第7話
階段を降りていくと、足が段を踏みしめる感覚がなく、何か雲でも踏んでいるにふわふわとしていた。
傍から見ると、ふらふらしているのだろうか、という考えが頭をかすめた。“あれ”が…親たちが見てばれないだろうか。包丁を使う時、指でも切らないだろうか。年寄りとはいえ、二人の食事を用意するのを男一人がやるのは無理があるんだ、と思う。
だからといって放っておくことはできない。
いつものように下に降りて声をかけて起こし、新聞をとってテーブルにおいておく。さらにテレビをつけて、せいぜいこっちに注意が払われないように撹乱する。
冷蔵庫から出した豆腐を掌の上に乗せて切ろうとすると、豆腐がぷるぷる震えていた。
手の震えが止まらない。
まずい、と思ったが、なんとか精神を集中して包丁を豆腐に押し付ける。だが、豆腐はいともあっさりいささかなまった包丁を受け入れ、包丁が押しつけられたのは掌の方だった。
豆腐を小鍋に放り込んだ後、掌が切れていないか、確かめる。幸い、切れてはいないようだ。
それから、いつもの習慣と化した朝食作りが進む。
頭がぼうっとする。足がふらふらする。
アルコールをいれなくなって12時間以上経つから、酔いはかなり醒めているはずなのだが、脳神経の麻痺はまだ続いているらしい。
食欲などまるでない。だが、作らなくてはならない。ああ、なんという“親孝行”!
冷蔵庫の残り物を並べ、お茶をいれて、一応食卓を飾る品数は揃った。
“かれら”とともに、食卓を囲む。
“かれら”の片割れに箸がないと言われる。あわててシンクに取りに行く。
コンロの火がつけっぱなしになっている。
内心ぞっとしながら、火を消した。
箸を取って戻ってくると、今度は味噌汁がよそっていないと言われる。
どうも、やはり頭がぼけている。
必死に集中しながら、箸をとった。手が震えているので、うまく扱えない。
湯のみを手に取る。驚くくらい手が震え、熱い中味が手にかかった。さすがにちょっと目がさめ、湯のみをテーブルに置く。
箸の方が扱うのが難しいから、手の震えの影響が大きいかと思ったら、そういうものでもないらしい。親指を上にすると、震えが大きくなるようだ。
そっと両手で包むようにして湯のみを持ち、中味をすすった。両手が互いに震えをカバーするようで、なんとか目立たないですんだ、と思う。
食欲がないのと、複雑な手の動きができないので、メニューを全部ごはんの上に乗せ、味噌汁をかけて流し込む。いささか行儀が悪いが、なに、アジアではこういうなんでもごはんにかけて混ぜて食べるのが普通なのだ、と妙なことを考えて、それほどおかしくは見えないだろうと思う。
再び、お茶を飲む。汗がどっと噴き出す。心臓がまだばくばくいっている。
相変わらず、食欲はない。まったくうまいと思わない、というより味など感じない。
残りのビビンバもどきをすすり込む。
むりやりにでも食べているから、これだけバカ飲みしてしてもなんとかもっているのだ、と自分に言い聞かせる。
顔が痒い。吹き出物がでているようだ。顔を洗わないと。
内臓、特に肝臓や腎臓が痛んでいると、ジンマシンが出たりするらしい。そこまではいかないが、それに近い。
やっと食べ終わる。
“かれら”はまだ食べている。
食器をさっさとシンクに持っていって、さっさと洗って洗い籠に上げ、さっさとニ階に上がろうとした。
「ちょっと待て」
と声がした。
びくーん、と背中がひきつった。
「おまえ、少しおかしい。目が変だし、足もふらついているし、手も震えている。どこかおかしいのと違うか。会社はいいから、病院に行ってこい」
ついに、その時が来た。
アル中だということがバレた。
「わかった」
やっとそれだけ言って、ニ階に上がる。
「ちゃんと会社に電話しろよ」
小学生に言うのではあるまいし。電話する会社など、ないというのに。
そのまま上着だけ残してワイシャツとズボンとネクタイはつけて、ふとんの上に横になったまま、病院が開く時間を待った。体がひどくだるいが、早く行った方がいい、朝早い年寄りたちがすぐやってくるからと、“それ”が言うので、ふとんを丸めて棚に押し込んで、出ることにした。
ついてくるというので、それはきっぱり断った。
保険証持ったかとか、初診だから余分に金を持っていけというのを聞き流して、そそくさと靴をはき、逃げ出した。
どこがいいか、と思う。内科だろうか、神経科だろうか。
内臓がぼろぼろであるのはかからなくてもわかるし、“かれら”のかかりつけのホームドクターは内科なので、そっちに行ったら情報が漏れるかもしれない。医者の守秘義務などというが、家族にはぽろっと漏らすことが十分考えられる。しかし、神経科といっても、心当たりはまるでない。
駅前の、今は数少なくなった公衆電話に備え付けてあった電話帳をめくり、近くの内科をみつくろった。
いくらかかるかわからないので、できるだけ手をつけないようにはしていてもじりじりと残高が減っていく預金を少し多めに取り崩した。
クリニックが開くまでのあと30分ちょっとの時間を持て余して近くのコンビニに入ると、酒が並んでいた。
あわてて飛び出し、とにかくクリニックのドアにもたれかかる。
体がひどくだるく、立っているのも辛い。
爺さんがのそのそやってきて、モゴモゴとそこにいると邪魔という意味のことを言った。うっかり文句を言うと暴力をふるわれるとでも思っているのか独り言みたいな言い方なのが、かえってカンに触ったが、黙ってドアの前からどいた。
立っていられなくなり、しゃがみこんでしまう。
おそろしく長い時間が過ぎ、やっとクリニックがオープンした。
一番ゲットという感じで、爺さんがとびこんで診察券を提出する。どうでもいいけど、いい歳をして一番乗りするのがそんなに楽しいのだろうか。
初診なので、住所氏名の類を書かされる。
驚いたことに(驚くことではないのだが)、手が震えて字が書けない。思いきりボールペンを握りしめて紙に押し付けてみても、ふざけているようにペンは勝手に踊ってもつれた線を描くだけだった。
字を書くという意識を捨てて直線だけ組み合わせて字に見せようという作戦も失敗。線がまともに引けないのだから。
一文字書くのに汗をだらだら流しながら悪戦苦闘している姿を、事務員が不審な目で見ている。いや、それはこちらの気のせいで、医院には容態のおかしい人間が来るのが当たり前でいちいち変な顔をしているわけではないのかもしれない。だが、まともに顔を上げられずにいると、そういう顔をしているように思えてくる。
これ以上ごしゃごしゃした落書きをする前に、やむなく事務員に代筆を頼む。別に嫌な顔もしないで言う通りに書いてくれたが、その間に爺さん婆さんが続々とやってくる。なんでこんなに朝早くから先を争うようにやってくるのか。事務員が一人しかいなくて、それを自分が占領しているものだからその年寄りたちが刺すような視線をそれぞれ送ってくる。これは絶対気のせいではない。
こっちの様子を見て、看護婦が血液を採りにきた。すぐに結果を教えてくれるのかと思ったが、そういうわけではないらしい。
やっと医者にかかると、診断はごくあっさりしたものだった。
「アル中ですね」
そんなことは、わかってる。
「一生、飲めませんよ」
簡単に言ってくれるなあ。
「飲みだしたら、止まらないでしょう」
まあね。
「アル中というのは、治りませんよ。脳がアルコール漬けになって変質して、ほどほどに飲めない体質になっているんだから。元には戻りません。まあ、治らない病気というのは、いっぱいあるから。糖尿とかね。こういう病気とは気長につきあえば後は普通に過ごせるので、自棄になってバカ飲みなんてこと、しないように」
知ってるよ、だいたい、そんなこと。とにかく、この手の震え、なんとかしてくれ。
「酒をやめるしかありませんね」
いや、だから何か早く回復する薬か何かないのか。
「離脱、いわゆる禁断症状ですが、治まるにはまあ三、四日かかります。飲めば治まるみたいに思えるかもしれないけれど、神経麻痺させてごまかしているのだから間違えないように。家族は?」
いません、と言っておく。一人暮しだと。
「家族の協力がいるんですけどねえ」
家族に知らせたくないから、アル中になってるんだ。
「シアナマイド出しておきましょう。酒が飲めなくなる薬。これ飲んで酒飲むとものすごく苦しくなるから、絶対飲んじゃダメだよ」
知ってるよ。さんざん、本で読んだ。ネットでも見た。なんか、すごく苦しくなるらしい。アルコールが胃で変化してできる毒物アセトアルデヒドを分解するのを邪魔するので、全然酒飲めない人がムリに飲んだのと同じことになるという。どんな風なのか、ちょっと興味あるな。
よっぽど生活態度をつかまえて説教されるかと思ったら、あっさり「はい、次」という感じで終わってしまった。
2週間経ったらまた来いという。
会計で、保険を使ってもここ一カ月の小遣いがとんでしまった。こんなの、月に2度もやるのか?
外に出る。これからの一日、どう過ごす?
無為の一日の長さを思うと、一杯飲みたくなってきた。コンビニに入り、いつものようにチューハイのロング缶を二本買い、物陰に隠れながら飲んだ。
それからもらったばかりのシアナマイドを飲むことにする。
小さなポリタンクのような容器に入っていて、スポイトで量を計ってちゅーっと喉の奥に噴射する。味も何もわからない。うまいものではないようだ。
飲んだからといって別に体には何も起こらない。こんなので、どうにかなるものだろうか。
と、思ったら突然猛烈な吐き気が襲われて、その場に思いきり朝食べたものをぶちまけてしまった。
顔がはち切れそうに紅潮し、頭ががんがんするが、とにかく人目を避けてとにかく大急ぎでその場から離れた。
吐くものを全部吐いても、吐き気は収まらない。頭が割れるように痛む。
これでは、家に帰ってなんでもないとはごまかしきれない。遅かれ早かれ、いずれアル中だとばれてしまう。いや、アル中だと家族に告白し、協力を得ないとアルコール依存症から立ち直るのは無理だ、なんて言ってたな。それができたら、苦労しない。
わずかな貯えも、こんな風に治療費がかかるのでは、すぐ底をついてしまう。また人と交わって働くなど、ありえない。
八方ふさがりだ。
息子がアル中だなどとは、考えたこともありませんでした。
え? 今はアル中だとは言わない? アルコール依存症? やっぱりそれはそのなんですか、差別と関係あるのですかねえ。
そうではなくて、イッキ飲みでぶっ倒れるのをアル中といって、長いこと酒飲むのが習慣にしていて脳が変質して、いったん飲み出したら止められなくなるのをアルコール依存症という?
いえ、家では飲んでいませんでした。隠れて飲んでいた? そういえば、目が変になっていたようなこと、ありましたね。いわゆる、目が座ったというか。いえ、それで乱れたり暴れたりとかはしていません。
一緒に住んでいて気がつかないってことあるかって、いえ、もともと変なところ、ある子でしたから。
叱ったり説教したことは、ありませんでした。放っておいても、自分で決めていましたから。
手のかからない子でした。
それで、やはり酔って階段から落ちたということですか。それだけではない? 目撃によると、自分から頭から突っ込んでいったみたいだった? なんでそんなことしたんでしょう。
いいえ、心当たりはありません。本当に。
<終>
隠れ酒 @prisoner
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