フュステンディルの夜

「道具箱なしでは『癒しの箱』にさえなれないわ」

 炎の色の巻毛を揺らしながら、治癒師の娘は冗談めかして笑った。



 街が妖獣達に襲われた際、治癒師の道具箱を持ち出す暇もなかったファランに、商隊の薬売りが「御礼代わりに」と治療に最低限必要な道具を整えてくれた。

 商隊に別れを告げた後、隣国に続く森の小道で、目にした薬草を摘むために何度となくシグリドに馬を止めてもらい、新鮮な薬草も手に入れた。満足気な治癒師と薬草、という余分な荷物を背負わされたシグリドの馬は、少し迷惑そうだ。

「もう一頭、馬を手に入れましょう。一緒に旅を続けるなら必要でしょう」

「そうだな。これ以上余分な荷物が増えると、俺の馬が駄目になる」


 余分な荷物って……それって私のことよね?


 そう思うと、ファランは少し居心地が悪くなって、シグリドの腕の中で小さくなった。 

「ファラン、お前、馬に乗れるか?」

 途端に、シグリドは娘の身体がこわばるのを感じた。

「普段は兄さまが相乗りしてくれていたの。それに……『狭間はざま』を通り抜ける方が速いから」

 迷子にならなければ、の話だけれど……ファランは心の中でつぶやいた。


 シグリドは大きくため息をつくと、意味あり気にパルヴィーズとその愛馬を交互に見た。

「……どうする? しばらくの間、お前がこいつを乗せるか? お前の馬は俺のと違って疲れ知らずだろう?」 

 意味ありげなシグリドの口調に、パルヴィーズがわざとらしく大きな微笑みを向けた。

「遠慮しておきます。あなたに斬り殺されたくありませんからね」 

 パルヴィーズの馬も、「それが良い」とうなずくかのように頭を、ぶん、ぶん、と大きく上下に振った。


 確かにそうだな……馬上とはいえ、黄金の髪の貴人に抱かれている娘を思い描いて、シグリドは片方の眉を吊り上げると、ファランを支えている腕にぐっと力を入れた。



 どうしたのかしら?


 昨日の夜から、シグリドは何かにつけて腕の中にファランを捕えて、強く抱きしめようとする。まるで、ファランがまだそこに居るか確かめるように。

 熱い目眩めまいを覚えながら、ファランはふと、ほとんど感情を表に出さない寡黙な青年と初めて出会ったあの日に思いを巡らせた……


 失ってしまった愛する兄を想いながら、静かに涙を流した少年。

 「もう少し、このままで」と温もりを離そうとしなかった、しなやかな腕。

 別れ際に交わした突然の口づけに、驚きを隠せぬまま、こちらを見つめる澄んだ新緑の森色の瞳。

 

「ねえ、シグリド?」

 背中越しに、パルヴィーズに聞こえないよう、そっとささやいた。

「もしかして……また私が消えてしまうかも、と思っているの?」

 シグリドの腕がぴくり、と動いた。


 ああ、やっぱり……


「安心して。どこにも翔んで行ったりしないわ。私には、もう帰る場所もないんだし……だから、もう、手を離しても大丈夫よ」

 ファランの腰を抱いていた腕が少しだけ緩んだ。ほんの少しだけ。


 凶暴さで知られる「火竜」の傭兵なのに、なんだか寂しがり屋の小さな男の子みたい……


 急に愛しさを感じて、ファランはシグリドの腕にそっと自分の腕を重ねた。

 

 


 森を抜けると、目の前に小さな砦が現れた。

 プリエヴィラの東の隣国フュステンディルは、その温暖な気候と恵まれた土地の実りで「祝福されし花」と呼ばれている。異邦の民を歓迎し、様々な民の血が混じり合うことでも知られている。 


 国境を守る砦の兵士を美しい笑顔で魅了しながら通行税ツォルを納めるパルヴィーズの傍で、シグリドは馬を扱う市場があるか、と兵士に尋ねた。

「あるにはあるが……フュステンディルの民は小柄なんでな。馬も小柄なものしか扱っちゃいないぞ」

 堂々とした体躯の黒髪の傭兵を見上げながら、兵士は少し困惑気味に告げた。

「それでいい。必要なのはこいつの馬だから」

 そう言いながらファランの方に目をやると、今にも泣き出しそうな顔をしている。

「無理よ、シグリド。私、本当に馬が苦手で……一人で乗るなんて、絶対に無理」

「長旅に馬は必要だ。一緒に来るなら、今のうちに慣れておけ」

 涙目になりながら訴えるファランを制止するように言い放った。


 兵士は市場までの道をシグリドに教えた後、ファランをしげしげと見て、にやりと笑った。

「なあ、旅のお方。奥方はあんたの腕の中が心地良いんだよ。可愛いもんじゃないか」


 ……ああ、まただわ……奥方って!


 ファランが真っ赤な顔で恥ずかしそうに手で口元を覆うのを見て、兵士がにやにやと口元を緩めたままシグリドに目配せする。

「奥方をしっかり抱きしめておきなよ。間違って道端に落としでもしたら、ご領主のものになっちまうからな」

 分かっている、とシグリドは無愛想に答えて、先を行くパルヴィーズを追った。



「ねえ、シグリド、あれはどういう意味? 領主のものになるって?」

 シグリドは面倒臭そうにパルヴィーズへ視線を向けた。ファランもつられてそちらを見る。

「領内を通過する旅人の所持品についての決まり事です」

 やれやれ、という顔をしながらパルヴィーズが説明を始めた。

「万が一、落としてしまった場合、その土地に触れたものはすべて領主に帰属する、と言う事です」

「そんな都合の良い話って……」

 呆れ返ったように、ファランが目を丸くする。

「世の中は権力のある者、弱者をおとしめる者に都合良く出来ているのですよ。先程支払ったツォルが良い例です。『旅人の安全を保証する護衛料』という名目のツォルを支払う旅人は、盗賊や野盗化した傭兵に狙われやすい、という笑い話があるくらいですからね」

 なるほど、諸国を旅するって色々大変なのね。だからパルヴィーズ様はシグリドを護衛として雇っているのね……と、ファランは妙に納得した。

「何にせよ、可愛い奥方を落とさないで下さいね、シグリド」

「パルヴィーズ様まで、その言い方! もう、私、恥ずかしくて心が破裂しそうです!」

「どうして? シグリドの妻と思われるのはそんなに嫌ですか? こう見えて、他の女には……」


 シグリドが急に馬を走らせたので、パルヴィーズの言葉はファランの耳に届かなかった。


「……一切目もくれず、貴女あなただけをずっと想い続けるほど、一途な男なのですよ」



***



 街道沿いにある小さな村をいくつか通り過ぎた先に、城砦都市が見えた。

 ここでも城門を守る兵士に通行税ツォルを納めるパルヴィーズを見て、やっぱりこの人、貴族よね……とファランは確信した。決して安いとは言えない額のツォルを三人分、何のためらいもなく支払うのだから。

「シグリドはパルヴィーズ様の身分を知っているんでしょ? どうして、高貴なお方が旅の語り部なんてしていらっしゃるの?」

「本人に直接聞いたらどうだ?」

 俺に聞くな、と不機嫌な声が頭の上から降って来た。

「とっくに聞いたわ。でもちゃんとした答えが返ってこなかったの」

 あいつらしいな、とシグリドは思った。

 確か、大陸の中央あたりに所領があると言っていた。領主として自分の城に留まっていれば危険な目に遭うこともない。なのに、わざわざ護衛を雇ってまで諸国を旅するには、それなりの理由があるのだろう。

 かつてのアスランがそうだったように。

「言いたくない事の一つや二つ、お前にだってあるだろう?」

「まあ、確かにそうだけれど……」


 私が言いたくない事って何かしら? 

 失ってしまった家族の事。それに……兄さまにも秘密にしていた、あの人の事。兄さまに言えば、必ず反対されるとわかっていたから。

 あの人は、約束の場所に現れない私をいつまでも待ち続けたのかしら。

 浄化の炎に焼かれた街を見て、私は死んでしまったと思ったのかしら……

 

 

 ファランの心が翔んで行きそうになるのを感じて、シグリドは娘をしっかりと抱き寄せた。



***



 しばらくこの城塞都市に滞在するつもりで宿を取り、街で評判の食堂で少し早い夕食にありついた。

 パルヴィーズはいつものように甘い微笑みを浮かべて給仕をしている娘に話しかけ、テーブルに両肘をついて右手の薬指の指輪をまさぐりながら、街の情報を色々と聞き出していた。

 左腕の籠手は宿に置いてきたものの、護衛らしく漆黒の剣を背負い、長剣を左足に立てかけて静かに葡萄酒を飲んでいるシグリドは、一見すると「眉目秀麗で寡黙な傭兵」として目を惹く存在だった。

「せめてパルヴィーズ様くらい愛想が良ければ……」

 ファランは、はあっとため息をついた。

「……何の事だ?」

「言わなくても分かるでしょ?」

「愛想なしで悪かったな。俺がパルヴィーズのようなら、逆に気味が悪いだろう?」

「それは……まあ、確かにそうね」


 でも、本当にとっても残念。そのこごえそうな視線さえなければ、絶対に街の女達が放ってはおかないのに……あの商人の娘のように。あの時はちょっと嫌な気持ちがしたけれど。


 ……え? 


 私、シグリドが誰か他の女性ひとと一緒にいる姿を見て、嫌だと感じたわ。

 ええっ? 嘘、これって……?



 大きな青灰色の瞳をくるくる動かしながら、頰を紅潮させて何やら思いを巡らしているらしいファランの様子を、シグリドは少し呆れ気味に眺めていた。

 パルヴィーズが給仕の娘の手を取り、礼を言いながらその甲にくちづけると、娘は頬を染めて夢見心地でふらふらと店の奥に姿を消した。

「ファラン、百面相も良いですが、せっかくの可愛い顔が台無しですよ」

「……見てたんですか、パルヴィーズ様?」


 ついさっきまで、給仕の女の子とれ合っていたのに……この人、やっぱり油断ならないわ。


 ファランの心の内を読み取ったかのように、ふふっ、と微笑んだパルヴィーズの瞳に、一瞬、陰りがよぎる。

「パルヴィーズ、悪い知らせか?」

「さて……近頃、妖獣に襲われる街の数が以前と比べて増えているそうです。特に、大陸の東に行けば行くほど多くなる、と」

 大陸の東と言えば、アスランの生まれ故郷のティシュトリアがある辺りだ。

「ティシュトリアでもか?」

「そこまでは何とも……あくまでも噂ですからね。気になるのなら、サリスに聞いてみますか?」

「いや、聖魔を使い魔代わりに使うな、と俺が責められる。ヤムリカなら何か知っているかもな……」


 月色の髪の有翼の蛇グィベルに久しぶりに顔を見せるのも良いかもしれない。何と言っても、あれは心配性で過保護な聖魔だから……宿主だったディーネの遺志を継いで庇護者となることを申し出てくれた心優しい妖魔を思って、シグリドは微かに頬を緩めた。


 二人の会話を黙って聞きながら、ファランは「聖魔」「使い魔」などの言葉を躊躇ちゅうちょなく使う男達を不思議そうに見つめていた。

「そう言えば、明日がフュステンディルの建国記念日だそうで、盛大なお祭りが催されるようですよ。今夜は前夜祭ということで……ファラン、気晴らしにシグリドと二人で出掛けてみてはどうですか?」

 お祭り、と聞いて、ファランの瞳が娘らしくきらきらと輝いた。

「……お前が行けば良いだろう」

「遠慮しておきます。あなたに斬り殺されたくない、と前にも言ったでしょう?」

 それに、新しい物語と伝承の収集で忙しいのですよ、と言って、パルヴィーズは食堂から姿を消した。 


「ねえ、シグリド。パルヴィーズ様を一人にして、大丈夫なの? 護衛だったら……」 

「街の中なら問題ない。どうせ『サリス』がどこかで眼を光らせているだろうから」

 サリス、と言われて、ファランは首を傾げた。

「行くぞ」

「……え?」

「祭り。行きたいんだろう?」

 そう言って長剣を剣帯に挿し、ファランの腕を掴んで立ち上がらせた。

 長身の黒髪の男に腕を取られた小柄で愛らしい娘を見て「お似合いの夫婦だねえ」と誰かがささやくのを耳にして、ファランはまた、くらくらと目眩めまいがした。


 

 街のあちこちに、色とりどりの花をかたどった提灯ちょうちんともされていた。

 幻想的な光の中、前夜祭に集まった人の群れを泳ぐようにして歩くシグリドは、いつの間にかファランの肩に手を回し、しっかりと腕の中に囲っていた。

「ねえ、シグリド、ちょっと……歩きにくくない?」

 近すぎるわ、どうしよう……身体全体が火照るのを感じて、ファランはシグリドから離れようともがいた。

「この人混みだ。一度はぐれたら見つける自信がない」


 それは分かるけど……

 ああ、もう、この人ったら、こんな時でも表情を変えないんだから! 

 それとも……私、もしかして、女として見られていないのかしら?


 ファランは少し複雑な気持ちを心に抱きながら、しばらくの間、黒髪の無愛想な若者に身をゆだねることにした。

 シグリドは腕の中にある小さな温もりを大切に抱きながら、少し冷たい夜風を心地よく感じていた。 



 

 真夜中を過ぎた頃。前夜祭で賑わっていた街もようやく落ち着きを取り戻した。家路につく人混みの中、シグリドはファランの手を握ったまま宿に向かって歩いていた。

 ファランの方は、きらきらと輝く色とりどりの花提灯に未だ魅了されているらしい。その中の一つにそっと手を差し伸べて、美しい色合いの光を愛でながら、にっこりと微笑んだ。 

「とってもきれい」

 光に照らし出された赤い巻毛が、ふわりと夜風に揺らいで娘を包み込む。


 ……ああ、まるで炎の精霊のようだ。


 愛らしい姿に思わず魅了されて、シグリドの手が緩み、小さな手がほんのわずかに離れた。



 その瞬間、ファランの姿が、歪んだ空間に呑み込まれて消えた。

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