第5話

 結局、迎え酒をひっかけることにした。血を吐くほど吐いたすぐ後の胃に酒が入るものかと思うが、不思議と入るものなのだった。

 家には遅くなると電話した。指先が震えているところを見せるわけにいかない。

 まだ日は高かったが、手の震えを抑えるためだという大義名分があるせいか、もうあまりこそこそしないでコンビニの前でチューハイをあおった。缶ジュースみたいなパッケージだ。甘ったるい味に、人口香料の匂い。工業製品、という感じがした。いや、「感じ」ではないか。

 何か腹に入れておくかと考えたが、もう受け付けないだろうと思い、ひたすら飲むことに決めた。

 飲んでいると、あっという間に時間が経つ。

 日が暮れて、ほろ酔い加減のサラリーマンの姿がちらほらしだした。飲み屋に入って飲むのは高くつくのでやめざるをえないが、お仲間ができるとこちらも安心して再び缶ビールをあおった。

 いつのまにか、手の震えは治まっていた。

 コンビニに入って、ざっとマンガを立ち読みし、一本缶チューハイを買って出て一気に喉に流し込み、街をふらふらして、本屋があったら中に入り、またちょっと立ち読みする。新しい本など読めず、これまで読んだ本をなんべんも繰り返して読む。

 気がついたら、もう9時をまわっていた。

 そろそろ帰るか。いや、中途半端な時間に帰ると、“あれ”たちに何をごたごた聞かれるかわからない。もう少し、時間をつぶそう。

 突然、強い吐き気に襲われた。

 パチンコ屋のトイレに入る。店の目立つところはけばけばしく飾っているが、案外トイレは薄暗く古ぼけている。遠慮なく吐きに吐いた。

 さすがにそれ以上は飲む気がしなかったが、これまでに吸収したアルコールがまわってきたらしい…


 気がついたら、家のふとんで寝ていた。

 いつ帰ってきたのだろう。記憶がない。時計を見ると、3時を過ぎている。

 寝巻きに着替えず、下着姿で寝ていた。スーツがハンガーにかけてある。自分でかけたのだろうか。おそらくそうだろう。鍵がかかっているから、“あれ”はこの部屋には入れないはずだからだ。

 しかし、呑んでいたのは、ばれただろう。仕事のつきあいで呑んできたと思っただろうか。

 風呂にも入っていないようだ。翌朝下着が出ていないと、“あれ”がうるさい。

 起き上がると、ずきんと頭が痛んだ。チューハイだけだと、あまり頭痛はしないのだが、ビールが多すぎたのだろうか。

 そっと足音を忍ばせて階段を降り、明かりをつけずに脱衣所に忍び込んだ。そっと洗面所の蛇口に口を当てて水を飲む。少し無理をしてでもがぶ飲みする。

 下着を脱ぎ捨てて、暗いままの風呂場に入る。そのまま洗いもしないで、風呂桶につかった。だいぶ火を止めてから経っているとみえて、お湯はかなりぬるんでいた。まだ酒がまったく引いていない状態で熱い湯に入ったら心臓に良くないだろうから、ちょうどいいだろう。

 そのままぬるま湯にしばらくつかり、ざっと体を拭いて出て下着をつけてそっとまた階段を上がって自分の部屋に転がり込んだ。

 カラスの行水なんてものではないな。

 頭を洗ったのは、三日前か。まあ、それくらいなら別にどうということないだろう。

 暗い中、湿気がとばないままの体で、敷きっぱなしにしていたふとんに潜り込んだ。

 目をつぶるが、頭は冴える一方だ。しかし考えることは、ほとんど一つ、女のことばかりだった。

 といっても、具体的な相手がいるわけではない。

 以前ちょっと好きだったアイドルのグラビアで見た肢体を思い浮かべる。すでに結婚して(できちゃった結婚だった)子供を産んで引退したアイドルだ。それほど執着があるわけでもなく、何も今さら思い浮かべることもないのだが、習慣、というより惰性になってしまっているのだろう。

 右手で股間のペニスをつかむ。ぐにゃついていて、しばらく揉んでみても一向に勃たない。

 そのくせ、妙な高揚感に襲われ、本格的にマスをかくことにした。

 パソコンの中にしまってある画像を開いて目当てのアイドルのを初め、いくつかのグラビア写真やネットで集めて来た画像をまとめて見る。あまり露出度の高い写真はない。あっても、胸がぺっちゃんこのコのばかりだ。意識して集めたわけではないが、結果としてそうなっている。

 …俺が何か大きな事件でも起こして逮捕されて家宅捜索されて、このファイルを見たら何と言われるだろう、とふと思った。

 ロリコン、ではないな。いくら細身でも、どれも高校生から上の年齢のばかりだ。だが女性と積極的な関係を結べない男、とかいうレッテルは貼られそうだ。

 そして、それは間違いではない。

 女の子をデートに誘って、映画を見たり遊園地に行ったり食事したり、といったことは何度かある。だがデートから帰り、特に失敗もしなかったとほっとして、その後のフォローをしない。

 セックスする時も、やれやれ何とか大過なくすんだか、とさっさと身支度してしまったりした。

 そんなこんなで、後が全然続かない。こちらから何度かメールを送ると、返事があるが、それっきり。パーティか何かで一緒になると、別の男と来ていたりする。こちらも挨拶する以外は特に何も言わず、先方もしれっとしていちゃついていたりする。

 そうこうするうち、女とはすっかり縁遠くなってしまった。一番大きい理由は会社を辞めて収入がなくなったので、女に注ぎ込む余裕がなくなったからだ。女に貢がせる奴というのも世の中にはいるらしいが、こっちには見当もつかない。

 性欲を処理するだけなら、マスターベーションで十分なのだ。

 だが写真を見ていても、なかなか勃起しない。半勃ち程度で、マスをかくというより揉んでるみたいだ。

 もう少し刺激を強くするかと思って、別の文書ファイルを開く。気にいった官能小説の一節を写したものだ。女を思いきりむごたらしくレイプする描写がえんえんと続いている。その女の名を、今まで見ていたアイドルの名に変換してみる。そして自分が思いきりむごたらしく強姦している場面を妄想する。それでやっと興奮してきたが、途中でまた萎えてしまう。

 女が悲鳴をあげたり泣いたりするところをせいぜい空想するが、どうもどこかで見たような場面ばかりみたいで、もう一つ気がいかない。それほどアダルトビデオの類は見ていないはずなのだが、見る前から想像に型がはめられているみたいだ。

 今度は、最近ちょっとお気に入りの女子アナの名前に変えて再度試みて、今度はやっと射精にまで至った。

 精液を拭いたティッシュをゴミ箱に投げるが、入らず床に落ちた。

 徒労感がどっと襲ってくる。 

 前はさらに眠気が襲ってきたものだが、頭がとろとろしているが眠りに落ちるには至らない。アルコールは一時的な眠気を誘う作用はあるが、連用していると深い眠りはかえって阻害するという。

 半覚半醒というのか、寝ているような起きているような奇妙な状態が続く。

 いつのまにか、ふとんに入ったまま宙に浮いていた。

 そのまますごい勢いで宙を飛んでいく。目をつぶったままなのだが、雲がちぎれとんでいくのがわかる。

 あ、これは夢だなと思う。

 ジェットコースターに実際に乗るよりスピード感があった。

 いつのまにか、あたり一面に原色の蝶がうようよしている。普通ならきれいに感じそうなものが、なぜか触ると痛いように思える。目の前に、蝶がはばたきながら迫ってくる。

 この夢から醒めなくてはと思う。

 懸命にまぶたを開く。

 天井の丸い明かりの消えた蛍光灯が見えた。そこに、蝶がとまっている。

 じっと蝶を見続けた。寝ぼけマナコだったが、妙に集中していた。 

 今の季節に蝶などいるものか、あれは日本にいる種類の蝶か、部屋の中になんで蝶がいるんだ、といったことは、後になって思ったことで、その時はただ蝶が見えていた。

 ふっと、それが夢の中に出て来たのと同じ蝶で、それが薄暗く酒臭い自分の部屋という現実の中に当たり前のようにずれこんできたのに、なんともいえない、背中が何かにべったり貼り付くような恐怖感を覚えた。

 目を思いきり見開いた。やはり蝶が見えている。南米にいるような、金属のような光沢を持った蝶だ。

 突然、消えた。

 どっと汗が噴き出した。

 目を懸命につぶる。だが、暗くなった視野に、奇妙な魑魅魍魎が現われては、消えていった。

 木の棘の塊が迫ってきて、ちくちくと頬を刺した。

 虹色のキャンディーがよじり合わされて人のような形をしたやつに手首をつかまれて目がくらむような高さの高層ビルの屋上から屋上へと引きずりまわされながら、跳んでまわった。

 背中がむずむずし、無数のミミズやゴカイが体の中から湧きだしてのたうちまわった。

 そのたびに、冷や汗をかきながら目を覚ます。だが、悪夢から醒めても安心はできない。また、あの蝶のように化け物たちが現実に侵入してきたらどうする。そう思うと、ゆっくり目をつぶることもできない。暗い中で半分目を開けてひたすら横になっているしかない。

 禁断症状だ。迎え酒で抑え込んだつもりだったが、よほど大量のアルコールがまわっている状態が普通になっていたのだろう。ちょっと酒が切れてきただけで、睡眠が妨げられて悪夢に襲われる。これがもっとひどくなったら、悪夢ではすまず、起きている時に幻覚をみるようになるのだろう。

 せいぜい肝臓に血液をまわすつもりで、右側が下に来るようにして寝転がった。

(貴様など死んでしまえ)

 と、いう声が耳もとで聞こえた。

 自分で自分に頭の中で呼びかけているはずなのだが、誰かが思いきり耳もとで怒鳴っているようにありありと聞こえる。

 そうだ、俺ほど最低の人間はいない、生きていても仕方ない、さっさと消えるべきだ。

 俺が死んだところで、誰も困りはしない。これ以上生きていたところでロクな死に方をしない。

 貯えもないまま体を壊して、自分で死にきる力もなくして、のたれ死にするのが関の山だ。

(あ、自殺念虜が出て来た)

 自殺念虜というのは、要するに死にたくなる状態のことだ。酒を飲み続けていると、必ずといっていいほど出てくる症状の一つに過ぎない。肝臓を悪くしたり、胃を悪くしたりといったのと同じ、ごく当たり前の化学反応の結果にすぎない。人生に関わることには違いないが、だからといって深遠な哲学や他には窺い知れない意義があるわけでもなんでもない。

 そうわかっている一方で、どうすれば楽に死ぬか考え続けた。

 大量のアルコールで昏倒したところに、練炭を燃やして一酸化炭素を発生させるか。どこで練炭など手に入れるのだろう。二酸化炭素でも一酸化炭素ほどではないが、毒性はあるはずだ。大量のドライアイスを買ってきて、お湯にぶちこむというのはどうだ。しかし、この部屋でやるというのは、死ぬ前に見つかる公算が大きい。

 車の排気ガスをホースで車内に引き込むか。そんな車、どうやって借りる。免許は持っているが、長いこと運転していない。人気のない場所に行き着くまでに、事故でも起こしたらどうする。

 薬を飲むか。医者にかかって、眠れないと訴えれば睡眠薬くらいくれるだろう。それをアルコールと一緒に一度に大量に飲み干す。それから、頃合をみてビニール袋を頭からかぶる。酸欠で気を失うので、苦しまないで済むという。

(本当かい?)

 試してみる。コンビニに袋を頭からかぶる。下が空いているので、息はできるが、かなり息苦しく暑苦しい。しばらくそのまま袋をかぶっていたが、急に恐怖に襲われ、袋をびりびりに破った。

 暗い中、また横たわる。

 死んだ後は、墓になど入らない。遺言を遺していくか。今の日本では土葬というわけにもいかないはずだ。火葬になった後は、灰は海にまく、というのは格好よすぎる。トイレに流せばいい。

 ぼうっと時計が見える。ずいぶん長いこと寝たり起きたりしたような気がしていたが、時刻は、まだ3時前だ。

 まだ、朝食の時間まではかなり間がある。“あれ”と顔を合わさなくてはならない時までは。

 それからひたすら寝返りをうち、襲ってくる鬱の合間を縫ってひたすらマスをかいた。高校生の時でもこんなにかかなかったぞというくらいかいた。なぜか知らないがやたらと性欲が昂進し、猿がマスターベーションを覚えた時のようにかきまくった。しまいには、面倒になっていちいちティッシュで拭かず、パンツの中にぶちまけた。量は少しづつだが、激しく匂った。

 ただでさえ体がだるいのに、余計に体力を消耗して、ふとんの中でぐでっとへたりこんだ。

(バカなことしちゃったなあ)

 それを言うなら、大酒をくらってぶっ倒れていること自体が愚行の極致なのだが。

 突然、吐き気が襲って来た。胃の中が空っぽになって、荒れた胃壁が剥き出しになったかららしい。

 半身を起こして激しくげえげえいったが、何も吐くものなどなかった。

 また汗が噴き出し、震えがくる。

 ふとんに倒れ込み、大の字になる。それでも体がひどく重く、これ以上体を休めるポーズはないものかと真剣に考える。

 眠れない。

 喉が乾く。そっと廊下に出ていき、花瓶の水を飲む。腹をこわすか知らないが、何、どっちにしても下痢するのに決まっている。

 時計の針はゆっくりと、しかし着実に動いていく。

 とても朝までに完全に回復するなどできない相談だ。

 そうこうするうち、窓の外が青みわたりカラスの鳴き声が聞こえてくる。

 右側を下にして横たわっていると、左側、つまり膵臓がある側もどくん、どくんと脈拍を感じる。相当に痛んでいて、体が少しでも直そうとして血を送り込んでいるのだろうか。それとも、単に臓器が痛んできたので血流に敏感になってきただけだろうか。

 枕元でノートパソコンを開き、アルコール依存症で検索して症状が並んだページを見る。離脱症状の数々が列記してある。

 指の震え、悪寒、発汗、幻覚(に近い夢)、ことごとく当てはまる。絵にかいたようだ。これで親にバレずにすむものだろうか。

 朝食までのあと数時間を少しでもムダにするまいと…、眠らないことに決めた。

 結局、迎え酒をひっかけることにした。血を吐くほど吐いたすぐ後の胃に酒が入るものかと思うが、不思議と入るものなのだった。

 家には遅くなると電話した。指先が震えているところを見せるわけにいかない。

 まだ日は高かったが、手の震えを抑えるためだという大義名分があるせいか、もうあまりこそこそしないでコンビニの前でチューハイをあおった。缶ジュースみたいなパッケージだ。甘ったるい味に、人口香料の匂い。工業製品、という感じがした。いや、「感じ」ではないか。

 何か腹に入れておくかと考えたが、もう受け付けないだろうと思い、ひたすら飲むことに決めた。

 飲んでいると、あっという間に時間が経つ。

 日が暮れて、ほろ酔い加減のサラリーマンの姿がちらほらしだした。飲み屋に入って飲むのは高くつくのでやめざるをえないが、お仲間ができるとこちらも安心して再び缶ビールをあおった。

 いつのまにか、手の震えは治まっていた。

 コンビニに入って、ざっとマンガを立ち読みし、一本缶チューハイを買って出て一気に喉に流し込み、街をふらふらして、本屋があったら中に入り、またちょっと立ち読みする。新しい本など読めず、これまで読んだ本をなんべんも繰り返して読む。

 気がついたら、もう9時をまわっていた。

 そろそろ帰るか。いや、中途半端な時間に帰ると、“あれ”たちに何をごたごた聞かれるかわからない。もう少し、時間をつぶそう。

 突然、強い吐き気に襲われた。

 パチンコ屋のトイレに入る。店の目立つところはけばけばしく飾っているが、案外トイレは薄暗く古ぼけている。遠慮なく吐きに吐いた。

 さすがにそれ以上は飲む気がしなかったが、これまでに吸収したアルコールがまわってきたらしい…

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