76 とまどい3

「――夏樹」


 久志が情けない声を出す。


「少しは反省しましたか?」


 白うさぎ姿の夏樹に覗き込まれた久志が小さく頷く。


「それじゃあ、久志さんが今、何をしないといけないのかわかりますね?」


 夏樹はそう言うとベッドサイドにあるテーブルを指差した。テーブルの上には夏樹の携帯が充電スタンドに立てかけてある。

 久志は夏樹に促されるままそれを手に取り、普段から一番よくかける相手の番号を呼び出した。


『……はい』

「…………」

『――松本くん? どうかしましたか?』

「芹澤……」

『久志さん? どうして久志さんが松本くんの携帯からかけているんですか? まっ、まさか……久志さん、あなた……自分の欲望のまま、体調の戻っていない松本くんに無体をはたらいたんじゃ……』

「……いや、その」

『松本くんは無事なんですか!? もしかして久志さんからの仕打ちに意識を失っているとか……ああ、信じられない……久志さん、あなたって人は……』


 携帯の向こうからガタンと、ものをひっくり返したような音が聞こえる。どうやら芹澤が携帯を持ったまま夏樹のもとへ駆けつける準備をしているようだ。


『いいですか? 今からそちらに行きますので、くれぐれも松本くんにそれ以上手出ししないように!』

「芹澤……すまない」

『――――は? もしかして……久志さん、気を失ったなっちゃんに……』


 携帯の向こうで芹澤が絶句した。

 久志が無茶をしてしまったとすっかり思い込んでいる芹澤の中で、夏樹はすでに大変なことになっているようだ。日頃の行いが悪すぎるせいで、久志は全く信用されていない。


「夏樹は大丈夫だ。まだ手は出していない……そうじゃなくてだな、芹澤、いつもお前には世話になりっぱなしなのに、今朝は……その、酷いことを言って……すまなかった」

『は?』

「だから、悪かった。すまない」

『――久志さん? どうしたんですか、大丈夫ですか?』

「とにかく、今朝のことは謝ったから。またこれからもよろしく……」


 携帯を耳に当てたまま久志が夏樹の方を見た。久志と目が合った夏樹がニコリと笑いながら頷く。


「…………お願いします」

『ちょ、久志さ……』


 芹澤がまだ何か言いかけていたが、久志は強引に通話を終えた。


「ちゃんと、謝ったぞ」

「はい。よくできました。久志さん、好きですよ」


 そう言うと、夏樹は久志の頭を撫でた。

 

「…………」

「久志さん?」


 夏樹から頭を撫でられた久志が、ベッドの上で正座をしたままの格好で固まっている。


「久志さん、どうしたんですか?」

「――夏樹」

「はい」

「君……今、何て言った……?」

「え? ちょ、あの……うわっ」


 怖いくらいに真剣な表情をした久志に、夏樹は背中からベッドへ押し倒された。


「夏樹」

「えっ、何っ!?」

「今、何て言った?」

「――今、ですか? えっと……久志さん、どうしたんですか……?」


 顔の横で両手首をシーツに縫い付けられた格好の白うさぎが首を傾げる。


「もうちょっと前!」


 久志に言われて数分前の記憶をたどっていた夏樹の顔が、突然ぱあっと赤く染まった。


「夏樹、お願いだ。もう一度、言って欲しい」

「…………」

「夏樹」

「…………久志さん……好き」

「夏樹っ!」


 真っ赤になりながら呟く夏樹の言葉を聞くなり、感極まったように久志が夏樹の体を抱きしめた。


「夏樹……やっと言ってくれた! 私もだ、私も君のことが好きだ! 大好きだ! ……愛してる」


 小柄な体を抱きしめたまま、久志が好きだ愛してると夏樹の耳元で繰り返し告げる。

 普段から挨拶のように言われ続けていた言葉だが、初めて自分の気持ちを久志に告げた後に聞かされるのは、とんでもなく恥ずかしい。


「夏樹……君が私を見つめる、こぼれそうなくらいに大きな瞳や、まるで私に食べてくださいと言っているかのような可愛らしい唇、思わずキスしたくなる愛らしい鼻に食べ頃の桃のような頬……全てが愛しいよ……どうすればいいんだ……君のことが愛しすぎて、どうすればいいのかわからないよ」

「ちょ、何言ってるんですかっ! もう黙ってくださいっ」


 熱にうかされたように繰り出される久志の言葉に、夏樹の顔がさらに真っ赤になる。

 これ以上は聞いていられないと、ぎゅうぎゅう抱きしめてくる腕から逃れるため夏樹は必死で身を捩った。

 身を捩る夏樹のことを逃さないとでもいうかのように、抱きしめる久志の腕に力が入る。


「夏樹……夏樹、私の愛しい人」

「ひさ……っ、あのっ、くる……しい……」


 このままでは落ちてしまう。

 夏樹は「ギブアップ」と、久志の背中を叩いた。


「ん? どうした…………夏樹!? 大丈夫かっ!?」


 息も絶え絶えな夏樹から背中を叩かれ、久志はやっと夏樹が窒息寸前なことに気づいた。


「……ひさ……さん」

「夏樹! 夏樹、死ぬなっ!」


 久志の腕の拘束が緩んだことで、夏樹はようやく呼吸ができるようになった。なのに、再び久志から抱きすくめられたことで、またもや夏樹の意識が遠のいていく。


「夏樹! 目を開けてくれ、私を置いていかないでくれ!」

「…………さ、ん」


 頼むから首にキマっている腕を緩めて欲しい。

 本気で身の危険を感じた夏樹は重い腕を何とか持ち上げ、自分の首に絡みついている久志の腕を軽く引っ掻いた。


「…………て」


 必死の訴えが届いたのだろう。久志が夏樹から体を離し、その顔を覗き込む。


「――夏樹? 気がついたのか?」

「久志……さ、ん……」

「ん? 何だ、どうした?」

「…………」


 ようやく確保された気道から夏樹が何度か深呼吸する。


「――――この……っ」

「えっ?」


 おバカ!という叫び声とともに夏樹の拳が久志のこめかみにヒットした。

 恋人からの予想外の攻撃に拳を回避できなかった久志は、呻き声をあげると夏樹に覆い被さるようにして倒れた。


「夏樹、君……どう……して……」

「知りません」


 久志が体を起こす。恐ろしい回復力だ。


「教えて欲しい。私はまた、まずいことをしてしまったのか?」


 久志に背中を向けて布団の中に潜ってしまった夏樹を、久志は布団ごと、今度は優しく腕に抱いた。


 子供の頃から、自分よりはるかに年上の大人たちに囲まれた中で生活してきた久志は、まともな友達付き合いをしてこなかった。

 相手が自分のために動くのは当然で、他人を思いやるといった部分では久志はとても不器用なのだ。


 夏樹は以前、芹澤から聞かされた久志の幼い頃の境遇を思い出し、布団から顔を出すと久志の方へ体を向けた。


「久志さんが力一杯抱きしめたから、息が止まりそうだったんです。すごく苦しかったんですよ」


 両手で久志の頬を包み、もうしないでくださいねと言うと、夏樹は久志の顎先にチュッと音を立ててキスをした。


「わかった……これから君にはうんと優しくする。だから、私にも優しくしてくれるかい?」


 可愛い恋人からの返事を待たず、久志は夏樹へ覆い被さると、そっと唇を重ねた。

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