73 俺の意思じゃないですから!6
「松本くん?」
「……俺から行ったのは本当です」
臆病な小動物が巣穴から外の様子を窺うように、夏樹が布団の中から顔だけをそろりと出す。
芹澤が信じられないというように夏樹の顔を見る。
「ほら、私の言った通りだったろう」
「松本くん……」
得意げな様子の久志と、不憫な子を見るような眼差しで夏樹のことを見つめる芹澤。
「あのっ、違います! 確かに俺から久志さんの……に突っ込みましたが、それは久志さんがいきなり下着を脱ごうとするから、止めようとして……それで……」
ちょっとだけ興味があったのは否定しないが、自分から進んで久志の股間へ顔を突っ込んだりはしない。
「だから、俺の方からくっついてしまったのは本当ですけど、それは不幸な事故というか……」
「不幸な事故じゃないだろう。夏樹、照れてる君も愛らしいが、君はもっと自分の心に正直にならないといけないよ」
「――久志さん、あなたはちょっと黙っててください。松本くん、何となく状況は分かりました。すみません、私の誤解だったようですね」
「芹澤さん」
芹澤の誤解は解けたようだ。夏樹はほっと安堵の息をついた。
「松本くん……怖かったでしょう? 昨夜、あんなことがあったばかりだというのに、また朝から変態の餌食にされてしまって……」
そう言いながら芹澤が夏樹の髪を撫でる。
幼馴染で気心の知れた仲とはいえ、久志のことを変態扱いできるのは芹澤くらいのものだろう。
「ちょっと、久志さん」
ひとしきり夏樹のことを愛でた芹澤が、表情を一転させて久志のことを睨みつけた。
「何だ?」
いつの間にシャワーを浴びてきたのか、半乾きの髪にさっぱりした顔の久志がクローゼットの前でネクタイを締めている。
「あなたが二十年もの間、一途に松本くんのことを想ってきたことは、私もずっと側で見てきたので知っています」
(――――え?)
芹澤の言葉を聞いた夏樹が、布団に包まったまま首だけを久志の方へ向けた。
夏樹に背中を向けているが、クローゼットの鏡に映った久志がバツの悪そうな顔をしている。
「おい、芹澤」
ネクタイを締めながら、久志が芹澤の言葉を制止する。
「何ですか?」
「もういいだろう」
「いいえ! 今度という今度は、私も久志さんへひとこと言わないと気がすみません! だいたい、昨夜だって具合の悪い松本くんを勝手に連れ出して……部屋を見に行った時に私がどれだけ驚いたか……」
「ちゃんと連絡はしただろう」
「ええ、ありましたよ。今朝!」
昨夜、突然姿を消した久志と夏樹のことを心配した芹澤は、一晩中、二人のことを探し回っていたらしい。
「携帯は繋がらないし、自宅は留守だし――いや、居留守ですね」
「芹澤さん……」
芹澤の目の下にうっすら隈ができている。
「松本くんの具合が悪くなったんじゃないかと思って、山路くんと一晩中、あちこちの病院を回って……おかげで近隣の病院の情報は完璧になりましたよ!」
「芹澤さん……すみません……」
全面的に夏樹が悪いわけではないが、芹澤が一晩中夏樹のことを探してくれていたと聞いて、夏樹は申し訳なさでいっぱいになった。
「松本くん……本当にあなたは良い子ですね……」
普段、久志から真摯に謝られたことなどないのだろう。芹澤は夏樹の謝罪の言葉に感動したように言葉を詰まらせた。
夏樹のことを抱きしめている芹澤を久志が横目でちらりと見る。
「良かったじゃないか。病院の情報も覚えたし、山路と一晩中一緒に過ごせたんだろう?」
全く反省の色のない様子で久志がスーツを羽織る。
「夏樹、仕事は休みなさい。出来るだけ早く帰るから、今日はおとなしくしているように――夏樹?」
「――――です」
「ん?」
「俺、今の久志さん、嫌いです」
「…………え?」
「俺と久志さんが突然いなくなって、芹澤さん、すごく心配してくれて……一晩中探してくれていたのに……山路さんだって……なのに、久志さん全然分かってないです。俺、思いやりのない人なんて嫌いです」
「…………夏樹?」
夏樹からの嫌い宣言に、久志の顔色がなくなる。
「えっ? どうしたんだ? 夏樹……?」
言われた意味が飲み込めないのか、久志が何度か夏樹に呼びかける。だが、夏樹は久志のことなど知らんぷりで布団の中へ潜り込んでしまった。
「夏樹……」
「久志さん、行きますよ」
まさか夏樹から拒まれるとは思っていなかったのだろう。
魂が抜けたように表情をなくしている久志は、芹澤に引きずられるようにして部屋を後にした。
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