聖魔の結界

「ファラン、叫ぶなよ」

 

 シグリドは小さな娘を片手で抱き上げて身を低くすると、剣を振り上げて襲いかかる戦士のふところに飛び込んで、その顔面をひじで思い切り打ちつけた。何かが折れるような鈍い音がして、戦士が口元を両手で押さえたままうめき声を上げながらその場にしゃがみ込む。

 息つく間もなく間もなく、次の戦士が突き出した剣がシグリドの目の前で空を斬り、はらはらと黒髪が宙に散った。ファランが小さな悲鳴を上げる。

「かすっただけだ……叫ぶな、ファラン!」 

 両腕を首に回してしがみつき、目の前で繰り広げられる恐怖に身体を震わせながら必死に耐えようとする娘を、シグリドは一層強く抱え込んだ。



 

「あの男、ちょこまかと逃げ回りおって……それでも戦士か!」 

 腕の中の娘をかばいながら、振りかざされる剣を素早い動きでかいくぐる火竜の傭兵と、あるじのそばで敵を威嚇する黒い獣を前にして、レティシアは唇を噛んだ。

「そう言うな、レティシア。あの状態で、よくもあれだけ動き回れるものだ……あの火竜、まるで野性の獣だな」

 大きな山豹レーウを従えてしなやかに動き回る黒髪の傭兵の姿に見惚れるかのように、領主の視線はシグリドを捉えていた。


 剣の切先が自分に向けられていることなど気にも留めずに、パルヴィーズはとろけるような微笑みを浮かべたまま、シグリドの動きを目で追っていた。

 その様子を目にして、レティシアが今にも噛みつきそうな勢いで声を張り上げる。

「お前! 仲間が殺されそうな時に、よく平気で笑っていられるな!」

 金色の髪の貴人は、「はて、何のことでしょう?」とでも言いたげに、わずかに首を傾げた。 

「殺される? シグリドがですか? タルトゥスの姫君、私の護衛を見くびらないで頂きたい」

「……何が言いたい?」

「ああ、あなたは『双頭の火竜』をご存知ないのですね。では、『妖魔殺しの黒竜』の噂などはご存知ありませんか?」


 大好きだった兄が戦場から戻るたびに、幼いレティシアに話してくれた『妖魔殺しの黒竜』の物語。

 長身の大きな身体からは想像出来ない素早い身のこなしと瞬発力で、並み居る戦士たちをあっという間に斬り倒し、妖獣相手でもひるむことなく立ち向かう勇猛果敢な傭兵。その左腕には「黒い竜」が刻まれているという……


「兄上の作り話だと思っていた。本当にいたのか。あれが、『黒竜』?」

 レティシアは困惑の眼差しをシグリドに向けた。

「いつの頃からか『双頭の火竜』が戦場から姿を消したのは……なるほど、そういう事か。レティシア、俺たちはとんでもない間違いを犯したのかもしれんぞ」 

 領主はおもむろにパルヴィーズに向けていた長剣を下に降ろすと、その柄に刻まれたティシュトリアの護符の紋を指でゆっくりとなぞりながら、不敵な笑みを浮かべた。

「その長剣はシグリドの……あの『火竜』の養父で、ティシュトリアの軍人だった男の形見です。火竜の傭兵にとっての故国は『火竜の谷レンオアムダール』ただ一つ。あなたの『宿敵』である隣国など、シグリドにとって何の意味もありません。つまらぬ勘繰りで大切な戦士達を無駄死にさせるおつもりですか、『領主』殿?」

 パルヴィーズが投げかけた呼び名の不自然さに、男は眉をひそめた。

「相手は戦場で名の知れた傭兵だ。無駄死にではない、むしろ栄誉と思うべきだろう?」

 アスランの剣を鞘に収めると、男はまた椅子に腰掛けて戦いの行方に思いを馳せた。



 ……どうする、シグリド?


 次々に斬り掛かる戦士達をかわしながら、相手の急所にこぶしを叩きつけ肘で打ちのめしても、全くらちがあかない。とは言え、ファランを抱えたまま、剣を奪うために戦士に立ち向かうのは危険すぎる。

 先程までパルヴィーズに向けられていた剣が、椅子に腰掛けている男の膝の上に戻されたのを横目で確かめると、シグリドは目の前に迫る戦士の脇を素早くすり抜け、勢いをつけたまま膝から床に滑り込んでファランをパルヴィーズの足元に転がすように手放した。

「グラム!」

 主の呼び声に応えるように黒い獣が唸り声を上げて宙を舞い、するりとファランの前に飛び降りる。

「ファランを任せたぞ、グラム」

 獣の身体をさっと撫でると、「双頭の火竜」は凍てついた表情で素早く立ち上がり、戦士達に向かって歩き始めた。

「死にたくない奴は剣を捨てろ。でなければ、容赦はしない」



 あっという間の出来事に、ファランは何が起こったのか分からなかった。気づけば、床の上に降ろされグラムに守られていた。

「大丈夫ですか、ファラン?」

 背後から聴こえたパルヴィーズの優しい声で我に返ると、ファランは目の前で繰り広げられている光景に言葉を失った。


 床に横たわったまま苦しそうに呻き声を上げる男達と、上衣を血に染めて敵を圧倒する黒髪の傭兵……いつの間に奪ったのか、シグリドは利き手に長剣、左手に短剣を逆手に持ちながら襲いかかる戦士達を次々となぎ払っていく。


 ああ、シグリドったら血塗れだわ。返り血かしら? もしそうでなければ……ああ、大変! 床に倒れている人達も、早く助けないと……


 ファランは無意識に腰に手を伸ばして治癒師の箱を探し、はっと息を呑んで、椅子に腰かけている男の方に目をやった。その横にある台座の上に、見慣れた道具箱がぽつんと置かれている。


 ああ、どうしよう……でも、あれがないと治療が出来ないわ。


 台座のすぐ隣には、レティシアと呼ばれた少女が顔を強張らせたまま戦いの行方を見つめている。その手には細身の長剣が握られていた。

 ファランが少しでも妙な動きをすれば、あの男か少女に斬り殺されるだろう。


 それでも、救うべき命がそこにある限り……


 治癒師の娘が意を決してゆっくりと立ち上がったと同時に、グラムが警戒の唸り声を上げた。

 


「アルス従兄にいさま……アルスレッド! 駄目だ、止めさせないと……あの男に皆殺しにされてしまう!」

 レティシアが顔を真っ赤にして叫んだ。アルスレッドは椅子に腰かけたまま年下の従妹に見向きもせず、シグリドから視線を外そうとしない。

「お前が言い始めた事だぞ、レティシア。こういう事態が起こり得る事も考えずに、俺に戦士達を召集させたのか?」

 いつも自分を揶揄からかってばかりいる年上の従兄から、死地を生き抜いて来た戦士としての冷酷さを初めて感じ取って、レティシアは思わず身をこわばらせた。

「あの火竜、斬りつけてはいるが、わざと急所を外して動けないようにしているだけだ」


 なんて奴だ。一息に殺してしまえば簡単なものを、あれだけの人数を相手にしながら、ぎりぎりのところで命を奪わずにいるとは……


 凶暴さで知られた火竜の傭兵らしからぬ戦い方に、アルスレッドは戸惑うと同時に感嘆すら覚えていた。

 ふと、黒髪の火竜が大切に抱きしめていた娘の事を思い出し、そちらに視線を向けた。


 赤い巻毛の娘は、黒い獣が足元に絡みついて止めようとするのも聞かずに、ゆっくりとこちらに向かって歩いていた。その青灰色の瞳はアルスレッドの横に置かれた台座に注がれている。そこにあるのは、見事な象嵌を施された金銀の短剣と女物の腰帯に付けられた道具箱だ。

「確か、あの娘、術師だと言っていたな。夫を救うために良からぬ術でも使うつもりか……さて、どうする、レティシア?」

 思わぬ問い掛けに、少女は咄嗟に剣を構えた。

「おい、お前、それ以上近づくな!」

 それでも、娘は道具箱だけを真っすぐに見つめている。

「ファラン、駄目です……戻りなさい、ファラン!」

 いつになく緊張の色を帯びたパルヴィーズの声は、シグリドの耳にも届いていた。


 少女の長剣の切先が自分に向けられているのを見て、ファランは身震いして歩みを止めると、まるで懇願するようにゆっくりと左手を胸に当てた。

 からり、と銀の腕輪が音を立てる。

 治癒師の娘はその澄んだ青灰色の瞳で、目の前に立ちはだかるタルトゥスの貴族の娘と領主を真っ直ぐに見つめたまま、静かに、祈るように語りかけた。

「領主様、私の箱を……治癒師の道具箱を返して下さい。そして戦いを止めさせて下さい。今なら救える命も、これ以上長引けば失われてしまうかもしれません。その前に、お願いですから……!」

「出来ぬ相談だな。娘よ、お前、術師なのだろう? 妙な術を使われては困る」

 タルトゥスの戦士の心を妖術如きで操れると思うなよ……アルスレッドは挑むような鋭い眼差しで「術師」の娘を睨みつけた。

「領主様、私は術を使う力など持ち合わせて

はいない『癒しの箱』に過ぎません。でも、目の前で苦しむ命を見過ごす事は出来ません。どうかお願いです。私に、あの戦士達の命を助けさせて下さい。早くしないと……」


 ああ、もう! どうして分からないの? 命は、一度投げ出してしまえば二度と戻って来ないのに……


「領主様、あなたの大切な戦士の魂が、こんな形で『果ての世界』に旅立ってしまっても良いのですか? あの人達の命が、こんなつまらない争い事に消えてしまっても、あなたは……本当にそれで良いのですか?」


 治癒師の娘の凛とした声がアルスレッドの心に静かに響き渡った。

 夫を助けてくれ、と懇願する訳でもなく。

 ただ命を助けたいだけ。

 そう言い切った娘の瞳が真っ直ぐに自分を見つめている。

 目の前にひざまずいて震えていた小さな娘からは想像すら出来ない、己の信念を貫こうとする一人の治癒師の姿にアルスレッドは心惹かれた。


 レティシアは、年上の従兄のハシバミ色の瞳が赤い巻毛の娘を捉えて離さない事に気がついた。


 アルス従兄にいさまは一体、何を考えている?

 あのような怪しげな娘を近づけるなんて……いつもなら下賤の女などに目もくれぬ誇り高い従兄さまが、なぜ卑しい術師ごときの話しに耳を傾ける? 

 この私の言葉には耳さえ貸さなかったのに……この私がその娘より劣るとでも言うのか? 古えの七王の一人、タルトゥス王の直系であるこの私が?


 幼い少女は心に湧きあがる嫉妬と羨望の入り混じった感情に戸惑いながら、手にした長剣を強く握りしめた。 

 ファランが道具箱を手にしようと、アルスレッドの方へ一歩踏み出した、その瞬間……


 レティシアの長剣がファランめがけて振り下ろされた。



***



 銀灰色の滑らかな絹の衣に、ふわり、と包まれた気がした。

 きらきらと赤い星屑がきらめいて、とってもきれい。



 気づけば、ファランは誰もいない大広間の冷たい床の上に座り込んでいた。


 ……ここはどこ?


 ゆっくりと立ち上がり、恐る恐る辺りを見回してみる。

 壁面に沿うように並べられた書棚には様々な言語で書かれた書物が整然と並べられ、壁を埋めるようにして多くの肖像画が飾られていた。

「誰かの書斎かしら? 珍しい本ばかりね……どこの国の言葉かしら?」

 大陸の共通語と母国語しか話せない自分がちょっと情けなく思えた。


 パルヴィーズ様が見たら、きっと夢中になって大変なことになるわね……


 語り部を名乗る不思議な貴人を思い浮かべて、ファランは思わず頰を緩めた。書棚に沿って歩みを進めるうちに、ふと、広間の正面に飾られた大きな肖像画に目を留めた。


 腰まで流れ落ちる黄金の髪に、涼しげな泉の水をたたえたように潤んだ薄青色の瞳。

 妖艶な肢体に薄絹をまとったその美しい女性ひとは、なぜだかファランの知る金色の髪の貴人を思い起こさせた。

 つややかな濃い金色の髪がとってもきれい……ふわふわと広がって絡みやすい自分の赤い巻毛を恨めしく思いながら、ああ、だからパルヴィーズ様を思い浮かべたのね、と納得した。


『美しいであろう? 人の子の腹から生まれ出た女にしては、上出来だとは思わぬか?』

 突然、目の前の空間にゆらりと現れた銀灰色の髪の聖魔に、ファランは心臓が止まるほど驚かされた。

「……ああ、もう! アプサリス様、驚かさないで下さい!」

『なんだ、天竜の娘、せっかく助けてやったのに、礼の一つもなしか?』


 ……そうだったわ。


 あの時、タルトゥスの少女の剣は確実にファランを捉える寸前だった。

 「狭間はざま」に逃げ込むだけの猶予もなく、振り下ろされた刃の前に足がすくんで動けずにいた自分を、アプサリスがその腕に包み込んで「狭間」に引き入れ、ここまで連れて来てくれたのだ。

「あの……助けて下さってありがとうございます。でも、聖魔さま、パルヴィーズ様は? 一緒に助けて差し上げなかったんですか?」


 なぜか頭を下にして上下逆さのまま胡坐あぐらをかき、宙をゆらゆらと漂っていた聖魔が、少し不機嫌そうに優美な眉を吊り上げた。

『あの頑固者が……シグリドを置いていく訳にはいかぬ、と我の助けを断りおったわ。替わりにお前を助けて欲しいと請われてな……何だ、天竜の娘? 我の髪に何かついているのか?」

 ファランは、目の前に漂う美しい銀灰色の髪を指に絡めてはき、絡めては梳きを何度も繰り返していた。指を動かすたびに、赤い火の粉がきらきらと星屑のようにこぼれ落ちていく。

「とってもきれい……」


 ああ、これだわ……思い出した!


「聖魔さま、どうして聖魔さまの結界がこの城を守っているのですか?」

 アプサリスは金色の獣の瞳をゆっくりと細めた。

『……さて、なぜだと思う?』


 聖魔は美しい顔を歪めて、にやりとわらった。

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