第5話 酔夢春秋


 天王寺のや ようれぼしを 見ばや――


 はらはらと山桜散る深山みやまの奥の<天狗の庭>で、謡い踊るは小天狗一匹。十一、二ばかりの蓬髪の童子の姿をしているが、膚は赤銅、眼は金泥、濡羽色の翼と尖った口吻を持つ鴉天狗だ。名を、酔夢すいむ童子という。

 京の都は愛宕あたごの山での修行時代に習いおぼえた弱法師よろぼし舞の、見物客は狐に狸に鹿に熊、猿に鼬にむささび、ヤマネ、栗鼠に兎に色とりどりの小鳥たち。常には食うものと食われるものであっても、ここ<天狗の庭>では争わず、仲良く並んで舞を観る。空洞になった朽木の上で兎が後足を踏み鳴らして鼓となせば啄木鳥が音高く木を打って拍子を取り、鳥たちが高く低く笛の音を添えて、山に分け入り聞くものがもしあれば、これを天狗囃子と言うだろう。


 酔夢童子はこの山の、火伏せの司だ。幾百年の昔、この山に轟音立てて落ちた火球の火花から、たまさかにぽっと生まれた無縁の孤児を、愛宕山の大天狗太郎坊が見出して引き受け、名づけ、眷属となし、己の落ちたゆかりの山の護りに任じたのだ。

 童子は、己が意識を得た日のことを覚えている。気がつくとこの山にいて、まだこの世のものとなりきっていないゆえに腹も空かず、流星火球の申し子にして未だ火花の名残をぱちぱちと膚に纏っていては寒さを感じるわけもなく、己が背中に小さな羽持つ赤子の姿をしていることも、裸であることも認識せぬまま、ただぺったりと草に座し、足元を行き来する蟻の行列など眺めて無為な幾昼夜かを過ごしていると、ふと羽ばたきの音がして頭上に影が落ち、つむじ風引き連れて目の前に降り立ったのは、頭巾に結袈裟、身の丈八尺もあろうかという魁偉な偉丈夫。とはいえ赤子のこと、最初に目に映ったのは一本歯の高下駄を履き脚絆を巻いた脚だけだ。そこから山伏装束の胴を辿って延々視線を上げてゆけば、ようやく見えてきたのは真っ赤な顔に長い鼻。太郎坊が寄越した迎えの天狗だった。下から見上げたその鼻の、鼻の穴は根本のほうにあるのをただ物珍しく眺めていると、大天狗は裸の赤子を見下ろして、厳つい顔をくしゃりと崩した。

「まんず、めんこいのう」

 破顔一笑、猫の仔をつまむように赤子を抱き上げ、巨大な鳶の翼をばさりと打ち広げる。

 赤子を胸に抱き、迎えの天狗は愛宕に飛んだ。

 今思えば畏れ多いことに、太郎坊の命を受けて迎えの役を努めてくれたその天狗は近隣の名のある山の主であったろうが、赤子だった童子は何も知らぬまま、腕に抱かれて飛びながら、振り仰げば目に入る立派な鼻の穴の中に鼻毛を見つけて引っ張ろうとして大天狗にくしゃみをさせたり、結袈裟ゆいげさ鈴懸すずかけをさんざん弄りまわしたり、あまつさえ、しゃぶってみたりしたものだ。高位の大天狗様の有り難い袈裟に涎をつけたと思い至れば、今になって恥ずかしさと申し訳無さに顔から火が出る心地だ。

 赤子とはいえ天狗の仔のこと、人の子のように乳を飲んだり襁褓むつきを当てる必要もなく、愛宕の山に迎え入れられてほんの数日で申し訳程度だった背中の羽もすっかり伸びて六、七歳ばかりの童の姿になり、太郎坊の小姓を勤めながらその薫陶を受け、さまざまな秘術呪法を授けられ火伏せの技を修行して、晴れて一人前の山の護りに任ぜられ、それから長の年月を経て今では十一、二に見えるまで育ったとはいえ未だ童子の姿なのは、そういう性なのであろう。座敷童がいつまでも童の姿であり山爺が最初から老人の姿であるのと同じように。

 童子に化けているのではなくそういう性なのであるから、見た目だけでなく、心のありようも永遠に童子のままだ。勝手気ままに爆ぜまわる火花の勢いもそのままに、枝から枝へと飛び移りながら宙返りの曲芸飛行、獣たちと相撲や走りっくら、山に立ち入る里人にあれこれ悪戯を仕掛けて面白がったり、猿どもに献上された甘い猿酒に酔って天狗松の枝から転げ落ちてみたり、毎日毎日、そんなふうに遊び惚けてやんちゃ放題、面白おかしく暮らしながらも、母猿が仔猿を負う様を羨ましく眺めては母なき我が身を密かに憐れむこともあり、時には樹上のねぐらの中で幼い時分に共に学んだ兄弟弟子たちを懐かしみ、父とも師とも慕う太郎坊を恋しがって柿衣かきぞの袖を濡らす夜もある。

 山にも友はいる――獣たち、鳥たち、なかでも姿が似ているよしみで近習きんじゅに取り立ててやった鴉たち。

 けれどいきものたちの命は短い。

 酔夢童子は、死んだもののことはすぐにみな忘れてしまう。代々の鴉の頭目を勘三郎と名づけているが、前の勘三郎が死んだことはすぐ忘れるし、前の勘三郎と今の勘三郎の区別も付かぬから、まるでいつも同じ鴉が傍にいる気分でいる。本当は、わざと区別を付けぬようにしているのだ。そうでないと寂しくなるから。どうせ鴉はみな同じような顔だ。

 今日も今日とて取り巻きの鴉どもを引き連れて山を見回りがてら気が向くままに悪戯三昧、塒に戻れば猿酒を嘗めながらほろ苦い木の芽草の芽や柔らかな花びらをたらふく食って、ほろ酔い気分で一つ覚えの弱法師舞。空一面に枝を広げた山桜の古木の下、酔ってよろける足取りも面白く、獣たちのやんやの喝采に大得意だ。舞を収めてふんぞり返る、その尖った口吻に、伸び放題のざんばら髪に、白い花びらが降りかかり、色とりどりの芽吹きに山桜の薄紅、海老茶を滲ませて朧に霞む山々は、今まさに春もたけなわの景色であった。


 と、重々しい羽音が鳴り響き、風を切って童子の前に降り立ったのは、威風当たりを払う大天狗、その名も高き愛宕山太郎坊。左手に羽団扇、右手に立派な錫杖を突いて仁王立ち、眼光炯々と周囲を睥睨すれば獣たちは軒並みさっと平伏し、童子も慌てて膝をつき頭を垂れる。そうしながらも、瞳は喜びに輝き、敬慕と尊崇のあまりうっとりと潤んで、懐かしい師の姿を前髪の下から盗み見ずにはいられない。

「太郎坊様」

「良い、良い、立ちなさい」

 莞爾と笑み、鷹揚に促せば、童子はぴょんと立ち上がり、もじもじと太郎坊に向かい合う。

「富士山で集会があったゆえ、足を伸ばして様子を見に寄ったのだ。よく務めておるようだの。里人たちはおまえを崇めてくれておるか」

「はい。いつも祠に団子や饅頭を供えてくれます。時々は餅も」

 いつぞや供えてもらったあんころ餅の味を思い出して、思わず口の中に唾が沸く。天狗はものを食わなくても死なないが、戯れに美味いものを食べるのは、生き飽きるほど長い年月の中での大きな楽しみだ。

 太郎坊は呵呵と笑った。

「善き哉、善き哉。人間たちが礼を尽くしておまえを頼ってくれるなら、その人間たちを、おまえが守ってやるのだぞ。しっかり励めよ」

「はい、太郎坊様」

 久方ぶりに師とまみえた喜びで有頂天、元気よく応える童子の頭を、太郎坊の大きな掌がくしゃりと撫でる。そのうちにまた立ち寄ろう、息災でおれと言い残し、翼を広げた太郎坊は雲を踏み峰を蹴って翔り去ったが、再びの別れの寂しさが童子の胸に落ちてくるのは、もう少し後のことだ。今はまだ、思いがけない来臨を得た驚きと喜びと、頭を撫でてもらった嬉しさで体中がいっぱいで、童子は地を蹴って飛び上がり、桜の枝々をすり抜け、樹冠の上に飛び出して、嬉しさのあまり、くるりくるりと宙返り。旋風に巻き込まれて舞い上がった花吹雪が、うららの陽射しに輝きながら、春のなかぞらを漂うのだった。




 天狗の棲まう深山しんざんは、夏のさなかもひんやり昏い。幽谷ゆうこくを穿つ渓流は涼やかにせせらぎ、岸辺の苔に水滴を飾る。鬱蒼たる巨木に囲まれた<天狗の庭>で、天狗松の枝に寝そべって退屈していた童子は、ふと気まぐれを起こし、里の外れの天狗の祠に降りてみることにした。里人が団子を供えた気配があったのだ。

 里人が祠に供える供物は、たいていは狐や狸にくれてやるのだが、好物の団子や餅なら、たまに気が向けば自分で食べる。初夏の間、陽の差し込む川縁や崖際にふんだんに熟していた山桑や木苺もすっかり終わり、猿梨や山葡萄にはまだ早いこの季節、<天狗の庭>に一年中青く実っているアケビは、いくら甘くても食い飽きた。たまには人の食べ物も良いものだ。人間が供えた食物には彼らの祈りが篭っているから、天狗にとって、山で採れたものにはない格別の滋養がある。

 団子のふくよかな匂いに鼻孔をひくつかせながら上機嫌で祠近くまで飛んできた童子は、子供の泣き声に気づいて杉の木の上に隠れた。見れば、祠の傍らで、四つ五つばかりの童女が、ぐずぐずとしゃくりあげている。近くの枝で様子を伺っていた鴉に問えば、仲間と遊びに行く兄についていこうとした幼い妹が邪魔になるからと置き去りにされて泣いているのだと言う。木の間に隠れにしげしげと眺めれば、汚れた手の甲で擦った顔に泥がついて柔らかそうな頬っぺたに涙の跡が筋になっているのもいじらしく、つい哀れを催して声をかけようとした童子は、そこで思い至った。我が身には背中の羽と尖った嘴がある。膚の色も眼の色も違う。こんな幼子でも一目で天狗と気づくだろう。自分は今まで里人たちを山火から守ってきたが、その一方で、退屈しのぎにさんざんからかい、天狗倒しや天狗礫つぶてで怖がらせてきた。天狗の姿で声をかけては、恐れられるのではないか。

 いったん山に戻り、崖の白土を唾で溶いて膚に塗り、天狗真言を唱えながらつるりと顔を撫で上げれば、嘴が消えたその顔は意外やなかなかの美童だが、鬼神の証の金泥の眼は変えられず、しかたなく、好き勝手に跳ねていた前髪を引っ張り下ろして目元を隠す。ふたたび祠に飛び戻ると、箕を羽織って背中の羽を隠し、内心で我にもなく気後れしながらも務めて気安げな素振りで童女に声をかけた。

「兄ちゃんに置いていかれたんだって?」

 洟をすすりながら頷き、兄の仕打ちを回らぬ舌で切れ切れに訴える童女に、胸を高鳴らせながら言う。

「そんな非道い兄ちゃんは、もう放っておけよ。おいらがかわりにおまえの兄ちゃんになってやる。おいらはぜったいおまえを置き去りになんかしないで、いつでもいっぱい遊んでやるよ。甘いアケビもたらふく食わせてやるし、イワナも獲って焼いてやろう」

 童女はぽかんと童子を見上げ、小さく口を開けたままこくりと頷いた――泣きすぎて鼻が詰まっていて、口を閉じられなかったのだ。

 酔夢童子はもう、そんな童女が可愛くてしかたがない。ちさと名乗ったその娘をひょいと抱きあげ、ちぃと目をつぶっていろよと声をかけて空を一飛び、<天狗の庭>に連れ帰って約束通りアケビを食わせてやると、ちさは他愛もなく泣き止んだ。

 それからふたりは一緒に沢蟹を追い、沢の水をはねかして笑い転げ、立木や倒木の間を走り回って隠れんぼうや鬼ごっこ。ふたりで摘んだ花を、童子はちさの髪に飾ってやった。やがて遊び疲れたちさを祠の傍に送り届け、明日の遊びの約束をして山に戻る道すがら、隠れ蓑で姿を消して空を飛びながら、遊び仲間ができた嬉しさに、童子は腹の底から哄笑した。天から降るその声を聞いたものは、天狗笑いと畏れただろう。




 そんな日々を繰り返すうちに夏は過ぎ、木々の葉は色づき始めた。そうなれば山葡萄も猿梨も熟し、茸採りに栗拾いと、ちさと童子の山遊びの楽しみは更に尽きない。

 けれどやがて紅葉が火のように燃えたちはじめた頃、もう一つの火が山裾に生じた。

「童子、童子、大変、大変、西の裾野が燃えてるよ!」

 慌てふためいてカアカア喚く勘三郎に午睡の夢を覚まされた童子は、羽団扇をひっつかんで火事場に飛んだ。空の上から見下ろせば、山火が赤く黒く裾野を舐め、いましもちさの住む里に迫ろうとしている。

 燃え盛る火の上を飛びながら羽団扇を振れば、羽団扇は見る見る大きくなって轟々と旋風を巻き起こし、里に迫る火を押し返す。炎の勢いと、押し返す風の勢いがせめぎ合う。

 なりは小さくとも鬼神の金剛力、汗だくになりながら巨大な団扇をばさりばさりと打ち振り続ける童子の許に、偵察に放った勘三郎が戻ってきて耳元で叫んだ。

「大変だ、あっちでちさが逃げ遅れて火に巻かれてかけているよ!」

 すわこそ大事とすっ飛んでいった童子は、四方から迫る炎の渦の中で顔を煤だらけにして泣き惑うちさを見た。すぐに助けに飛び込もうとしてふと気づく。いつもは顔に白土を塗り、嘴と翼を隠しているのに、今の我が身は一目で知れる荒天狗。

 けれど逡巡は一瞬だった。ちさの命には代えられない。童子は一直線に火の海に飛び込み、炎をかいくぐってちさの体を掬い上げ、そのまま火の粉の届かぬ空高くまで昇ってゆく。腕の中でしゃくりあげるちさに、もう大丈夫だと声をかけ、延焼の心配のない風上の大木の股に座らせ、居合わせた栗鼠たちにお守りを命じると、すぐにまた火事場に戻り、火伏せにかかる。

 なんとか里の手前で火を食い止めた後もあたり一帯を飛び回って消え残りの火を見つけては鎮め、ようやっとすべての始末がついた夕刻、童子はちさを座らせた木に飛び戻った。いつものように顔を塗り、嘴と翼を隠そうかとも思ったが、どうせもう正体を見られているのだ、今さら隠したところでしかたがない。

 ちさは高い枝の上に心細げに座っていた。大役を仰せつかって張り切った栗鼠たちが、なんとかちさの機嫌を取ろうと必死になって膝の上ででんぐり返しや逆立ちを披露し、小鳥たちも肩に止まってちさを慰めている。童子が枝に降り立てば、ちさは声もなく抱きついてきた。

 煤だらけの衣に顔を埋めて啜り泣くその背中をさすってやりながら、「おいら本当は天狗なんだ。黙っててごめんよ」と言えば、ちさは小さくかぶりを振る。

「もう会えないけど、息災で」

 身を切る思いで告げた言葉に、ちさはきょとんと顔を上げた。

「どうして? もう遊んでくれないの?」

 無邪気な言葉に童子は面喰らった。

「おいらのこと怖くないのかい? おいら天狗なのに」

「怖くないよ。童子はやさしい天狗だもの。また一緒にお空を飛ばせてよ!」


 ちさを里まで送り届けた帰り道、隠れ蓑で姿を消して夕焼け空を飛びながら、酔夢童子の小さな胸は、これからもちさと遊べるという喜びでいっぱいだ。これまでに仲良くなって一緒に遊んだ里の子が、みな自分より先に大きくなって自分を忘れてしまったこと、それからあっという間に年を取って死んでしまったことなど、今はすっかり忘れている。明日も明後日も、可愛いちさと楽しく走り回って遊ぶのだ。冬になったら雪玉を投げて遊ぼう。雪で洞を作って、その中で餅など焼いて食わせてやろう――そんなことを考えるうちに胸の奥から湧き出した熱い喜びに突き動かされ、荒々しい歓声とともに轟音立ててきりもみ飛行、夕空高く駆け上がる。

 突風の煽りを食って舞い上がった幾千枚のもみじ葉が、赤に金にちらちらと翻りながらやがて静かに降り終えたその後は、綾錦なす山の上、燃えるような秋の夕焼けが、ただどこまでも広がるばかり。

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