55 お兄さんな気分1
部屋の中に引きこもっていても、お腹は空いてくる。
夏樹は、こんな時でさえ空腹を覚える自分に呆れつつ、ソファの上から体を起こした。
「お腹すいた……」
昨夜、久志から「会いたい」といった内容のメールが届いた。いつもはちみつをたっぷりとかけたパンケーキのように甘い言葉ばかりを、こっちが恥ずかしくなるくらいに言ってくるのに、昨夜のメールは久志にしてはかなりシンプルな内容だった。
それでも久しぶりの久志からの直接の言葉に、なんと返せばいいのか夏樹はさんざん悩んだ挙句「僕もです」とだけ返信した。
無事に逃げ出せたものの、青嶋から連れ去られたり監禁されたりとショックな出来事があって、本当は久志に早く帰ってきて側にいてほしいと伝えたかったができなかった。
久志は気にしていないと言ってはいるが、男同士というだけで夏樹には多少の後ろめたさがあって、これ以上自分が久志の邪魔になりたくはない。
「まだ何かあったっけ」
ふらりと立ち上がり、冷蔵庫の扉を開けてみる。
冷蔵庫の中には夏樹の好きなコーヒーゼリーがひとつ入っていた。
「……最後の一個」
まだ久志が留守がちになる前、夏樹が冷蔵庫を開けると中にずらりとコーヒーゼリーが並んでいた。
どうやら夏樹のことを驚かせようと久志がこっそり入れたらしく、驚きながらも夏樹が「何やってるんですか!」と久志に言うと、嬉しそうに「全部、君のだ」と言ってぎゅっと夏樹のことを抱きしめた。
その時久志と一緒に食べたコーヒーゼリーは、夏樹が今まで食べたどのコーヒーゼリーよりも美味しかったのを覚えている。
「…………」
コーヒーゼリーは大好きだが、ひとりだと何となく食べる気になれない。夏樹はため息をつくと、冷蔵庫の扉をそっと閉じた。
「やっぱり何か買いに行こう」
ただ、あまり遠くの店に行くのはさすがに怖いので、久志のマンションの向かいにあるベーカリーへ行くことにした。
念のためパーカーのフードを目深に被り、顔の半分をマスクで隠す。
「大丈夫だよね」
一応、マンションのコンシェルジュに二十分ほど出かけますと声をかけ、ポケットの携帯も確認する。
さらに入口から顔だけを出し、キョロキョロと辺りの様子を窺う。そうして怪しげな人物や車がいないのを確認すると、夏樹は小走でマンションの入口から飛び出した。
「――うわっ!」
勢いよく飛び出した夏樹が誰かとぶつかった。
ぶつかったのは確かだが、いつもよりも衝撃が少ない。もしかしたら相手は女の人だったのかもと、夏樹はあわてて起き上がった。
確かに夏樹は小柄だが、それでも一応成人男性だ。相手の女性がケガでもしていたら大変だと、慌てて駆け寄った。
ちなみに夏樹は女性の園である秘書課の中で一番小柄だ。小さいのに働き者なので、秘書課のお姉さま方からは密かに小人さんと呼ばれている。
「だっ、大丈夫ですかっ!?」
相手も夏樹と同じように、地面に尻餅をついていた。
「――大丈夫、です」
「それならよかった……って、えっ?」
女性にしてはハスキーな低音ボイスに夏樹が目を瞠る。
「すみません、僕、ちょっと急いでて前をよく見てませんでした」
「あ、いや……こっちこそ、ごめん。俺も慌てて飛び出したから」
地面に座ったまま二人が顔を合わせる。
夏樹が女性だとばかり思っていたのは、夏樹と同じくらいに小柄な男の子だった。それに、着ている制服に見覚えがある。
「あの、もしかして君、桜が丘学院の学生さん?」
「はい。そうですが……」
学生が夏樹のことを訝しげに見た。
「あ、ごめん。実は仕事でこの間まで桜が丘に行ってたから、つい」
「お仕事、ですか」
「うん……そうだ、これ名刺。もしかしたら後でどこか痛くなるといけないから。何かあったら連絡して」
夏樹が財布の中から取り出した名刺を、学生が受け取る。
「肩書きは秘書課になってるけど、この間まで営業で桜が丘に行ってたんだ」
「――そうですか」
「ぶつかってて悪いんだけど、俺もちょっと急いでるんだ。君は大丈夫?」
「あ、そうでした。電車の時間……えっと、それじゃあ僕も一応、名前を」
学生が胸ポケットから出した学生証を夏樹の前に開いた。
「えっと、えんどう……りお、くん?」
「はい。遠藤理央といいます、桜が丘の三年です」
「うん、わかった。大丈夫そうだけど気をつけて」
遠藤理央と名乗った学生は、夏樹にぺこりと頭を下げると駅の方へと走って行った。
「可愛らしい子だなあ。あれだけ可愛いなら、気を付けないと変な人に目をつけられちゃうよ」
駅へと走る学生の背中を見送りながら夏樹が呟く。
きっと修一がこの場にいたら「お前の方が危ないわ」と夏樹の頭を叩いたことだろう。
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