第10話
にぎやかな京の大路小路を、葵は弓弦と連れ立って歩いている。すれ違う人々が、一様にこちらをチラチラと見ているのは、恐らく気のせいではない。何せ、弓弦は目の覚めるような鮮やかな青色の、上等な袿をまとっているのだ。おまけに、まだ幼さが抜け切っていないとはいえ、整った綺麗な顔立ちをしている。人目を引かないわけがない。
人々の好奇の視線から気を逸らすように、葵は弓弦に声をかけ続けた。
「ねぇ、弓弦。疲れてない?」
「……大丈夫です」
「どこか見覚えのある景色は無いかな?」
「……無いようです」
「……そっかぁ。良い着物を着てるから、京に住む良い家の子なのかも、と思ったんだけど。……あ、良い家の子なら、家から出る事も少ないもんね……外の景色じゃ、見覚えが無くても当たり前かな?」
「どう……なのでございましょうか? 確かに、着物は皆様のお召しになっている物と比べると上物のようですが……だからと言って、私が良家の子女であるかと言われますと……」
少し困ったように考え込む弓弦に、葵は慌ててぶんぶんと両手を振った。
「あ、そんなに深く考えないで! 俺が勝手に、良い家の子だと思っただけだからっ! だって、着物だけじゃなくて、弓弦って言葉遣いも動きも綺麗だし、肌も髪もすごく綺麗で、何て言うか……そう! 天女みたいだし! すごく大事に育てられてきたんだろうなーって……その、だから……えっと……」
ここに虎目がいれば、「落ち着くにゃ!」「青いにゃー」などと言って葵の思考を混乱から冷静に引き戻すのだろうが。残念ながら、彼は現在、恐らく栗麿と「馬鹿」「化け猫」の言葉の応酬中である。
「……あの、葵様……」
弓弦が、不安そうに葵の袖を引っ張った。ハッと我に返った葵の顔を、弓弦はジッと見詰めている。
「葵様は……私の事がお嫌い……なのでしょうか?」
「え? ……えぇっ!? そんなワケ無いよ! 何で……」
何でそんな事を。そう問うた葵に、弓弦は「言わなければ良かった」と後悔したような顔をする。しかし、一度言葉を口にしてしまった以上、黙り込むわけにもいかないと思ったのだろう。
「葵様は……私がお顔を窺ったり、私に何事かを話しかけてくださっている時、いつも慌てたようなお顔をなさるので……。だから、私と早く離れたくて、こんな風に私の記憶を探してくださっているのだろうかと思ってしまって……」
「ちっ……違うよ! そんなんじゃないって! 慌てるのは俺が女の子と一緒にいたり、話をしたりするのに慣れてないだけで……!」
「ですが、紫苑様とはごく自然な様子で接していらっしゃいましたし……」
その言葉に、葵は「あー……」と間抜けな声を発した。
「……そりゃ、紫苑姉さんとは小さい頃から一緒で、本当の姉弟みたいなものだし。……と言うかね、確かに紫苑姉さんは女の人なんだけど、さっきみたいに大声は出すし、走り回るし、物を投げるし……ちょっと女の子らしくはないと言うか……本当、女の子! って感じの女の子と一緒にいるのは、弓弦が初めてなんだよ。だから、どうしたら良いかわからなくて……」
そして、葵は再び「あー……」と間抜けな声を発した。そして、ガリガリと頭を掻く。
「……何言っても、言い訳にしかならないよね。……うん、確かにちょっと、慌て過ぎだったかも。……不安にさせて、ごめん」
「あ、いえ……私こそ、不用意な発言で葵様に不快な想いをさせてしまいました。……申し訳ございません……」
「や、そんな……謝らないでよ。俺が悪かったんだし……」
そこで双方、言葉を失ってしまった。シンとした重い空気の中、二人は気まずそうに互いを見ている事しかできずにいる。
「……あ、あのさ……」
やがて、沈黙に耐え切れぬと言った様子で葵が口を開いた。しばらくの間、もじもじと照れ臭そうにしていたが、やがて覚悟を決めたように弓弦をまっすぐに見る。
「弓弦は、その……何で俺に着いてきてくれたの?」
「?」
首をかしげる弓弦に、葵は「だってさ……」と情けない顔で頬をポリポリと掻きながら言葉を続けた。
「確かに、栗麿の式神から助けはしたけど……けど俺、半人前の陰陽師だよ? 隆善師匠にも惟幸師匠にも、紫苑姉さんにも頭が上がらないし。虎目にはからかわれっ放しだし。……顔も、カッコ良いわけじゃないし。なのに、惟幸師匠の家に、隆善師匠の家に、今のこの京の探索に……。記憶が無くて不安だろうに、何でこんな、半人前の得体の知れない奴の連れ回しに付き合ってくれるんだろうって……」
自虐ともとれる言葉を一息に言い切った葵に、弓弦は少しだけ目を丸くした。そして、少しだけ困ったような顔をする。
「それは……」
弓弦が言葉を探し、葵はごくりと息を呑む。弓弦が、「その……」と、いつもより更に控えめな声で呟いた。
「葵様から、懐かしい匂いがする気がして……」
「……懐かしい匂い? 俺から?」
葵が首をかしげると、弓弦は「はい」と頷いた。その様子に、今度は葵が目を丸くする。
「それって、記憶を取り戻す手掛かりになるじゃないか! 匂いって、どんな匂い!? 匂いって言ったら、香とか……いや、俺から香の匂いなんかするわけないし! じゃあ、食べ物? え? でも、最初に会った時に食べ物なんか持ってなかったし……あとは? 隆善師匠や紫苑姉さんにはよく、泥臭いとか汗臭いとか言われてるけど……あぁっ! けど、弓弦がそんな臭いがする場所にいたとは考え難いしっ!」
興奮と混乱を極めていく葵の発言を、弓弦は慌てて制止した。
「ちっ……違います! そうではなくて……匂いと言いますか、懐かしい気配と言いますか……」
「……気配?」
益々わからぬという顔で、葵が問い返した。「はい」と頷き、弓弦は両の手で葵の右手を包み込む。そして、その手を自らの左頬へと導いた。
「何が懐かしいのかは、わかりません。ですが、こうして葵様と共にいますと……何やらとても、安心するのです。私の事をよく知っている、強くて優しい何かが、私の事を見守ってくれているようで……」
そう言う弓弦の顔は、本当に安心しているようで。そして、葵も何故か、温かく安心した気持ちになった。
手が弓弦の顔に触れるという、今までで最も接近した状態となっているにも関わらず、今までのように心臓が飛び跳ね続けるという事が無い。
まるで、力強く優しい何者かが、弓弦と共に葵の事も見守っていてくれているような。この感じは、例えて言うならば……そう。
「……お父さん……」
誰に聞かせるでもなく、葵は呟いた。突然の湧いて出た単語に、弓弦は不思議そうな顔をする。
「父親……でございますか?」
頬に当てていた葵の手を静かに下ろし、問う。
「……うん」
少し照れ臭そうにしながら、葵は頷いた。自由になった右手を、ぬくもりを惜しむように眺める。
「……伺っても、よろしゅうございますか?」
右手を眺める葵に、弓弦は少し遠慮がちに問うた。そんな弓弦に、葵は「勿論!」と力強く頷く。
「答え惜しみなんてしてたら、いつまで経っても余所余所しいままだもんね。俺、そういうのは苦手だし。何でも訊いてよ!」
「では……」
それでも、まだどうしようかと迷うような顔をして。そして、意を決した顔をして。弓弦は真っ直ぐに葵の顔を見た。目が合っても、もう葵の挙動は不審にはならない。
「……葵様の……お父君は、どのようなお方だったのですか?」
弓弦の問いに、葵はきょとんとした。
「父親? 俺の?」
「はい。……ご存じの通り、私には今記憶がございません。父親の記憶も、消えてしまっています。父というものがどのような存在なのか……それを、知りとうございます」
弓弦の目は、好奇心に満ちているように見える。そして、葵はしばらく考える様子を見せた。
「うーん……何て言えば良いのかな……。俺も、わからないんだよね。父親がどういう存在なのか」
「……え?」
弓弦が続く言葉に困っているうちに、葵は言葉を重ねた。
「俺もさ、覚えてないんだよ。俺の父親が、どんな人なのか」
「それは……物心つく前から、瓢谷様の弟子として預けられていたから……でございますか?」
葵は、ゆるやかに首を横に振った。その顔は、少し寂しそうだ。
「俺もさ、記憶が無いんだ。弓弦とおんなじ。……と言っても、記憶を無くしたのはもう十二年も前の事だけど」
「何故……」
訊くべきではなかった事を訊いてしまった罪悪感と、そうなってしまった経緯を知りたいという好奇心と、二つが綯い交ぜになり、混乱した声で弓弦は呟いた。
「俺も、わからないんだよね」
そう言って、葵は少しだけ遠くを見る目をする。
「十二年前……山の中でさ。俺、倒れてたらしいんだよね。そこを、たまたま通りかかった隆善師匠と惟幸師匠に助けられて……目が覚めたら、惟幸師匠の庵だった。……覚えてるって言うのも変かもしれないけど、その時はまだ、意識がおぼろげだった事は覚えてる。あとで師匠達に聞いたんだけど、あの時俺はものすごい熱を出していて、命が助かるかどうか、ギリギリのところだったらしいんだ」
そこで葵は一旦息を吐き、そしてまた軽く吸う。
「その熱のせいかな? 目が覚めたら、それまでの事は綺麗さっぱり忘れてた。何が起きたのかは勿論、家の事も、親の事も、自分の名前も。何もかも、全部」
「名前も? では、葵様のそのお名前は……」
「惟幸師匠がつけてくれたんだ。思い出すまで、名前が無いのは不便だろうって。これ以上、
それがわかった時には珍しく惟幸に平謝りをされた、と、葵は苦笑した。
「……葵様は、それで瓢谷様のお邸に……?」
うん、と葵は頷いた。
「こうなったら乗りかかった舟だ、って。俺が親に会えるか、俺が一人で生きていける術を身に付けるまでは面倒をみてやる、って。……そう言えば、あの時隆善師匠、最初は惟幸師匠に「お前が引き取れ」って言ってたなぁ。実の娘を預けてる手前、示しがつかない、って惟幸師匠は断ってたけど」
あの時の隆善の顔は未だに忘れられないと、葵は言う。決して楽しい思い出話ではないのに、葵の顔はどことなく楽しそうだ。
「葵様は、何故……そのように笑っていられるのですか?」
不安そうな、心配そうな。不安定な表情で、弓弦は葵に問いかけた。
「自分が何者なのか、誰が絶対に自分を守ってくれるのか。何もわからないまま、十二年もの時が過ぎて……。何故、不安にならないのですか? どうして、そのように笑っていられるのですか? どのようにしたら、そんなに笑って、私のような見ず知らずの者を助けようと思えるのですか? 何故、どうして、どうすれば……」
「何故って言われても……」
どこか泣きそうにも見える表情の弓弦に、葵は慌てて言葉を探した。懸命に考えれば考えるほど、焦る気持ちが邪魔をして上手い言葉が出てこない。
「……俺も、最初のうちは不安だったよ。どこを見ても知らない顔しかいないし。何をやっても誰かに怒られそうな気がして、何をやるにしても周りの顔色を窺って。実際、隆善師匠は言葉遣いとか荒っぽくて、怖かった。けどさ」
懐かしむような、顔をした。十二年も前の事だというのに、未だに昨日の事のように思い出せるのが不思議だ。
「何だかんだ言って、本当に危ない時、隆善師匠はちゃんと助けてくれた。不安に押しつぶされそうになった時には、惟幸師匠が気付いて、話を聞いてくれた。寂しいと思った時には、いつも紫苑姉さんが外へ遊びに連れ出してくれた。虎目や、栗麿や……色んな人達と出会って、振り回されて。いつの間にか不安を感じる暇が無くなってたよ」
そして葵は、弓弦の肩を両の腕でゆるりと包み込んだ。泣いている子どもを親が安心させるように。幼い頃、紫苑や惟幸にしてもらったように。
「あっ……葵様!?」
弓弦が動揺するが、それでも葵は弓弦を放そうとしない。ゆっくりと、優しい声音で葵は言った。
「今の俺が、不安を感じず笑っているように見えるなら……それは、周りのみんなのお陰だよ。みんなが支えてくれていた十二年の積み重ねがあったから、今の俺がある」
少しだけ、息を吸う。そして、決意新たに、口を開いた。
「弓弦……今、不安なんだよね。誰を見ても知らない顔で、自分が何者なのかもわからなくて。……俺、頑張るから。弓弦が一刻も早く、不安から解放されるように頑張る。弓弦が俺みたいに、周りを信頼できるように。笑っていられるように……!」
「葵様……」
そのまましばし、二人は沈黙した。聞こえてくるのは、互いの心臓と呼吸の音だけだ。時間が経つにつれそれは次第に穏やかになっていき、冷静になっていく耳には周囲の音が聞こえ始める。
「まぁ。京の往来ではしたない……」
「まだ暗くなってもいないのに」
「まったく。最近の若いモンはこれだから……」
ハッとして、葵は顔を上げ、周りを見渡した。いつの間にか、周囲に人が溜まっている。そして葵と目が合いそうになると、全員がささーっと、何事も無かったかのように流れ散っていく。中には、チラチラと後を振り向き様子を窺っている者もいたが。
「あ……」
自分が今まで何をしていたか。周囲から見てどうなっていたのか。それに気付いた葵は、まず顔が耳の先まで真っ赤になり。続いて、病人もかくやと言うほど真っ青になるまで血の気が引いた。
「……やばい。変な噂を立てられたりしたら、隆善師匠に殺されるかも……」
顔面蒼白のまま呟く葵の横では、弓弦が頬を染めて周囲の視線を気にしている。
「……あの、葵様。まずは……」
「うん、そうだね。どこかに移動しようか……」
冷静を通り越して真っ白になってしまった頭で、葵は何とか判断し、頷いた。そして、どこに行こうかと働かない頭で考える。
今の状態では、二人でどこへ行っても気恥しくなりそうだ。ならば、誰かと一緒にいた方が良いかもしれない。と、なると。
「……紫苑姉さんと虎目、師匠の代理で依頼を受けに行くって言ってたっけ。……そっちに行ってみようか?」
葵の提案に、弓弦は言葉も無く頷いた。とにかくまずはこの場から離れたいという気持ちは、葵と変わらぬようだ。
この時の二人の判断を、後に虎目はこう貶す。
「紫苑が一人で依頼を受けるという時点で、面倒事が起こる確率が倍率ドン。あの馬鹿が加われば更に倍。そこに巻き込まれ体質の葵やイレギュラーの弓弦が混ざれば、化学反応を起こすだろう事ぐらい火を見るよりも明らかだろうに……。にゃんで来ちまったのかにゃー……」
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