第三話 想い、すれ違い

Act.1

 その日の朝、宏樹は陽が完全に昇る前に目が覚めた。

 普段であれば珍しくもないのだが、今日は仕事の公休日である。


(もう少し寝るか)


 そう思い、目を閉じてみるものの、何故か深い眠りに落ちない。

 頭の中もすっかり冴えてしまったので、半ば諦めてベッドから降り、自室を出て洗面所へと向かった。


 ◆◇◆◇


「はへ?」


 洗面所で真っ先に遭遇したのは、歯磨き途中の朋也であった。


「はひひ、ひょうってひゃひゅみひゃなひゃっひゃっへ……?」


 歯磨き粉でいっぱいにした口で、朋也は宏樹に訊ねてくる。

 そのせいで、この世のものとは思えない意味不明な言葉を並べ立てていたが、『兄貴、今日って休みじゃなかったっけ?』と訊かれたのはすぐに理解した。


(なにもそんな状態で話しかけてこなくていいものを……)


 宏樹は心底呆れた。


「――まずは口をすすいだらどうだ?」


 やんわり指摘すると、朋也はハッと気が付いたように、宏樹に背中を向けて歯磨き粉を洗面台に吐き出した。

 そして、コップに満たしていたぬるま湯で口を数回すすいでから、再びこちらを見た。


「で、なんで早起きしたんだ?」


「何となく目が覚めてしまっただけで……。別に早く起きるつもりはなかったんだけどな」


「ふうん……」


 わざわざ訊ねてきたわりには、ずいぶんとあっさりした反応が返ってきた。


(まあ、こんなもんだとは分かっていたけどな……)


 宏樹は苦笑しながら、朋也と代わって洗面台に立った。


 ◆◇◆◇


 朋也が学校へ行ってから、宏樹はしばらくリビングでコーヒーを飲みながらテレビを観ていた。


 時間帯的に、どこの局も競うように情報番組ばかり。

 しかも、毎日同じことを繰り返し報道しているので、観ている側としてはさすがに飽き飽きしてしまう。


「宏樹」


 台所仕事を終えた母親はリビングへ来るなり、腰に両手を当てながら仁王立ちした。


「あんたねえ、休みのたびに家でグダグダ過ごすのはやめたら? それに、二十六にもなって結婚もしないで家に居座っちゃって……。全く! 我が息子ながら情けないわねえ」


 そう言うと、母親は大袈裟に深い溜め息を漏らす。


 母親の気持ちはよく分かる。

 確かに、真っ当に働きに出て家にも収入の一部を入れているとはいえ、世間的には宏樹のようなタイプは引き籠りにしか映らないであろう。


 両親の気苦労を考えると、自立して身を固めるべきかとも思うが、家にいる方が何かと楽だし、それ以前に、結婚というものが未だに実感が湧かない。

 もちろん、考えている相手がいないわけではないが、最近は互いに忙しく、すれ違いばかりが続いている。

 彼女と別れることは本意ではないが、そのうち、関係が自然消滅してしまうのではと、不意に考えてしまうこともある。


「ちょっと! 聴いてるのっ?」


 母親のヒステリックな声に、宏樹はハッと我に返った。


「とにかく、大の男にずっと家にいられるのは迷惑なの! だからどっか行ってちょうだい!」


 ここまで言われてしまったら、この場に居座り続けるわけにはいかない。


 宏樹は重い腰を上げ、一旦自室へ引っ込むと、ハーフコートを羽織ってから車のキーに手を伸ばした。


 ◆◇◆◇


 ちょっとしたドライブは、暇潰しにちょうど良いと思う。

 目的を決めず、ただ走らせているだけで憂鬱な気持ちも少しずつ和らいでゆく。


 国道は業者のトラックや営業車が行き来しているため、平日であってもそれなりの台数が走っている。

 だが、国道を逸れた裏道に入ると、さすがにそこはガラガラだった。


(やっぱり、こういう所を走らせるのが楽しいんだよな)


 宏樹は口の端を上げ、標識がないのをいいことににアクセルを踏み込む。


 メーターはじわじわと、だが確実に上がっている。

 一瞬、メーターの存在を忘れて走っていたが、ふと気が付いてチラリと確認した。すると、100kmに到達しそうになっていたので、クラッチを踏み、ギアをシフトダウンして調節する。


 まさかとは思いつつ、目だけを動かしてどこかにパトカーが潜んでいないかと確認してみるが、この辺はパトカーどころか、人が歩いている姿さえ見受けられなかった。


 宏樹はホッと胸を撫で下ろすと、今度は辺りに広がる田園風景を流し見ながら車を走らせる。


(俺がガキの頃は、こういった光景は当たり前のように見ていたよな)


 そんなことを考えながら、宏樹は改めて自分の幼い頃を懐かしく想い出していた。


 宏樹達の住む辺りも、少し前まではのどかな田園地帯であったが、近頃では開発が進み、大型のショッピングセンターや、それに便乗して新たな住宅地が次々と誕生している。

 その影響で、子供達の遊び場もどんどんと縮小されてしまっている。

 だが、今時の子供は外で遊ぶことよりも、家の中でゲームをしている率の方が高いようだ。

 考えてみると、朋也や紫織が幼い時にはすでにその傾向が表れていたような気がする。


(まあ、朋也は違ったけどな)


 不意にその頃の朋也を想い浮かべ、宏樹は苦笑する。


 年中、元気がありあまっていたが、その中でも冬――特に雪が降ると、周りが呆れてしまうほどテンションを上げていた。

 その巻き添えを食らっていたのは、宏樹と紫織。

 特に宏樹は朋也と十歳も離れていることもあって、駄々をこねられてしまうと否とは言えず、黙って付き合っていた。


 だが、それも小学校までのことで、中学に上がってからはさすがに外で駆けずり回るようなことはしなくなり、その代わり、部活で存分に身体を動かしていたようだ。

 高校では部活に入らなかったようだが。


(分かりやすい奴だよ、ほんとに)


 思わず笑いが込み上げてくる。

 朋也があえて部活動をしない理由。

 それは考えるまでもなく、紫織といる時間を少しでも長く作りたいと考えているからだ。


 中学では部活動は強制だったのでそうはいかなかったようだが、高校は週一の必修さえ出れば問題ない。

 しかし、そこまで頑張って紫織に近付こうとしても、当の紫織は全くその気がないらしい。


 その原因が、自分にあることも薄々ながら感じている。


 紫織が迷子になったあの時は、確かに〈兄〉として見られていたのだが、いつからか女の目で宏樹を見るようになっていた。


 紫織は必死でそれを隠そうとしているのは分かったので、宏樹も気付かないふりをしている。

 それに、宏樹自身が紫織を〈妹〉としてしか見ることが出来ない。


 紫織のことは可愛いと思っているが、それはあくまでも家族を想うような感情であって、決して恋愛に結び付かない。


 恋愛感情を抱くのは、高校の頃から付き合っている彼女だけ。

 他の異性から告白されたことも何度かあったが、それでも気持ちが揺らぐことは決してなかった。


(逢いたい……)


 彼女のことを考えていたら、無性に恋しさを感じた。

 逢うのが難しいのであれば、せめて声だけでも聴きたい。

 彼女の都合を考えた方が良いとも思いつつ、しかし、一度心に広がってしまった感情は決して止められない。


(今夜、電話してみるか)


 宏樹は目に付いた空き地に車を乗り入れると、人が来ないのを確認してバックさせ、元来た道に逆戻りさせた。

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