58 お兄さんな気分4
「理央くん、足っ……速い……っ」
それほど距離はないのに、ちょっと走っただけで夏樹は息を切らせてしまった。
営業にいた頃とは違って、秘書課へ移動になってからは内勤ばかり。しかも会社へは車での送迎つきのため、ここ数か月、夏樹は運動らしい運動をしていない。
体力には結構自信があったのに、たった数十メートル走っただけでバテてしまう自分の体力のなさに、夏樹は唖然としてしまった。
(こんなことなら、山路さんみたいにエレベーターを使わず、階段だけで頑張ればよかった……)
「大丈夫ですか?」
うずくまったまま、呼吸を整えている夏樹のもとへ理央が心配そうに近づき、その手が夏樹の肩にそっと触れた。
「――夏樹さん?」
「ごめん、大丈夫。情けないなあ……ちょっと走っただけなのに」
苦笑いを浮かべながら立ち上がろうとする夏樹へ理央が手を貸す。
「大丈夫だよ。いくら何でも立てないなんて――っ、あれっ!?」
夏樹の足に力が入らない。立ち上がりかけたが、また地面にへたり込んでしまった。
「あれ? どうしたんだろ。足に力が入らない」
「ほら、夏樹さん、無理しないでください」
理央は夏樹の腕を自分の肩に回すと、ベンチまでゆっくりと夏樹に付き添った。
「ごめん、理央くん」
「謝らないでください。夏樹さんは悪くないです」
「だけど、俺の足どうしちゃったんだろ……」
「足だけですか?」
「え?」
思うように力が入らなかったのは足だけだが、どうして理央はそんなことを聞くのだろう。夏樹が首を傾げる。
「何でもないです。それより、今日は夏樹さんに聞いてもらいたいことがあったんですが……いいですか?」
「うん、いいよ」
「あの、実は僕……」
そこまで言って、理央は黙りこくってしまった。
よほど言いづらいことなのだろうか、理央は口を閉ざしたままだ。
悩みがあるなら聞いてあげたいが、言いづらいことを無理やり聞き出すのもどうかと思う。夏樹は理央が話したくなるまで待った。
「あの、僕……」
しばらくしてやっと理央の口が開く。
「僕、男の人しか好きになれないんです」
「――――はい?」
夏樹はこてんと首を傾げた。
「ええっと……理央、くん?」
「はい」
「ごめん、よく聞こえなかったんだけど」
「はい。僕、恋愛対象が男なんです」
夏樹の目を真っ直ぐ見つめながら理央は言った。
「突然こんなことを聞かされても驚くだけですよね。でも、お兄さんのように思っている夏樹さんには知っていてもらいたくて」
理央から発せられた兄という言葉に夏樹ははっと我に返った。
偶然とはいえ、自分の周りのホモ率の高さに驚いている場合ではなかった。可愛い弟が大切なことを打ち明けてくれているというのに、兄としてしっかりしないといけない。
それに夏樹には、自分の性癖を打ち明けている理央の気持ちが痛いほどわかる。夏樹だって理央と同じなのだ。
「理央くん、大丈夫だよ。君がどんな人間だって、俺にとって君は弟みたいな存在だ。それはずっと変わらないよ」
「――夏樹さん……兄さんって呼んでもいいですか?」
夏樹がいいよと頷くと、理央は感極まったように「兄さん」と言いながら夏樹に抱きついてきた。夏樹は理央の体をしっかりと抱きとめ、兄と呼ばれた嬉しさを噛みしめる。
「ええっと……理央くん?」
「はい」
「何をしているのかな?」
夏樹に抱きつく理央の手が、意味深な動きで夏樹の脇腹から腰にかけてのラインを撫でている。
「気持ちいいなと思って。僕、逞しすぎる人って苦手なんです。兄さんの体って、あんまり筋肉もついてないし……すごくいい感じだなって」
そう言いながらも理央の手の動きは止まらない。夏樹はなんだか少し変な気分になってきた。
「ちょ、理央くん、そろそろ止めてくれないかな……っ」
微妙に体を捩りながら夏樹が言うと、理央の手がぴたりと止まった。
「僕が触ったら気持ち悪いですか?」
「え? き、気持ち悪いってわけじゃないけど」
変に気持ちがいいから困っているのだ。
「僕はもっと兄弟のスキンシップを図りたいです……ダメ? 兄さん」
「――――っ」
夏樹の腰へ手を回したまま、理央が甘えたように首を傾げる。
さらに上目使いで見つめられ、夏樹はダメだと言えなくなってしまった。
「ち、ちょっとだけ……あとちょっとなら、いい……よ」
「ありがとう! 兄さん、大好き!」
「う、わっ!」
理央に飛びつかれて、夏樹はベンチの上でバランスを崩した。体を支えようとベンチの座面に片手をついたが、足と同じようになぜか腕にも力が入らない。
夏樹は理央に抱きつかれたままベンチに倒れ込んでしまった。
「夏樹さん、大丈夫?」
ベンチの座面に横たわった夏樹をすぐ側から理央が見下ろしている。
「だ、大丈夫……じゃ、ないかも。どうしたのかな、腕にも力が入らないんだけど」
「おかしいですね。足だけじゃなくて腕も動かないなんて」
「理央くん?」
クスクスと笑いながら、理央が夏樹の首筋に顔を埋めた。
「夏樹さん、ごめんなさい。夏樹さんの足とか手が動かないのは僕のせいなんだ」
「えっ?」
「カフェオレとかビーフシチューとかに薬、入れちゃった」
「理央くんっ?」
「一度に混ぜたら味が変わっちゃうかと思って、少しずつ分けて入れたんだ」
「な、んで……んあっ」
夏樹の首筋に理央の舌先が触れ、それは耳の後ろから首の付け根に向かってゆっくりと滑り降りた。
「おれの、こと……だ、まし、た?」
「嘘はついてないよ。男の人が好きなのも、夏樹さんのことが好きなのも本当。彼の気持ちもわかるなあ。僕も夏樹さんのこと欲しくなっちゃった」
「り、おく……」
「効いてきたみたいだね」
「…………」
夏樹は一生懸命に目を見開いたが、至近距離にあるはずの理央の顔はぼやけ、辺りは薄墨をかけたように徐々に暗くなっていく。色々と理央に言いたいことや聞きたいことがあるのに、声が出ない。
やがて夏樹は意識を手放した。
「夏樹さん、寝ちゃった?」
「…………」
「なんだ。つまんない、もうちょっと夏樹さんと遊びたかったのに」
理央は夏樹の髪をそっと撫でながら携帯を取り出した。
「あ、青嶋のおじさま? 僕、理央だけど。渉さんから聞いてるよね」
『……』
「うん、そうだよ。駅の近くのベンチにいるんだ。迎えに来てよ」
『……』
「ありがと。じゃあ、待ってるね。おじさま」
にっこりと笑いながら理央は通話を切った。
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