第3章

濁り水1

 ゆるくウェーブのかかった銀の髪。丸みのある白い肌。ぱっちりした青い瞳と、上向きの長い睫毛、艶のあるピンク色の唇。小さなその体を包むのは、フリルをふんだんに使った薔薇色のドレスと、同色のヘッドドレスだ。

 テーブルの上に澄ました顔で鎮座する姿は、一見とても可愛らしい。

 それは可憐なビスクドールだった。

「……もう、どうしたらいいのか」

 ビスクドールの持ち主、オルガが疲れた表情で溜め息をついた。

「義母が毎晩悪夢を見るって言うのよ。内容はよく覚えていないみたい。この人形を買ってからなの」

「そう……」

 ソフィは眉根を寄せてビスクドールを見ている。

「これ、どこで買ったの?」

「ローズモンヌ通りにある人形屋ドール・ショップよ。出来はいいのに、すごく安かったから変だと思ったのよね」

 ソフィはビスクドールの衣装をゆるめ、背中を確認した。製作者の名が刻印されている――『オット・ハーゲン』。知らない名だ。決して腕は悪くないが、有名な作家でもないのだろう。

「朝起きると、少し位置が変わってたりするの。角度とか。なんだか見られてるような気もして、気味悪くて」

 ソフィはビスクドールを横に向けて視線を外した。美しい青い目が、ぬるりと動いてソフィを追う。

「……確かにこれは、ちょっと良くないものみたいだね」

「やっぱり? どうしよう、ソフィ。捨てたらもっとまずいかな?」

「私が引き取るよ。こっちで処分するから、安心して」

 言いながら、ソフィは戸棚の引き出しを開けて、チェーンに繋がれた木彫りのペンダントをオルガに渡す。

「念のため、二、三日これをドアの近くに提げておいて」

「分かったわ。でも、ソフィは大丈夫なの?」

「私は人形師だから。こういうのも仕事のうちだよ」

 オルガは抱きつかんばかりに感激し、何度も礼を言いながら帰っていった。

 ――残されたビスクドール。銀の髪に青い目。奇しくもソフィと同じである。もっとも、色合いは微妙に異なるが。

「うーん」

 ビスクドールは、ソフィが人形師であると気づいたらしい。ガラス玉の碧眼が見つめていた。物言いたげに、しかし何も語ることなく、ただ凝視している。

「話せるの?」

 人形は無言。

「言いたいことがあるの?」

 反応はない。

 青い目玉が淡白にソフィを映し続けるだけだった。

「……どうしたものかな」

 ソフィは難しい顔で天井を仰いだ。



 ――シテ……

 鈴が、かすかに震えるような声だった。

 ――シテ……

 徐々に泥の底から這い出してくる。

 ――シテ……スノ?

 耳を澄ました。

 だが、くぐもっていてよく聞き取れない。

 ――ド……シテ?

 それは銀色の蜘蛛の糸。

 ――ドウシテ……?

 それは夜闇の空洞のような青い光。

 ――……アサ……

 白い小さな手。

 ――ドウシテ……ノ?

 いつの間にか、そこは沼の底だった。

 息苦しさに喘ぎ、空気を求めて上を向く。

 瞬間。


『――ドウシテ殺スノ?』


 生々しい声が耳元で響いた。

「…………っ」

 ソフィは毛布を跳ねのけて飛び起きる。

 枕元には誰もいない。だが、吐息さえ感じられそうな冷たさが耳にこびりついていた。体は火照り、発汗しているのに、芯は凍えるほど冷えている。

 ソフィの視線が戸棚へと滑る。

 月明かりの中、白く浮かび上がる姿。

 眠る前と変わらぬ位置で、ビスクドールはじっとソフィを見ていた。

「……何か言いたいことがあるなら、言って」

 ソフィの声だけが夜の静けさに落ちていく。

 ビスクドールは何も語らない。

 沼底に沈んだように黙していた。



 昼前だというのに、店内にはそこそこの人がいた。

 そのほとんどは女性客だ。大半は年若い娘だが、なかには壮年の女性や、きれいに化粧で飾った老婦人もいる。

 特に女性向けの店というわけではない。内装もメニューもいたって普通の、洒落っ気がなくシンプルな定食屋である。

 彼女らの目当ては――最近評判のウェイター、だ。

「ソフィ」

 その張本人は、店にやってきたソフィを目敏く見つけると、接客を鮮やかに中断して彼女に駆け寄った。

 ギイである。飾り気のない黒の給仕服に身を包み、手には盆を抱えている。

 ソフィはコップを受け取りながら尋ねた。

「どう? 慣れた?」

「うん。面白いよ」

 現在、ギイはノウルの店で働いている。

 どんな話の流れからなのか、彼が仕事をしていないと知ったノウルが、説教をした挙句、強引に雇ったのだ。

 どうやらギイは主人から定期的に仕送りをもらっているようで、働く必要はまったくないのだが――

『労働の尊さも知らない奴に、ソフィを任せられるか!』

 というノウルの意味不明な主張を受け入れたらしい。

「お客さんと話してると、よくノウルに怒られるけどね」

 マイペースなギイは、ソフィが傍から見ていてもあまり優秀な従業員とは言えない。

 だが、物覚えが良く作業は正確で、なにより人の扱いがうまい彼は、客に受けが良かった。特に、女性客に。

 これだけ女性に人気があれば同性からは嫌われそうだが、不思議と男性からの評判も悪くはないらしい。王子の代役ゆえのカリスマ性だろうか。

「疲れてる?」

 ギイがソフィの顔を覗きこんだ。

 ――鋭い。ソフィはぎくりとして目を逸らす。

「ただの寝不足。ちょっと夢見が悪くて」

「元気がないみたいだね。何かあった?」

 人目を引いているという自覚があるのかないのか――あるに決まっているが――ギイは自然な動作でソフィの前髪を払った。

 その指先が額に触れるより早く、ソフィは椅子ごと彼から距離をとる。

「大丈夫。本当に。嘘偽りなく」

「――公認なんだから、そこまで恥ずかしがらなくてもいいのに」

 恋人同士。世間はそう認識しているようだった。最近はソフィが本気で否定しても、微笑ましい目で見られることが多い。

 実際のところ、肝心の二人の間にそんなロマンチックな感情はないのだが。

(確実に外堀を埋められつつある……)

 埋めたからといってどうにかなるとも思えなかった。彼は城が欲しいわけではないのだから。

「……ソフィ、何を持っているの?」

 ふと嫌な臭いでも嗅ぎ取ったように、ギイが顔をしかめた。彼が言っているのは、ソフィが足元に置いた大きめの鞄――の、中身だろう。

「あ、これ。預かった人形なんだけど」

 ソフィは鞄を開いて見せる。中におさまっているのは例のビスクドールだ。

 ギイの表情がますます曇った。

「それ、どうするの?」

「うーん。ちょっと厄介な魂が宿っちゃったみたいだから、少し調べてみようかと思って」

「あまりいいものとは思えないね」

 勘なのか同じ人形だからなのかは不明だが――彼の感想は的確だ。

「早めに処分した方がいいよ」

「それは、分かってるんだけどね」

 人形を処分するには、焼けばいい。よほど強い怨念でもない限り、それで事は済む。だからこそソフィは最後の手段にしたかった。

「そういうわけだから、このあと出掛けるよ。家に来てくれてもいないから」

「なら僕も――」

「――おい、ギイ! なに油売ってんだ!」

 ノウルが厨房から顔を出した。店には他にも従業員はいるが、だからといってギイがいつまでもおしゃべりしていていいわけではない。

「お仕事でしょ? 頑張って」

「でも……明日なら休みだから、明日――」

「大丈夫だよ。ほら、他のお客さん待ってるよ」

 ソフィは憂い顔のギイを無理やり押しやった。笑顔で手を振り、彼を見送る。

 心配性の人形はやはりしばらく不満げにしていたが、厨房から料理を渡され、あちこちから名を呼ばれ、仕方なく仕事に戻っていった。

 その様子に破顔し、ソフィはコップの水をかたむける。

「ローズモンヌ通りの人形屋、だったかな」

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