥遊は比翼への警戒を緩めずに、視線を合わせる。
「親族の証言は駄目だ」
田原が首を振った。
「だろうな」
小鳥遊は首を縦に振る。
「お前のその様子だと、何か知っているようだな。墓穴を掘ったな、女狐。重要参考人として署に同行してもらうぞ」
「任意同行には見えませんが?」
「最近のガキは、本当に可愛くないな」
田原が舌打ちをする。
「真。銃をしまうぞ」
「あぁ」
田原と小鳥遊が銃をゆっくりと懐にしまった。それとほぼ同時と言ってもいいだろう。清貴と秋華、連理の三人が走って現れる。
比翼は、清貴と目が合うと、涙を瞳からぽろぽろと流す。
「お父さん!」
比翼は清貴へと走りより、抱きついた。小さく肩を震わせる比翼を、清貴は優しく抱きかかえ、愛しく頭を撫でる。
「なんのつもりですか、小鳥遊さん」
「彼女らに、重要参考人として話を聞きたい。私の妻が誘拐され、今まさに生死の境を彷徨っているんだ。それだけじゃない。子供の命もだ」
清貴は大きく目を見開き、比翼の肩を掴む。
「比翼!」
「知らない! 私、何にも知らない!」
比翼はまるで小さな子供のように体を震わせている。
「連理、お前は……?」
次に清貴は連理を睨み付けた。
清貴は、比翼のような反応が返ってくると思っていた。しかし、連理の反応は非常に淡白なものだった。
「さぁ」
清貴の体が、怒りに震え始める。
清貴は、抱きかかえている比翼に、「大丈夫だ」と優しく言い、連理へとつかつかと歩を進めた。
「連理。本当に知らないのか?」
「まったく」
彼はつまらなそうに肩をすくめる。
その動作に腹が立ち、小鳥遊が殴りかかろうとした瞬間だった。清貴の平手が連理の左頬を叩く。
「お前は、命をなんだと思ってるんだ! 今、あの人の大切な人の命が危ないんだぞ!」
連理は何が起きているのか理解できなかった。
頬が、じんじんと、熱を持って痛む。ゆっくりと、頬に手を添え、連理は清貴を見る。
今まで見たことのない、純粋な怒りの表情。当然、清貴が連理に怒ったことがないと言うわけではない。連理のためと考え、叱ることも数回あった。連理が小さいときに悪さをして、手を上げることも数回あった。しかし、それは全て、連理を想い、愛しく思っている証拠だ。
だが、今回は違う。連理のためではない。ただ単純に、連理という一人の人間に対し、怒りを感じ、そして手を上げた。
「すみません、小鳥遊さんと……」
「田原です」
田原は簡単に挨拶をして、小鳥遊の脇を小突き、小鳥遊に呟く。
「おい、今なら色々聞けそうだぞ」
小鳥遊はそれに何の反応も見せなかった。
「父さ……」
連理が助けを求めるかのように、清貴に手を伸ばした。
「お前は黙っていろ!」
清貴が強く連理に言葉を放つ。
連理は身をすくませ、瞳に涙を溜めた。
「こいつらが協力できることはありますか?」
清貴は、とても申し訳なさそうにそのようなことを言った。
「あぁっと……それじゃあ」
「義信、行くぞ」
「あ、おい!」
小鳥遊と田原は、彼らに背を向け歩き出す。
「待ってください! あなた達は、比翼と連理に用があったのでは?」
清貴が彼らの背を追い、小鳥遊の手首を掴む。
「あとで、また聞きに来ます」
「えっ……」
清貴の手から、小鳥遊の手首がするりと抜ける。
「義信。車を呼んでくれ」
歩きながら、小鳥遊は田原に話しかける。
「お前、何考えてんだよ。あいつらに間違いないんじゃないのか!」
「あの女狐……手強いぞ」
「はぁ?」
「あいつら二人、逮捕しなきゃ意味ないんだ」
「だから今がチャンスだろう!」
小鳥遊の携帯電話が鳴る。
「小鳥遊だ。……本当か! わかった、今すぐに車をこちらによこしてくれ。あの小説家のマンションだ!」
小鳥遊は田原を見て小さく頷く。「後で話す」と小鳥遊の目が田原に語る。
「……なんだって?」
「恵の場所がわかった」
「……よし。愛しの我が子も近場くにいるだろうな」
「あぁ……」
小鳥遊は、最後に一度振り返り、もう小さくなってしまった比翼と連理を睨み付けた。
不浄/4
ぴちゃ。
ぴちゃ。
ぴちゃ。
規則的な、水滴の音がする。
体中の血が、外に流れているようだ。
呼吸をする度に、体の中心に、空虚という確かな存在を感じる。
もう、痛みなどどうでもよくなった。
ただ、このお腹の中に、何もないということが辛い。
二人で育んだ命なのに。二人で喜び合い、彼は長年吸い続けた煙草をやめ、何があっても、絶対に家に帰ってくるようになったのに。
二人で、あの子の未来を、どれだけ想ったろうか。
女の子とわかったとき、彼はとても嬉しそうに微笑んだ。そのあとに、少しだけ照れくさそうに、頬を掻いたっけ。そして、お前に似て美人になるな、なんて言ってた。
もしかしたら、なんて思い、お腹に手を伸ばそうとした。けれど、両手には、何かが巻かれている。
なんと、無力だろうか。母は強し、などと何故昔の人は言ったのだろう。自分は弱い。今、自分は何よりも無力だ。自分は母と言う存在に向いていないのだ。自分は、駄目なのだ。
枯れたと思っていた涙がまた流れる。
こんなの、嫌だ。あまりにも、惨すぎる。愛すべき我が子を抱くことも出来ず、ただ死を待つだけだなんて。
「あ、あぁ……」
名前は決めていた。
でも、彼の意見も聞きたかった。
それでも、今だけは、名前を呼ばせて欲しい。
「
強く、美しく。
そんな人物に憧れていた。だから、自分の子にその憧れを託した。
「凛……ごめんねぇ……」
こんな、弱いお母さんで、ごめんね。
一度もあなたを、抱くことができなくて、ごめんね。
一度もあなたに、母乳を与えられなくて、ごめんね。
一度もあなたと、いられなくて、ごめんね。
一度もあなたの、成長を見られなくて、ごめんね。
「ごめんな、さい……」
愛しい、我が子。
お願いですから、あの子だけでも助けてください。
きっと、まーちゃんはあの子を愛してくれますから。
「ごめん、ね。ごめん、ねぇ……」
許してください、神様。
私、きっと、何か悪いことしたんです。
どこかで、誰かを不幸にしたんです。
でも、どうか、どうかあの子だけは、幸せにしてください。あの子だけは、殺さないでください。
「ごめんな、さいぃ……」
どこかともわからない、暗い場所で、涙を流す。
そして、このまま自分は死ぬのだと思ったとき、パトカーのサイレンが聞こえる。
「あ、あぁ……!」
きっと、真が来てくれたのだ。
自分のような弱い者を、わざわざ助けるために。
「恵! どこだ、どこにいる……恵!」
愛すべき夫の声。
「まー、ちゃん」
なんと安心する声だろうか。
「恵!」
足音が徐々に近づいてくる。
「恵!」
「まーちゃん!」
最後の力を振り絞り、彼を呼ぶ。
「めぐ……!」
彼は、息を呑んだ。
「めぐ……み……」
「ごめん、ねぇ……」
痛みなど、とうに感じない。
そもそも、ここまでされて生きていること自体、奇跡。
生き汚いとも、未練がましいとも、なんとでも言ってくれて構わない。ただ最後に、彼にだけは会いたかった。
「おい、真! 恵は無事か!」
小鳥遊の親友、田原が駆け寄る。
しかし、田原は自分の姿を見た瞬間に、一歩後ずさり、顔を歪めた。
「嘘、だろ……?」
「義信、くん……?」
もう、目が見えなくなってきている。
「まーちゃん、凛は? 凛は無事なの?」
「り、ん?」
小鳥遊はなんのことかわからずに、首を傾げる。
「私達の、赤ちゃんは?」
小鳥遊は、恵の表情が変わったのを察し、咄嗟に笑顔を作る。
「あ、あぁ、すまない。大丈夫だ。俺とお前の凛は、今病院だ」
「よかっ、たぁ……ごめんね……勝手に、名前」
「いいんだ、今はいいんだ。ただし、あとで家族会議だ。いいな?」
「うん」
「よし、今、助けてやるから……」
それと同時に、自分が見ていた世界が真っ暗になる。
不安になる。何も聞こえない、何も見えない。
「あれ、まーちゃん? どこ? どこにいったの?」
愛すべき夫に問いかける。その声すらも、自分には聞こえない。でも、何となくではあるが、恵は、彼の存在を近くに感じた。
「恵、俺はここにいるよ。大丈夫、ここにいるよ」
小鳥遊らしき者が、手を握る
「あれ? どうして、見えないの? 何も、聞こえないの。まーちゃん、ねぇ、どうして?」
声が聞きたい。最後の、その瞬間まで。自分は決して一人で逝くわけではないのだと。愛すべき者に見守られ、逝くのだと。
「恵!」
暗い、暗い世界。
どうして、またここに戻ってこないといけないの?
「恵!」
「ごめん、なさい……」
何故このような言葉を発したかは、わからない。でも彼女は、誰かに、何かに謝らないといけないような気がした。それは彼にかもしれないし、愛すべき我が子かもしれない。もしかしたら、神様と言う、冷血な者なのかもしれない。
「恵……?」
「あ、ぅ……ごめんなさぁい……」
「おい、恵!」
何も聞こえない、何も見えない。
そんな中、ただ、どこかに堕ちていくということだけは、確かにわかった。
不浄/5
「めぐ、み?」
息をしていない。
「おい……嘘だろう? ここまで、ようやっと来たのに」
徐々に、彼女の手が冷たくなっていく。
「おい……おい!」
小鳥遊が恵を揺さぶると、どこからか、ぐちゃ、などと気味の悪い音がする。
「恵!」
彼女の顔から、生気が抜けていく。徐々に重く、冷たくなっていく。
「嘘だろう? おい、おい!」
何度名前を呼んでも、無言の返事しか返ってこない。
それが、自分の胸に突き刺さるようで、痛い。
「救急隊員を急いでくれ!」
田原が立ち上がり、仲間を呼ぶ。
「おい、おい!」
小鳥遊は、何度も彼女に呼びかける。
「こっちだ、早く来てくれ!」
田原に呼ばれ、救急隊員が駆けつける。しかし、彼らは恵の姿を見た瞬間に、「ひっ!」と短い悲鳴を上げた。
小鳥遊が振り返り、彼らに血に塗れた手でしがみつく。
「助けてやってくれ! 俺の妻なんだ! これから、これからもっと幸せになるはずなんだ!」
そもそも、ここまでされた人間を、人間と呼んでよいものか。人間と言うよりも、実験で解剖された、蛙。
腹部は、醜く開かれていた。それは帝王切開というレベルのものではない。鳩尾から、臍の数センチ下までを切り開かれ、心臓や肺、そして、腸が僅かに外にはみ出している。更に、吐き気を催すほどの、血の匂い。
彼女の瞳は、赤く血走り、唇はあまりにも濃い紫。それを強調するかのような、色のない肌。まるで趣味の悪い映画を見ているような、そんな錯覚。
「残念、ながら……奥さんは、もう」
ショック死だろうと、救急隊員は予測を立てる。
「今まで、たった今まで俺と話していたんだ! まだ、間に合うだろう!」
このような状態で? このような、見て死んでいると取れる状態で、今まで話していたと?
救急隊員は、不気味そうに恵だったものを見る。
「恵! ほら、助かるんだ。助かるんだぞ!」
泣きながら笑みを浮かべる小鳥遊。
「真……」
田原が小鳥遊の肩を掴む。
「恵……」
「せめて、せめて凛は助けるぞ」
ぎりっ。
小鳥遊の歯軋りの音は、確かに田原に聞こえた。彼の心中に渦巻くのは、憎しみか、後悔か。それは小鳥遊にしかわからない。
「当たり、前だ」
小鳥遊は立ち上がる。
「凛は、助ける。恵と俺の子供だ」
すでに息絶えた恵に、「絶対に、助けるからな」と言い残し、彼は恵に背を向けた。
「この辺りに女の胎児がいるはずだ! みんな、頼む! 俺に協力してくれ!」
小鳥遊は、前へと進む道を選んだ。
不浄/6
連理は、比翼の部屋のベッドで、膝を抱えていた。
「どうして、どうして……」
未だに痛む左の頬。
父に、清貴に叩かれた頬。
愛情も、何もそこにはない。
ただ、怒りのままに叩かれたのだ。
そんな中、比翼は漆黒の聖母の最終調整を行っていた。
「いつまでもぐちぐち言わないの。あれはあんたが悪い」
「どこが! 僕と君は同じなんだろう? なら、ならどうして!」
比翼は、彼を背にしながら微笑んだ。
彼からこのような発言が出てくることは、彼女の予想以上の結果だ。そして、連理があのような言葉を発し、清貴がそれに怒る。それも予想以上。そもそも、連理がわざわざ清貴が怒るような態度を取ること事態、予想以上で仕方ない。
「なんで、父さんは急に……」
聖母の微笑みに、全集中力を使い、完成させていく比翼。
「なぁ、比翼!」
今は連理の言葉は無視する。
最後の一筆。色白な聖母には、違和感を覚えるくらいの、真紅の唇。慎重に。ゆっくり、ゆっくりと。
「できた」
漆黒の聖母は、今まさに完成した。
「比翼、今は絵のことよりも!」
「わかってるわよ。っていうか、本当にわからないの?」
「えっ?」
「清貴さんがあなたに手を上げた理由は、一つしかないでしょう? 考えてみなさいよ」
「小鳥遊のせいとしか、考えられない」
連理自体、幼稚な考えと言われることはわかっている。しかし、今の彼にとっては、それしか考えられないのだ。
「その通りよ」
されど、比翼は連理に賛同する。
彼女が自分の意見に賛同したと言うだけで、連理は誰よりも心強い味方を手に入れたようだった。
「そう、だよな。でも、このままじゃあ、父さんに嫌われる」
連理は、そのことを最も恐れていた。
最愛の父を手に入れるための計画なのだ。父の愛情を、一心に受けるための計画なのだ。父に嫌われようものなら、このような計画自体無意味だ。
「そんなの、簡単でしょう?」
「どうするんだよ?」
「あなたが被害者になればいいのよ」
「はぁ?」
「言っておくけど、私より連理のほうが殺人犯として疑われているのよ?」
「なんでだよ!」
「さぁ? あなたが清貴さんたちを呼びに言っている間に、小鳥遊たちが言ってたよ。あいつが何か怪しいことをしていなかったかって」
「嘘、だろ?」
「本当」
連理の顔色は、先程よりも悪くなった。
「どうすればいいんだ……」
「だから言ってるでしょう? あなたが被害者になれば、それで解決するの」
「でも、そんなの」
比翼は完成した漆黒の聖母を眺める。
足元では死が蔓延している。それを優しく踏みしめ、聖母は我が子を愛しく抱きしめている。わずかに浮かんでいる微笑は、とても卑しく、描いた本人が見ていても、不快感を感じるほどだ。
比翼は、その絵画の完成度に、満足していた。出来上がる直前は稚拙な絵とも思ったが、いざ完成してみれば、そんなことも忘れるほどに、この絵画の完成度を高く思える。
自分が完成させた作品ほど満足感を得られるものはないとは、よく言ったものだ。
「できるでしょう、連理?」
「でも、でも……」
「大丈夫。私が上手くやるから」
震える連理を抱きしめ、優しく頭を撫でる。
「それでも、僕は……」
「ねぇ、連理。もう、最後なのよ。もう、充分よ」
「それ、じゃあ……?」
「えぇ。次で、あいつを、殺しましょう」
「うん……」
「そう。清貴さんを独り占めしている、秋華を」
清貴の妻。それだけで、あの女は清貴の全てを得ている。それが比翼と連理は気に入らない。
あいつがいなければ自分達は産まれてこなかった。このような現実自体、彼らは嫌悪しているのだ。しかし、それは何と言う皮肉だろうか。腹を痛めて産んだ子達に、あいつは殺されるのだ。
「連理」
比翼は連理を抱きしめるのを止め、彼と向き合う。
連理は憔悴していた。しかし、彼の瞳には、強い意志が宿っていた。
「あぁ」
連理が一つ大きく息を吸い込む。
「これで終わりだ」
彼らにとって、今までのことは、人殺しには含まれないのだ。
「何もかも」
どのようにすれば、人間が苦しむか。それを研究するための、実験だ。
「あいつは、殺す」
実験のために、何かが犠牲になるのは当たり前。
だから、彼らにとって、本当の人殺しは、今まさに始まるのだ。
「えぇ、連理」
比翼は、にっこりと笑顔を作る。
彼女にとっても、彼にとっても、最後の計画が進み始めた。
不浄/7
清貴は、仕事部屋で一人で酒を飲んでいた。
彼の目の前のディスプレイには、苦悩する主人公のシーンが記されていた。愛すべき者か、それとも愛すべき者と共に創り上げた命か。主人公にとっては、究極の選択。
この小説は、今まさに清貴が書き記したものだ。小鳥遊の話を聞き、彼はこの一文を思いついた。しかし、その文を使うことに、清貴は頭を悩ませていた。
まるで、人の不幸をネタに、自分は食い扶ちを繋いでいるようだ。あの死体を蝋で固めた連続殺人も、そして今の、誘拐事件も。
もしかしたら、今まで自分が書いてきた小説は、どこかの誰かの、不幸な話を書いていただけではないだろうか。
そう考えると、彼は急に怖くなり、酒に逃げたのだ。
ドアが控えめに鳴る。
「入るよ、きよ」
秋華は清貴の返事を待たずにドアを開ける。
「少し話があるんだけど」
秋華の声は、どこか冷たいものだった。
「どうした?」
清貴は、基本的には優しい男だ。しかし、酒癖が悪い。一人で酒を飲み、そして酔いが回った清貴は、それはもう酷いものだ。何度も、この酒癖のせいで、周囲の人物を困らせていた。
「連理、相当傷ついていると思う」
秋華はベッドに腰を下ろす。
「あれはあいつが悪い」
「そう、かもしれないけど。なんで怒ったのか、ちゃんと言ったほうが……」
「ちゃんと言っただろう?」
「そう、だけどさ」
「くだらないな」
清貴は煙草に火を点けた。
「くだらないって……きよの悪い癖だよ、そういうの」
「くだらない話をしたいなら、出て行け。邪魔になる。そもそも、この部屋に誰かがいるだけで鬱陶しいんだ」
普段の清貴なら、このようなこと、秋華には言わないだろう。
「もう一度言ってみなさいよ、清貴。殴るよ」
秋華は立ち上がり、清貴の後ろで腕を組みながら清貴を睨む。
「ははっ……」
清貴が笑った。
秋華は少しだけ安心した。きっと、自分が怒っているのを察して、清貴は悪いことをしたとでも思い、笑って誤魔化そうとしているのだろう。彼女はそう考えた。
しかし、彼女の予想は大きく外れた。
「もう一度、だって?」
清貴は立ち上がる。秋華よりも頭一つ分は大きい。
「あぁ、いいとも」
清貴は首を傾げ、見下すように秋華を見る。
「俺は今、くだらない話をする気なんてさらさらないんだ。消え失せろ」
「っ……!」
秋華は反射的に平手をかまそうとした。
しかし、清貴はそれが当たる前に彼女の腕を掴む。
「邪魔」
彼女の腕を掴みながら、清貴は部屋の外へと秋華を連れ出した。
「今は、仕事に集中したい。嫌な思いをしたくないなら、部屋に入るな」
酔っている清貴にとって、これは最大限の気遣いだった。酒のせいで、今まで何度も友人に面倒をかけているのだ。きっと今回も、誰かに迷惑をかけてしまう。それなら、それくらいなら、一人のほうが、誰にも迷惑をかけないほうが、良いに決まっている。清貴が、数十年生きてきて、学んだことの一つだ。
「ちょっと!」
「君に迷惑をかけたくないんだ。今は、自己嫌悪になりたい」
自分は愚者だ。何事も経験しなくては学ばない。だから、後悔して、ようやっと身になるのだ。
「すまない」
自分を必要以上に責めて、追い込んで、ようやっと自分は人間に成れるのだ。
ドアを乱暴に閉め、鍵をかける。
「ちょっと、清貴!」
やかましい音を立てながら、秋華はドアを叩くが、清貴はヘッドフォンを耳にかけ、音楽を最大音量で聞き始める。
物悲しげな音楽が、自分の頭の中に響く。
「はははっ、最悪」
彼は、今さっき秋華に取った態度に後悔する。しかし、彼の笑みはその後悔から来るものではなく、目の前で新しく出来上がるであろう作品に対する喜びの笑みだ。
「あぁ、最高の作品が出来そうだ」
彼の多くの作品は、暗く残酷な表現が多い。そして、そのような表現をより鮮明に文字に表すためには、彼自身が後悔し、自己嫌悪しているときが、一番良い。それも彼の経験から学んだことの一つだ。
清貴は、急に何もかもがどうでもよくなった。愛すべき秋華との口論も、人の不幸について考えていたことも、何もかも。
「もう、いいさ。俺は人の不幸を書いて、飯を食うんだ。昔からそうしてきたじゃないか。そうさ、俺は、人を不幸にしないと駄目なんだ」
彼はキーボードを軽快に叩き出す。
ディスプレイに、彼の世界が創られていく。
人の、不幸の話が、出来上がっていく。
「全部、死ぬんだ。目の前で。幸せなんて、こんなものだ。一瞬で、脆く崩れて、壊れていくんだ」
五ページ、十ページ、二十ページ。
彼は、数十分の間で、五十ページの作品を作り出す。
「ふふ、やっぱり、こういうときこそ最高の作品ができるんだ」
彼は、自分が最高に苦しんで、自己嫌悪に陥って、人の不幸を我が身に投影し、そして小説を書く。
かたかたかたかたかたかたかたかたかたかた。
不幸。絶望。失望。羨望。苦悩。憎悪。醜悪。
何もかもを。人を苦しめる何もかもを、彼は小説に書く。その不幸を書き切ることで、彼は、自分の周囲を幸せにする。
この人よりも、私は幸せだ。
この人よりも、私はまともだ。
「幸せは、他人の不幸で成り得るんだ」
かたかたかたかたかたかたかたかたかたかた。
彼は、まだまだキーボードを叩き続ける。主人公の周りで、人が多く死んでいく。両親も、恋人も、親友も、知人も、他人も、誰もかも。そうやって、彼は幸せになっていく。人の不幸を夢想し、具現することで。
俺はまともだ。
誰よりも、何よりも、俺はまともなんだ。誰よりも、幸せなんだ。
「もっと、もっとだ。幸せに……他人を幸せにするために、俺は小説を書くんだ……」
かたかたかたかたかたかたかたかたかたかた。
小説が、出来上がっていく。
「これは、最高の出来だ」
五十ページを過ぎ、遂には百ページに達しようとしている。そして、彼は大きく溜息をつき、時計を見た。
先程の秋華との口論から、一時間以上が経過していた。清貴は、机にある缶ビールに手を伸ばしたが、すぐにその手を引っ込めた。大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。そして、彼は缶ビールではなく、煙草を一本取り出し、火を点ける。
「落ち着け」
そう、落ち着かねばならない。今まで何度も失敗してきたのだから。少しだけでいいから、酒を飲むのを止め、考える時間を作る。
秋華に、酷いことを言ってしまった。しかも、自分はそれを後悔はすれ、反省せずに、逃避として小説を書いたのだ。ここからが重要なのだ。どのように彼女に謝るか。どのようにすれば、彼女は許してくれるか。
煙草を吸い終わった清貴は、酒を飲むために手に取るのではなく、捨てるため手に取った。
今日はここまでにしよう。これ以上酔ってしまうと、比翼や連理にすら当たってしまう。
清貴は仕事部屋から出て、居間へと向かった。居間には比翼が一人でテレビを観ていた。比翼は清貴を見ると、優しい笑みを向けた。
「どうしたの、清貴さん?」
彼女の笑顔を見た清貴は、脳が揺さぶられるような衝撃を受けた。 酒のせいもあるのだろう、視界がぼやけ、彼女が誰かを判断できなかった。
「誰、だ?」
「え?」
比翼が目をぱちくりとさせる。その後に、あの独特な鈴の転がるような笑い方をする。
くすくすくすくすくすくすくすくす。
清貴の頭の奥がずきずきと痛む。彼女の笑みは、頭の中で幾重にも反芻し、彼を侵していく。
「酔っ払ってるんでしょ?」
くすくすくすくすくすくすくすくす。
清貴は平衡感覚を奪われ、その場に片膝をつく。
「ちょっと、大丈夫?」
比翼が心配して、清貴に駆け寄る。
「お父さん?」
痛む頭を押さえながら、清貴はまた彼女を見た。
ゆっくりと視界が開け、徐々に比翼の姿がはっきりと映し出される。
「比翼か。いかんな、悪い酒に当たっちまったみたいだ」
「もう。お父さんはお酒強いわけじゃあないんだから、気をつけてよね」
「すまない」
比翼は清貴を支えながら、彼がいつも座るソファへと誘導する。
「あーあ、お酒までこぼして……」
比翼は呆れながら、冷蔵庫の横にある古びたダンボールの中から、雑巾を持ってきて床を拭く。
「お父さん、水飲む?」
「あぁ、くれ」
比翼は床を拭き終わると、手を洗ってコップに水を注ぐ。
「はい」
「ありがとう」
清貴はゆっくりと水を飲んだ。アルコールに冒されていた彼の体は、たった一杯の水で、随分とすっきりした。
「やっぱり北海道の水は美味いな」
「はいはい」
彼女は雑巾を洗いながら、清貴の言葉に相槌を打つ。
「比翼、秋華はどうしてる?」
「お父さんと喧嘩して、すぐに不貞寝したよ」
「やっぱ、怒ってるんだな」
清貴は長く溜息をついた。
おそらく、今ここで謝るために彼女を起こしても、余計話がこじれるだけだろう。明日、明日の朝に秋華に謝ろう。そうだ、そうしよう。そんな言い訳のようなことを考え、清貴は、「よしっ」と両手を合わせた。
「面倒くさいことは明日に回す」
「あははっ、馬鹿っぽい」
比翼は雑巾を絞り、再度手を洗った後、消毒スプレーをシンクにかけ、清貴の隣に腰掛けた。
「明日になれば色々変わる。よし、これでいい。新しい小説もそれなりに進んだ」
「そうなんだ、良かったね」
「あぁ。今日のことは、これで解決……」
そう。一つだけ解決していないことが一つある。
「そう、だ。小鳥遊さん」
「ニュースとか見てたけど、まだ流れてないよ」
「大丈夫かな……」
「明日になれば、色々変わるんでしょ? 大丈夫だよ、きっと」
比翼は小さな子供のように純粋に笑う。
「そう、だよな」
そう言って、清貴は比翼へと笑顔を向けた。そして、彼女の頭を慈しむように撫で、立ち上がる。
「俺は寝る」
「うん、私も寝る。明日は古語の小テストあるし」
「そういや、連理は?」
「さぁ? 反省して寝てるんじゃない?」
清貴は頬を掻く。
「比翼。悪いが、連理に上手く言っておいてくれ」
「はいはい。その代わり、明日から限定発売のルタオのチーズケーキね」
「はいはい」
清貴は、比翼が正真正銘自分の娘なのだと、心底実感する。
不浄/8
準備は入念に済ませないといけない。
決して、家出とは思わせてはならない。夜中にふらっと出掛けて、誘拐されたと思わせなくては、意味がなくなる。だからこそ、必要なものだけをまとめた最小限の荷物に限らなければならない。
数日分の簡易な食料、ペットボトルに詰めて部屋に隠しておいた水。普段使っている携帯電話とその充電器。また、比翼と連絡を取るために購入した、使い捨ての携帯電話とこれの充電器。それと小型の発電機。懐中電灯。また不必要かもしれないが防寒用の簡易な上着。そして、計画を実行するための、選び抜いた道具。それらを、戸棚の奥にあるドラムバッグに詰める。
彼は、欠けているものが何もないかを何度も確認しながら、真っ暗な部屋の中で、合図を待つ。
ぎしっ、と僅かな床の軋む音。それとほぼ同時に、集中していなければ気付かないほどの、小さなノック音。
彼はゆっくりと息を吸い込み、立ち上がった。
部屋のドアをゆっくりと開け、忍び足で玄関へと向かう。玄関のドアの開閉にも細心の注意を払い、彼は夜の小樽の街へと向かった。
つい一時間ほど前に七月になった小樽の空気は、まだ少し冷たかった。
この時間帯だけ、この小樽と言う街は、外界から隔離される。静寂に包まれ、木々も、風も、空も、月も、何もかもが眠りにつくために瞼を閉じる。
連理はこの雰囲気がとても好きだった。しかし、今はこの雰囲気を味わっているときではない。目的地は、歩いて約十五分程度の距離にある、青葉ヶ丘という団地にある大きな廃屋。
ここは、比翼と連理が、小さいときによく遊んでいた場所だ。昔は鍵などもかかっておらず、自由に出入りができたものの、最近は近くの中学生などが煙草を吸いに来ることが多くなったため、鍵をかけられ、時々警察も巡回に来る。しかし、鍵は正面玄関だけのみかけられており、警察は滅多なことがない限り、廃屋の中まで見ることもないということを、彼は知っていた。唯一の懸念は、昔から利用していた入り口が、まだあるかということだけだった。
連理は、正面玄関からぐるりと裏へと回った。そこには草木に隠れた、小さな木製の扉がある。これは比翼と連理が幼少の頃に作ったものだ。子供のときからよく利用していたこの入り口が、今でも残っていることに、連理は安堵する。すぐ後ろが崖のように切り立っているため、ほとんどの者がここまで回ってこないのだろう。
その扉を慎重に引くと、大人一人がようやっと通れるような小さな穴が顔を出す。その穴に彼は身をくぐらせ、細い道を四つん這いで進むと、頭の上に大きな穴が開いており、ここから身を乗り出すとキッチンへと出ることができる。
彼は、顔や髪に付くほこりを何度も払いながら、この道を通り、キッチンへと出た。
「昔より、ずっとひどいな」
キッチンの床には、スナック菓子の空き袋や酒の空き缶、空き瓶、煙草の吸殻など、多くのゴミが散乱していた。
それらを蹴りながら、彼は居間へと向かう。
この廃屋は、玄関から真っ直ぐに三メートル強の廊下が伸びており、その先には十七畳ほどの居間がある。キッチンは、その廊下の真ん中くらいを右に曲がったところにある。
居間の古びた畳の上には、ぼろぼろのマットが置かれていた。おそらく、不良の真似事をしている中学生達が、ここを中心にたむろしていたのだろう。しかも、このマットは、主に性行為のために用意されたものらしく、周囲には、多くの使用済みのコンドームが何にも包まれもせずに捨てられていた。
「最近の中学生は、節操がないな。こんな汚いところで、よくやれたな……」
連理は呆れながらもそのマットの上にゆっくりと腰を下ろした。しかし、ぼろぼろのマットは、それだけで盛大にほこりを吐き出した。
「少しだけの、辛抱だ……」
連理は自分にそう言い聞かせ、汚いマットに、先程よりも更にゆっくりとした動作で横になった。
汚い天井が、彼の視界を占拠する。彼はほこり臭い空気をゆっくりと吸い込み、瞼を閉じた。
「これで、最後だ」
これから送るであろう幸せな生活を思い描き、連理は眠りに落ちた。
不浄/8
七月一日、朝。
比翼はいつも通り時間を勘違いし、短い廊下を走って居間へと向かった。
「おはよう!」
慌てながら彼女は時計を見た。丁度六時四十分を刺していて、彼女は、また同じ勘違いをしてしまったと肩を落とし、溜息をついた。
「まただよ……」そう比翼が呟いて、椅子に座ろうとしたところで、誰かが彼女の肩を掴む。
「比翼、連理を知らないか?」
「わっ、びっくりした!」
「すまん……」
比翼の肩を掴んだのは清貴で、その清貴は比翼の声に驚き、すぐに彼女の肩から手を離す。
「で、なに?」
「連理がどこにもいないんだ。知らないか?」
「んー……今日は水曜日か。早めに学校に行って、美術室で絵でも描いてんじゃない? 昨日の帰りに、そんなこと言ってたような気がする」
「そう、か」
「お母さんは?」
「寝室で、小鳥遊さんに連絡している」
清貴の注意が、今は自分ではなく、いなくなった連理に向けられていることに、比翼は内心舌打ちをした。
「大袈裟な……連理はしっかりしてるし大丈夫でしょ」
比翼は、「やれやれ」とでも言うかのように、首を振った。
「これなら朝ごはんは期待できないかぁ……」
比翼は一人でぶつぶつ文句を言いながら、適当な菓子パンで朝食を済ませ、浴室へと向かった。
シャワーを浴びながら、比翼は計画の考え直しを行っていた。
少なくとも、一週間。それぐらいの時間をかける必要はある。だが、連理は耐えられるだろうか。
彼がもし、その期間を耐え切れず、ここに戻って来ようものなら、ただの家出に成り下がり、二度とこのような機会は訪れないだろう。それだけではない。彼らが繰り返した実験も、いつかはばれてしまうだろう。そうなると、何もかもが、駄目になる。二人はただの殺人犯になり、清貴と結ばれることも一生なくなる。
連理のことだ。限界まで耐えられるだろう。しかし、その限界がいつ来るかはわからない。彼女の予想では一週間かもしれない。だが、彼の限界は、一日かもしれない。
「それが、分かれ目」
これからの人生をチップにした、最初で最後の大博打。比翼にとっても、勿論、連理にとっても。
「私は、勝ってみせる」
シャワーを止め、比翼は強い覚悟を胸に、日常に戻って行った。
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