Act.3

 車から降りてから、紫織は宏樹の一歩後ろを着いて行くように砂浜へ足を踏み入れた。


 そこに広がる光景は、あの時と全く変わっていない。

 人は全くいないし、夏の海と違って打ち寄せてくる波が高い。


「うう……、さすがに寒いな」


 宏樹は肩を竦めながら、両腕で自らの身体を抱き締めている。


 紫織もまた、時おり吹き付けてくる差すような潮風に顔をしかめた。


(そういえば、彼女とどうなったんだろ)


 姿勢を全く崩さずに海を眺めている宏樹を見上げながら、紫織はふと思った。


 前に海に来た時は、宏樹はどこか思いつめている様子だった。

 はっきりとは口に出さなかったものの、それでも、何かあったことだけは確かに感じ取った。


 宏樹は必要以上に自分のことを話さない。

 もちろん、宏樹にとっては紫織はまだまだ子供だからという認識が強いからだろうが、それ以上に、他人に甘えることが人一倍下手なのだ。


(宏樹君は、朋也が生まれてからはずっと〈お兄ちゃん〉だったんだしね)


 しばしの間、宏樹に視線を注いでいたら、それに気付いたのか、宏樹が首を動かしてこちらを見た。


「どうした? 何か言いたそうだな?」


 そう訊ねられた紫織は、慌てて目を逸らした。


「う、ううん! 何でもないよ!」


 そんなのは全くの嘘だが、かと言って、改めて彼女のことも訊きづらい。


 紫織はそのまま、自分が立っている砂浜の上に視線を落とした。


 宏樹にはたくさん訊きたいことがある。

 半面で、全てを知るのが怖い。

 それならばいっそのこと、何も知らないまま、ただ宏樹の側にいる方がよっぽど幸せだと思う。


(結局は、私のわがままだよね……)


 砂をつま先で蹴りながら、紫織は自らを嘲るように微苦笑を浮かべる。

 他人の幸せを願えない自分の小ささ、そして何より、どんなことをしてでも宏樹を手に入れたがっている自分自身の愚かさに。


「ま、色々あったからなあ」


 宏樹が不意に口を開いた。


 紫織は弾かれたように顔を上げると、再び宏樹に視線を向けた。


 宏樹は小さく笑みを湛えながら、自分より小さな紫織を見下ろしている。


「俺はめんどくさがりのくせに、ひとつのことに執着すると、いつまでもそれを追い続ける癖があるから……。相手がどんなに嫌がっていると分かっていても、相手の口からはっきりと拒絶されない限りは、好きなオモチャを独占したがるガキと同じで、いつまでも放そうとしない。

 ただ……、最終的には、俺が手酷いことを言って突き放してしまったんだよな……。――あいつ、どれだけ傷付いてしまったか……」


 そこまで言うと、宏樹は先ほどまでの笑みを消し去り、口を噤んでしまった。


 紫織は目を見開いたまま、宏樹の表情を覗う。


 彼の真顔は何度か目にしている。

 しかし、今、紫織の目の前にいる宏樹は、今にも泣き出してしまうのではないかと思えるほど苦しみに満ちていた。


 紫織の胸が、酷く痛み出した。


 自分はあまりにもちっぽけだ。

 宏樹の支えとなるには、まだまだ未熟であると充分に自覚しているが、それでも、彼の心の傷を少しでも癒したいと切望した。


 紫織は、ほとんど無意識に宏樹の身体を包み込んでいた。

 傍から見たら、紫織がしがみ付いているように映るかもしれないが、幸いにもここには、紫織達以外には誰もいない。


 紫織の唐突な行動を、宏樹はどう捉えたであろう。


 最初はただ、立ち尽くしたままの格好で紫織に抱き締められていた。


 そのうち、宏樹の腕がわずかに動いた。

 躊躇いがちに、だがしっかりと、彼は紫織の華奢な背中に腕を回した。


「紫織にはビックリさせられてばかりだ」


 耳元で宏樹が囁く。


「いつまでもガキのままかと思えば、時々、急に大人びた表情も見せて……。大人しいだけかと思えば、突然のように行動的になったり……」


 宏樹は片方の腕を解き、その手で紫織の髪を優しく撫でた。


「今さらだけど……、朋也が何故、紫織を好きになったかが分かった気がするよ。あいつはほんとに見る目がある。

 どんな時でも、自分に対して正直で、真っ直ぐで、偽りは絶対に口にしない。――そして、側にいるだけで安らぎを与えてくれる……」


「――私、そんな出来た人間じゃ……」


「自分のことなんて、自分自身では分からないもんだろ?」


 紫織が言いかけた言葉を、宏樹が遮った。


「紫織はいいものをたくさん持ってる。俺のように捻くれた人間からしたら、紫織のように素直に自分を表現出来るのは凄く羨ましいよ。

 俺は朋也が生まれてから――いや、朋也が生まれる前から、他人だけではなく、自分自身のことも冷めた目で見ていたトコがあったから……。

 こんなどうしようもない奴だから、本来なら、他人から愛される資格なんてないと思っていたけど……」


 宏樹はわずかに身体を離し、紫織を真っ直ぐに見据えた。


「紫織、改めて訊くぞ?」


 紫織は瞬きも忘れ、コクリと頷いた。


「本当に、俺でいいのか?」


 宏樹の問いに、紫織は瞠目したまま、その視線に釘付けとなった。


「――そんなの、訊かれるまでもないよ」


 宏樹を見つめたまま、ゆっくりと言葉を紡いでいった。


「私は、宏樹君が宏樹君だから好きなんだよ。優しいトコも、掴みどころのない性格も、今の宏樹君も、全てひっくるめて好きなんだよ。――宏樹君の代わりなんて、どこにだっていないんだから……」


 宏樹は真顔のまま、黙って耳を傾けていたが、そのうちに再び笑みを取り戻した。

 今までに見た中でも、最高の笑顔だった。


「俺は、最高の幸せ者だな」


 宏樹がそう告げた時だった。


 ふたりの目の前に、白いものがふわりと舞い降りた。


「――雪だ」


 宏樹が呟くと、紫織は空を仰いだ。


 決して大きな粒ではないそれは、ゆったりと落ち、紫織の手の中で跡形もなく消えてゆく。


「――あっけないね……」


 淋しげに言う紫織に、宏樹は「そうだな」と短く答える。


「でも、一粒一粒はどんなに小さくても、降り積もれば辺りを真っ白に染め上げてくれる。儚いようでも、実は結構、雪の花は逞しい存在じゃないかな」


 宏樹は紫織の手をそっと取った。

 あの時と同じ、温かさの中に力強さを感じさせる。


 紫織の瞳から、一筋の涙が零れ落ちた。

 手を通して、宏樹の想いが流れ込むように伝わってきて、胸が熱くなってきた。


「そろそろ行くか?」


 紫織の頬に伝う涙を、反対側の親指で拭いながら宏樹が促す。


「うん」


 紫織が頷くと、宏樹は手を握ったまま、彼女と共に海岸をあとにした。


 何にも染まらない雪の花は、ふたりの髪に、肩に、止めどなく降り続けた。


 ◆◇◆◇


 帰りの車の中は静けさに包まれていた。


 ただ聴こえるのは、エンジンとエアコンの音のみ。


 行きに散々寝たためか、今は全く睡魔が襲ってこない。

 むしろ、このまま寝てしまうのは惜しいとさえ感じていた。


「紫織、憶えてるか?」


 今まで運転に集中していた宏樹が紫織に話しかけてきた。


 紫織はハッとして、運転席の宏樹に向けて首を動かした。


「紫織が迷子になった時のこと。あの時、紫織は俺に言ったんだよ。『ずっと、あたしといっしょにいてくれる?』って」


「――憶えてるよ。自分で言ったことだもん。それに、あの時の言葉を支えに私は今まで頑張ってきたようなものだし」


 紫織は、今さらなにを、と不思議に思い、宏樹の表情を覗った。


 宏樹は片手でハンドルを握り、空いた方の手で顎を擦りながら考えるような仕草を見せてから、「俺はさ」とポツリと口を開いた。


「あの約束、守れる自信が全くなかった。俺とお前は十歳も年が離れているし、それ以前に、あの頃は俺もまだまだガキだったから、チビの約束に縛られるなんて真っ平ごめんだ、って思っていたから。

 でも、もしかしたら、今ならあの時の約束を守れそうな気もする。――ただ……」


「『ただ』、何?」


 紫織が訊ねると、宏樹は一呼吸置いてから続けた。


「逆に、紫織を縛り付けてしまいそうな気がして……。――やっぱり、朋也の方が……」


「朋也は宏樹君じゃないよ」


 紫織は宏樹の言葉を素早く遮った。


「さっきも言ったはずだよ? 私は、宏樹君が宏樹君だから好きなんだ、って。朋也ももちろん好きだけど、朋也に対しては、恋愛感情は持てないと思うから。――これからもきっと……」


 紫織が言い終えるのと同時に、車は止まった。

 目の前の信号が、ちょうど黄色から赤に変わったところだった。


 宏樹は紫織に視線を向ける。


「――ほんとに頑固だな」


 溜め息と同時に吐き出した。


「まあ、そこが紫織のいいトコかもしれないけど……」


 宏樹は困ったように口の端を上げると、紫織に告げた。


「でも、今すぐってわけにはいかないからな。朋也のことももちろんあるけど、何より、紫織はまだ高校生だし。

 とりあえず、紫織が高校卒業するまで待とう。もし、それまでに紫織が心変わりしていなければ、俺も考えてやるよ」


「――それ、ずいぶんと長過ぎるよ……」


 紫織は口を尖らせて不満を露わにした。


 しかし、宏樹はそんなものは全く意に介した様子もなく、ただ、「我慢しなさい」とだけ言った。


「それに、ハタチ過ぎの男が女子高生に手を出すなんて、さすがに拙いだろうが……」

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