第22話

「……後は、お前らの知ってる通りだ」

 語り終え、隆善は大きく息を吐いた。それにつられるように、聞いていた者達も大きく息を吐く。

「……普段海の底で暮らしている龍宮の者は、地上の空気には中々馴染めませぬ。私も、水脈を通り地上に出た途端、意識を失いました。父も恐らく、地上に出て意識が朦朧としている時に不覚を取ったのでございましょう」

「なるほど! それで、意識を失って倒れていた弓弦に、麿がつまづいた……というわけでおじゃるな」

 ぽん、と手を打つ栗麿を、弓弦はじろりと睨み付けた。しかし、相手が隆善ではないためか。栗麿は動じていない。

「あの年はただでさえ辰年の後の巳年で、龍の力が十二年の内で最も弱まっている時だった。それが地上に出て弱っているところで、おろちを誕生させようとしていた蛇達と対峙。……神気で穢れを相殺する事で誕生を遅らせる事はできたようだが、荒刀海彦自身は命を落とした。そして現在に至る……というわけだ」

「私が地上へと赴いたのは、父を捜すため。龍宮では、未だ父が身罷った事を確認できていませんでした。そこで私が、顔も覚えていない父を捜し、おろちの仔を屠る手助けをするよう遣わされたのでございます。……まさか、人の子を憑代としていたとは思いもよりませんでした」

 虎目が、「ふむ」と唸った。

「弓弦がこの馬鹿の式神にさらわれた時にかすり傷一つ無かったのは、龍の力で高速治癒していたから。あの式神が下手に襲い掛からにゃかったのも、弓弦が龍である事に気配で気付いたから警戒した……というトコかにゃ」

「その……荒刀海彦が中にいるはずなのに葵には襲い掛かってきたっていうのは……?」

「身体は人間だからな。それに、その時はまだ、荒刀海彦は葵の中で目覚めていなかった。だからだろう」

「私も、そのように考えます」

 そして弓弦は、視線を葵へと移す。その横顔を隆善は眺め、軽く溜息をついてから視線をやはり葵へと移す。

「……そういうわけだ。何が起きているのか、弓弦が何者なのか、自分に何が起こったのか……理解できたか、葵?」

「……はい」

「え、葵!?」

「起きていたのでおじゃるか!?」

 目を丸くする紫苑と栗麿の前で、葵がゆっくりと目を開けた。

「どこから聞いていた?」

「……最初から。邸に着いた頃には、もう意識は戻っていましたから。けど、目を開ける事もできないぐらい体が重くて……」

 そう言う声は弱々しく、目も再び閉じそうになっている。

「目覚めた荒刀海彦が、いきなりあれだけ暴れ回ったからな。……この十二年、俺と惟幸で鍛えてきたつもりだが、それでも負担は相当でかかったみてぇだな」

「……師匠達は、この時のために、今まで俺に調伏の法を……?」

 隆善は、頷いた。

「星読みや暦も陰陽師にとっちゃ大事な事だがな。術やら呪いやらってのはやっぱり、それなりに気力、体力を必要とするんだ。術の規模がでかけりゃその分、精神的負担も肉体的負担も増える。逆に言やあ、その方面を強化しておけば、心身共に鍛えられると思ってな。でもって、どうせ鍛えるのであれば役に立つ術を教え込もうと思ったってわけだ」

「にゃるほどにゃ。陰陽の術を教えるだけにゃら、隆善一人だけで事足りる。けど、調伏やら呪いやら……術者に負担のかかる術は、惟幸の方が確実にスペシャリストだからにゃ。だから師匠二人体制にゃんて、おかしにゃ事をやってたわけか」

 虎目に隆善は「そういう事だ」と頷いた。

「弓弦の前で言っちまうのも悪い気はするが、この際だから言っちまおう。葵の記憶が無いのも、荒刀海彦の憑代となった事に関係している」

「……どういう事でございますか……?」

 顔を曇らせた弓弦の視線から、隆善は目を逸らした。

「元々容量の少なかった童子の葵に、いきなり強大な荒刀海彦の力と魂魄が入り込んだんだ。恐らく、その時記憶が葵の中から弾き出された。大きな物を葛籠に入れるために、元々入っていた小さな物を取り出して……そのまま容量不足で仕舞えなくなった。そんなところだ」

「……そっか。だから……」

 呟き、葵は再び目を閉じる。

「……葵様?」

 不安そうに弓弦が名を呼ぶと、再び葵はゆるゆると目を開ける。

「……どうして……」

「?」

 掠れた声に、弓弦達は耳を澄ませた。

「どうして、荒刀海彦は目を覚ましたんだろう? 十二年の時が経ったから? それとも、俺の身体が、荒刀海彦の力に何とか耐えられるようになったから……?」

「……恐らくは……おろちに連なる蛇達と出会った事。そして、あの井戸の水に触れたからかと……」

「井戸って、あれ? 葵が落ちた……」

 視線を紫苑に移し、弓弦は頷いた。

「あの井戸の水脈は、龍宮から伸びる龍脈と繋がっております。だからこそあの井戸には神気が湧き、龍宮に連なる者に力を与える事ができるのです」

 そう言って、弓弦は、す、と袿の袖をたくし上げた。すらりと細く白い腕が、青い袖から現れる。蛇達と戦っていた時に生えていた瑠璃色の鱗は、一切見当たらない。

「私は、龍宮の者として戦うにはまだまだ未熟……。自らの気だけでは足りず、時折あのように龍脈から力を得なければ、戦う姿になる事すらできないのです。ですが、消息不明となった時、既に龍宮一の武士であった父は……」

「いつでも自在に変化可能。自分で神気も生み出せるから、勿論力も使い放題。必要だったのは、葵に己の龍の力を使わせるためのきっかけ。……でもって、葵がその井戸に落ちた事で大量の神気を取り込み、それがきっかけとなって荒刀海彦は一気に覚醒したってわけか」

「その通り」

 突如葵の声に重さが加わり、一同はハッとした。いつの間にか、葵の目が金色に光りぎょろりとしている。そして、喋るのもやっとだった体を起こし、床の上に坐していた。

「あっ……葵が、またもやイメチェン……ではなく、メタモルフォーゼをしたでおじゃるよ!?」

「めた何とかじゃなくって、荒刀海彦だってば! ……って、そうじゃなくて!」

 若干混乱した様子で、紫苑と栗麿が葵を凝視する。その視線を楽しむように、葵の中にいる荒刀海彦は嗤った。

「賑やかで中々面白い邸ではないか、若造」

「瓢谷隆善だ。俺より若い身体で、いつまで若造と呼びやがるつもりだ」

 隆善の反論に、荒刀海彦は「何の問題がある」と再び嗤った。

「身体は若くとも、魂魄はお前よりもずっと年嵩だ。私から見れば、やはりお前は若造なのだよ。若造」

「……それで? 折角回復しかけてた葵の体力を再び消耗させてまで出てきたからには、何か有益な情報の一つでも落としていくんだろうな?」

 凄む隆善に、荒刀海彦は「あぁ」とどこ吹く風で返した。

「おろちの末の気が濃厚になってきたからな。準備は早い方が良いだろう?」

「……!」

 その場にいた全員に、緊張が走った。その様子を、荒刀海彦は楽しそうに眺めている。

「おろちの末がいよいよ生まれ出るとなれば、まずは先ほどのように大量に長虫が湧く。前回失敗した分、今回こそは絶対に誕生させようと蛇達も考えているだろうからな。蛇の量は大いに増えるぞ。現に、先ほど京には蛇が溢れ返っていた。十二年前には無かった事だ。……次に、おろちの気に魅せられた鬼や妖しの物どもがぞろぞろとやってくる。そして最後に……おろちが現れる」

「……十二年前にも……?」

 盛朝に問われ、荒刀海彦は「そうとも」と頷いた。

「でなくば、いくら地上に出たばかりで弱っていたとはいえ、神気を出し切ったぐらいで命を落としたりなどするものか。鬼どもが、邪魔さえしてこなければ、今頃は……!」

 そこで、荒刀海彦は、ふ、と力を抜いた。

「いかん、いかん。真に大切な事を忘れておったわ」

 言うや否や、荒刀海彦は姿勢を正し、傍らに座る弓弦に正面から向き合った。体は消耗している葵の物。動かすのが、少々辛そうだ。だが、荒刀海彦はそれを表情に出す事をせず、ただ優しく微笑んだ。

「まさか、十二年の時を経て再びまみえる事が叶うとは……大きくなったな、我が娘よ……」

 弓弦は、少し戸惑うように。だが、嬉しそうに頷く。

「お久しゅうございます、父上様。父上様が消息を絶たれて十二年……大人達から父上様の話を伺う度、父上様を誇りに思い、お会いしたいと願っておりました……!」

「……嬉しい事を言ってくれる」

 顔をほころばせ、荒刀海彦は弓弦を手招くと優しく抱きしめた。……葵の身体で。

「うあっ……あ……あっ……!」

「ふぉぉうっ! 葵の奴、やるでおじゃるなぁ! ……あ、でも、今の中身は親父なんでおじゃったな」

 紫苑が顔を赤らめ、栗麿が面白い物を眺めるような顔をし、盛朝はヒュウと口笛を吹き。隆善と虎目は反応に困る顔をしている。

「人目の無いところでやれ」

「……葵、意識があれば役得だったのににゃー……」

「む? この憑代の意識であれば、今はちゃんと覚醒しておるぞ? 私が表に出ているだけで、ちゃんとこの場での話は聞いているし、今何が起きているのかも把握しているはずだ」

 その言葉に、場が水を打ったように静まり返った。

「……え? って事は……その、今、葵は……」

「うむ。意識だけだが、顔を真っ赤にしてやめろと脳裏で騒いでおるわ」

 煩そうに溜息をつき、そして荒刀海彦はいたずらっぽくニヤリと嗤う。

「つまり、憑代の意識が表に出ていても、私はお前達の話を聞く事が可能というわけだ。……憑代が煩いからな。そろそろ私は、下がらせてもらう」

 そう言って、荒刀海彦は目を閉じた。次にまぶたが上がると、その瞳はもう金色の物から黒色へと変わっている。そして、葵の顔が紅葉の如く真っ赤に染まる。

「うわっ! たっ……ご、ごめん、弓弦っ!」

 声を裏返らせて弓弦から身体を離し、そこで力尽きたかのようにぺしゃりと床に倒れ込む。

「葵様!」

 慌てて弓弦が身体を支え、葵は再び身体を起こした。そして、ハッとして周囲を見る。今度は、場にいる全員がニヤニヤとしながら葵の方を見ていた。

「ちょっ……何ニヤニヤしてんですか、師匠! 紫苑姉さんに、盛朝さんも! 虎目も栗麿も、こっち見ないでよ!」

 慌てる葵に、一同は余計にニヤニヤとしてしまう。

「あー、青いにゃー」

「真っ赤だけど、青いでおじゃるなー」

「惟幸とりつがくっついた頃の事を思い出すなー」

「葵も年頃だもんねぇ」

「夜はほどほどにしておけよ。あと、やるなら邸の外へ行け。……まぁ、その身体じゃあ、今日は無理だと思うが」

「皆して何言ってるんですか! 特に、隆善師匠! 俺はそんな……やかましい!」

 突如、葵の声と目、そして腕が荒刀海彦に切り替わった。今度は腕だけに鱗が生えている。顔は、葵のままだ。目の前に龍の腕を振り下ろされた一同は、思わず姿勢を正す。

「……何だ。下がるんじゃなかったのか、荒刀海彦」

 不満そうに言う隆善を、荒刀海彦はぎろりと睨み付けた。

「憑代の意識が表に出ていても、話を聞く事はできると言ったろう。憑代をからかうのは勝手だが、そこに我が娘を巻き込むでないわ!」

 あまり血色の良くない顔で怒鳴る荒刀海彦に、隆善は両手を挙げた。

「わかった、わかった。良いから、元の葵の姿に戻って、身体の所有権を葵に返してやってくれ。このままじゃ、疲労でまた倒れかねねぇ」

 頷きながら、紫苑達も両手を挙げている。それを確認してから、荒刀海彦はフン、と鼻を鳴らすと目を閉じた。すると腕から鱗が消え、葵の身体は三度床へと倒れ伏す。

「葵様……大丈夫でございますか? 父が何度も姿を現しました故、お身体への負担が……」

「……今のは辛かったけど、思ったよりは大丈夫。龍化って言うか……身体が変わらなければ、荒刀海彦の意識が表に出ても、負担はかからないみたい……」

 そう言って弱々しくも笑う葵に、弓弦はホッとした表情を見せた。そして、二人揃ってハッとして。周囲の人間に顔をめぐらせる。荒刀海彦に釘を刺されたからか、一同は何も言わない。……が、まだニヤニヤしてはいる。

「……」

 何となく気まずくなり、葵と弓弦は気持ち座る距離を離した。

「さて、面白ぇモンを見て堪能したところで、本題に戻るか」

 そう言って、隆善は葵の頭をくしゃりと撫でる。慣れない師匠の行動に葵は目をぱちくりとさせたが、抵抗はしない。少しだけ、照れ臭そうだ。

「さっきの話でもわかると思うが、荒刀海彦に拾われるまでの間に、ガキだった葵に何かがあったのは確かだ。恐らく、おろちの仔を誕生させるために湧いて出た蛇どもに恐怖を感じる事もあったんだろう。さっき、蛇達が出てから葵の様子がおかしくなったのは、これが原因の一つじゃねぇかと、俺は思ってる」

「にゃるほど。記憶は無くても、身体はその恐怖を覚えていた。そして、大量の蛇を見た事で、十二年前の恐怖がフラッシュバックした。その結果が、あの突然の不調というわけか」

「蛇達を目の当たりにし、その気配を感じた事で、葵様の中に眠っていた父が覚醒しようとした、という事もあるでしょう。極度の動悸と、龍脈に繋がる井戸の水を執拗なまでに求めたのは……内からの求めに応じ、無意識のうちに父を覚醒させようとしたからかと存じます」

 言われてみれば、そのような気もする。不調を起こした時に、前にも似たような経験をした気がした。そう感じたのは、間違いではなかったのだ。葵は、十二年前にも同じような境遇に置かれていた。

「……ま、蛇が出てきたら不調になるっつーのは、いっそ荒刀海彦に丸投げしちまえば良いだろう。あいつが葵の身体の主導権を握っておけば、蛇に対する恐怖でどうにかなっちまう事は無いだろうからな」

「……けど師匠。荒刀海彦が表に出て戦うと、その分葵に負担がかかっちゃうんですよ? 蛇と戦って、鬼とかとも戦って。それからおろちの仔とも戦うんじゃ、葵の身体が持つかどうか……」

「話を聞く限り、十二年前に荒刀海彦殿がおろちの仔を斃せなかったのも、おろちの仔と戦う前に蛇や鬼達と戦って消耗してしまったからですしね。それが、まだ身体が出来上がりきってもいない葵となっちゃ……いや、例えば憑代がたかよし様や惟幸だったとしても、本来の身体を失っている荒刀海彦殿がどこまで戦えるか……」

「……ま、そこはまわりがフォローするしかにゃいだろうにゃ。隆善、盛朝、紫苑に弓弦。それに、もしかしたら惟幸も。これだけいれば、有象無象の鬼やら蛇やらはにゃんとかにゃる。葵と荒刀海彦は、おろちの仔だけに集中すれば良いにゃ」

「……麿を忘れているのではおじゃらぬか、化け猫?」

「にゃんでおみゃーを戦力に数えにゃきゃいけにゃーんにゃ。あと、化け猫言うにゃ!」

「ちょ……ちょっと待ってよ!」

 トントンと進んでいく話に、葵は慌てて待ったをかけた。一同の視線が自分に集まったところで、葵は困った顔をする。

「あの……何か俺と荒刀海彦がおろちの仔を斃しに行くって事で話が進んでますけど、俺……まだやるとは一言も……」

 最後まで言い切る前に一同がシンと静まり返り、葵は己がまずい事を口走ったと悟った。しばらく気まずい沈黙が続いたのち、最初に何とか我を取り戻したのは、意外にも紫苑だった。

「あ、はは……。そう、だよね。まだ葵がやれるかどうかを聞いてなかったよね。……うん、ボク達だけで勝手に盛り上がってたら駄目だよね。……ごめんね、葵」

「麿なら、龍の力を得て京を滅ぼそうと企むおろちと戦う……なんて展開は燃え上がって俄然やる気になるでおじゃるが……そうでおじゃるなぁ。葵は瓢谷や化け猫と違って優しいでおじゃるから。いつもは妖しの物や、麿の生み出した式神と堂々と戦っているでおじゃるが、本当は戦いたくないんでおじゃろう? ましてや、あの八岐大蛇の仔なんて、怖いと思ってもおかしくないでおじゃる」

「にゃにをドサクサに紛れて、オイラや隆善をけにゃしてるんにゃ、おみゃーは。……まぁ、怖いのは仕方にゃーわにゃ。子どもの頃に植え付けられたトラウマが、そんにゃに簡単に消えるわけにゃーわ。おろちの仔や、そこに辿り着くまでの蛇達の事を思えば、怖くもにゃるにゃ」

「荒刀海彦殿に身体の主導権を預けて恐怖を和らげても、身体への負担を考えるとなぁ。自分の命がかかってたら、誰だって怖いもんだ。仕方が無い」

 隆善と弓弦は、何も言わない。その沈黙が、余計に葵の緊張を煽ってくる。

「……葵」

 やがて、隆善が口を開いた。いつになく真剣で、いつになく抑揚の無い声音だ。

「……はい」

 葵が恐る恐る返事をすると、隆善は葵の目を真っ直ぐに見詰めてきた。葵は思わず視線を逸らそうとするが、何故か逸らせない。

「……怖いのか?」

 短い問いに、葵は黙って頷いた。その様子に隆善は「そうか」と淡白に頷く。

「何故、怖い?」

「……蛇が……」

 そこで葵は言葉を切り、生唾を飲み込んだ。気を抜くだけで、意識を手放しそうになる。それほどに、緊張している。

「蛇達が小路を埋め尽くしているのを見た時、どうしようもなく気分が悪くなって、立ち上がる事も、呼吸する事すらままならなくなって……」

 隆善は、口を挟まない。頷く事もせず、ただ葵の話を聞いている。

「今思うと、あれは……怖かったんだと思います。さっき師匠が言ってたように、覚えてもいない子どもの時の経験が原因なのかもしれません。心の臓が、これ以上は無いぐらいに速く脈打って……俺の知らない誰かから、逃げろ逃げろと叫ばれてるみたいで……」

 逃げろと言うのであれば、それは荒刀海彦ではあるまい。考えられるとすれば、警告を発したのは葵自身か。

「また……ああなるかもしれないのが、怖いです。もしまたあんな事になったら……俺は、今度こそ耐え切れなくて……狂ってしまうかもしれない。狂って、師匠達や荒刀海彦が懸命に戦おうとしてるのを邪魔してしまったら? そう考えると怖くて……俺が動いて大丈夫なのかなって……。けど、最初から荒刀海彦が表に出たりしたら、おろちの仔が出てくる前に力尽きるかもしれないし……」

「……」

 隆善も、周りで話を聞いていた紫苑達も、言葉を発しない。ただ、弓弦だけが膝を進め、両手を差し出すと葵の顔を自分へと向けた。

 次の瞬間、パン、という乾いた音が部屋の中に響き渡った。

「……え?」

 何が起きたのか一瞬理解できず、葵は目をまたたいた。その眼前で、頬を叩いた手を袖の中に戻すと、弓弦はキッと葵を睨み付ける。

「何を弱気になっておられるのですか? 父の憑代となれるほどの力と器を持ったあなた様が、蛇如きを恐れてどうなさいます!」

 葵と、周囲の者達が唖然としている中、弓弦は更に言葉を続けた。

「確かに、おろちの仔は手強い相手にございます。そこに鬼や妖しの物、群れをなした蛇達が加わるとあれば、尚更でございましょう。ですが、おろちの仔以外はここにいる皆々様が引き受けて下さるご様子。それだけでも、父が単身戦いに赴いた時よりも好条件にございます」

「……」

 それでも葵は言葉を発しない。

「……考えてもみてくださいませ。おろちの仔が生まれ、止める者の無いまま思いのままに暴れれば……結局は皆死んでしまうのです。……どうなさいますか? このまま邸に籠り、死ぬる時を待つか。それとも、戦いに赴き、皆が生き残る可能性を残すか!」

「! それは……」

 葵が言いかけた時、塀の外から悲鳴が聞こえた。どこからか「蛇が……蛇がっ!」という叫び声も聞こえてくる。

「ちょっと……これって……」

 紫苑が腰を浮かせ、隆善と盛朝が視線を交える。

「……たかよし様」

「あぁ。どうやら、向こうは葵の決断を待ってくれる気は無ぇらしい。……ま、当然だわな」

 言葉に迷う葵の前で、弓弦はすっくと立ち上がった。

「……弓弦?」

 何とか声をかけた葵の顔を、弓弦が見る事は無く。

「まずは、私が先行致します。……葵様。ご自身がどうなさるのか……よくよくお考えくださいますよう……」

 言うや否や、弓弦は部屋を飛び出し、塀を飛び越えた。

「弓弦! ……っ!」

 追い掛けようと立ち上がるが、酷い立ちくらみに襲われ、葵はその場に座り込んでしまった。やはり、まだ体力が戻っていない。

「ちょっ……弓弦ちゃん! いくらなんでも、一人じゃ危ないよ!」

 紫苑が葵の代わりに立ち上がろうとし、それを盛朝が制止する。

「俺が行く。龍の仔の足に、人間の俺が追いつけるかどうかはわからないが……。紫苑は、葵の事を頼む」

 そう言って、盛朝もまた邸を飛び出していく。それと入れ違いに、舎人が一人、門の中へ飛び込んできた。

「瓢谷様! 瓢谷様はご在宅ではございませぬか!?」

「何事だ!」

 隆善が姿を見せると、舎人は少しだけホッとした顔をしてから、泣きそうな声になる。

「大内裏に、大量の蛇が……! 陰陽寮に所属する陰陽師は急ぎ参内し、主上と内裏を守れとのお達しにございます!」

「こんな時に……いや、こんな時だからこそ、か」

 舌打ちをすると、隆善は一旦葵の部屋に戻り、事情を葵達に話す。

「そういうわけだ。悪いが、俺はお前達を守ってやれそうにねぇ。あとはお前らの判断で、好きなようにしろ。……一応、この邸には結界が張ってあるからな。蛇や、鬼はそうそう簡単には入れねぇ。怖いんだったら、この邸から出るな。良いな?」

 それだけ言うと、隆善は衣冠を整え、舎人を引き連れ。足早に内裏へと向かっていく。後には、葵と紫苑、虎目、それに栗麿が残った。

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