机上の空、論。

青波零也

ある夏の終わり

夏の終わり、君と

 ――一〇七七年、熱の月


 

「空は決して、自由なんかじゃない」

 それが、友達の口癖だった。

 その人は、夏の終わり、空とリベルの町並みが見渡せる丘の公園にいて……必ず古びた長椅子に腰掛けて、立ちのぼる入道雲を見つめていた。

 別に、約束していたわけじゃない。いつ、何処でまた会おうなんて言ったわけでなければ、来年も同じ日に来るとも言ってはいなかったにも関わらず、友達はいつも律儀に同じ日に、同じ場所に座っていた。

 果たして、その人がどうしてそうしていたのかは今でもわからない。自分を待っていたのか、それとも別の誰かを待っていたのか、そもそも人を待っていたのかすらもわからないまま……ただ、友達はそこにいて空を見上げていた。

 自分はいつもその横で、一緒になって空を仰いでいたのだと思い出す。

 友達は真っ直ぐに空に向かって手を伸ばして、淡々と言ったものだった。

「こうして見上げるだけなら何もかもから解放された場所に見えるのに、目には見えない力が常に人を拒んでる。気圧、重力、それに楽園から何人たりとも逃そうとしない女神ユーリスの視線――魔法じゃ決して届かない、限りない不自由の場。それが空ってもんだ」

 見てみろよ、と短い指で示す先には、青空を悠々と舞う白い鳩。

「だから鳥は、空を飛ぶ能力を手に入れる代わりに、地面での自由を失った。そもそも、鳥にとっちゃ空を飛べることが『自由』ですらねえ可能性すらある。奴らは必要に応じて『進化』を遂げて、結果的にあの形になった……ってのは、流石に異端の理論に過ぎるかもしれねえけどさ」

 友達は、頭の固い神官のおっさんに聞かれたら、絶対に影追いを呼ばれるようなことも平気で言葉にしてしまう人だった。実際に異端研究者なのだということは、出会ってから一年後の夏に聞かせてもらったから、以来友達の突飛な言葉には驚くこともなかったけれど。

 進化、という言葉だって、友達から聞いて初めて知った言葉だ。楽園の全ての生き物は女神ユーリスが創った存在のはずで、動物が違う動物に変わっていくなんて考え方、今まで誰からも聞いたことなかった。時間の流れと度重なる変化の果てに猿が人になったなんて、にわかには信じられないに決まってる。

 そう思って頬を膨らませていると、友達は「もちろん信じなくていいんだ」って笑ったんだった。これは俺たちのような異端研究者の考え方で、それが必ずしも正しいとも限らないのだから、って言って。

「それなら、何が正しいんだよ?」

 そう聞いた時には、友達はけらけらと笑って言い切った。

「お前が正しいと思ったことが、一番正しい」

 けれど、決して独りよがりになってはいけないのだ、と。あくまで、色々なものを見て、色々なことを感じて。その結果、自分が選び取った答えを大切にすることだ……そんな風に、唐突に兄貴面して説教くさいことを言い出す人でもあった。

 それが、もし歴史学の口うるさいヒーガル爺さんなんかに言われたことだったら、耳を塞いで聞かなかったことにしたところだけど、友達が言うことは不思議といつになってもこの胸の中に引っかかっている。

 人とは違う物差しでものを測り、自由の象徴である青空を不自由だと言ってはばからない友達は、だけどいつだって夢見るような目つきで空を見上げていた。

「限りなく不自由で、限りなく遠い。空ってのは、人にとっていつだって無慈悲だった。人の気持ちなんて知らずに風は流れるし雨も降る」

 そこには、女神ユーリスの御心すら介在しない……そう言われた時には、不思議と心臓が高鳴ったのを覚えている。今だって、友達の言葉を思い出すだけで、胸がぎゅっとなる。

 友達はいつも人の心が致命的にわからないとうそぶくけれど、それでいて激しく高鳴るこの胸の内を誰よりも確かに理解していたのだと思う。

「だからこそ、人はいつだって誰の思い通りにならねえ空を目指す。己のものにしようとする。もし、自由に出来るものなら、空はここまで人を魅了しなかったと思う」

 空に向かって伸ばした手を握り締め、風に長い髪と緑色の守り布を靡かせ、友達は子供みたいに笑う。

「俺様も、お前も、それにこの町に来て去っていった『空狂い』たちも。空の不自由に魅せられちまった馬鹿野郎どもだ、そうだろ?」

 友達と同じリボンを巻いた手を真似して伸ばして、強く頷く。

 空に手が届くはずもない、何が掴めるわけでもない、わかっていても伸ばさずにはいられない。空を行き交う丸い形の色とりどりの飛空艇は、まるで海の中を泳ぐ魚のようだった。

「ま、飛べば飛んだで人は更にその先を求めるんだがな。もっと速く、もっと自由に。果てには、この楽園の終わる場所を目指して」

 『空狂い』の始祖、『飛空偏執狂』シェル・ブルー・ウェイヴから始まった飛空艇の歴史は三百年にも及ぶ。けれども飛空艇そのものはこれだけの年を経てもほとんど変わってはいない。小型化と高速化は進むけれど、ウェイヴ型の完成度とその限界からは逃れられずにいる。

 歴代の『空狂い』たちはウェイヴ型よりも更に速く、遠くまで飛べる形を求め続けたが、今もなお果たせていない……その事実を残念に思うと同時に「それでよかった」と思う自分もいる。

 誰も果たせなかったということは、自分が果たせる可能性もあるということ。

 そうだ、だからその時、友達にはこう言ったのだった。

「飛んでみせるよ。誰よりも速く、誰よりも自由に……誰よりも、遠い場所へ」

 風が強く吹いて、青空に映えたリボンの鮮やかな緑が、今でも目蓋の裏に蘇る。

 笑われるだろうか、と途端に不安になったことも覚えている。友達はいつも愉快そうに笑っているから、この時も子供の戯言だと笑われておかしくないと思って。恐る恐る友達の横顔を見て……

 友達が、空に伸ばしていた腕で、くしゃりとこちらの頭を撫でた。

 その時の友達は笑ってはいなかった。いつになく真面目な、鋭い表情をしていて。

「飛んでくれるか?」

「……え?」

「本当に飛ぶ気なら、一つ、いいことを教えてやろう」

 友達はゆっくりと椅子から立ち上がった。深い緑の草を踏んで、一歩前に。

 丘の上から見下ろす町は何もかもが小さく見える。黒々とした魔王の城址も小さな岩山にしか見えないし、学校の建物なんてまるで積み木の城だった。

 そんなおもちゃの町を見下ろして、友達はしゃがれているのによく通る声で言った。

「この町には、歴代の『空狂い』に輪をかけた『空狂い』の『宝』が隠されている」

「輪をかけた『空狂い』、って……!」

 それが「誰」なのか知らないはずがない。部長には何度も聞かされたし、町の人たちだって当然大声では話さないけれど、彼のことを知らない人はいなかった。

 今から十年以上前、この町に確かに存在した『飛空偏執狂』……リベル上級学校航空部、初代部長。

「初代とその仲間は、お前みたいな奴をずっと待ってたんだ。空の不自由に、越えられない壁に挑もうという阿呆に、同じ『空狂い』として挑戦状を叩きつけてきた」

 振り向いた友達は、不敵に笑っていた。きっと、こっちの顔も同じようなものだったと思う。

「奴らの『宝』はほとんどの奴にとってはゴミみたいなもんだが……お前が本気で飛ぶ気なら、きっと力にはなってくれるはずだ」

「それは……何なんだ?」

 その問いに、友達はとびきりの笑顔で答えた。


「『机上の空』さ」

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