春の幻

@hitsuji

第1話


夜の匂いは不思議だった。

特に春が終わりかけた頃の夜の匂いには何とも言えない不思議さがあり、俺はその匂いが好きだった。そこには仄かな甘さがあり、その甘さは周りの景色をやたらとくっきり見せた。丁度今夜のような匂いだ。

住宅街の一角、辺りは驚くほど静かだった。まるで広大な海原の真ん中で小船に乗り、真っ暗な水平線を1人見つめているような気分だ。

また春と呼ばれる季節が行ってしまう。それは紛れも無い事実だった。それは俺にとって寂しくもあり、少し悔しくもあることだった。幾つになっても春とは希望の季節なのである。


俺はみっこちゃんを待って電柱の陰にじっと座り込んでいた。

あまり楽な体勢とは言えないが、もう30分も同じ体勢をとっている。足元にはくしゃくしゃのショートホープが4本。彼女の部屋はまだ明るく、ピンクのカーテンが暖かみのある色に染まっていた。夜の匂いを身体で感じながら、俺はその温もりを見つめていた。

5本目のショートホープに火をつけようとした時、春の終わりには珍しい冷たい風が吹いた。風が俺の首筋を走り抜ける。「寒い」1人きりなのに無意識に声が出てしまった。何故だろう? 今まで風なんて全く吹いていなかったのに。気を取り直してライターを点してショートホープの先端に火をつける。ほろ苦い煙を肺に吸い込むと少しだが身体が暖かくなった。


みっこちゃんと別れたのはもう8年も前になる。

正直、別れた理由は未だによく分からない。特に大きな喧嘩もなかったし、お互いに性格が合わないという訳でもなかった。でもいつの間にか会話が少なくなり、会う機会もだんだんと減っていき最後は呆気なく別れた。しかし彼女には彼女なりの別れる理由がちゃんとあったのだろう。

みっこちゃんは何を考えているのかよく分からない女の子だったが、その一方で自分を曲げない真っ直ぐさを持っていた。

再び会うようになったのは3年前の春頃だ。きっかけは些細なことだった。別の用事があってたまたまみっこちゃんの家の近くを通ることがあり、懐かしくなって俺が電話をかけたのだ。久しぶりに会ったみっこちゃんは昔と全然変わっていなかった。何となくそれからお互いに連絡を取るようになり、また会うようになった。

でも俺には別に付き合ってる女の子がいた。そしてみっこちゃんにも同様に。


後ろめたい気持ちからか、俺達は自然と夜に会うようになった。

夜にふらっとみっこちゃんの家を訪ね、部屋の電気がついていることを確認してから電話をかける。みっこちゃんはいつも「了解、すぐに行くわ」なんて言うが、すぐに降りてきたことなんて一度もない。

短い時でも15分、長ければ1時間近く俺は蛍光灯に染められたピンクのカーテンを眺めることになる。まるで対岸の灯を見つめるジェイギャツビーのように。


5本目のショートホープを地面に押し潰したところで、不意にピンクのカーテンが暗転した。やれやれ、今日も長かった。俺は立ち上がって伸びをする。ずっと座っていたので若干頭がぼーっとした。もう若くないのだ。ドアが開いて灰色のパーカーを羽織ったみっこちゃんが現れる。いつものロングスカートを履いていた。

「待った?」

「どれだけ待ったか知ってるだろ? 着いた時に電話したんだから。」

俺は溜め息をついて少し怪訝な顔をした。

「ごめんね」

みっこちゃんは顔の前で手を合わせ、謝るポーズをした。いつも一応謝るのだが結局何も変わらない。

「ちょっと歩こうか」

「うん、今日は夜でも暖かいね」

並んで歩き出す。みっこちゃんの揺れる髪からシャンプーの匂いが少しした。いい匂いだった。

「そうだね、でもさっき凄く冷たい風が吹いたんだ」

「風? 風なんて全然吹いてないじゃない」

みっこちゃんは少し不思議そうな顔をして言った。

「うん、不思議なんだ。本当にその1回っきり。まるで別の季節から間違えて来たみたいな場違いな風だった」

「そうなの。もしかしたらそれは冬の忘れ物だったんじゃない? 運がなかったわね」

冬の忘れ物? あの風はそんなロマンチックなものだったのだろうか? 今思えばだか、それは何かを咎めているようにも思えた。

みっこちゃんが不意に俺の手を握った。

「手、冷たいよ。その風のせい?」

「分からない。でも、多分そうだと思う」

等間隔で並んだ街灯の灯りは薄暗く、10秒ごとに俺達を照らす。俺たちはその後しばらく手を繋いで歩いていたが、国道を走る車の往来が見えたあたりで自然とそれを解いた。



みっこちゃんと付き合っていた頃、俺はまだ大学の2回生で20歳だった。その頃の俺は割と友達も多く、毎日遊びに明け暮れ授業へもあまり出ていなかった。

この頃、俺はよく友人から恋愛相談を受けていた。当時から気の利いたことが言えるような人間でもなく、上手なアドバイスなど皆無であったのだが、相談を受けて俺が2人の間に入ると何故か上手くいくことが多かった。それはたちまち噂になり、そんな噂を聞きつけた友人たちから連日たくさんの相談を受けるハメになったのだ。

たくさん受けた相談の中でも、一番印象に残っているのは赤井と平尾のことだ。俺はその当時、2つ後輩の赤井とよくつるんでいた。赤井は当時18歳で、地方から出てきたばかりの右も左も分からない大学一年生だった。背が高く痩せていて、一見するとバレーボールでもやっていそうな外見なのだが、実際はスポーツはからきし駄目で、麻雀だけがやたらと強い男だった。何かの飲み会で知り合い、馬が合って2人で夜な夜な街へ繰り出して遊んでいた。

平尾は語学の授業で俺の隣の席だった同級生で、よく話す女友達だった。平尾は俺と違いちゃんと授業に出ていたので、ほとんど授業に出ていない俺はよく平尾からノートを借りた。そしてそのお礼にいつも食堂で定食を奢った。平尾は親から十分な仕送りを貰えず奨学金を借りて大学に通っていた。学校以外の時間はボサボサの髪を後ろで一つ括りにしてバイトに明け暮れ、いつもお金に困っていた。対して俺はこの頃、ギャンブルの調子が良く金回りが良かった。


そんな平尾に赤井が惚れたのは春学期の試験の前だった。そろそろ試験の用意をしなければいけないなと思い、例にもよって平尾にノートを借りに行くとそこには赤井もいた。待ち合わせた食堂で2人は向かい合って定食を食べていた。俺に気付いた平尾が遠くから大きく手を振る。

「赤井君が定食を奢ってくれたの。だから今日はお礼はいいわ。ちゃんと授業出なさいよ」

そう言って平尾は綺麗なA4版のノートを俺に渡した。

「う、うん。ありがとう」

俺は正直面くらった。赤井に平尾を紹介したのは確かに俺だったが、それはあくまで友達としてで、俺自身まったく深い考えはなかったのだ。なんでこの2人が? と思ったがそれ以上に赤井が背筋を伸ばして椅子に座っていることに違和感を感じた。赤井は酷い猫背で、いつも雀卓に覆い被さるようにして麻雀を打っていたのだ。

そして平尾も平尾で髪を綺麗に巻いていた。


赤井から胸の内を打ち明けられたのはその数日後だった。俺たちは大学の最寄り駅にある安居酒屋で向かい合って酒を飲んでいた。

「俺、平尾さんのこと好きなんです。なんかもうどうしようもないんですよ。家に1人でいたらいつも平尾さんのこと考えてしまって……」

よくもまぁそんな恥ずかしいことを言えるなと思いながら俺はビールを流し込む。酔いと恥ずかしさで顔が赤くなりそうだった。

「だったら素直に伝えてみろよ。多分あいつもお前のこと意識してるぞ。この前だってあんなお洒落な髪型して。びっくりしたよ。うん、絶対に意識してる」

「髪、ですか?」

赤井は飲んでいたビールを机に置いて訝しげにこちらを見る。

「普段はもっとボサボサの髪してるよ。あいつは苦学生だからなぁ。バイトとか、ああいうお洒落な髪型より一つ括りの方がやりやすいんだろ」

「平尾さんってそんなに苦学生なんですか?」

「まぁ聞いてる限りでは」

俺は枝豆を口に放り込みモゴモゴと話す。ビールのお代わりが欲しかった。

「ねぇ、こんな事言うと笑うかもしれないですけど。俺は本気で平尾さんのこと想ってるんですよ。彼女の生活が苦しいなら俺が支えてあげたい」

と言って身を乗り出した赤井は今まで見た中で一番真剣な目をしていた。1ヶ月前に勝負所で国士無双を聴牌した時よりもずっと真剣な目をしていた。真っ直ぐな目、俺はちょっと目を逸らしてしまう。

「バカ、先ずは付き合うところからだろ? 正直に伝えてみろよ。俺、協力するからさ」

「そ、そうか、そうですよね。先ずは気持ちを伝えないとね。うん、うん、協力お願いしますよ」

赤井はその日俺の家に泊まった。慣れない酒を飲み過ぎてしまったのだ。明け方にトイレで吐いていた。


そんな赤井の話をみっこちゃんに話すと彼女はいつも喜んだ。

「可愛いわねぇ、赤井君。ほんとどうなるか気になるわ。私、凄く応援してるのよ」

「俺だって応援してるよ」

でも俺は心の中ではどこかで冷めていた。何故恋愛にそんなに熱くなれるのか、それがどうしても分からなかったのだ。その頃にはもう既に何組もの恋愛を成就させていた。でも俺にはその全ての恋愛が幻に見えた。

若い恋愛は幻だ。いろいろな風に吹かれ、いつかその全てが闇に消えていってしまう。そう思えて仕方なかった。

俺はみっこちゃんに対して、赤井のような熱い気持ちは持っていなかった。みっこちゃんの全てを支えたいなんて考えたことは一度もなかったし(もっともみっこちゃんは平尾のような苦学生ではなかったのだが……)彼女の全てを受け入れる覚悟なんて俺にはなかった。ただ、みっこちゃんの話し方や笑い方は本当に心地良かった。それだけで一緒にいる意味はあるのだと思っていた。


赤井と平尾が付き合い出したのはそれから1ヶ月後だった。俺を含めた3人での3回目のデートで赤井が平尾に告白したのだ。

3回目のデートは3人で郊外で行われるロックフェスに行った。俺はもうすっかりこういった恋愛仲介ポジションには慣れていたため、ロックフェスが一番の盛り上がりを見せる頃にさりげなく姿を消した。

「俺、あっちのステージで見たいバンドがあるからちょっと行ってくるわ」

2人っきりになった赤井と平尾はこのロックフェスの一番の目玉だった外タレバンドを遠巻きから並んで見ていた。アンコール2曲目でバンドの代表曲のイントロが流れる中で赤井は平尾に想いを伝えたらしい。

演奏が終わって拍手も鳴り止みかけた頃、平尾はそっとそれに応えたとのこと。美しい恋愛の始まりの1ページである。


2人が付き合い出したことをみっこちゃんにメールで伝えた。みっこちゃんからの返信には一言「努力の上に花が咲く」とだけ書いてあった。


赤井と平尾は付き合い出してからも度々俺を誘ってくれた。俺は「2人でいる方が楽しいだろ」なんて言っていたが、誘ってくれるのは嬉しかった。傍目から見ても2人の交際は上手く行っていた。付き合い出してから半年程経つと2人は元々平尾が住んでいたマンションに一緒に住み始めた。本当にボロボロのマンションで壁も窓も汚かったが2人は幸せそうだった。


ある日俺は2人に招かれて彼らが住むマンションに行くことになった。

今日のような春の夜だった。

俺はパチンコの景品のお菓子と酒屋で誂えた赤ワインを持って出掛けた。マンションへ続く歩道を歩いていると、マンションの前に2人が立っているのが見えた。2人は手を振っていた。満面の笑顔で手を振っていた。2人の横を車が通って行く。マンションの前は車通りの多い国道なのだ。ヘッドライトが2人を照らす。何台もの車が照らす。俺は思った。完璧な幻はなんて美しいんだろう。そしてそれは幻なのだ。幻だからあんなに美しいのだ。残酷なくらい美しいのだ。

昨年、赤井は大学の後輩と結婚した。平尾は会社の同期と一昨年に結婚して来年には第一子が生まれるらしい。


「いい季節ね」

不意にみっこちゃんが言う。

「うん、また春が終わる。そしてまた汗を掻く季節が来る」

「ひとまずの終わりと新しい季節。繰り返し」

「うん、そうだね」

薄暗い路地を抜け、俺とみっこちゃんは国道沿いに出る。ここをずっと真っ直ぐ行くと昔、赤井と平尾が住んでいたマンションがある。あんなボロマンションがまだ潰れないで残っているなんて奇跡としか言いようがない。

みっこちゃん、俺は今でも君の話し方や笑い方が好きだよ。今ならはっきりと分かる。君は俺にとって掛け替えのない人だ。だけど俺は来月結婚するんだ。妻になる人のお腹には子供がいる。俺の子供なんだ。

伝えねばならなかった。俺たちは幻なんだよ。もうとっくに死んでいるんだ。そして幻だけがそこにいる。だけどそれはもうすっかり色褪せてしまった。だから2人の手で幻を消し去ろう。

みっこちゃんは気にせず隣を歩き、パーカーのチャックを首元まで上げていた。またあの冷たい風がまた吹きそうだ。俺は何となくそう思った。

国道を行く車のヘッドライトが夜の匂いを切り裂いて行く。俺達を照らす。

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