第4話
そろそろ正午だ。昼食を取る時間だ。しかし、食欲がない。本当なら酒だけでなく固形物を胃に入れた方がいいのだ。あまり飲み過ぎると、食べても胃腸が弱って栄養、特にビタミンを吸収できなくなり、それでまた脳が萎縮したりするという。もう萎縮しているみたいなものだが。
それでもあまり胃を空っぽにしておくと吐き気がするから、いくらかでも食べておくことにする。
図書館を出て、来た道を帰る。あまり親は駅のこっち側に来ないが、たまにこっちの肉屋で安売りしていたりすると来ることがある。それでばったり顔を合わせるとまずいが、安売りは土曜日に決まっているので、今日は大丈夫だ。
実際の土日は、どう過ごしていいのか難しい。一日中家でごろごろしているのも鬱陶しい。かといって、どこかに行くにも金がかかる。金がかからない場所は普段行っているので、いいかげん飽きている。天気のいい日は隣の駅近くの公園でごろ寝したこともあるが、これが結構冷えて、一度風邪をひいてしまった。これ幸いと、「会社」を休むことにしたが、断りの電話をするのでまた芝居をするはめになり、これがまた結構面倒だ。“それ”が上司は何と言ったかとか、休んで問題ないかとか、ごちゃごちゃ聞いてきて、そのたびにいちいち作り話をしなくてはいけない。ひたすら無事で留守がいいのは、亭主だけではないようだ。
またコンビニに入る。ここではお湯も提供しているから、カップラーメンを作って食べれば一食分とすれば一番安上がりだ。お握り一個で済ませたこともあったが、それだといくらなんでも晩までもたない。ダイエットするにはいいか知らないが、胃が空になって気持ち悪くなるのがたまらない。野菜不足なのは明らかだが、二食を家で食べると、いくらかは補給できる。
思いきってコンビニ弁当を買うこともあったが、量が多すぎて後で酒が入りにくくなる。たまに酒を控えようと思い立ったりした時は、あえて買ったりもするが、ふだんは敬遠している。
結局、いつものようにカップラーメンで1.5倍のボリュームというのにする。申し訳程度に、真ん丸のチャーシューと乾燥野菜がついている。前は韓国風のピリ辛味だったので、今日はとんこつ味にしよう。
それからひとりでに足が店の奥に向かった。冷えたビールが並んでいる。手が自分のものでないように伸びて、ロング缶を一本取って籠に入れる。まだ焼酎のミニボトルが一本、鞄の中にある。万引きしたと思われないだろうか。レシートはとってあったか。まあ、実際に万引きしたわけでもないのだから、びくびくすることはない。罪悪感というのは、癖になるものだろうか、嘘をついていると、別に悪いことをしていなくても、しているような気分になってくる。
もちろん何の問題もなく、カップラーメンとビールを買う。ラーメンはすぐお湯を入れるからと、袋に入れるのは辞退する。これでゴミの減量にはなるだろう。こんなところでちょっとした“いいこと”をしても始まらないのだが。
アイスクリームが入った冷蔵庫のガラス蓋の上でカップラーメンを包んでいるビニールを破り、蓋を開けてスープとかやく、チャーシューがそれぞれ入った小さなビニール袋を開けて麺の上に散らす。ビニール類は、それぞれきちんと燃えないゴミのコーナーに捨てる。お湯を注いで、図書館に向かう。隣の駅近くの公園まで歩くと、時間がかかりすぎて伸びてしまう。いささか変だが、図書館の裏で食べることにする。
いざ裏に来ると、昼休みだからか自転車でやってくる来館者がけっこういる。その眼が気になったが、もたもたはできない。植え込みのコンクリートの枠のふちに腰を下ろした。
スーツ姿でビール片手にカップラーメンをすすっているというのも、妙な図だろう。
自転車から降りて、ちらとこっちを一瞥して図書館に入っていく利用者が何人かいた。その視線に気付きながら、一切眼を合わさないようにして急いで麺をすすった。まだずいぶん熱い。スープを口に含み、舌が灼けそうになるところに、冷えたビールを流し込んだ。
結構、絶妙な組み合わせ。
熱いところに冷たいビールだけでなく、酔いがまわっているところに汁気の多い麺類は水分補給になっていいのではないか。
さらにスープをすすり、ビールで舌を冷やす。麺はふにゃふにゃで頼りなく、これで胃が収まるだろうかと思う。
ビールの減り具合が、案外早い。少しセーブする。
カップラーメンは冷めるのが早い。最後の一口は麺もスープもあまりしゃきっとしない。本式の丼のラーメンの最後の一口を飲み干して、あーっと言うような気にはならない。代わりにビールで締めた。10点満点で8点くらいのフィニッシュ。最後の一口はビールで締めないといけない。
下らないことを考えながら、図書館に戻る。燃えるゴミ、燃えないゴミが分別されている。缶・ビン類も分けるようになっている。さすが、公共機関。ビール缶とカップをそれぞれ分別して捨てる。後で収集に来る時、ビールの缶を見てどう思うだろうか。まあ、見たからといって捨てないでとっておいて、誰が捨てたか追求するということもないだろうが。しかし追求されたらどうなるだろう。もしかして、この近くに監視カメラがついているかもしれない。金目のものが置いてあるわけではないが、この御時世どこでカメラで撮られているかわからない。それらしいレンズは見当たらないが、今のカメラはものすごく小型化しているのだから、見たってわかるものではない。
毎日のように図書館に来ては、本を借りるでもなくひたすら読んで出ていく、格好だけはもっともらしくスーツで決めている男。世間で怪しまれるには、十分だ。こういう怪しいやつのデータベースが、作られているということはないだろうか。被害妄想か。
なんだか、思考がどんどん非生産的な方向に向かっている。
腹が満たされたら、突然眠くなってきた。だが、眠ってしまうと途端に館員が起こしに来る。不思議なことに、いくら椅子を長いこと占領していてもとりあえず文句は言われないのだが、眠った途端起こしに来る。邪魔なことには変わりないだろうと思うのだが、役所の規則とするととにかく眠るのは許されないらしい。
眠気を我慢して、くわっと眼を見開いてソファの上でグラフ雑誌の写真を見入った。
いくら本を読んだところで、何の目的もないと一向に頭に入らない。それでも形だけは整えないといけない。まるで、自発的に辞めるよう追い込まれた窓際社員の図だ。それでも会社に勤めていれば給料は出るのだが、こうやっていても何にもならない。
(誰かが見ている)
そんなはずはない。アル中の幻覚か。いや、幻覚というのは酒が切れると出てくるものではないのか。本当に誰か見ているのか。
今日は天気もいい。一日屋内に閉じこもっていることはない。散歩でもしよう。
追われるようにそそくさと立ち、外に出る。
腹が立つほどいい天気だ。雨に振られるのも嫌だが、こうやって意味もなく天気がいいのも、癪にさわる。
隣駅まで行って帰ってくることにする。歩いていると日が首筋にさしてきて、汗がいやにだらだら流れた。心臓がバクバクする。体の中がひどく暑苦しい一方で、首筋や背中に出る汗は出る前からもう冷えてしまっているようだった。
これは、いけない。直感的にそう思った。そういえば、何日酒が抜けていないだろう。一週間? 二週間? 今日は何日だ? さっきの図書館で新聞の日付けを見てくればよかった。何をしているのだ。携帯を持っているではないか。腕時計は前のが壊れたきり買っていない。収入がないのだから、買っていいわけがない。
携帯は、今どき持っていないと不審がられるので、持つようにしたら芋づる式に家族割引だなんだと代理店に言い包められて一式持たされてしまった。実際問題として、仕事のない人間に緊急の連絡などそうそうあるわけがない。通話だウェブだと使っていたら、いくらかかるかわからない。
だから電源は切っておく。変な場所にいるところに、家族から電話でもあってうっかり出てしまったら、面倒なことになる。現にそういうことが一回あった。盛り場で鳴ったのをうっかり取ったら、流れていた音楽に仕事をさぼっているのかと疑われた。
とにかく、金は使わないこと。
稼げばいいではないか、と言われそうだが、わざわざ稼がなくて生きていけるのなら、何をわざわざ劣等な経験を嘗めねばならんのか、と高等遊民風に言ってみたくなる。そして、嫌な思いをしてそれが将来につながる保証はどこにもないのだ。
とにかく、山ほどある携帯機能のうち、使うのは時計とカレンダーくらいときている。
しかし、カレンダーを見たところで、スケジュールを見たところで、予定もなければ、どこで何をしたという記録もない。第一、いつから飲み出したのか、覚えていないのだから、何日飲んでいるかは正確には知りようがなかった。
曜日の感覚もほとんどないので、何日スーツを着ていなかったか、思い出そうとした。4、5回は着ていた気がする。ということは少なくとも足かけ三週間。下手するとひと月。
これはさすがにまずい、らしい。よし、今日はこれ以上飲むのはやめよう。やめられるはずだ。やめないといけない。
その時、奇妙な感覚に襲われた。正確にいうと、襲われたらしい。
息を切らせて歩きながら、誰かが肩をつかんで揺さぶった感触と、灼けたアスファルトの熱さと、冷たい汗、そして体の芯に巣くう寒気が同時に体に残っている。
前後の感覚がない。どうやら、道端でぶっ倒れていたのを誰かに起こされたらしい。それが誰なのか、怪んで起こしたのか、親切で起こしたのか、まったくわからない。
追いかけてくる気配はないようだ。
もう飲むな。誰かがそう叫んでいる。叫んでいるが、聞こえるのは小さな声だ。
時間の感覚がない。
まだ、日は高い。どっちに向かって歩いているのかも、わからない。
人通りは、少ない。
むやみやたらと、見知らぬ裏通りを、より細い、よりこみいった通りを選んでやたらと忙し気に、もちろん無意味に急いで歩き続けた。
息が切れてきた。
立ち止まった。汗がやっと気味の悪い冷たい感じから、運動した後のような暖かみを帯びてきたようだ、ような気がする。わずかにそう思おうとして安心しかけたところで、また心臓がばくばくいい出した。
落ち着け。
深呼吸をする。汗を拭く。下着はもちろん、ワイシャツまでびっしょりと汗が染みている。だが、脱いで着替えるのも乾かすのも、もちろんできない。
あたりを見回す。どこにでもありそうな、日本の街角だ。木造の二階建ての家が立ち並び、そこかしこに車が停まっている。電柱や塀には町名が貼られてあり、番地がある。だが、地図は見当たらない。どこにどうつながっているのか、さっぱりわからない。
頭の中は、まだ酔いによる霧が晴れていない。だが、一時的な心地よい酩酊感はすっかり薄れ、右の下腹部と左の下腹部が交互に痛むのがわかる。それぞれ、肝臓と膵臓だ。心臓が叛乱を起こしたのが収まりかけてきたと思ったら、これだ。
うつむき、やっと顔を上げると、どこかで見たような風景が見えた。
ずいぶんぐるぐるあちこち歩き回ったつもりだったが、図書館のすぐ近くでうろうろしていただけだったのだ。
安心しかけた時、思い出したように、吐き気がせり上がってきた。
その上、下腹部に怪しい蠕動を感じる。
これはまずい。ぶっ倒れただけでもおかしいのに、こんな道の真ん中に吐いたり垂れたりしたら、えらいことになる。間違いなく警察沙汰だ。
冷や汗がこみあげてきて、そろそろと図書館に逆戻りした。上から先にするか、下から先にするか、最低の選択だ。
汗を流しながら、さっき出ていったばかりの図書館に戻り、やっと手洗いに辿り着いた。個室が塞がっていたらどうしようと思っていたが、幸い開いていた。洋式だ。
ズボンを脱ぐのが手間がかかる分、下を優先させることにする。
なんとか間に合った。
と、思うまもなく吐き気が催してきた。なんてことだ。コンビニに袋が鞄に入っていないか、探した。
幸い、一番小さい袋が見つかったので、せいぜい口を大きく広げて、中にさっき食べたばかりのほとんど消化されていないカップラーメンを吐きこんだ。
そのはずみで腹に力が入り、水のような便が改めて噴き出した。
最低だ、まったく最低だ。
喉の奥にいがらっぽい嫌な味がした。吐瀉物に赤い塊が混ざった。アルコールで胃の粘膜が溶けて出血したらしい。
個室の外に人の気配がした。
匂いが漏れないように袋の口をしっかり縛る。
誰か知らないが、なかなか出ていかない。自分の匂いと腹痛と吐き気で、眼がくらんできた。
袋を床に置き、下の始末を済ませる。
洋式便器でよかった。手が開いていたから、なんとか両方同時に始末できたのだ。
外にまだいるのか、どうかよくわからない。
立って、ズボンをはいた。たぷたぷとした液体が大半を占める汚物が詰まった袋をどう始末するか。
下痢と一緒に水で流すか。
流れなかったら、どうする。
外のゴミ箱に捨てておくか。ゴミを集めに来た人が何と思う。以後、不審者を警戒するようになるかもしれない。
えい、と袋の口を開けて思いきって逆さにして中身を出し、水を流した。袋は細く畳んで流れに乗せた。
うまく、汚物にまみれたコンビニ袋は、流れに乗って姿を消した。
手に少しゲロがついたようだが、おおむねひどい汚れは出さないで済んだようだ。
鞄を持って個室から出た。小便器の前には、誰もいない。あれほどびくびくしなくてもよかったらしい。
手を洗って、何食わぬ顔で外に出た。
女性館員が近づいて来て、つとよけるようにしてすれ違った。
(匂うのではないか…)
不安に襲われた。
冷水器のところに行って口をすすぎ、できるだけ水を飲んだ。口がふさがれると鼻から呼吸する空気が、自分でも匂うのがわかる。
それから日が暮れるまで、水を飲み、机で本を読み、また水を飲むのを繰り返した。
酔いはどんどん醒めていく。
だが、心臓はまたバクバクいいだした。冷や汗も止まらない。冷房もついているはずなのに、体が外にいた時のようにほてる。
「離脱症状…」
酒浸りに慣れた体からアルコールが抜けることで、それまで麻痺していた神経がやたら興奮して起こる、いわゆる禁断症状だった。
見れば、ページをめくる指先が意思とは関係なく細かく震えていた。
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