ナッシング・オーバー・ザ・スカイ

時野マモ

第1話 六本木

 終わる事のない繁栄の中に沈むこの「日本」。

 私達は皆、その中に溺れ、虚無の中を漂う死人となるが、誰もそれに気づかない——気づかない者だけが生きてゆけるこの永遠の饗宴の中では——不安は致死の魅薬となる。

 なので考えてはいけない。

 考えてしまっては——その底なしの深淵にはまってしまったなら——二度と浮かんではこられまい。

 だから。ただその虚無を楽しまないといけない。

 虚無より軽く、表面だけの生を楽しまねばならない。

 つまり——騒げ。

 その偽物の生の中で騒げ。

 ただひたすらに、何も考えずに騒げ。

 さもないと気づくことになる。

 既に私達はルビコン川を越えてしまっている事に。

 骰子を投げたその結果、もはや、自らが取り返しのつかない所まで来てしまっている事に事に。

 ——気づいてはいけない。

 それを、見てはいけない。

 過去を、自らを、振り返ってはいけない。

 一片たりとも自らの重さに気付いてはいけない。

 もし、我々が重さを持ったなら、それは底なしの不安の底に私達を引きづり込んで行く。

 我々を取り囲んでいる繁栄はたちまち魑魅魍魎へと変わる。

 ならば進むしか無い。

 私達はこの「日本」を楽しむしかない。

 この国、この街、と踊るしかない。

 この深夜の六本木、地下深く潜ったこの「ディスコ」で欲望にまかせ絶叫する人々のように——表面だけの世界で踊れ。

 半裸の服装で台の上に立って踊る女達のように。

 その下から下品な声を上げ騒ぐ、酔っぱらったサラリーマンの集団のように。

 ——踊れ。

 踊りながら叫べ。

 腫らした赤い目を見開いて、刹那の欲望を叫べ。

 ——それでよい。

 瞬間だけがあれば良い。

 考える暇などはない。

 飛び散るジャンパンの泡の中、虹色に光る世界は、毒々しく、生々しくも、正しいのならば……

 ——ただ正しく自らを欺いて生きれば良い。

 このように。

 札束を振り回しながら踊っている初老の男のように。

 その男に嬌声を上げて抱きついている二人の若い女のように。

 宙を舞うばらまかれた札束のように。

 軽く、浮かぶ。

 フラッシュライトに照らされて、世界の表面に浮かぶ。

 金! 金! 金!

 叫び声。

 酒が悩み等忘れさせ、ただ欲望に満ちる。

 ——この瞬間。

 歴史の消えた瞬間。

 量だけが作り出す瞬間。

 深さなんていらない。

 表面だけで良い。

 そんなものはこの世界には必要がない。 

 ——そんなものは必要ならば金で替えばよい。

 この世界に買えないものはない。

 ——買えない物などこの世界では意味はない。

 神でも、悪魔でも——それらがまだ我々から逃げ出していないのならば——買えないものなんてありはしない。

 ——買えないのならば作れば良い。

 金で。

 新しい神を。

 悪魔を。

 なんでも作ったら良いだけなのだ。

 どうせ偽物のこの世界ならば——偽物が本物——本物が偽物。

 今がどちらかなのかさえも誰も知らぬ。

 ここは、この「日本」は、虚無の中に浮かぶ、瞬間と、表面だけの世界なのだ。

 いつの間にか全員が狂ったことに、正気の者がいないのだから、それに誰も気づかない世界。

 ——ならば?

 ここで生きるには、そんな虚無の中を、笑い、狂いながらながら通り抜けなければならない。

 ——我らは?

 叫べ。

 虚無の表面に、生き、叫べ。

 野生のまま。瞬間に生きろ。

 叫べ。

 騒げ。

 笑え。

 ——そうあの連中のように。

 フロアの真ん中で行われているヌードショーに群がる男達から上がる歓声。

 ——これがこの世界での正しい生き方なのだ。

 ステージの周りに振る人工の雨に、スーツをずぶ濡れにしながら、男達はヌードダンサーに握りしめた紙幣を渡そうとして、我先に、前に、前に。

 その男達の中から、一人、紙幣でなく、ダイヤを差し出した若い男がステージの上に上げられて、艶かしく踊るダンサーに抱きしめられる。

 包容され頭からこぼされる血の色の酒。

 淡い色の高級そうなスーツが、こぼれたワインに染まる若いサラリーマンの姿を見て、君らは笑いよりも同情が先に立つかもしれないが……

 それはこの世界、この「日本」には余計な心配。

 人々は騒ぎ、笑い続けなければいけないのだ。

 さもないと飲込まれるのだ。金が欲望を生み、欲望が金を生む、この世界の狂ったループ——永遠の牢獄に。

 覚めてもなお見続ける悪夢のようなこの世界の虚無に飲込まれない為には、自らが虚無となるしかないのだった。

 だから笑え。

 騒げ。

 忘れろ。深さ——そんなものがこの世にある事は忘れろ。

 どうせ、見えやしない。表面しか見えやしない。この世界。ならば見えないものなど忘れてしまえ。

 今を楽しめ。瞬間以外は忘れてしまえ。

 過去など、何の役にもたたない。

 忘れ——踊れ!

 今夜もまた、馬鹿騒ぎは最高潮のこのフロアで……

 人々は踊る。影になり踊る。

 落ちて来る蛍光色の泡に包まれて踊る。

 瞬く間にはじけ消えて行く泡をまとい、それをブラックライトに照らされて、輝きながら踊る。

 ——その姿。

 まるで、この世界のようだ。淡く、はかない弾ける泡。

 しかし、それは止めども無くなだれ落ち、人々を包み込んでゆく。

 この「日本」。

 終わりなき繁栄を誇る、君らの日本とは違う二十一世紀に、人々はひたすらに空虚な騒ぎを続ける。

 その叫びは、この楽しいパーティがいつか終わってしまうのでは無いかと言う不安をはじき飛ばす為にか、ますます大きくなってゆく。

 そして、その声の空虚さが不安をあおれば、さらに大きくなってゆく声。

 人間の枠を越え、何処までも大きく。いつまでも続く叫び声。

 もはや後戻りできない。

 ならば越えなければならない。

 彼らは——人を越えなければならない。

 生き残るには——この馬鹿騒ぎは、正常な精神には耐えられない、狂ったものこそが生き残れる地獄ならば。

 狂ってしまえば……

 ——誰も気づかない。

 自らがもう人を越えた生ける死人である事に気づかない。

 何故なら、狂ったならばそんな事なんて気にならなくなるのだから。

 身を任せてしまえばよい。

 この世界に。この場所に。

 金と酒が宙を舞うこの宴に。

 湧き起きる歓声の中に居続ければ良いのだ。

 終わりは無い、いや終わりが有っては行けないこの騒ぎの中に、居続ければよいのだ。

 この馬鹿騒ぎをやめては行けないのだ。

 酔い、振ら付きながらも——決して止まっては行けないのだ。

 先の事は考えてはいけない

 ——さあ、また賽を投げろ。今夜もあなたのルビコン川を渡れ。

 どうせ、世界は誰かに征服されるまで争いが止まらないものなのだ。

 どちらにしても戻れないのならば、もう進むしか無い。

 この「日本」。 

 ここでは、物事はすべて暴走し、何度も価値は転倒し、天国も地獄もここでは同じ物となる。

 欲望が情報に、情報が金にその姿を変え、金がまた欲望を生む。

 何処までも膨らみ続けて行く世界。

 ここでは、すべては等価。

 悪も正義も。夢も絶望も。

 転がる石ころと黄金は同じ。何もかも転がる。

 毎日変わる愛の相手に男も女も覚えていられない?

 巡る、交錯する、愛と性。

 それは、軽く、薄く、意味を失いながら漂い……

 ——フラッシュ。

 浮気現場を撮られた男から上がる怒なり声。

 しかし、写真を撮った男は胸ぐらを掴まれても涼しい顔で——交渉が始まる。

「あいつはいくら出すと言ったんだい。俺ならそれ以上出すんだけど……」

 と写真を撮られた男は言うと、

 浮気調査の探偵は無慈悲に笑いながら、

「奥さんの浮気の方のネタも買ってくれるなら」と。

 ——つまり……

 ああ、愛よ。

 意味が無いなどと言って申し訳なかった。

 君にも意味がある。

 今、意味が生まれる。

 音楽が流れる。

 欲望が流れる。

 全てが流れる。

 愛が金となる瞬間だった。

 金が愛を取り込んだ瞬間だった。

 祝福されるべき瞬間。

 「日本」よ永遠なれ。

 瞬間よ永遠なれ。

  


   *


 ハルオは、頭上の高速道路を車が通り過ぎる音を聞きながら、もう空は薄明かりが差す、日の出間近の六本木交差点を渡っているところだった。

 こんな時間だと言うのに昼と変わらない人出の、眠らないこの「日本」——ましてやここは六本木。

 交差点に溢れるのは。この場所に似つかわしい様々な欲念達であった。

 欲望が人の形を取って歩く、亡者達。何を得ても満足できない、果てしない、餓鬼道に落ちた者達。

 どれだけ食べ続けても空腹に震え、どこまでも飲み続けても乾きを訴える。

 そんな魑魅魍魎が街に満ちる。

 溜まり、淀む。

 ここ——「日本」。

 君らの世界の日本とは違う、失われなかった時代の後の「日本」であった。

 際限ない繁栄の先のさらなる繁栄を望む「日本」。

 ギラギラとした欲望に満ちた『日本」。

 そんな「日本」の二○十四年。

 もう連続十年を越える、かつてのバブル経済をも越える、狂躁の経済に涌く「日本」であった。

 経済は爛熟し、腐臭漂うばかりになっても、止める者もいない。

 馬鹿騒ぎの虚無を忘れる為にさらなる馬鹿騒ぎを繰り返す「日本」。

 そして、そんな「日本」の夜の中心と言えば……

 やはり、ここ、六本木。

 そのど真ん中を、行き交う様々な人々。

 ハルオは、通り過ぎる、そんな連中の事をぼんやりと眺めながら歩いている。

 まずは最初に——白人のモデル風の女と中年のサラリーマンが腕を組んで目の前を通り過ぎて行った。

 男は女の胸に肘を当てながら、欲望を隠さずに顔に出す。耳打ちする卑猥な言葉は通りに響くクラクションにかき消されるが、そのいやらしい笑みは通りを満たす欲望の中に残り澱みとなり……

 そして、そのむせるような澱みの中から現れたのは、派手な女二人組。コートの前を大きくはだけ、この十年で何度目かのリバイバルしているボディコンドレスを見せびらかすかのように、身体をくねらせながら歩く。

 彼女らが通り過ぎる時に聞こえた言葉は、昨夜の雨にださい折り畳み傘でディスコにやってきた女の悪口。本当に嬉しそうに、別の女の行いけてなさをあげつらい、そのどうでも良いような差異の中にこそ自分を立たせようとする。

「そうしないと沈んでしまうような連中だからな」

 ハルオはそんな事を思いながら交差点を渡りきるが、すると、アマンド横の路地から現れるのは、引率のリクルーターに連れられて六本木を豪遊している学生らしき集団。

 彼らの歌う聞いたこともない学校の校歌。そして、「先輩」とか「着いてゆきます」とかいう声が、この騒がしい雑踏の中、なぜかやたらとはっきりと聴こえる。

 不気味なくらいクリアに聞こえたその学生達の声に、ハルオは、軽い嘔吐感を感じ思わず立ち止まるが……

 しかし、その声も、連中がすれ違えば、交差点を渡り、六本木通り、列を成し止まるベンツとポルシェとフェラーリの排気音に吹き飛ばされて、街のノイズに呑み込まれる。

 そして……

 ——深呼吸。

 ハルオはまた歩き出した。

 嘔吐感はまだ続く。

 少し飲み過ぎたか、とハルオは思った。

 酔いが覚めてきて、気持ち悪さが分かるようになって来たのだろう。一度それを自覚すると、軽い気持ち悪さは続いたけれど、彼には、今、休んでいる暇はない。こんな早朝だが、ディスコでの浮気調査の仕事を終えたハルオは、次の仕事に向かう時間だったのだ。

 なので、ハルオはもう止まらずに歩く。朝の六本木通りを、麻布交差点方面に向かってゆっくりと歩く。

 そして、

「まるでチューリップ畑だな」

 とハルオは呟く。

 歩道には、十メートルに一人位は歩道に酔っ払いが転がり、その酔っぱらいの胸にはアクリルやアルミでできたチューリップの造花が必ずと言っていい程挿さっていたのだった。

 それは、確かに、まるで路上に花が咲いたかの様に見えた。

 それは、最近流行りのアクセサリーだった。

 去年の東京コレクションの誰かのファッションショー始まりだとは言われるが、それもどうもはっきりとはしない、突然の流行。

 突然に現れた経済だった。

 原材料数十円が、どこかのブランドの作ならばあっと言う間に数万円。それでもこの「日本」では安価な流行りものと、人気が更にあがる。すると、人気ブランドなどは品不足で値段が上がる。また、ブランド達が競う微妙な差異の中に希少性のある物が出て来ると、また値がつり上がり……

 人々は——この手の六本木で酔いつぶれるような連中ならなおさらに——それを求め流行はさらに加速する。皮肉を込めて、かつてのオランダの先例を引いて、チューリップバブルとよばれているこのブーム——経済。

 この「日本」に相応しい、実質の無い、経済の為の経済であった。

 例えば、ハルオの足元に寝転がっている、酔っぱらいの胸元にささっている造花は、少々凝った細工がなされ、これならば十万を越えて売られているものになるのだろうが、泥酔した男の胸元からそれを抜き取って持って行こうなどと思う者は誰もいない。

 なぜなら……盗んだりしたところでそこには経済が無いのだから。もともとその物、造花それ自体に価値が無いからであった。

 つまり、本当は安物のチューリップの偽物などに、盗むまでの価値があるものでもないと誰もが知っているからであった。

 ——ブームが去れば、あっという間に価値の無くなるものであるなら、そんなものを盗んでまで手に入れようと思うか?

 こんなものは放蕩(ポトラッチ)の証明だ。こんなものを手に入れようと思い、それができる人間である事が重要で、

「盗んだものじゃ確かに意味は無いよな。元々が意味の無いガラクタなんだから」

 ハルオは、この「日本」の起きる事全部に対してそう言ったような気分になりながら呟き……そして顔を上げ、苦笑した。

 「日本」の全部、それには自分も含まれて、その通りなのだろうと思ったからだった。

 でもそうならば——そんな事を考えていてはいけない。

 偽物が本物の事など考えてもしょうがない。

 歴史も無く、今を生きるしかなないそんな者にできるのは……

 また少し込み上げる嘔吐感をため息をついて抑えながら、ハルオは歩く。転がる酔っぱらい達の姿などは無視をして、彼は歩く。

 目の前には六本木通り。

 その道いっぱいに広がり通り過ぎるタクシーの列。

 絶える事無く現れて、道を溢れんばかりのそれらの中には必ず乗客がいて、空車など決してやってこない。

 空車がいないという事はタクシーを空車で捕まえたものがいるということだが、今までに空車なんて物をついぞ見かけた事の無いのに、それに乗る人がいる……

 ——と言う不思議。

 ——それがハルオにはとてつもなく奇妙な事に感じられる。

 この「日本」で空車のタクシーに出会えた者がいた事が……

 そんな奇跡に出会えた者がいたと言う事が……

 ハルオは思った。

 それは——空車のタクシーに出会えると言う事は——もしかしたら、この「日本」、この欲望の平面の中に顕われた、神の恩寵、立体の現前、なのではないだろうか?

 それはもしかして聖なる秘蹟になのではないだろうか?

 それは、この世では考えられない幸運である。そうならば——あのタクシーに乗れた者はこの世ならざる場所へと去って行くのではないだろうか?

 タクシーに乗る事ができたなら、自分をここではない何処かに運んで行ってくれるのではないか?

 この馬鹿げた世界から自分を連れ去ってくれるのではないか?

 ハルオは、一瞬、そんな事を考えて……

 しかし、

「他の世界ね……馬鹿らしい」

 ハルオはそんな事を考えた自分の事を笑う。

 この狂躁を抜けて別の世界に続くと言う奇跡を願う自分だって?

 自分はこの世界から消えて、何処か違う世界に行きたいのだろうか?

 この世界を捨てる?

 そんな事を一瞬でも本気で考えているのだろうか?

 もしかして自分はこんな「日本」ではないもっと穏やかな世界に引っ込んで、ゆっくりとした生活でもしたいとおもってるのだろうか?

 ——ありえない。

 だから、

「無理だ、無理」

 とハルオは小声で呟き、そして、自分がそんな事を考えた事がおかしくて思わず吹き出してしまう。何か彼の笑いのツボにはまったらしい、腹を抱える程に笑ってしまうのだが……

 ——そんな彼を見つめる強い視線を感じ足を止める。

 ちょうど麻布警察署の前だった。

 警官がハルオを睨んでいた。

 木刀を持ちジャージ姿で立ってるその警官は、突然笑い出したハルオの事を疑わしげな目つきで睨んでいたのだった。

 それに気づいたハルオは、

「おいおい、怪しい奴だったらこの街の全員になっちゃうだろ」

 とまた小声で呟くが、彼の反抗的な表情を見てか、よりキツく自分を睨む警官に気付いて、一瞬で真面目な顔になると、

「お仕事ご苦労様です!」と、

 一礼の後また歩き出す。

 ハルオは、背中に警官の視線を感じながら、それが段々と遠のくのを感じながら、そのままもう少し歩を進める。

 そして、六本木WAVEのあるビルを通り過ぎ、テレビ局の敷地の横。

 ぽっかりと広い夜空を見上げて、

「何か足りない」と言う、

 いつも思う不可思議な感情を彼は感じるのだった。

 ——何かが足りない。

 確かに、その空には、君らの日本でそこに聳える六本木ヒルズの威容がない。

 いや、もちろん、ハルオがそれを思っているのかは分からない。

 君らの日本の事などをハルオが無意識に考えているのかは、彼にだって分からない。

 しかし——ハルオはそこに何かが無いと感じてしまうのだけは確かだった。

 あるべきものが、それが何なのかは分からないのだけれど、そこに何かが無い。

 その空隙に感じる違和感だった。

 何故、なにも無い夜空を見てそんな風に感じるのか彼には分からない。

 しかし、彼はここを通る度に必ずそんな風に感じてしまうのだった。

 そして、感じるその喪失は、懐かしさのような、安心のような、はたまた背筋の寒くなる恐怖ような、侮蔑のような、憧れのような——なんとも名状し難い感覚に彼を落とし込んでしまうのだが……

 しかしそれは一時の事。

 そのまま歩き続ければハルオは忘れる——全てを忘れる。

 そう、何もかも忘れよう。全ては一時の事だ。

 この世の全てが記号なら、そうハルオは思っているのだが、そこには本当のものなどは——あったにしても一瞬しか存在しない。忘れてしまえば良いのだ。

 一歩、一歩、歩くたびに前の一歩の事は忘れる。それがこの国での生き方だ。

 流れてくる。何もかもが流れて来るのだ。忘れて待っていれば良いのだ。それを待っていれば良い——流れて来るのを。

 そうすれば、金だって、名声だって、なんだって手に入る。ああ、君が本当に欲しいもの以外なら何でも。

 人生だって、愛だって。

 忘れろ——一瞬前の事を。

 それができるならば、流れて来る物を拾うなら……

 君がこの記号の吹きだまりの王。

 この瞬間の世界の王。

 この内面の無い物ばかりでできた世界の王だ。

 堂々と、威風堂々と歩きたまえ。そして暗がりから見つめる敗残者よ悔しがるが良い。

 ビルの影、地べたに横になりながら、この繁栄を恨み、妬み、崩れ落ちる事を願いながら——嘔吐する、お前らの前を、王達の行進が始まる。

 輝く王の裸体を見るが良い。身に纏う誇りなどない、夢も希望も何も意味が無い、そんな真裸の羞恥もしらず——しかしそれこそが王の証なのだ。

 虚無を着て歩けることこそが、王の証なのだ。

 下品な欲情を丸出しにしながら、女の尻を触りながら前を歩く男がハルオの方を振り返り、その物以外は何も見えない目で——だからこそその目は射抜くのだ——この日本を見渡して、そこに満ちる虚無の王国に向かって宣言する。

 考えるな——ましてや感じるな。

 その音無き声に、王国は声無き歓声をもって答える。

 その宣言に沸き立つ、存在のない者達の声が響く——六本木通り。

 高速道路からはクラクションの音が絶え間なく響く。

 その音でまた込み上げる嘔吐感を抑えようと……

 ハルオは深い嘆息をして……


   *


「約束の時間には間に合いそうだが……」

 麻布交差点まで来たハルオは、時計をちらりと見た後に、十字路を麻布方面に向かって曲がり、その後、すぐに路地に入る。

 もう夜明け間近で少し日も差し始めているのだが、周りをビルに囲まれたその狭い通りは、まるで時を数時間巻き戻したかのような暗さであった。

 そんな中、ハルオは少し小さな灯りに照らされた看板の名前を確認して、古ぼけたビルの二階に階段でのぼる。

 屈強なドアマンに女の名前を言うとドアが開く。

 店内の客の、新入りを値踏みするような視線を、まとわりつくそれを、振り払いながら一番奥のボックス席まで行くと、

「あら、思ったより早かったじゃない」と女。

 その女の前にはワインの瓶が1本。半分くらいしか減っていないところを見ると、ここにきて三十分は立っていない所か。

 もちろん飲んでるのが一本目ならばだが……

 とハルオは思いながら向いの席に座る。

「今日は割と早く前の仕事が終わったからね」

「そう、それは良かったわ。私が飲み過ぎる前に、これを片付けるの手伝ってもらえるかしら」

 そう言うと紅葉と呼ばれた女はすでに用意してあったもう一つのグラスにワインを注ぐ。

「良い事でもあったのか」と注がれたワインを一口飲んでからハルオ。

「なんで?」

「君がシャトー・ディケムを飲んでいる時にはいつもそうだ」

 そうね、と言った風に女は笑い、

「……まあ今日は前祝いと言ったとこね」と。

「前祝い?」

「すごい勝負しかけようと思ってねハルオくん」

「勝負……」

「そう勝負よ。かなり大きな……ね」

「それは、たぶん今日の俺への話と関係あるのか」

「そうよ……」女は頷く。「君の役目が重要になるわ」

「報酬は?」

 女は指を一本立てる。

「百万円?」

「……それでもいいけど、好きなマルをその下にもうちょっとつけても問題ないわよ」

「……人でも殺せと言うような額だね。受けて良いような話か迷うが……」

「あら?」

「あら? なんです?」

「あなたはずいぶん小さい事考えていると思っちゃってね……この仕事任せて大丈夫だろうかと」

「つまり人を殺すなんて小さい事だ……と思えるような仕事と言う事か?」

「まあ、そういうこと……なにしろね」

「なにしろ?」

「殺すのはこの日本なんだから」

 ハルオは次に言おうとしていた言葉を一瞬口ごもる。

 女はグラスのワインを一気に飲み干すと、ボトルからまた注ぎ足して、乾杯を強いるようにグラスをあげ、

「さあ、契約成立よ」と。

 ハルオもグラスをあげ、グラスとグラスを合わせ、

「俺はまだやるとも何とも言ってないが」と。

「もうその目を見れば分かるわ。あなたはもう断れない」

「そうかな……まだ内容も何も聞いてないが」

「いえ間違いないわ。あなたは断れない。なので乾杯——このシャトー・ディケムの七四年に乾杯、あらざる歴史に乾杯!」

「あらざる歴史? ワインは詳しくないのでなんの事かわからないが」

 またグラスをあわせ、もう自分も断る気がなくなっているのに気づきながら、グラスを飲み干して、

「それでは用件を聞きかせてくれ」とハルオ。

「……まあ人探しのようなものね」と紅葉は二人のグラスにワインを注ぎながら言う。

「ようなもの? なにが? 今回の仕事が?」

 紅葉は一枚の写真をハルオに渡す。

「この子を探してほしいのよ」

「それが日本を殺す事に関係あるか?」

「……レイカと言う名前よ、この子」

「良く分からないが、それが質問の答えか?」

「ある意味ではそうよ。その名前は重要。この子の親がつけたんだからね」

「つまり親が重要と言う事か」

「半分はそうね」

「残りの半分は?」

「もちろん、この子自身が重要よ」

 ハルオは渡された写真をしげしげと眺めた。

 すると、突然、

「可愛いでしょ」と言う紅葉の問いに、

 ハルオは、

「ええ」と躊躇せずに答えを返す。

「あら全く照れないのね。そんな直球の答えをして」

「照れてもしょうがないだろ。自分がどう思うかじゃないので。人がどう思うか知ってれば良いのだから——今の答えもこの子を見た人がどう思うかと言う意味だ。俺がどう思うかなんて意味がない——仕事をするのに。でも他人がこの子を見たらどう思うかと言うのは重要な分析だ。可愛いと思われてる子には可愛いと思われている子の、そうでない子にはそうでない子の、それなりの行動パターンや周囲の状況が出てくる。——もちろんそれは確率的な物だが、俺の仕事をする上では重要なんでね」

 紅葉はため息をつきながら、

「相変わらず言葉ばかり多くて——つまらない男ね……自分の感情ならどう思うの」と。

「この子を?」

「そう。救い出すやる気はでるのかって言う事よ、この子はかなりヤバい事に巻き込まれてるの。どう? こんなか弱く、可憐そうなこの子を助けたいって思わない?」

「個人的に?」

「そう……」

「それならば……」

「それならば?」

「料金次第だね」

 あきれた風にまた深いため息をつくと、

「なんで個人的な話に料金が出て来るのよ」と紅葉。

「つまりそう言う話はないと言う事さ」

「まあ、いいわ。話を続けるわ……これを」

 紅葉はハルオに一冊の書類ファイルを渡す。

 ハルオはその中をぺらぺらとめくる。

「へえあの深泉家の令嬢か……そりゃまあ大変な話だね……なるほど、消えたのは一ヶ月前……それ以来目撃されたのは二回、麻布と渋谷……両方とも深夜のディスコで踊っている所ですか……なんとなくこれは」

「その通りよ」

「答えをまだ言ってないけど……これは単に……ああそのようだね」ハルオは書類束の中の一枚を見ながら言う。「読むぞ……最初は誘拐や殺人の線も疑われていたが消えて数日後、家族の携帯にメールが届き、『お母さんのバカ! もう二度と家には帰らないんだからね(怒)』と……つまりは家出娘の捜索か」

「そうよ」

「で、それが日本を殺すとは大きく出たな、でも……」

「嘘じゃないわよ、今は言えないけど、これはかなり大きな話の一部なの——本当に信じられないくらい大きな……さっきの報酬の話はからかってるんじゃないわよ。成功したらちゃんと言った通りの報酬は払うわ。望むならマルをもっとつけさせる事だって可能かも知れない」

「君がディケム飲んでるんだし本気で大きな話なんだろうが……」

「もちろんまだ全部は話せないわ。あなたが見ているのは全体のほんの一部よ」

 沈黙。

 二人は見つめ合い、お互いの腹を探りあうが……

 ハルオはくすりと笑いながら、

「分かったよ。この仕事は受けよう。だが、とりあえず百万円分だけ働かせてもらうよ。家出娘の捜索ならそのくらいでまずは良いとこだ」

 紅葉も笑いながら、

「まあ今はそれでいいわ。でもそれ以上の仕事をやってくれる準備はあるのかしら……」と。

「それはこの子次第かもしれないな」ともう一度写真を手に取りながらハルオ。「やる気に成れるかどうか」

「あれ、それって、やぱり実は個人的にも結構この子を気になると言う事」

 ハルオはその質問には答えずに感情無く微笑むだけ。

「あらら固いわね……それならこっちはどう」

「こっちの子は?」

 紅葉は鞄からもう一つのファイルを取り出してハルオに渡す。

 開いたファイルにはもう一人の女の写真。

「それが、今回のあなたの協力者よ——夏美。彼女はレイカ嬢の無二の親友で、そして今は……」

「……裏切り者?」

「そう正解——彼女は私達に全面的に協力してくれて、レイカ嬢の居場所を探し出してくれることになっているわ」

「じゃあ、この子が親友なら、居場所ぐらい教えてもらってないのか……それを聞き出せれば解決じゃないのか?」

「さあね、彼女は聞いて無いって言ってるけどね。もしかしてレイカ嬢は、念には念をいれて親友にも居場所を教えないで逃げてるんじゃないのかしらね」

「それとも、この夏美という子は居場所を知ってるけれどそれを隠している?」

「……そうかもしれないけど、それならどっちにしてもやる事は同じよ、この子の協力を得て、あなたはターゲットを探す。それだけのことよ。もし居場所知ってて隠しているのならば、それを聞き出す——その方が話は単純だわ……もしそうならばこれで——探索は終了かもね」と言いながら、紅葉はハルオに一枚のクレジットカードを手渡す。

 カードを受け取ったハルオは、それをじっと眺めながら、

「これでどうしろと?」と。

「私の会社名義のカードよ。それで思い通りの買い物をさせてあげて……簡単には何でもは話せないと彼女は言ってるけど……まあ話したくなるまで何でも買ってあげて良いから」

「……なるほど、そう言う事か。でも、こんな年頃の女の子にそんな条件で交渉したら、あっという間に……僕への依頼費用より高くつくかもしれないよ、それ」

 紅葉は、ハルオの指摘を軽く鼻で笑いながら、

「はん? あら、そんなのもちろん折り込み済みよ……あなたはそんな事は気にしないで彼女をエスコートしてくれたらいいのよ」と。

「エスコート?」

「『素敵な大人の男性があなたの買い物に付き合ってあげるから開いている日を教えてくれない』と言ったらノリノリだったわよ彼女。今はフリーなんだって。後はハルオ君の腕次第ね」

 意地悪そうな瞳でにっこりと笑う紅葉。

 それを見て、

 ハルオはため息をつき、

「どうしても僕をそっちの方向に向かわせたいようだね……紅葉、なんの企みか知らないが……で、何時行けば良いんだ?」

「明日の夕方。待ち合わせ場所その他の詳しくはそのファイルに書いてあるわ」

 言われて、ハルオはファイルをちらりと見る。

 夏美と言う女の写真を見て、ハルオの口元が少し緩む。

 紅葉はそれをめざとくみつけると、

「……あら、こっちのほうが好み」と。

「紅葉……しつこいな」

「でもそうなんでしょ、明らかに機嫌が良くなったわよ。夏美ちゃんの方を見て」

「比較してか?」と、不承そうな表情でしぶしぶ頷きながらハルオ。

「そう」と面白そうな表情で紅葉。

「それならばそうだ……綺麗だが正直なんとなくいけすかなさそうな……」

「レイカ嬢よりこっちの方が好みかしら?」

「……比較するならそうだ。こういう打算で動く子のほうがね。そう言う方が安心できるからな」

「安心? なぜ?」

「裏切ってる奴はそれ以上悪くならないですからね……せいぜいまた裏切る程度だ……信頼の方がやっかいだ。それに付き合わなければならないとしたら、ずっと俺はハラハラのし通しになってしまう」

「なるほどね。打算で安心ね……」

「……まあなので人を疑う事もしらなさそうな深窓の令嬢よりもこういう人を出し抜く事ばかり考えていそうな奴の方が僕はやりやすいんだよ……そう思って行動してれば良い」

「なるほど……ふふふ……」

 紅葉はハルオの目を見つめながらひどく面白そうな表情で笑う。

「『ふふふ』……?」

「面白いなあと思って」

「何がですか」  

「打算で安心ってとこよ……今はそうしておきましょ……打算ってことで」

「そうじゃないってことか? この夏美という子が?」

「ふふふ……それは……」

「それは?」

「あなたが確かめるべき事よ。ともかく……」

 紅葉はテーブルに身を乗り出して、ハルオの顔に自分の顔を近づける。

 ハルオはそのまま紅葉が近づいて来るにまかせ……

 二人はそのままそのまま長いキスをする。

 そして、

「これで契約は成立よ」と、やっと離した唇から、小声で「分かってると思うけど、百万円分働いたからって途中で抜けれる仕事じゃないのよ。それでも良い?」と紅葉。

「構わない……受けた仕事は責任もって最後までやる」とやはり小声で顔を近づけたままハルオ。 

「そう、でも……」

「でも?」

「……死なないでね」

 二人は顔を離し、椅子に座ると、それぞれがグラスのワインを一気に飲み干す。そして、目と目で一瞬の会話をした後、

「それじゃ次の連絡はどうする?」とハルオ。

「少なくともオフィスはまずいわ。既にいろんな連中が私の監視を始めている可能性があるの。会社のサーバももうクラック済みと考えていなければならない。メールで内容は暗号化して送るにしても、あなたが私にコンタクトを取っていると言う情報だけでもあまり知られたくはないわね……私から連絡するわ」

「ずいぶんと慎重だな、もしあなたから連絡がいつまでも無い場合は?」

「四日後の夜にまたここに来て」

「なるほど……と言う事はこの仕事の締め切りも四日と言う事か」

「自信ない?」

「いや……自身がどうこうと言うよりも……それは『絶対』なんだろ? それならやるしかない」

「全て解決してここにに来いと言う事? そうよ絶対よ……日本を殺して、いや救って、そしてこの女の子を救って欲しいの。——その間、もし横やりが入っても構わないで、邪念に惑わされないで、『私』さえ信じないで」

「君も? 今、ここで依頼している君と言う事か?」

「そう」紅葉は軽く頷く。「今は良いわ。でもこの先の『私』は……」

「……君はこれからそうなる可能性がある?」

「そう。演技で——あるいは本当に……」

「なるほど、そういう勢力があなたに近づいていると?」

 紅葉は今度は深く頷く。

 それを見てやはり深く頷き、

「分かった……」と言うと、

 立ち上がるハルオ。 

 紅葉はそれを見ながら残りのワインをグラスに注ぎ、杯を上げながら、呟く。

「いいハルオくん。私の事を信じては駄目なのよ。あなたは自分自身と私の今言った言葉だけを信じて動いて、そして……

 ——できる事ならばまた生きて会いましょう」

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