やっと逢えたのに
たった十歳だった。
ただ必死に、消えそうな命を救おうとしたあの日。
子供だった私に命を預けてどんなにか不安だったろう。それでも信じて身を任せてくれた。
姿を消したまま戻らなかった私をずっと忘れずにいてくれた。
無愛想で、目つきが悪くて。
でも、とてもきれいな澄んだ眼をした人。
生まれて初めて、口づけを交わした人。
ねえ、いつから気づいていたの? 私があの時の治癒師だと、いつ分かったの、シグリド?
私の事をずっと待っていてくれたの? だから、ずっと首飾りを持っていてくれたの?
「火竜の谷」で、あるいはあの地下牢で、浄化の炎に焼かれて還らぬ人になったのだと思っていた。二度と会えないのだと。
……生きていたなんて。
首飾りを握りしめたまま、ぽろぽろと涙をこぼす娘を見て、カイルテは困った顔をしながら優しく肩を撫でてやった。
「カイルテ様、シグリドは……今どこに?」
カイルテは申し訳なさそうに頭を掻いた。
「実はな、もうここには居らんのだ。出発して一刻ほどになる」
……どうして?
やっと逢えたのに、どうして黙って行ってしまうの?
ああ、私ったら、あの人の頬を打ってしまったわ! 誇り高い火竜の戦士を
それとも、私がまだ幼い子供だったから? 初めから、私のことなんて何とも思っていなかったの?
それに……もう十年も経ったのよ。心を通わせた女性が一人や二人いてもおかしくないわ。
そう思った途端、ファランの胸がきゅっと痛んだ。
「なあ、お前さんとシグリドの間に何があったかは知らんが、あの男はやめておけ。王都軍の治癒師ともなれば、上手くすれば城仕えとして召し上げられる可能性もある。お前さんの器量なら、嫁に欲しいと言う男も現れるだろう。あんな無愛想で、厄介事に巻き込まれてばかりの男なんぞ……」
「カイルテ様、ごめんなさい。でも、私……」
確かめたい。どうして、この首飾りをずっと持っていてくれたのか。
そう思った途端、ファランは心を決めて瞳を閉じると、逢いたい人を心に思い浮かべながら「
娘が消えた空間をしばらく茫然と見つめていたカイルテは、ほおっと大きなため息をついた。
「まったく……最近の若いもんには困ったもんだ」
ふと、懐かしい友の笑い声が聞こえたような気がした。
「なあ、アスラン。お前の不詳の息子を追いかける物好きな娘がいるとは、驚きだな」
刀傷のある頬に、嬉しそうな笑顔が浮かんでいた。
***
地図を見つめて何やら考え込んでいたパルヴィーズが、ようやく口を開いた。
「とりあえず、隣国に抜けて、そこで宿を取りましょう」
「陽が落ちる前に隣国に入れれば、の話だろう? 今から森を抜けられるか疑問だな。森の中で野宿になるかもしれん。俺は良いが……」
森の獣に狙われるのは、どう考えても雇い主であるこの呑気な男だ。それはまずい。
「久しぶりに星空の下で眠るのも良いですね。焚き木の炎を見つめていると、語り部の血が騒ぐのですよ」
無邪気な子供のように嬉しそうな顔をする雇い主を見て、シグリドは苦笑した。
全てを必然として受け入れるこの男は、シグリドの過去も当たり前のように受け入れた。「二つ頭」と呼ばれた火竜も、「妖魔殺し」の傭兵も、この男の前では「そうならざるを得なかった普通の人間」でしかない。
馬を進める街道の先に、国境に広がる森が見え始めた頃。ヴォーデグラムが背中で身じろぎするのを感じて、シグリドは鞘から刀身を引き抜くと「グラム」と静かに呼び掛けた。
するり、と
物珍しそうに道端の草花の匂いを嗅ぎながら、馬の足並みに合わせてシグリドの横を付かず離れず追いかけてくる。その姿は、どこから見ても人懐こい野の獣としか思えない。
「ヴォーデグラムもすっかりあの姿が気に入ったようですね。まるで本物の
「それを言うなら、お前の『サリス』も毛色の変わった本物の鴉にしか見えんがな」
いつの間にか、銀灰色の鳥がパルヴィーズの肩に止まって、ただの鴉とは思えぬ知性をたたえた瞳でシグリドを見つめていた。
「
……鴉の姿のうちに叩き斬ってやろうか?
『命が惜しくば、不遜な考えは持たぬことだな、火竜の子』
ああ、ばれたか。
『まったく、お前ときたら……竜紋の石がつないだ絆を自ら断ち切るとはな』
「聖魔が人間の営みに積極的に関わるのは禁じられているのだろう、アプサリス? いい加減、俺に絡むのは止めたらどうだ?」
ふああ、と鴉が大きな
『退屈なのだよ、我らの世界は。それに比べて人の世は面白い。人間は我らを「魔」と呼びながら
人間はお前達の将棋の駒という訳か。なんとも迷惑な話だな。
『おとなしく駒になる人間どもが悪いのだよ。その点、お前は本当に面白い。ことごとく我らの思惑を打ち砕いてくれるのでな。お前と居ると退屈せずに済む』
「だからと言って、この男に必要以上の愛情を注がぬようにして下さい、我が愛しき鴉の姫」
パルヴィーズが気を引こうとするように銀色の鳥を撫で回した。鴉はうっとりした様子でされるがままだ。
『それもまた戯れ。我が誘いを足蹴にするのはこの男くらいなのでな。しかし……あれほど手に入れたいと切望していた娘を腕の中に抱えても、唇ひとつ奪えぬとは。お前には情欲というものがないのか、火竜の子?』
くわっ、と一声鳴いて、シグリドが投げつけた木の枝を避けると、銀灰色の鴉はどこかに飛び去っていた。
笑い声のような鳴き声が空に響いた。
「パルヴィーズ、陽が落ちる前に森を抜けるぞ。付いて来られそうか?」
「ご心配なく。大丈夫ですよ」
「なら、先に進むぞ」
前方の森の視線を向けた途端、シグリドの目の前の空間がぐらり、と揺れた。
それは「狭間」から何かが通り抜けてこの世界に現れる気配。十年前のあの日、「狭間」をくぐり抜けてきた幼い治癒師との出会い以来、シグリドは何度もこの「空間の
「よりにもよって、こんな街道のど真ん中で!」
シグリドは驚いて興奮する馬をなんとか御して街道の傍に止めると、素早く馬から降りて神経を研ぎ澄ませ、得体の知れぬものの出現を待った。
ふわり、と小さな影が地上に降り立った。
長い巻毛が、ゆらり、ゆらり、と風に揺らぎながら小さな身体を緩やかに覆っている。
その姿は、まるで炎に抱かれた精霊ようだ、とシグリドは思った。
馬から降りる背の高い黒髪の傭兵の姿を認めて、ファランは懐かしいその名を呼んだ。
驚愕の表情でこちらを見つめるシグリドに迷わず駆け寄ると、赤い巻毛が風に揺られてくしゃくしゃになるのもお構いなしに、小さな身体で体当たりするように思い切り抱きついた。
「ファラン……お前、まさか、追ってきたのか?」
いきなり抱きつかれて、シグリドはどうしたものかと困惑するように、両腕を宙に浮かせたままだ。
「ねえ、どうして? どうして黙って行ってしまうの、シグリド?」
シグリドはゆっくりと両腕を下ろして、ファランの背中にそっと回した。
パルヴィーズの視線を痛いほどに感じるが、構うものか……
「俺のことなど、忘れたのだと思っていた」
ふわり、と甘い花の香りが漂ってくる。
「忘れようとしたわ……あなたは死んだと思っていたから」
シグリドは驚いてファランを見下ろした。
「王都の兵舎で術師達が話していたの。城砦都市と同じ日に『火竜の谷』も全滅したって。だから、もう二度と会えないと思って……」
青灰色の瞳から、ぽろぽろと涙があふれ出る。
……ああ、だからか。
戻って来なかったのではなくて、戻って来れなかったんだ。俺が死んだと思っていたから。
シグリドは思わずファランを強く抱き寄せた。
「いつ、私があの時の治癒師だと気付いたの?」
シグリドの腕の中にすっぽりと収まって、広く逞しい胸にばら色の頬を押しつけたままファランが尋ねた。
「初めから。お前があの宿に現れた時から」
嘘、と娘が悲鳴に近い声を上げた。
「私、そんなに子供っぽいままなの? あれから十年も経つのに」
いや、そうじゃなくて……とシグリドは口ごもった。綺麗になった、と思った。娘らしく、より愛らしくなった、と。
「その髪と瞳。それに……香りが、変わってない。あの日のままだ」
ずっと覚えていたんだ。忘れるものか。
「あなたは……相変わらず、私よりもずっと背が高いわ」
それに、とても素敵になった。近寄りがたい雰囲気は変わってないけど。
くすり、とファランが笑った。シグリドもつられるように口元に少しだけ微笑みを浮かべる
「ねえ、シグリド、ちょっとだけ頭を下げて」
怪訝な顔をしながらも、言われるがまま身を屈めた男の首に、ファランは背伸びをして握りしめていた青い石の首飾りを掛けた。
「やっぱり、あなたが持っていて。私が戻って来るための
「……戻って早々、また何処かに翔んで行きそうな言い方だな」
「やっと追いついたんだもの、すぐに消えたりしないわ。だから……」
ファランが恥ずかしそうに小さな笑い声を上げた。
「そんなに強く抱きしめなくても大丈夫よ」
遠くから興味深げに二人の様子を見守っていたパルヴィーズは、娘を見つめるシグリドの穏やかで優しげな表情に少し驚きながらも、いつも無愛想で言葉数の少ない若者の意外な姿を目にして微笑むと、肩に止まった鴉に何やら
温かい胸に顔を埋め、心地よい安堵感に包まれながら、ファランはこの温もりがずっと続けば良いのに……と心の底から願った。
「ねえ、シグリド……お願い、一緒に連れて行って」
背中に回された腕に力がこもるのを感じた。
「兄さまも、お爺様も、私の街も……全部、消えてしまったわ。もう、ここに居る意味がないの……ここに残っても、辛いだけだわ」
少し考え込むようにファランを見つめていたシグリドが、そっと腕を緩めた。
「ファラン、お前は王都に戻れ」
びくっと肩を震わせて、ファランが顔を上げる。
「カイルテに言われなかったか? 王都軍の治癒師になれば、お前なら必ず重宝される。身の安全も保障される。望むなら新しい
シグルドは、レンオアムダール陥落の夜を共にした、エリエルとシリンの夫婦を思い出した。名もない小さな村で、火竜の名に縛られず、新しい人生を共に歩き始めた幸せそうな二人の姿を。
「……幸せに?」
ファランは眉をひそめて首を傾げた。
「私は誰一人救えなかったのよ。治癒師なのに、妖獣に襲われて苦しんでいる人達を置き去りにして『狭間』に逃げたわ。なのに、私だけ幸せになるなんて……そんなの、許されないわ」
「逃げたんじゃない。お前の兄は、助けを呼ぶためにお前を『狭間』に翔ばせたんだろう? 違うか?」
「救うべき命がそこにあったのよ! なのに……兄さまさえ救えなかった。それでも、このまま何も無かったように生きて行けと言うの?」
青灰色の瞳から、ぽろぽろと涙があふれ出て、ファランは耐え切れないと言うように、シグリドの胸に顔を埋めた。
参ったな、このままだと……いや、駄目だ、この娘を俺の人生に引き込むな。
「なあ、ファラン…… 俺が打ち捨てようとした命を、お前はつなぎ止めてくれた。 命を奪う事しか知らなかった俺に、それでも生きろと言ってくれた。だから俺は生き抜いた。お前の言葉が、俺を生かしたんだ」
小さな身体が、シグリドの腕の中でぴくりと震える。
「誰一人救えなかったとお前は言うが……よく見ろ。お前が救った命が、今、お前の目の前にいる」
あの日、地下牢で少女がしてくれたように、シグリドは腕の中にいる娘の髪を優しく撫でながら、柔らかな巻き毛に唇を寄せた。
「全ての命を救えるわけじゃないのはお前も分かっているだろう? 救えなかった事を悔やむな。救えた命を思え。顔を上げて、治癒師の誇りを持って生きていけばいい」
「でも、シグリドは……行ってしまうんでしょ?」
「ファラン、俺は戦場を渡り歩く傭兵だ。それは『谷』があった頃から変わらない。お前とは生きている世界が違う」
どうして? とファランの震える唇が声も出さずに動いた。
「俺は命を奪うことでしか生きられない。お前は命を救えなければ、今のように必ず苦しむ……どう考えても俺たちは違いすぎる。俺と一緒に居れば、お前は苦しむだけだ」
突然、ファランがシグリドの胸を両手のこぶしで叩いた。
「何が……何が違うの! ずっと私の言葉を覚えていてくれたんでしょう? ずっとあの首飾りを持っていてくれたのは、私があなたの元に戻ってくると思っていたからなんでしょう?」
泣きながらまた、とん! と胸を叩く。
「私……ずっと、あなたを想っていた。あの時、あなたを残して行ってしまったことを、ずっと後悔していたわ」
口惜しさに声が震えるのも構わず、ファランは言葉をつないだ。
「なのに……どうしてそんな風に私を突き放すの?」
「ファラン、聞け」
「やっと逢えたのに……シグリドは私のことなんて、ただの子供だと思っていたの? 二度と逢えなくても、あなたは平気なの?」
ずっと探していた娘が、もう一度この腕をすり抜けて行ってしまったら……平気なわけがないだろう?
「ファラン」
「私は……そんなの、嫌よ!」
とん! とん! と必死に胸を叩く小さな握りこぶしを、シグリドの大きな手が捕らえた。
「ファラン、頼むから……聞いてくれ」
シグリドは腕の中の娘をしっかりと抱き寄せると、柔らかな頬に唇を押しつけて、切なさで掠れる声で
「今、お前を手放さないと……俺はお前を二度と離せなくなる」
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