隠れ酒
@prisoner
第1話
朝の4時、ぼくは目を覚ました。覚めてしまったというべきだろう。窓の外はまだ暗く、ガラス戸を通して寒気が伝わってくる。
そのままベッドに潜り込んだまま、時が経つのを待とうとした。テレビをつけ、ニュースをしばらく見る。画面の隅に時刻が表示されている。分の数字が4から5へと一つ増える。じいっと見ていると、長い時間だ。起き出さなくてはならない時刻までの限られた時間が、その分確実減った。
時間をムダにしてはいけない。
そっと階段を降り、サンダルをつっかけ、音をたてないようにして玄関のドアを開けて、外に出た。
もうすぐ四月とはいえ、未明の空気は冷える。上を羽織ってくるのだった。足早に2ブロック離れたところにある一番近いコンビニに向かう。
店には他に客は誰もいなかった。店員の姿も見えない。
ぼくは迷わず店の奥の棚に向かう。
素早くいくつも並んだ似たようなデザインのチューハイ缶のアルコールの度数を一瞥する。5%、6%、7%と少しづつ違う。
7%のを2本抱え、レジに向かう。
黙って無人のレジの前に立っていると、すぐ無言で店員がとんできた。いつもながら、どうやって知ったのだろう。
機械的にレジが打たれる。
374円になります。
財布の中を探って1円玉を四つつまみ出しておく。あとは500円玉だけだ。ごそごそ小銭を漁る。十円玉は…三つだけ、五十円玉は、ない。
504円からお預かりします。130円のお返しです。ありがとうございました。
この鬚面で右耳だけピアスをした店員と顔を合わせるのは何度目だろう。この時間だと週のうち三日は詰めているみたいだから、一月通ったとして、十二回は顔を合わせている計算だ。
こっちが顔を覚えているのだから、先方も当然覚えているだろう。できれば覚えないでほしいのだが。
「お酒、タバコは未成年には売りません」
と、表示が出ている。
何を今更、と思う。体に毒だというのなら、未成年相手だろうが成人相手だろうが、毒には違いないだろう。酒屋が酒を自動販売機で売るのは自粛しても、その分コンビニを売っていれば同じことだ。本当に体に毒になるのを心配していただけるっていうのだったら、酒など売らなければいいだろう。税金をとれるから売らないわけにもいかないのだろうが。
役人のやることは、辻褄合わせばかりだ。ちっとばかり酒税を増やしたからって、酒で体を壊す人間が増えたら医療費が増えてかえって損だぞ。俺が言うのも変だが。
2本のロング缶を入れた袋をぶら下げて、コンビニから出た。
人通りはないが、胸に隠すように抱えて急ぎ足で戻り、そっと玄関のドアを開けて忍び込む。誰も起きてくる気配はない。
足音を殺して階段を上がり、自分の部屋に入って鍵をかけ、少しほっとした。
胃が荒れているので、すきっ腹になると むっと吐き気がわき上がってくる。
すぐプルトップを開ける。甘ったるい匂いが鼻をついた。少し酔っている時の方が、鼻はきくようだ。
そのまま一気に中の液体を喉の奥に流し込んだ。いちいち口に含んで味わったりはしない。胃が刺激され、吐き気が改めて噴き上げてきそうだ。だがすぐ胃に何かがしみこんできて、感覚がすぐ麻痺し、吐き気が薄れる。
頭がぼうっとしてきた。テレビをつける。さっきと同じニュースを繰り返しやっている。ただ、時刻だけは着実に進んでいた。
朝食までの短い空白の時間、それから後の長い空白の時間を想像しただけで、頭が押しつぶされそうな気分になり、二口目、というより二回目の流し込みをやった。
感覚が麻痺する。
頭の回転が鈍り、時間が経つのが早くなる、というより知らないうちに勝手にとっとと進んでいってしまうようになる。自分が自分でなくなるような気分。
天気予報、いや最近は気象情報か。今日は晴れるらしい。ありがたい。
さらに占い。今日の運勢は良くない。チャンネルを変える。こっちの方がいい。こっちを信じるか。いや、どうせ朝からこうべろべろで良い一日になるわけがない。悪い方を信じるか。いや、信じるというより悪くするのだ。
七時。そろそろ用意しないと。まだ一本残っている。いくらなんでも、これをまた一気飲みは無理だ。飲み終えた方の缶は、鞄の中に隠す。
鍵を開けて、階段を降りる。ふらふらして、危ない足取りだ。意識して手すりをしっかり握りながら降りる。玄関に来ると、来客用に用意された消臭スプレーの缶が目にとまった。ふりまいてみる。これで自分の酒臭さがいくらかごまかせるだろうか。
台所に立った。かなり年期が入り、暖かくなったせいか、最近めっきりと動きが鈍くなったゴキブリを見かけることが増えた。
炊飯器で飯が炊ける匂いが鼻をくすぐったが、さっきと違って、酔いがまわりすぎたせいか、あまり匂いを感じない。
冷蔵庫を開け、野菜室からホウレン草を一束つかみ出す。トマト一つに、バナナを一本。あと、卵を三つと牛乳と飲むヨーグルト。蜂蜜は冷蔵庫に入れておくと固まるので、ガスコンロのそばに置いてある。
一度、IH調理器具にするという話が出たことがある。年寄りが火を使うと、危ないからという理由でだ。母が女優の浦辺粂子が炊事をしていて着物の裾に火がついて焼け死んだというニュースをいつまでも覚えていて、突然言い出した。だが結局、実際に炊事をするのは息子だからという理由で改装はされなかった。年金生活でそれほど余計に使える金があるわけもなかった。
冷蔵室からは出来合いのヒジキの煮付けに、豆の煮たもの。
並べてみると、結構まともな献立に見える。実は料理らしい料理というと、これから作る目玉焼きだけなのだが。あとはトマトを切って、バナナと牛乳とヨーグルトと蜂蜜をミキサーで混ぜてバナナシェーキにして。栄養あるわりに手がかからない、はずだ。
老人二人を起こしに行く。年寄りは朝が早いなどというが、血圧がさほど高くないせいか、いつまでも寝ている。体力が落ちている分、休まなくてはならないのだろう。
のろのろと親が起き出す。母が雨戸をあけ、父はシビンの中身を開けに行く。
その間、こちらは新聞を取りに行く。テーブルに広げて読むふりをする。ニュースはテレビかインターネットかでとっくに知っていることばかりだから、わざわざ読むまでもないのだが、読んでいるふりでもしないと間がもたない。
父が顔を洗い、鬚を剃っている。後にすればいいのに。席につくと、すっとインシュリンの注射セットを出す。血糖値を計り、いちいち手帖に記録し、注射する。面倒な話だ。だがそうしないと目が見えなくなったり足を切らなくてはならなくなるというのだから、仕方ない。
血がつながっているのだから、こちらも糖尿の因子は持っていると考えなくてはならない。だから本当は酒のがぶ飲みなどしていいわけがない。カロリーも高いし、膵臓を痛めるのでインシュリンが出なくなるという。そう知っていて、だがまだ一本残っているチューハイのロング缶で頭が一杯だった。
アルコールの匂いが鼻をついた。一瞬、自分の匂いかと思ったが、注射前の消毒用エタノールのものであることがすぐわかった。いくらかでも自分の匂いが紛らわされるのを、期待した。
フライパンにサラダ油をほんの少し入れて、火をつける。油が温まってサラサラしてきたのを懸命にフライパンを傾けて全面に広げる。これでカロリーオフのつもりなのだ。
フライパンを振っているうちに、頭がぐらっとしてきた。
いったん火をとめ、急いで二階に上がり、部屋にとびこむと急いでプルトップを開け、500mlの中身をニ口、三口で一気に胃に流し込んだ。間にあった、と思った。これで固形物を胃に入れてしまうと、酒は入らなくなる。
また階段を降りる。炊きたての米の匂いに、熱くした油の匂いが混ざっていた。洗面所から石鹸や整髪料の匂いがしてくる。チューハイにはいかにも人工的な匂いがつけられているから、区別はいけにくいかもしれないと思う。
ちらと壁の鏡に目をやる。顔は赤くなっていない。だいたい、あまり顔に出ないたちなのだ。しかし、肌が荒れてあちこちに吹き出物が出ている。内臓に来ているのだろうか。口から息を吐いて掌で受けて嗅いでみる。自分では匂いはわからない。
キッチンに戻り、フライパンに卵を割り入れ、火を細めにつける。割った卵の殻で少量の水をすくって卵のそばにじゅっと空け、すぐ蓋をする。
長ネギを切る。切ってから、洗うのを忘れているのに気付く。片手鍋にネギを入れ、ジャーからお湯を注ぐ。顆粒状の出汁をひとつまみに、袋に詰まった味噌を絞り出して入れる。どうでもいいことだが、褐色の味噌がにゅうっと狭い穴から絞り出されてくる光景は、どう見てもおかしな連想を呼ぶ。
そのままコンロの上に置いておく。味噌漉しを使わなくても、湯につけておけばふやけて溶ける。フライパンの下の火を消す。フライパンの蓋の下で、水と油がはじきあっている音が響いている。
酔っているのに、刃物や火はできるだけ使うな。まだそういう理性が働いているようだ。
炊飯器の蓋を開け、しゃもじで縦横に切るようにして混ぜる。全体を均一にするため、と母に教わった技だが、本当に味が変わるものかどうか、わからない。感覚が麻痺していなくても、わからないと思う。
お茶をいれるのを忘れていた。急須の蓋を開けると、お茶の出し殻が入ったままになっている。また一つ余計な手間がかかる。内心うんざりするものを感じながら、シンクに持っていって中身をざっと開けて水で洗う。三角コーナーに水切り袋がセットされていないので、茶の葉はそのまま下水に流してしまう。いいことではないが、仕方ない。
頭の中に何か詰まっているようだ。細かいところに気がいかなくなっている。アルコールがまわると、ちょっとしたことができなくなる。というより、ちょっとしたことこそできなくなる。
やっとの思いで御飯と味噌汁をよそう。足元がふらつき、雲を踏んでいるようだ。
目玉焼きの出来はまあまあだった。白身に細かい穴がぽつぽつと開いている。見てくれも悪いし、舌触りも良くないだろう。一度火を止めた時の余熱が思った以上に残っていて、沸騰したせいらしい。まあ、腹に入れてしまえば、一緒だろう。
一汁一菜に、お茶に細かい残り物。完璧だ。
“あれ”はまだ新聞を読み続けている。声をかけると、テーブルに見ていた紙面を開いたまま置く。ちらと見ると、求人面だ。意識してこっちに見せようとしているのだろうか。あと一月で35歳で、事務職の経験のない人間とすると、ほとんど見てもムダに思えて、目をそらしたまま新聞を畳んで片付ける。
ほとんど自動的に食卓に三人集まり、食事が始まる。もっとも食べ出すタイミングはバラバラだ。父はまだ新聞を読んでいる。母は洗濯物から下洗いするものを分けている。
自分だけ真っ先に、ぼそっと小声でいただきますと言う。だがいざ食べようとして、箸が出ていないのに気づく。
くそっ、なんでこんな簡単なことを忘れるんだ。
箸は洗い槽に干したままになっていた。取って戻ると、父も母も食卓についている。いや、“父”と“母”という感じが感覚の麻痺とともに薄れてきていた。“あれ”と“それ”とでも呼んだ方がぴったりくる気がしてきた。
食べはじめる。少しもうまくない。むっという温気が鼻をつく。息をとめるようにして、かきこむ。
ふと気付くと、母が冷蔵庫から目玉焼きにかけるソースを出してきていた。また、忘れた。
何もかけずに目玉焼きを食べていた。不審に思われないだろうか。
母が黙って父の目玉焼きにソースをかけている。だが、こちらには一瞥もしない。
文字通り味気ない目玉焼きを御飯の上に乗せ、味噌汁をかけてすすりこむ。息を止めて、吐き気がしないかどうか、確かめる。
そそくさと席を立ち、牛乳とヨーグルトとバナナと蜂蜜をあらかじめ入れておいたミキサーをかけてバナナシェーキを作り、三つのカップに分けて、それぞれの前に置く。初めから作っておけば手間が省けるのだが、時間が経つと色が黒くなるのがイヤだという、“あれ”の一言でいったん食べ終えてからいちいち作るようになったのだ。
バナナシェーキは抵抗なく喉を通る。わざわざ一汁一菜など用意しなくても、これだけで朝食済ませていいのではないか、とふと思う。だが、一応固形物を胃に入れているから無茶飲みしても、まだ体がもっているのだ、と自分に言い聞かせる。
汚れた食器をざっと水ですすいで自動食器洗い機に並べる。本当は洗剤で下洗いした方がいいのだが、その一手間がとんでもなく億劫に思える。いちいち皿を重ならないよう立てるのがうまくいかない。蓋を閉めようとすると、箸がひっかかって閉まらない。
思わずうなり声をあげて、強引に閉めるがストッパーがかかってスイッチが入らない。汗が噴き出してきた。その時、洗剤を入れるのを忘れているのに気づいた。再び蓋を開いて箸の位置を直し、洗剤を入れ…、やっと動き出した。全自動といいながら、この機械を入れたらかえって面倒になった気がする。
なんて細々とした手間がかかるのだ、家事というのは。素面の時でも億劫なその一つ一つが、酔った頭ではとんでもない手間暇に感じられる。だが、それを億劫がっていたら、すぐ“それ”の説教がとぶ。とにかく表面を取り繕って、とりあえず文句を言わさないのが肝腎だ。
肝腎、か。
そそくさと自分の部屋に戻りながら、苦笑する。肝腎、といえば肝臓と腎臓。肝心とも書いて肝臓と心臓。どっちにしても、相当痛めつけているのは間違いない。ある時期から、血液検査を受けても結果の数値を見なくなった。確か、一度医者にγ-GTPの値が正常値の上限の3倍だと聞かされたような記憶がある。
言われなくても右の脇腹が中で突っ張ったような感覚からして、相当悪いのは自覚できた。ただ突っ張っているだけでなく、何かごろごろしたものがあるようだ。“沈黙の臓器”と言われる肝臓が悲鳴をあげている。
お腹がごろごろいいだした。物を入れたので、胃腸が動き出した。だが、相当に緩いことがすぐわかったので、急いで二階のトイレに閉じこもった。
勤めている時でも、よくトイレに閉じこもったな。ちくちくイヤミを言われ続けて、お腹が本当に痛くなって、トイレの個室にこもっていると、外からノックしてまたイヤミを言う。よくああいう性格の奴らが、人を使っていられたものだと思う。
用を済ませるとずっと下痢が続いているせいか、お尻が腫れていて痛んだ。ウォッシュレットを入れればずいぶん楽になると思うが、そんな要求ができる立場ではない。せいぜい出せるだけ出しておいて、外でまた用を足す必要にかられないようにするしかない。
ワイシャツを着てネクタイを締め、スーツを着る。
スーツというのも便利な服装だ。これを着ていれば、とりあえず格好はつく。人畜無害であることを証明しながら街を歩くことができる、気がする。高級ホテルに行っても風俗に行っても、それなりにサマになる。
食事が胃の中で落ち着くにつれ、酔いが収まってきた。
改めて鏡の中の自分の顔を見る。頭がはっきりしてきたような気がする割に、心なしか顔が赤くなってきたようだ。早く家を出た方がいいだろう。
2本の空のロング缶を鞄に詰め込み、階段を降りる。
玄関で靴べらも使わず革靴に足を突っ込むと、“それ”がハンカチを持てと持ってきた。受け取って、そそくさと外に出る。家を出て、やっと一息ついた。
これから、また長い一日が始まる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます