最果ての、その先に

由海(ゆうみ)

序章

絶望の果てに、歩みを止めよ

 ロスタルは我が目を疑った。


 ふわふわとした緋色の毛玉のかたまりのように見えたものが、両膝を抱え込んで顔を伏せたまま座り込んでいる人の子だと気づいたからだ。

 腰まで届く豊かな赤い巻毛がゆったりと身体をおおい、濃緑色の外衣からのぞくほっそりと白い腕には大きめの銀の腕輪が光っている。使い魔に置き去りにでもされたのか、その少女はたった一人、「狭間はざま」にいた。



 数多あまたの世界の境界をつなぐその場所を「狭間」と言う。

 入口も出口も定まっておらず、始まりも終わりもない揺らいだ虚空こくうが果てしなく広がる領域。あらゆる世界に通じる経由地となる一方で、方角を指し示すものが無く、望むべき場所に進む道筋を見出すのは容易ではない。

 何も知らずに翔びこんで、抜け出せないまま朽ち果てるものも数知れず。そのむくろが発する瘴気しょうきの毒は、守るすべを持たぬ人間の命を徐々にむしばみ、息の根が止まるまでもだえ苦しませる。

 故に「狭間」を無事に通り抜けることが出来るのは、邪悪な気をかてとする「魔の系譜」と、それらを使い魔として服従させることが出来る術師じゅつしに限られる、とされている。



 両腕で膝を抱えたまま、少女はふと虚空を見上げると、少し不機嫌そうに、はあっと大きなため息をついた。年の頃は十三、四歳だろうか。まだ幼さが残る薔薇色の頬に、鮮やかな赤い髪がふわりとかかる。

 この辺りの瘴気はそれ程濃くはない。とはいえ、人間の命をおびやかす毒の気が漂う中にいては、この少女も長くは持たないだろう。普段のロスタルなら無関心にこの場を立ち去るはずだが、なぜか一瞬ためらった。

 

 この小さな命を捨て置くのか? 自分なら助けてやれるのに……だが、何故、そんなことを思う?


 戸惑いながらも少女に近づくと、その周りだけ光のもやがきらきらと漂い、空気が澄んでいる事に気がついた。木漏れ日に輝く朝露にも似たその不思議な光は、緋色の少女を守るように覆っていた。


 眠っていたのか? こんなところで? いくら何でも無防備すぎる……


 ロスタルは少し呆れながらも、少女に声を掛けることにした。今日の俺は何かがおかしい、柄にもない。そう思いながら。

「お前、こんな所で何をしている? 」

 急に呼び掛けられて、ぶるりと身体を震わせた少女が、恐る恐る顔を上げた。青灰色の瞳が大きく見開かれている。



 ファランは目の前に佇む長身の男をまじまじと見つめた。氷の彫像のように完璧で、ぞっとするほど冷たい美しさを持つ白銀のいきもの……旅の吟遊詩人が語ってくれた「妖魔」にそっくりだ、と思いながら、身体の震えを必死に抑え込もうとした。

 村の術師達は、妖魔は人間のように命に執着しないものだ、と言っていた。だとすれば、あの時、聞こえた『声』が、この男のものであるわけがない。

「気にしないで。ちょっと迷子になっただけだから」

 あらん限りの勇気を奮い起こして、顔にかかった巻毛を払い上げながら気のない素振りでそう言うと、ぽすり、と腕の中に顔をうずめた。


 あまり良い状況でないと、ファランも承知していた。不思議なことに、「狭間」の瘴気に苦しめられたことは、生まれてこの方、ただの一度もない。それでも、特別な力を持たぬ人の子が、『魔の系譜』たちの領域で危険な妖魔に見つかれば逃げようがない。

 だからこそ、ここから抜け出る道を必死に探していたというのに……ファランは速まる胸の鼓動に耳を澄ませながら、ずっと昔、「狭間」で迷子になった時、助けてくれた蜂蜜色の髪の青年が掛けてくれた言葉を、何度も心の中で繰り返した。

いたい人の事をおもってごらん。その人が君を呼ぶ声が聴こえる? それが君が進むべき方向だよ』

 

 逢いたい、兄さまに、今すぐ逢いたい……そう心に願いながら、優しい兄の顔を思い出そうとした、まさにその時。

 絞り出すような悲痛な声が、また、聴こえた。

 

『誰か終わらせてくれ。全てを失ったのに、これ以上、むなしく生き永らえて何になる』


 その声が、絶望にあえぎながら助けを求める命の叫びのように思えて……気づけば、ファランは声のする方に心を翔ばしてしまっていたのだ。


 その結果がこれだ。

 いったいどれだけ迷子になれば「狭間」を自由に通り抜けられるようになるのだろう。しかも、心を飛ばした先で、恐ろしい妖魔に見つかってしまうとは。

 「魔の系譜」に連なる妖魔は、人の子には計り知れぬほどの闇を身の内に秘める種族だ。まやかしの美しさに決して心を囚われてはいけない、と天竜の神官達も口を酸っぱくして忠告していたと言うのに。


 ……ああ、もう! お願いだから、私のことなんて放っておいて……お願いだから、早くどこかに翔んでいってしまって!


 どうしよう、どうしよう、と頭の中で繰り返されるささやき声に心を打ち砕かれそうになりながらも、ファランはもう一度、兄の顔を思い描き、帰るべき場所へ心を飛ばそうとした。

「使い魔はどうした? お前一人ではここから抜け出せないだろう?」

 突然、白い妖魔の気配を身近に感じて、ファランの心が跳ね上がった。

 見かけの冷淡さに似つかず、何てお節介な妖魔なの……そう叫び出しそうになりながら、恐る恐る顔を上げる。と、いつの間にか片膝をついた男の視線が目の前にあった。

 意外にも、凍えるような薄青色の虹彩に浮かぶ黒い瞳孔は、人間のものを思わせた。妖魔のものは、野の獣と同じ細く縦長であるはずなのに……不思議に思いながら、ファランは真っ直ぐに氷色の瞳を見つめ返した。

「私に使い魔なんていないわ。術師じゃないもの。ただの治癒師ちゆしよ」


 見習い治癒師として大切な道具箱を片時も離さず身に付けてはいるが、人や動物をいやす以外に特別な力を持たないファランは、役立たずを意味する「癒しの箱」とさげすまれる存在だった。それでも、たった一人で「狭間」を通り抜けることが出来るのだ。ファラン自身、それが何故なのか見当もつかなかった。


「なるほど。治癒師であって、術師ではない……役立たずの癒し手か。面白い」

 まるで、ファランの心を覗き込んだかのように、男が美しい顔で冷ややかに微笑み掛ける。

 その姿に思わず悪態をつきそうになるのをぐっとこらえて、ファランは妖魔を真っ直ぐににらみつけた。


 

 幼い顔に似合わぬ怒りの表情が何とも愛らしくて、ずっと見つめていたくなる……柄にもない思いが胸をぎり、ロスタルは呆れたように端正な口元を歪めた。

 この少女には魔の気配の欠片かけらもない。ただの人の子だ。

「身を守るすべも使い魔も持たずに『狭間』に居ながら、気にするな、だと? 度胸があるのか、ただの間抜けなのか……」

 まったく不思議な少女だ。けれど、不思議と惹かれてしまうのは、何故だ?

「まあ、俺も似たようなものだ……人であって、人ではない。だが、妖魔にもなりきれん」

 片方の唇の端を吊り上げて歪んだわらいを浮かべながら、ロスタルは少女の頭に大きな手を置いて、赤い巻毛をくしゃりと撫でた。

「で、お前はどこから来て、どこに帰りたいんだ? ここで逢ったのも何かの縁だ、俺が連れ帰ってやろう」


 冷ややかに告げられた言葉の意味をゆっくりと噛み締めながら、ファランの脳裏を過ぎったのは、妖魔に連れ去られて行方知れずになった者達の伝承だった。

 魔の眷属などに関わるなど、狂気の沙汰だ。彼らが甘い言葉で囁き掛けるのは、人の子の魂を奪い取るか、肉体を噛み砕いてもてあすぶために決まっているのだから。

 お願いだから、これ以上、私なんかに興味を待たないで。このまま、早く何処かへ立ち去ってしまって……そう願いながら、ファランは妖魔から視線をらした。



 未だ瘴気の漂う中に座り込み何やら考え込んだまま、少女は全く動こうとしない。もしや、毒の気にあてられて動けないのかと思い及んで、ロスタルは少女の前に屈み込んで小さな肩を片手で引き寄せると、もう一方の手で少女の両足をふわりとすくい上げた。

 いきなり見知らぬ男に抱え上げられた上、急に高くなった視線に驚いて、ファランは小さな悲鳴を上げて、必死に男の首にしがみついた。背中に回された逞しい腕に力強く掻き抱かれて、ファランは大きな胸に顔を埋める格好になった。


 ……ああ、この人、まるで兄さまみたいに暖かいわ。


 さらり、とロスタルの髪がファランの頬を優しくくすぐる。気づけば、白銀の髪に手を伸ばしていた。するりと指に絡みついた髪が、まるで銀色の絹糸のように、きらきらと輝いている。

「とってもきれい……月の光みたい」

 もう一方の手で、しなやかな髪をそっと撫でてみる。


 突然、ロスタルの瞳が大きく見開かれ、困惑するような表情でファランを見つめた。腕の中の少女のぬくもりが、心の奥底にしまい込んだはずの記憶と痛みを蘇えらせる。



 遠い昔、同じように、この髪に触れた娘がいた。

 ディーネ。

 俺の小さな光。守るべき愛しい命。

 あの日、それは永遠に奪われた。それでも、二度と手にするはずのない温もりを、この腕は覚えていた。

 ……ああ、だからか。この少女を見つけた時、すぐに立ち去ることが出来なかったのは。



 髪のもつれをほどくように、ゆっくりと優しく動くファランの指が心地よい。その指が動くたびに漂う甘い花と薬草の香りが、忘れていた記憶を心の中に呼び起こす。

 いっそこの少女を、このまま遠くへ連れ去ってしまおうか……そんな思いが胸を過ぎる。

 ふと、ファランの指が髪から離れて、自分の頬を優しくぐっているのに気づいて、ロスタルは腕の中の少女に視線を落した。

「ねえ、泣かないで」

 少し困った顔をしながら、ファランが小さく囁いた。




 涙など枯れ果てたと思っていた。

 自分が辿たどった人生の記憶も、当たり前の感情さえも封印し、人間らしさなど全て捨て去ったはずだった。そうしなければ魂が壊れていた。心を凍えさせなければ命の奪い合いを生き抜くことは出来なかった。それなのに……

 少女の小さな手が、いとも簡単にロスタルの心の封印を解いてしまった。

 守ってやれなかった愛しい命と、それが消えゆく瞬間の絶望感が再びロスタルを襲い、押し潰されそうになった心がまた悲鳴を上げた。

 

 ああ、誰か終わらせてくれ……



 ファランは両手でロスタルの頬を包むと、ゆっくりと自分の首元に招き寄せた。

 されるがまま、そこに顔をうずめたロスタルを、ふわりと甘い香りが包み込む。

「あの声は……あなただったのね」

 ロスタルの髪を撫でながら、少女は耳元で優しくささやいた。

「あなたの心が痛がっているわ……我慢しないで、全部、私に預けて。大丈夫だから」


 ファランを強く抱きしめたまま、ロスタルはその場にひざまずいた。少女の温もりが凍えた心を溶かし、雪解け水のように涙が静かにあふれ出る。

 もっと温もりが欲しくて、ファランを一層強く抱きしめると、小さなあえぎ声が聴こえた。


 構うものか、もう少しだけ……いや、ずっとこのまま。もう二度と、この腕の中にいる小さな命を失いたくない。




 どれくらいそうしていたのだろう。

 ロスタルが我に返ると、少女は少し恥ずかしそうな微笑みを浮かべながら、治癒師の誇りに満ちた声で静かに語り掛けた。

「いつかは果てると決まっているけれど、全ての命には意味があるの。解き放たれてしまった命にも、あなたの命にも……だから、無理に忘れなくていいし、無理に終わらせようなんて、絶対に思っては駄目」


 心に秘めていたはずの想いを、何故、見透かされてしまったのかと困惑しながら、ロスタルは小さな癒し手の灰青色の瞳を覗き込んだ。

 吐息がかかるほど近くにいる美しい妖魔に見つめられて、ファランの心が少しだけざわめいた。




 落ち着きを取り戻した後、ロスタルはファランを抱いたまま、じっと「狭間」の虚空を見上げていた。

 彼女が帰ろうとしていた街と王国の名を聞くと、何かを思い出そうとするかのようにもう一度ゆっくりとその名を繰り返した。

「何度か経由地に降りれば、連れていても、翔べない距離ではないな」

 にやりと口元を歪めて腕の中の少女を見下ろすと、街の名を心に刻み、「狭間」のその先に心を翔ばす。


 途端に、周りの空間がぐらりと揺れるのを感じて、ファランはロスタルの胸にしがみついた。

 ほの暗い闇が二人を包むと、果てしない夜空を漂っているような感覚を覚えた。薄明かりの中で、周りの景色が恐ろしい程の速さで後方に流れ去って行くのが見える。

 突然、光の中に引き込まれたかと思うと、見知らぬ土地に降り立っていた。次の瞬間、また闇の中に引き戻され景色が流れ去って行く……何度もそれを繰り返すうちに、ファランの意識は次第に遠のいていった。



 

 慣れ親しんだ香りに包まれて、ファランは薄っすらと目を開けた。

 木漏れ日がまぶしい。ゆっくりと辺りを見回して、いつも薬草を探しに来る森の中に居るのだと気がついた。森を抜ける小径を真っ直ぐ行けば、街の正門が見えるはずだ。

 ロスタルはファランを抱いたまま静かに地上に降り立つと、じっと街のある方角に目を凝らした。ファランが少し恥ずかしそうに身をよじると、名残惜しそうにゆっくりと、小さな両足を地面に降ろしてくれた。肩に回した腕はまだしっかりとファランをとらえて離さない。


 このまま街に乗り込んで、この少女を「癒しの箱」と蔑む愚かなやからを「狭間」に放り込んでやろうか……不遜ふそんな考えを思いついて、悪戯っ子のような笑みを浮かべるロスタルの瞳の奥に、青白い炎がゆらゆらと揺らめいた。


 美しい薄青色のその奥で、命の炎が再び燃え上がる。

 ああ、もう、大丈夫ね……そう心の中でつぶやくと、ファランは手を伸ばしてロスタルの頬に触れ、治癒師の祈りを静かに口ずさんだ。

 『苦しみに沈まず生き抜いて、明日を迎えよ』と。


 差し出された小さな手に、ロスタルがそっと触れる。

 この少女の存在が癒しとなるのなら祈りなど必要ない、守るべきものを再び見つけたのだから……そう思いながら、小さな指に、ごつごつとした自分の指を絡めてみる。

「ねえ、名前を教えて。妖魔だって、通り名くらいは持っているでしょう?」

 恥じらうような声に我に返り、ようやく、ロスタルはお互いの名前さえ知らぬことに気付いて苦笑した。

「ロスタルだ。この姿の時は、ただの人間のつもりなんだがな……で、お前は?」

「ラスエルファラン。でもファランでいいわ。ただの治癒師よ」

 赤い巻毛を風にゆらしながら、くすくすと可笑おかしそうに微笑んだ。

 ロスタルは身を屈めて少女の額に口づけると、優しく小さな背中を押した。

「では、ファラン、もう行け。また迷うなよ」


 今は、お前を待っている者のところへ翔んで行け。いつかお前が望むなら、お前を守る使い魔になってやろう……そう心に誓いながら。



***



 季節が過ぎ行くたびに、少しずつ少女から女性へと成長していくファランの姿を、ロスタルは見守っていた。

 ロスタルの中に流れる時間は、人のそれとは違う。「狭間」で出逢った娘と同じ時の流れを分かち合うなど、叶ぬ夢だと十分承知している。

 それでも、娘の人生に寄り添い、愛しみ、見守り続ける事は出来る……ただ、それだけで良かった。




 長かった見習いとしての修業を終え、ファランが一人前の治癒師として自分のいおりを持って数度目の春。


 ロスタルは、ファランが住んでいた街が、術師達の手によって浄化の炎に焼かれるのを遠くから見つめていた。妖獣に襲われ汚された土地は、そこに住まう民の亡骸と共に全て焼き尽くされ灰となった。


 

 二度と失いたくないと見守って来たのに……また奪われた。

 守れなかった。小さく愛しい、あの命を。



 ロスタルの心が、また闇に堕ちた。

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