74 とまどい1
芹澤は社内メールのチェックを済ませると、ノートパソコンから顔を上げた。
目線の先には、秘書課の空きデスクに抜け殻のようになった久志がひとりぽつんと座っている。
夏樹から嫌いと告げられたことが、よほどショックだったのだろう。
出勤するのさえ芹澤に手を引かれないとままならない状態で、出勤途中の車の中でも目は虚ろに宙を泳ぎ、会社に到着するまでずっと何かブツブツと呟いていた。
(まあ、二十年も想い続けていた初恋の相手ですしねえ……)
芹澤がため息をつく。
「専務、コーヒーどうぞっ!」
どうしたものかと頬杖をついて、負のオーラ全開の屍男のことを芹澤が眺めていると、場違いに元気な声とともに山路が久志の前にコーヒーを置いた。山路なりに、様子のおかしい久志に気を使っているようだ。
「…………だ」
「はい?」
「……嘘だ」
「え? これ、コーヒーですよ。俺、嘘なんてついてませんが」
「いや、違う」
「すみませんっ、コーヒーじゃなくて紅茶の方がよかったですか!? 今すぐ淹れ直してきます!」
コーヒーカップを慌てて下げようとする山路の手首を久志が掴んだ。
「専務?」
「そうだ、違うんだよ! 夏樹が私にあんなことを言うはずがないんだ。あれは私の聞き間違いだったんだ……うん」
「松本が専務に何か言ったんですか?」
「夏樹……夏樹が、夏樹が私のことを、きっ、き……」
「――き?」
「き……きら……っ」
それから先の言葉はどうしても言いたくないらしく、久志は顔を苦しげに顰めながら口を横一文字に結んだ。
「あ、あの……専務?」
山路が気遣わしげに久志の顔を覗き込む。
「ちょっと、山路くん」
「え? あ、芹澤さん」
ノートパソコンの影から芹澤が小さく手招きしている。
芹澤にしては可愛らしい仕草に、山路は顔を綻ばせながら芹澤の元へと駆け寄った。
「山路くん」
側に寄った山路に、さらに近づくようにと芹澤が手招きする。
戸惑いながらも山路が顔を近づけると、芹澤がそっと耳打ちした。
「専務のことは放っておいて大丈夫です」
「――え、でも」
「いいんですよ、たまには。何でも自分の思うようになると思ったら大間違いなんです。あの人には自分の言動に対して反省することも必要です」
「はあ……」
山路にとって芹澤の言うことは絶対である。
様子のおかしな久志のことは心配だが、芹澤が放っておけと言うなら、山路もこれ以上久志に構ったりはしない。
こそこそと芹澤から耳打ちされながら、山路が久志の方へと視線を移すと、じっと二人の様子を見ている久志と目が合った。
「……君たちはいいな、仲が良くて。昨夜も一晩中、一緒に過ごしたんだろう?」
久志がぽつりとこぼした言葉に秘書課内の空気が変わる。
「ちょ、専務、変に誤解を招くような言い方は……」
「あれ? 何で俺と芹澤さんが夕べ一緒だったことを専務が知ってるんですか?」
「山路くんっ」
「今朝、芹澤から聞いたんだよ。朝までずっとだったんだろう? 疲れなかったか?」
「いえ、そんなっ! 俺、芹澤さんのためなら何でもできます! さすがに明け方は芹澤さんもお疲れのようでしたので、俺の部屋に寄って少し休みましたし」
ね、芹澤さん、と山路は芹澤の顔を見ながら首を傾げた。
「いいなあ……芹澤、愛されてるね。今の私には君たちがとても羨ましいよ」
「そんな、愛してるとか大げさです。でも、俺にとって芹澤さんは何者にも変えられない存在ですっ!」
気のせいか秘書課内の雰囲気が浮き足立ち、何人かの秘書課のお姉さま方が机の下で携帯を操作している。
「――だそうだよ、芹澤」
「芹澤さん、心から尊敬してます! 大好きですっ!」
「――――っ」
晴れ晴れとした表情で芹澤さん大好きと言い放つ山路の横で、芹澤は頭を抱え、久志は大きなため息をついた。
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