43 頑張る男と伝わらない気持ち2



「松本くん、ちょっといいですか?」

「はい」


 芹澤に呼ばれて夏樹が顔をあげた。


「専務なのですが、昨日の方とちょっと込み入ったことになりまして、明後日の出張まで帰宅できそうにありません。恐らく出張へもそのまま行くことになりそうなので、先にお伝えしておきますね」

「……はあ」

「今日、着替えなどを私が取りに伺いますので、準備をしておいて貰ってもいいでしょうか」

「わかりました……あの」

「はい?」

「ひさ、専務は今どこにいらっしゃるんですか?」


 久志が数日帰宅できないのはわかった。

 一緒にいる相手のことはとても気になるが、プライベートのことを根掘り葉掘り聞くのは憚られる。だが、どこにいるのくらいは聞いてもいいだろう。


「それは……」


 はっきりとものを言う芹澤が珍しく言葉を濁している。余程、夏樹に言いにくいことなのだろうか。

 夏樹の頭の中に『浮気』の二文字が浮かび上がる。夏樹は頭の中に浮かんだ文字を振り切るようにふるふると頭を振った。


「松本くん? どうかしましたか?」

「や、いえ……何でもありません」


 だが、頭を振ったくらいで一旦浮かんだ疑惑がそう簡単に消えてなくなるわけでもなく、夏樹は芹澤から目を背けた。

 実際の所、久志は浮気などしていない。夏樹専用着ぐるみの製作に久志がこだわるあまり、野添のところを離れられなくなってしまったのだ。


(松本くん)


 普段から明るい夏樹の表情が沈んでいる。恐らく久志のことが気になっているのだろう。

 元気のない夏樹のことは気にかかるが、着ぐるみの件は久志から固く口止めされているため、芹澤も夏樹に何と説明したらいいものか、つい言葉に迷ってしまう。


「あ、言えないならいいです。ちょっと気になっただけなので」

「すみません。隠すつもりはないんですが、専務から口止めされておりますので」


 申し訳なさそうに言う芹澤に、夏樹は精一杯の笑顔で大丈夫ですよと明るく答えた。


「全く……あの人は、夢中になると他のことが目に入らなくなるんです。振り回される私の身にもなってもらいたいです」


 つい久志に対する愚痴が芹澤の口から零れる。


「まあ、しばらくしたら落ち着くと……あ、すみません。電話です」


 ふいに聞こえた着信音に、芹澤がスーツの内ポケットから携帯を取り出した。


「はい……専務ですか? 何をやってるんですか、予定より一時間遅れてるんですよ。今さらあなたが夢中になるのを私は止めませんが、仕事に支障をきたすのは感心しません。早く戻ってください……は? ファスナーが壊れた?」


 一応、声は潜めているが、夏樹のすぐ隣で電話の受け答えをしているため芹澤の声がしっかりと聞こえてしまう。


「何やってるんですか……また、可愛らしいからって勢い余って乱暴に扱ったんじゃないんですか?」


 電話の向こうにいる久志に、呆れたような声で告げる芹澤のため息が聞こえ、夏樹は思わずびくりと肩を揺らしてしまった。


「わかりました。あと三十分待ってあげますから、きちんと片付けてからいらしてください。あんな人でも、一応有能な方ですので失礼にならないようにしてくださいよ」


 それからしばらく久志とやり取りをして、芹澤は携帯をスーツのポケットにしまった。


「失礼しました――松本くん?」

「あ、はいっ!」

「そういう訳ですので。専務の着替えの方、お願いしますね」


 そう言うと、芹澤は忙しそうに自分の机に戻って行った。久志が予定時刻より遅れそうなので、今後の予定を調整しないといけないのだろう。

 うっかり久志と芹澤との電話のやり取りを聞いてしまい、またもや夏樹の気分が下降の一途をたどる。


(相手の人は可愛いだけではなくて、芹澤さんが認めるほど有能な人なんだ……)


 もうこれは、とてもじゃないが太刀打ちできないなあと、失恋の記録更新が確定的になったことに夏樹はやるせない気持ちになってしまった。

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