第21話

 それは、夜の事だった。

 それは、月の無い暗い夜の事だった。

 それは、月の無い暗い夜の、丑三つ時の事だった。

 それは、月の無い暗い夜の、特に妖しの物が活発に動くとされる丑三つ時の事だった。

 暗い山道を、二人の男が歩いていた。片方は、若き日の隆善。もう片方は、若き日の惟幸。月明かりも手燭も無いというのに、二人は足元に気を使う様子も無くさくさくと歩いている。

「……紫苑は、もうとっくに夢の中なんだろうね」

 ぽつりと、惟幸が呟いた。すると、隆善が「当たり前だろう」と不機嫌そうに返す。

「今、何刻だと思ってるんだ? 紫苑に限らず、見廻りの武士とお盛んな連中以外は全員寝てるだろうよ。……ったく、本来なら今頃、俺も加夜姫とお楽しみだったってのに」

「あの安倍晴明様に言われたとあっちゃ、流石のたかよしも断り切れなかったみたいだね」

 笑う惟幸を、隆善は「うるせぇ」と睨み付けた。

「天命を全うする時が近い爺さんの頼みをやなこったと突っぱねるほど、俺は嫌な人間じゃねぇってだけの話だ。相手が安倍晴明だろうが帝だろうが物売りだろうが、関係無ぇ」

「……それだけじゃないでしょ? ただ面倒な事を頼まれたってだけなら、たかよしは全部一人で片付けようとするよね? なのに、僕を呼んだって事は……」

 惟幸に言われ、隆善は益々不機嫌そうな気配になった。もし今ここに灯りがあれば、きっと渋い顔をしている隆善を見る事ができただろう。

「……あの大陰陽師、安倍晴明の事だ。ただの面倒事なら自分で何とかするだろう。体調なり予定なりに不都合があって動けねぇのなら、身近に動かせる奴はごまんといる。子も孫も陰陽師で、師匠筋の賀茂家とも縁が切れてるわけじゃねぇ」

「……」

 隆善の言葉に、何故か今度は惟幸の気配が不機嫌そうになった。だが、そんな事には構わず、隆善は喋り続ける。

「それが何でか、まだまだ未熟で知名度もイマイチな俺に白羽の矢を立て、ただこの刻限にこの場所へ行け、とだけ言う。どんな卦が出たのか知らねぇが、多分これは、相当厄介な事になると見た」

「話が噛み合わないよ、たかよし。相当厄介な事になるなら、何で自分で言うところの未熟で知名度も無い陰陽師に、あの晴明様がわざわざ依頼をするのさ?」

「……俺なら、お前を巻き込む事ができるからな。晴明を除けば、恐らく当世一の陰陽師、惟幸を。八年前に出奔するまでは京の中で色々とやらかしてたんだし、お前の実家が実家だ。晴明も、お前の事はよく知ってるって事だろう」

「……そりゃあね」

 惟幸の声は、まだ不機嫌そうだ。

「でもって、お前を必要とするような重大な厄介事に晴明自身が出てこないって事は、これはきっと長期に渡る話になる。さっきも言ったが、あの爺さんが天命を全うする時は近い。最後まで責任持って面倒見る事ができねぇと踏んだから、若くて使える陰陽師を巻き込んでおきたいんだろうな」

「……」

 惟幸はしばらく黙り、そして深い溜息をついた。

「……本当に、思った以上に厄介な事になりそうだね」

「だろう? でなきゃ、誰が余命幾ばくも無ぇ爺さんのために、夜の楽しみを諦めるかよ」

「……さっきと言ってる事が違うよ、たかよし……」

 呆れた調子で、溜息をもう一度……吐きかけて、惟幸は息を呑んだ。

 気配がする。ぞろぞろ、ぞろぞろ、ぞろぞろ、ぞろぞろと。長虫のようで、悪寒と嫌悪を抱かせる気配が、闇の中で蠢いている。

「……たかよし」

「あぁ。流石は大陰陽師、安倍晴明様の卦ってところか。刻限も場所も、寸分も違わねぇ」

 そして二人は、合図も無く走り出す。気配がより強い方角へと。

 途中、長虫のような気配が何度か襲い掛かって来た。その都度、惟幸と隆善は鋭い声で孔雀明王の真言を唱える。

「オン、マユラ、キランディ、ソワカ!」

 力強い声が夜の山に響く度、ぞろぞろと蠢く気配は惟幸達を襲うのを止め、二人から遠ざかっていく。

「孔雀明王の真言が効くって事は、やっぱこの足元の奴らは蛇か」

「多分。……月明かりが無くて良かったね。足元が見えてたら、今頃足がすくんで動けなくなってるよ」

「蛇の百匹や千匹で動けなくなるようなタマか」

 軽口を叩いている間に、ぞろぞろと蠢く気配はより一層強くなっていく。それと同時に、今まで感じる事の無かった神気まで感じられるようになってきた。

「……何だ? この神気は……」

「! たかよし、あそこ!」

 惟幸が叫ぶのにわずかに遅れて、辺りが一瞬、眩しく光り輝いた。次いで、洞を風が吹き抜ける時のような重く冷え冷えとした音が鳴り響く。

「何だ……!?」

「急ごう!」

 そして二人は、全速力で走り出す。蛇避けの真言を唱える以外は、声を発する事も無く。

 やがて、二人は開けた場所に出た。小規模であれば村祭りができそうなほどに広いその場所も、ぞろぞろとした蛇の気配で埋め尽くされている。だが。

「……妙だな」

 隆善が呟き、惟幸も暗闇の中首を傾げた。

「……うん。僕達は、確かに気配がより強い方へと向かってきたはずなんだけど……」

 今この場に、ぞろぞろとした気配は確かにある。だが、最初にこの気配を感じた場所と、大差が無い。

「気配の主が、移動したのかな?」

「だとしても、気配が無ぇのはおかしいだろ。移動したなら移動したで、気配が動いていくのがわかるはずだ」

「……だよね」

 同意しながら、惟幸は辺りの気配を探る。

「本当に、全く感じられなくなってる。……考えられるとしたら、さっきの神気で相殺されたか……」

「そう言や、あれも感じられねぇな。……結局何だったんだ?」

 難しそうに唸ってから、惟幸は、す、と自らの気配を押し殺した。それに気付いた隆善も、気を鎮め、自らの気配を限り無く薄くする。

 やがて二人は、ぞろぞろとした気配の中に、一つだけ異種の気配がある事に気付いた。同じようにぞろぞろとしてはいるが、蛇達の気配とは違う。静かで、清浄で。そして弱っているように感じられる。

「……この気は……」

「さっきの神気か!」

 気配を辿り、二人は神気の感じられる場所へと足を急がせる。蛇達を踏み付け、時に孔雀明王の真言を唱え。そして。

「! 待って、たかよし!」

 惟幸が緊迫した声で名を呼び、隆善は足を止めた。止めた足の斜め下から、風が吹いてくる。穴があるのだ。人間が落ちたら、ひとたまりも無さそうな大きな穴だ。

「これは……中に、何かいるな」

 穴を覗き込み、隆善は目を見開いた。

 穴の中は、薄らと青白く光り輝いていた。そして、その光の奥に一匹の龍が横たわっている。蒼い、蒼い、瑠璃のような色をした美しい龍だ。

「龍……こんな所に……!?」

 隆善に続いて穴を覗き込んだ惟幸も目を見張った。するとその声に気付いたのか、横たわっていた龍が薄らと目を開ける。

「……人間か……。あの長虫だらけの中を、よくぞここまで来れたものだな……」

 弱々しくはあるが、それでも腹の底に響き渡るような重く低い声だ。その声にぞくりとしながらも、惟幸と隆善は龍に問い掛ける。

「あれだけの蛇達が現れたのは、あなたと関係があるんですか?」

「お前は、一体……」

「……我が名は、荒刀海彦。八岐大蛇の末を屠る為、龍宮より遣わされし者……」

 荒刀海彦の言葉に、惟幸と隆善は思わず顔を見合わせた。そんな二人に、荒刀海彦は言う。

「あの長虫達を物ともせずにここまで辿り付けたという事は、お前達は若さに見合わぬ力量を持っていると見た。……今わの際に、そのような者と出会えるのは僥倖と言えようか……」

 隆善が訝しげな顔をした。すると荒刀海彦はわずかに体を動かし、震える前足を惟幸達へと差し出した。その手には、五つにも満たぬであろう幼い童子が載っている。何があったのか、意識は無い。

「この子は……」

「……わからぬ。気付いたら、ここにいたのだ。迷い子なのか、天狗が攫った子を落としたのか……。ただ言えるのは、この童子には、憑代の才が宿っているという事」

「憑代の才だと?」

 童子を抱き取りながら、隆善は首を傾げた。童子一人分だけ身軽になった荒刀海彦は、ぶるりと体を震わせると力無く頷いた。

「左様。……これより私は、私の持てる全ての力と私の魂魄を、この童子へと移し込む。今宵屠り損ねた、おろちの末を十二年の後確実に屠る為に……。だが、今の心身共に脆弱なこの童子では、私の力を引き出す事はできまい。ここに残しておけば、長虫達の餌食となるだけだ」

「それで……僕達にこの子を連れ帰り、育てろと? その、おろちの末が生まれ出た時、あなたの力を引き出し戦う事ができる、強い力と心を持つ人間になるように?」

 険しい顔で惟幸が言うと、荒刀海彦は、ふ、と嗤ったように見えた。

「若造の割に、察しが良い。歳に見合わず、それなりに艱難辛苦してきたようだな」

「……」

 黙り込む惟幸から視線を外し、荒刀海彦は隆善に抱かれた童子に目を遣った。その目は、どこか優しく、どこか哀しげだ。

「……私にも、生まれたばかりの娘がいる。せめて、この童子ほどまで育つところを見たかったが……」

 その声に、童子が意識を取り戻し、ゆるゆると目を開けた。見知らぬ大人と、巨大な龍とに顔を引き攣らせ、今にも泣きそうな顔をしている童子に、荒刀海彦は済まなそうに言う。

「行きずりのお前を厄介事に巻き込み、心苦しいが……私の命運はもはやここまで。……私の使命を、お前に託したい」

 荒刀海彦がそう告げた瞬間、今まで周りで蠢いていた蛇達の気配がぴたりと止んだ。まるで、何かに威圧されているかのようだ。

 やがて、ずずず……という音がしたかと思うと、荒刀海彦から形容し難い何かが発せられ、隆善の腕の中にある童子に吸い込まれていった。

 童子に何かが吸収されるうちに、荒刀海彦の姿は次第に薄らいでゆく。惟幸と隆善が呆然と見守る中、荒刀海彦の身体は跡形も無く消え失せてしまった。光も消え、神気も全く感じられなくなってしまう。そして代わりに、ぞろぞろとした蛇達の蠢く気配が辺りに復活した。

「……無念、お察しします。娘の成長を見守りたかった気持ちは、よくわかる……」

 先ほどまで荒刀海彦のいた穴を眺めながら、惟幸は暗い声で呟いた。だが、暗い思考はいつまでも続かない。

「……おい、惟幸! このガキ、凄い熱出してるぞ!? こういう時はどうすりゃ良いんだ!」

 横から隆善の慌てた声が聞こえ、惟幸は思考を引き戻される。見れば、隆善に抱かれた童子は再び意識を失い、ハッハッと荒い呼吸をしている。額に手を遣ってみれば、確かにかなり熱い。

「一旦、僕の庵へ行こう。薬があるし、子どもの看病は僕達よりもりつに任せた方が、間違いが無いよ」

「……そうだな」

 頷き、隆善は童子を背に負った。

「先導頼むぞ」

「わかってる」

 頷き合うと、二人は走り出した。来た時と同じように孔雀明王の真言を唱えながら、時折童子の体調を心配して。

 そして、その翌日。惟幸達が再びその場所を訪れた時には、既に蛇達の姿は一匹も無く。ただ、巨大な穴だけがそこにあり、彼らの見聞きした物が夢ではない事を物語っていた。

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