クジラの歌

源俊一

第1話「Whele」


「雨だ」


私は、冷え切った窓の外を眺めて呟く。


昨日の天気予報では今日は、晴れだと言っていたはずだが…やっぱり、天気というものはいつでも気まぐれらしい。


私は気怠い身体をなんとかベットから起こす。今日の空気の香水は少々湿っぽい。


「……今日は何をしよう」


今日は珍しく何も無い日だ。

大学も長い長い春休みに入ってやることがない。いつもなら、バイトや車の免許を取るために教習所に通ったり…やることが沢山あった。

彼氏もいない今となっては、お金の使い方もわからなくなってしまった。


「シフトは入らないし、教習所は予約が取れなかったし。どうしよう」


趣味も彼に合わせたものだらけで、案外手っ取り早く捨ててしまった。


机に座り、やることを考える。転がっていた鉛筆を口に咥えて、唸る。

唸る私に呼応するように、雨は窓を濡らし奏でる。


ぼやけて映る私の顔は、なんだか泣いているように見えた。


「外でも歩こうかな」


存外、雨は嫌いじゃ無い。雨に濡れる景色は儚げで綺麗だ。湿った空気は、髪が整えられなくなるから苦手だけど。


ロングコートを着て、マフラーをする。


「何処に行くの?」


お母さんが玄関で靴を履く私に問いかけた。


私はその声に少しだけ心臓が跳ねた。何も悪いことをしているわけではないのに、心臓の鼓動は止まらない。動揺が顔に出ていないだろうか。


「ちょっと外に」

もっともらしい理由は出なかった。そもそも、もっともらしい理由なんてなかった。

「こんなに雨が降っているのに?」

「こんなに雨が降っているからだよ」

半ば強めに言い放たれたこの言葉は、私自身ですら予期せぬ言葉だった。だがこれが、もっともらしい理由だったのかもしれない。

「……そう、気をつけなね?」

「うん」


青い傘を持って、家から外に出る。

ドアを開けるとすぐに靴が顰めっ面をした。

そして傘は、屈強の腕で私の手を取り、外に外に。連れ出した。


「それにしても雪が降らないなぁ…」


もう降ってもおかしくない時期だと思う。

それなのに、一向に降る気配がない。


潮の香りが漂ってくる。


私の家から、20分ほど歩くと海が見えてくる。底なしに紺色の海だ。つまり、さして良い色はしていない。生きていると感じるほど、波はうねり、潮が翻す。


浜辺に下りると、一人の老人が私に気付く。老人と言っても、年齢は知らない。見た目が老けて見えるだけで、実際には老人と言えるほど老けていないのかもしれない。

それでも去年からほぼ毎日のように、この海辺に現れる姿を見るあたり、定年は過ぎているのだろう。


私は老人の隣に立って、老人にしか聞こえない声で呟く。


「昨日、白鯨を見たよ」

「そうかい」

「嘘つき」

「いいや、儂は嘘なんてついていないよ。そもそも、君が初めに言ったことじゃあないか」

「でも一緒に頷いてくれたじゃない」

「そいつは……口が過ぎるってやつだ」


老人は、困ったような顔をして咳き込む。

私はこの老人を困らせることが大好きなのだ。


「冗談だよ、わかってる」

「毎度懲りないなぁ」

「毎度懲りずに付き合ってくれるあなたが言えたことじゃないと思うけど?」

「耳がいたいよ」


老人のさしている傘から垂れる水が、私の頬に跳ねた。目を覚ませとせがんでいるようにも見えた。


「ねぇ、妖精っていると思う?」

「なんだ藪から棒に」

「不思議な生き物とか、神秘的な生き物って沢山いるじゃない?そういうのっていると思う?」

「そうだなぁ…いると信じてみたいね」

「でも私、そんなものなんかよりも鯨の方がよっぽど不思議で神秘的な生き物だと思うの」

「ほう」

「海の中であんなに大きい哺乳類は、類を見ない。しかも超音波だって出来るし、歌だって歌える。動脈なんて、人間が泳げるほど太い」


私は大きく手を広げて説明する。

傘はすでに私の手から離れ、土の上に咲いていた。


「不思議に思わない?どうしてあんな馬鹿でかいものがいるのか」

「生命の神秘ってやつだなぁ」

「そう、まさにそう。鯨は生まれた事自体が神秘的で不思議でならないの」


海に向かって歩く。大きく手を広げて、くるくる回る。雨がしょっぱい。服はとてつもなく重い。


あぁ、なんて空は綺麗なんだ。


「お前さん、風邪ひくぞ」

「いいの。私はもう帰るの」

「そうか、帰り道はちゃんと傘をさせよ」


傘など。


「………おじさん」

「……白石だ、この際覚えておけ」

「あら、貴方も白いのね」

「ん?お前さんも、名前に白があるのかい?」


名前など。


「……白石さん、じゃあ私もこの際だから教えてあげる」

「……ちょ、ちょっと…お前…」

「何で空に鯨の形をした雲が浮かんだ次の日は、雪が降るって言ったと思う?」

「い、いや…」

「それはね、白鯨が空を跳ねる時、空の潮がこの地上に迸るからだよ」

「お前さん、その身体…」


身体など。


「ずっとゆらゆらと水遊びばかりしていた。悠々と空を泳いでいた。朦朧な意識の中で、私は鯨になる夢を見た」


とうに捨てた。


「鯨はね。とても優雅なの。あんなに大きいのに、息苦しくないほど海は広いから」


私は海が好きだった。空が好きだった。

冬が好きだった。雪が好きだった。


そして、鯨に嫉妬していた。


「ほら、白鯨が空を跳ねるよ」


私は空を指差す。

老人はそれにつられて上を見る。


「雪が降るよ」


私は自慢の白い曲線美をはだけさせ、空に水飛沫を上げる。



「ただいま」


「あなた、雪菜見なかった?こんな雨の中、何処に行ったのか……まだ帰ってこないのよ」


「……まだ言ってるのか…なぁ、美智子、雪菜はもう…!」


「………もう、雨は雪になってるよ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

クジラの歌 源俊一 @kingdamsyum

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ