第7話

「なるほど……栗麿がね」

 りつの給仕で夕餉を摂りながら、惟幸は苦笑した。その真正面では葵が頷きながらも強飯や山菜の煮物を物凄い勢いで頬張り、その左隣では例の少女が優雅な所作で啄ばむように少しずつ食している。

「本っっっ当に、あの馬鹿はどうしようもにゃいにゃ。もうすぐ而立だってのに、何であそこまで馬鹿なのか……」

 葵の右隣では、虎目が焼き魚を頬張りながら不平不満を垂れている。

「面白い人だよね、彼。それに方法はどうあれ、自分の望みを叶えるために積極的に行動できるのは評価しても良いと思うよ」

「惟幸は、あの馬鹿に振り回された事が無いから、そんな事が言えるんにゃ!」

 憤慨する虎目に、惟幸はやはり苦笑している。その横ではりつもおかしそうに穏やかに笑っている。葵は時々、本当に紫苑はこの二人の娘なのだろうかと疑問に思えて仕方が無い時がある。何故この二人から、あんなに感情の起伏が激しい娘が生まれてくるのか。やはり、育った環境のせいなのだろうか。

「ところで、葵?」

 あらぬ方向へと逸れた葵の思考を引き戻すように、惟幸が名を呼んだ。

「……ふぁい?」

「まずは口の中の物を飲み込んでから喋るにゃ。行儀の悪い」

 口におかずをいっぱいに詰め込みながら葵が返事をすると、虎目がすかさず言ってくる。先ほど魚を頬張りながら不平不満を垂れていたのは良いのか。

「その子だけどね。いつまでも名前が無いようじゃ、不便なんじゃないかと思うんだけど」

 惟幸に指摘され、葵は「あ」と呟いた。そう言えば、未だにこの少女は呼ぶべき名前を思い出せていない。

「そう言えば……」

 若干バツが悪そうに少女の方を見てみれば、少女は話題が自分の事になったという事を悟ったらしく、ジッと話に耳を傾けている。そして、葵の視線に気付くと、スッと葵を真っ直ぐに見詰めた。

「……申し訳ございません。まだ……思い出せそうにございません……」

「いっ……いや、あの……責めてるわけじゃなくてさ! ほら、その……そう! 君が嫌じゃなければ、仮の名前を付けさせてもらいたいんだけど! 良いかなっ?」

 最後は声が裏返ってしまった葵の様子を、大人二人は微笑ましいという顔で、虎目はニヤニヤと見詰めている。そんな視線を何とするでもなく、少女はこくりと頷いた。

「問題はございません。何卒、名前を賜りとうございます」

 ゆるりと頭を下げた事で、肩から黒く長い髪がはらりと落ちる。心臓が限界と言わんばかりに葵は視線を逸らし、「あー……じゃあ……」と答を探すように呟いた。

「惟幸師匠、お願いします!」

「……え?」

 いきなり役目を振られ、惟幸は目をぱちくりとさせた。

「こういう場合は、この子を見付けた葵が付けてあげるものじゃないのかな?」

 困ったように惟幸が言うと、葵は「けど……」とやはり困ったように言う。

「女の子の名前なんて、どんな風に付ければ良いのかわかりませんし……どんな名前なら喜んで貰えるのか、見当もつかないし……。それに引き換え、惟幸師匠なら紫苑姉さんに名前を付けた実績があるし。当世一の陰陽師に名前を付けてもらった方が、絶対にこの子のためにも良いし。それにほら、俺の名前を付けてくれたのだって……」

 それ以上は、言わせて貰えなかった。惟幸は黙ったまま立ち上がると、葵の傍らに移動し、そして葵の額を思い切り中指で弾いた。

「痛っ!?」

 思わず箸を取り落として額を抑える葵に、惟幸は諭すように言う。

「その人にとって一番の名前を付けてくれるのは、肩書きじゃないよ。大切なのは、名前を付けてくれる人がその人にとってどういう人なのか、どんな想いで付けてくれるのか……。会って間もない、その子に何をしたわけでもない僕が名前を付けても、その子は喜ばないよ。……名前の大切さは、葵が誰よりも知っているはずだろう?」

「……」

「……あの……」

 黙り込んだ葵の袖を、少女がくい、と引いた。葵が見ると、少女はほんの少しだけ、縋るような目をして、葵の方を見詰めている。

「……厚かましい事を申し上げるようですが……私は、葵様に名付けて頂きとうございます……」

 先ほどまで表情に乏しかった顔に少しであっても感情が宿っている。それだけでも衝撃なのに。縋るように見られてしまっては、断ろうにも断れない。

「……惟幸師匠。女の子の名前って、どういう風に考えれば良いんでしょう?」

「……そうだねぇ……」

 葵に問われ、惟幸は、今度は本当に困った顔をして首をひねった。その様子に、横に座っていたりつが、くすくすと笑っている。

「惟幸様も、名前を考えるのはあまり得意ではありませんものね。式神に名付ける時も、いつも頭を悩ませていらっしゃいますし。紫苑が生まれた時も、可愛らしい名前にするか、淑やかに育ちそうな名前にするか……良縁に恵まれそうか、華やかに育つか、流行りを少しは取り入れた方が良いのか……三日三晩悩んで、瓢谷様に式神を飛ばして相談して……結局、その時辺りに咲いていた紫苑の花がとても綺麗だったから……という理由で紫苑と名付けられて……」

「それだけ色々願って悩んで名付けたのに、当の本人はしょっちゅう泥まみれににゃって駆け回り、勿論男の影も無し。親の心子知らずってのは、こういう事を言うんだろうにゃー」

「虎目、また紫苑姉さんがキレるよ……」

 惟幸達や虎目の言葉に少しだけ緊張をほぐされ、葵は腕を組んで考えた。横では、少女が不安と期待を綯い交ぜにしたような目で葵の言葉を待っている。

 ……駄目だ。やはりあまり長い事見られていると、心臓が限界を迎えそうになる。

 葵は少女から視線を外し、室内を見渡した。部屋の隅には、先ほど葵が渡したゆずりはの枝が、壺に入れられ飾られている。それをしばらく見詰め、少し考える様子を見せてから、葵は「決めた」と呟いた。

 葵は、改めて少女に向き直り、その澄んだ目を真っ直ぐに見て、今しがた決めた名を呼んだ。

「弓弦」

 呼ばれて、少女は少し戸惑う顔をした。そして、小さな声で「ゆづる……」と呟く。

「弓弦……それが私の、これからの名……でございますか?」

 少女――弓弦が問うと、葵は頷いた。

「そう。あの、ゆずりはの枝を見てて思い付いたんだ。ゆずりはの別名は、親子草。君が、早く記憶を取り戻して、お父さんやお母さんと会う事ができるように」

「ゆずりはは弓弦葉ゆづるはとも言うからにゃ。縮めて弓弦、というワケか。フム……良いんじゃにゃーか?」

 虎目から肯定の言葉があり、葵は少し照れたように鼻を掻いた。そして、「どうかな?」と弓弦に問う。

 弓弦はしばらくの間「ゆづる、ゆづる……」と小さな声で語感を確かめていたかと思うと、ふわりと微笑んだ。そして床に両手を揃え、深々と頭を下げる。

「……良き名を頂きました。ありがとうございます、葵様……」

「えっ! いや、その……そんなにかしこまらなくても……あ、そうじゃなくて、その、あの……気に入って貰えたなら良かったよ。うん!」

 またも慌てて声が裏返った葵や、嬉しそうに葵を見詰める弓弦。そんな二人を、楽しそうに見詰める惟幸に、虎目がてとてとと近寄った。

「ところで、惟幸。この後、時間はあるかにゃ?」

「時間? ……うん、今夜は特に予定は無いよ。それが?」

 少しだけ声を潜めて、惟幸は問う。すると虎目は、ぶんぶんと右前足を振って見せた。

「にゃに、子どもが寝た後は、大人の時間。一杯付き合ってくれってだけの話だにゃ。今日は酒の肴ににゃりそうにゃ話題もたくさんある事だしにゃ」

 そう言って、虎目は葵と弓弦にこっそりと視線を遣る。言葉にそぐわず、惟幸と同様に声を潜めている。

「それは良いけど、またたびは置いてないよ? 人間用の酒でも大丈夫?」

比較的本気度の高い顔で惟幸が問うと、虎目は「馬鹿にするにゃ」と抗議する。

 他愛の無い掛け合いを続けながらも、一人と一匹の視線は絶える事無く、葵と弓弦に注がれていた。

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