第46話 歪んだ演劇

「吉野、いつまで怒ってるんだ。いいから早くそれ解いてやれ」

 階下の仁科にそう声を掛けられて初めて、見られていた事に気付いた泰介は、頬が熱くなるのを自覚した。

 反射的に葵の肩から手を離したが、そんな突然の動きはまるで突き飛ばすような形になり、「あ」と声を上げた葵の身体がふらつく。慌てて両肩を掴んで引き留めると、葵は涙が薄く浮いた顔のまま、泰介に笑いかけた。

「ありがと」

「……何言ってんだよ。今の、俺の所為じゃん」

「ううん、そうじゃなくて。……助けにきてくれて、ありがとう」

「……別に」

 泰介はそっぽを向いたが、余所見をした所為で窓の外に視線が行き、そこに立つ仁科がいまだこちらを見上げているのに気づいてしまった。

「な、何だよ」

「別に?」

 夕空の下で金色に輝いて見えるオレンジ髪のクラスメイトは、ぬけぬけとそう言った。心なしか、にやにや笑っている気がする。全く、少し前まで深刻に思い詰めていた人間と同一人物とは思えない。元気になったらなったで憎らしくなるこの感情はあまりに現金だと分かっていたが、何だか釈然としなかった。泰介は憮然と仁科を睨んだが、なんだ、と少し拍子抜けした。

 ちゃんと、元気になれるのではないか、と。

「……仁科、なんか変わった気がする。雰囲気が」

「あ?」

「仁科、泰介にちょっとだけ優しくなった気がする。私がいない間、二人で何かあったの?」

「はあぁ? 何もねえよ」

 泰介は口をへの字に歪めて、頓珍漢なことを抜かす幼馴染を見下ろす。葵は何だか幸せそうに笑っていたが、やがて泰介の視線を受けて、そ、とさりげなく目を逸らした。

「……」

 確かにさりげなかったが、泰介から見ればあまりに露骨な目の逸らし方だった。

「……おい。なんだよ、その反応」

「……だって」

 この距離で顔を背けられたところで、こちらからは思いっきり見えている。葵は居心地の悪そうな表情で、少しだけ顔を赤くした。泰介は訝しんだが、「葵、後ろ向け」と言った。まだ拘束を解いてないからだ。

 ここまで走ってくる間、校舎は驚くほど静かだった。そしてそれは今も変わらず、教室へ吹き込む風がカーテンを揺らす音だけが、今泰介達を取り巻く音の全てだった。葵に危害を加えた輩がさくらを初めとするクラスメイトだというのは聞き出していたが、泰介はまだそれらしき人影を一人も見ていない。

 ともかく、早く脱出するに越したことはない。泰介が葵の腕を取ろうとすると、「だって」と葵がもう一度、ごねるように呟いた。

「……びっくり、した、から……」

「は? 何が?」

「泰介、ここ来た時、その」

 思わず、手が止まる。

 さすがにそこまで言われて、気づかないほど馬鹿ではない。

 そして、同時に――怒りとも羞恥とも判断のつかない、何とも言えない気持ちが湧いた。

「……おい。葵」

「な、何?」

「お前、その……ほんとに何も、覚えてないのかよ」

「え?」

 きょとん、と葵が泰介を見る。

 もう確信していたようなものだったが、ここまではっきり示されると少し腹が立った。これではまるで独り相撲だ。泰介が明らかに不機嫌になったからか、葵はその唐突さについて行けずに動揺しているようだったが、泰介はむすっと口を閉ざした。理由なんて、絶対に言いたくなかった。

「泰介、どうしたの?」

「なんでもねえよ」

「だって……怒ってる」

「怒ってなんかっ」

 泰介は怒鳴りかけて……言葉を呑みこむ。

 葵が、泣いたからだ。

 ぼろっと大粒の涙が零れ、蒼白な頬を滑っていく。泰介は突然の涙にぽかんとして、最早見慣れたと言ってもいい葵の泣き顔を見た。そして、一拍遅れで気づく。

 泣かせた。泰介が。

「あ……っ、ご、ごめ……っ」

 葵は慌てたように腕を動かしたが、縛られたままの腕は肘が突っ張るだけで、それ以上動かない。泰介は驚愕してその様子を見つめていたが、苦々しいほどの罪悪感が、やがて胸に押し寄せた。

 どう考えても、泰介が悪かった。どれほどの間葵がこの教室にいたのかは分からないが、暴行を受けて明らかに心身ともに弱っている少女へ取る態度としては、泰介の態度は最悪のものと言えた。それが分かる程度には、自分の事を客観的に見れるつもりだった。

 それに、やっと少し頭が冷えた。

 ――自分だって、忘れていたくせに。

 完璧に、自分の事を棚に上げていた。泰介だって思い出したのはついさっきなのだ。そんな付け焼刃の記憶とこちらの都合を元にした態度で、葵に同じものを要求しても、どうにもならないに決まっている。これでは独り相撲どころか、ただの独りよがりだった。

「………怒って、ないから」

 片言のような、言い方になった。

「だから、もう泣くなって。……怒らない、から」

 だがそう言った瞬間、泰介は思わず動きを止めた。


 ――怒らない、から。


 以前にも同じ台詞を、口にした気がした。

「ううん、泣いてばっかでごめん……」

「……」

 泰介は黙った。これ以上どんな言葉をかければいいか分からず、それでもどこかで謝る事を拒む自分を感じ、結局沈黙を埋めるように、葵の乱れた髪を軽く払った。うっかり頬にも指先が触れた所為で、拭えない涙を意識する。さっさと拘束を解いてやらなかった事がとても残酷な事のように、泰介の心に突き刺さった。

「……ありがと」

「……だから。俺が悪い時に礼言うの、やめろ」

 泰介は吐き捨てたが、葵はようやく少しだけ笑った。そんな時、仁科が「何、痴話喧嘩?」と外から茶々を入れてきたので、折角少しずつ持ち直そうと努力していた機嫌が一瞬で最底辺まで下落した。

 そもそも、まだ見ていたのか。仁科は。

「……だから! 何なんだよお前は! 覗き見すんな!」

「見えるようなとこでいちゃついてるのが悪い」

 仁科は呆れたような目で泰介を見上げると、大げさに嘆息してきた。

「吉野。いい加減佐伯のそれ早く解いてやれって。お前、縛られた女子前にして何ぶつぶつ言ってんの。馬鹿なのか? それともやっぱり変態だったのか?」

 何かが音を立てて切れた瞬間だった。

「うるっせえんだよ仁科ぁ! 今解こうとしてたんだから、黙っとけ!」

 言いながら自分でも、これでは最悪だと自覚はしていた。

 仁科が腹を抱えて笑うのを視界の端に捉えながら、泰介は増幅した怒りでもって葵をぐるりと振り返る。視線を受けた葵が怯んだのも面白くなかったので「後ろ向け、解くから」と言い捨てると、背を向けた葵の腕を取った。

 ――既視感。

「あ……」

 思わず、声が出た。

「? 泰介?」

「……なあ。前も、こんな事あったっけ」

「え?」

「腕。……俺、最近掴んだ事あったか? お前の腕」

「……ねえ、泰介」

 葵が首を傾けて、こちらを振り返ろうとする。

「もしかして私、何か忘れてるの?」

 息を、吸い込んだ。

「……なんで、そう思うんだよ」

「泰介があやふやな話するの、おかしいもん」

 ばっさりと、言われてしまった。

「だったら泰介がおかしいんじゃなくて、私かなあって思って。さっきも、覚えてないのかって言ってたし」

「お、おい。ちょっと待てよ葵。お前、言ってること変だぞ? なんでそんなに簡単に、お前は自分の記憶疑えるんだよ」

 さすがにぎょっとして泰介は言った。もし自分が逆の立場だったなら、絶対にそんな風には言えないだろう。バスに乗車した際、仁科へ思い切って打ち明けようとしたのを思い出す。だが記憶の忘却云々の説明など、結局恥ずかし過ぎて出来なかった。

 それを、簡単に言われた。葵の妙な鋭さが、こんな時に泰介を射ぬく。

「うん……なんでだろ。私の記憶よりも、泰介の記憶の方がしっかりしてると思うから、って理由じゃ駄目?」

「意味分かんねえよ」

「でも、じゃあ……何か、分かったの?」

「……お前らが覚えてないって事だけ、分かった」

「?」

 葵は不思議そうに「どういうこと?」と訊いてきたが、泰介は答えの代わりに葵の手首を持ち上げた。口よりも手を動かした方がいいだろう。

 そして、唖然とした。

「……なんだよ、これ」

 がちがちに結ばれた赤いリボンに目が吸い寄せられ、それ以上の言葉を失う。幾重にも硬く結ばれた結び目に、狂気を感じた。これほどきつく結ばなくとも葵は逃げられなかっただろうに、そんなにも葵を学校へ留めたかったのだろうか。

 湧き上がる殺意の熱さで目が眩む。蹴った事も、縛った事も、何一つ許せなかった。だがその怒りをぶつける対象を喪失した現状では、ただ泰介の内心を殺意が食い荒らすだけだった。泰介は窓の外へ視線を投げると、「仁科!」と呼んだ。

 仁科はまだ同じ場所に立っていて、「何」とつまらなそうな返事が返ってくる。泰介は「お前、そこでそのまま待ってろ!」と返しながら、葵の手元を顎で示す。

「これ終わったら、すぐそっち行くから。後の事は、学校出てから三人で考えるぞ!」

「へえ? それやった犯人、吉野野放しにすんの」

「だめっ仁科、挑発しちゃだめ!」

 すかさず葵が割って入った。

 その口調は、かなり真剣なものだった。

「多分、見つけても話通じないよ。さくらも敬くんも会話にならなかったんだもん。関わらない方がいいと思う。お腹蹴ったのなんて、知らない人だし」

「はあっ? 知らない人だと?」

 そんな情報は初耳だ。思わず手首に添えた手に力が入ると、葵の身体が急にびくんと跳ね、悲鳴を噛み殺したような声が漏れ聞こえた。

「っ?」

 泰介はぎょっとして、思わず手を離す。「悪りぃ、痛かったか?」とすぐ訊いたが、泰介としてはそれほど力を込めたつもりが全くなかったので、葵の痛がり方に内心でかなり動揺していた。

 何だか、普通の痛がり方ではなかった気がした。

「あ……うん、大丈夫。ごめんね」

「……」

 今までの経験が、その不審を確信に変えた。泰介はリボンをもう一度掴むと、苛立つ心をなんとか宥め、結び目をできるだけ皮膚に擦れないよう注意して解し、極力ゆっくりと、手首から剥がした。

「……」

 青紫色に腫れた右手首を見た瞬間に、フラッシュバックしたのは修学旅行の記憶だった。泰介が力任せに握った所為で、赤い痕のついた手首の記憶。

 殺意がまた湧くかと、思っていた。

 だが代わりに胸中に満ちた感情は、自分でも驚いたことに全く違った。

 泰介は自由になった葵の両手を取ると、組み合わされた状態から、腰の横へと戻してやる。背中を向けて立つ葵の右手は熱く、微かだが震えていた。傷が痛むのか、泰介が怒ると思っているからだろうか。

 多分、後者だろう。

 泰介は無言のままリボンを巻き取ると、ズボンのポケットに捩じ込んだ。拘束に使われたものなど、到底この場で返す気になれない。腹がどれほど酷く蹴られたのかも気になったが、ここでそれを見たところで、泰介にできる事などないだろう。

「葵、保健室行くぞ」

 泰介は声を掛けて、無事な方の左腕を引く。

「誰もいないだろ。どうせ。氷とかあればいいけど、冷蔵庫ってあったっけ。湿布なら置いてるよな」

「……ねえ。泰介」

「何だよ」

「びっくりしたって、さっき言ったの……嫌って意味じゃ、ないよ」

 泰介は、止まる。

 か細い、声だった。

「……なんで、それ今言うんだよ」

「……今言わないと、泰介ずっと機嫌悪いでしょ?」

 囁くように、葵が言う。

「泰介。……無事で、よかった。まだ、言ってなかったよね」

「……もう、いい。お前黙ってろよ」

 泰介は左腕を引いていた手を離すと、がしがしと葵の頭を撫でた。乱暴に俯かされた葵が悲鳴を上げながら、「頭、またぐちゃぐちゃになっちゃう」と笑った。

 葵を追い込んだ人間に対する殺意が、薄れたわけではけしてなかった。だがだからといって異常な〝ゲーム〟の中の普通でない人間相手へどういう報復をすればいいのか分からなかったし、葵がそれを望まない事も分かっていた。

 皆で、帰る事。それを優先して、動かなくてはいけないのだ。

 そこまで分かっていながら尚割り切れない感情が、言葉になって零れ落ちた。

「……遅れて、悪かった」

 初めて吐露した後悔の言葉に、葵は顔を上げなかった。ただ、「来てくれるって、思ってた」と何故だか少し幸せそうに、ぽつんと小さく言われた。

 それを聞いてようやく、泰介は自分の心があるべき場所へ収まったのを感じたのだった。

 構わない、と。ようやくそう思えたのだ。葵がたとえ、忘れていても。変質した関係が、今の関係とさほど変わっていない。そう思ったのは他でもない泰介だ。葵と言葉を交わす事で、泰介はやっと自分の正しい認識を取り戻せた気がした。長引く〝ゲーム〟で参っていたのは、どうやら仁科要平だけではなかったらしい。癪だったが取り乱し方が尋常ではなかった自分を振り返ると、渋々ながら認めざるを得なかった。拗ねた自分が心底格好悪い生き物に思えて、途端に激しい羞恥が湧き上がる。

「ねえ泰介。さっきから訊きたかったんだけど、なんでバットなんて持ってるの?」

「……成り行きで」

「ふうん?」

 葵にこれ以上妙な質問をされないうちにと、泰介は強引に葵の腕を引いた。

 瞬間。


 ぱんっ、と。音が、脳裏で弾けた。


「!」


 視界が、一気に灰色に染め上げられた。

 ここへ来た時の事を思い出す。バスを降りて、仁科へ喧嘩腰で掴みかかったあの瞬間の世界の変化。その感覚と同じだった。まるでペンキを勢いよくぶちまけたかのように、視界が激しく塗り潰される。逆に色が失せていくという違いがあるだけの視野の変化は、暴力的なまでの勢いで泰介の世界を変えていく。

「あ……」

 まただ、と。そう思った瞬間には、掴んだ腕の感触が消えていた。

「葵!」

 はっとする。視界は既に白と黒と灰色が複雑に混じり合ったテレビの砂嵐のような有様で、掲げた自分の手のひらさえ見えなかった。葵が、いない。だが、そんなわけはないのだ。先程まで、掴んでいた。消えてなくなるわけがなかった。泰介は腕をモノクロの闇へ振りかぶったが、見えもしない自分の腕が、空間のどこを掻いたのかも分からない。水中で手を掻いたような抵抗感だけが、腕に重く圧し掛かった。その感触に凄まじい焦燥と緊張を覚えた時――声が、聞こえた。


『帰ろっか。泰介』


 ――葵の、声だ。

 落ち着いていて、澄んだ声音。何年間も聞いてきて、耳に馴染んだ少女の声。

 その声を葵の声だと認めた途端、ぶわりとノイズが晴れた。オレンジ色の照明が、ばちん! と視界を照らし尽くす。

 何故だか、分かった。

 これは、喫茶店の照明だ。

 いや、分かって当然なのだ。

 ――知って、いるのだから。


『おい、ほんとにいいのかよ』

 テーブル席に着いた泰介が、隣に座る葵を意外そうに振り返る。

 おかわり自由のコーヒーが、二人の前に並んでいた。最早何杯飲んだのかさえ分からない。五杯を超えた辺りからカウントするのを止めていた。葵もそれは同様で、最初の頃はガムシロップを混ぜて飲んでいたが、後半はずっとブラックで粘っていた。

 だが、それも終わりらしい。葵は鞄から財布を取り出すと、椅子から立ち上がった。そして、喫茶店内に据えられた時計を見る。

 午後の、四時。

『いいの。帰ってごはんの支度したいし。今から帰ったら五時には御崎川に戻れるでしょ? 付き合ってくれて、ありがと。帰ろうよ』

『お前がいいなら、俺はその方がいいけど。会いたくねえし。でも、ほんとにいいのかよ。まだ時間早いけど』

『うん、ほんとに大丈夫』

 葵は座ったままの泰介を見下ろすと、気丈に笑った。本心からの笑みだと、泰介は気づく。

『来ない人より、私は家族の方が大事だもん。帰ってくる蓮香お姉ちゃんとお父さんに、ごはん作って待つ方が大切なの』

『……言うようになったじゃん』

『えへへ』

 葵は嬉しそうに、笑った。もうその笑顔のどこにも数日前までの不安や葛藤は見当たらず、泰介はこの時になってようやく、本当の意味での安堵を覚えたのだと思う。

 ――一緒に暮らしたいと考えています。

 怒りの原因は全て、この一文に集約されていた。

 自分でも分かっていたのだ。葵の本心が揺るがないものなのだとこの上なく明瞭に分かっていても、どうしても駄目だったのだ。

 連れて行かれるとでも、思ったのだろうか。葵が。実母に。泰介は。

 認めたくは、なかった。だが多分そうなのだろうと思う。

 相手が来ないと分かって初めて、すっきりとした爽快感と安堵が泰介を包む。

 喫茶店を出て、電車に乗る。その間葵は何だか幸せそうな目で、どこか遠くを見つめていた。何を考えているのかと訊いたら、晩御飯のメニューと返ってきた。可笑しくなって、一緒に笑った。

 和やかな空気が、二人の間に流れていた。

 その時はそれが全てで、泰介も葵も、満ち足りていたのだ。


 ――違う。


 泰介は、思う。

 まだ、続きがある。

 知っている。知っていた。覚えている。だが忘れていた。

 頭が――――割れるように、痛い。

 記憶が開封される事を脳が拒否しているかのように、頑なな痛みが断続的な頭痛に変わる。脂汗が、背筋を流れて伝い落ちた。

 駄目だった。これ以上は、まだ。

 すう、と。視界が、突如、真っ白な輝きに侵された。


「――泰介! しっかりして! 泰介ぇぇ!」


 葵の悲鳴が上がった。

 がたーん! と凄まじい音を立てて、身体が床へ叩きつけられた。

「……っ!」

 気づく。

 目覚めた。

 帰ってきた。

 次々と振ってくる認識に脳が追いついた時、世界に色彩が舞い戻った。教室の風景が一瞬夜のネオンのような光彩を帯びて揺らぎ、ちかちかする視界に目が眩んだ泰介は、すぐにきつく目を閉じた。

「……葵……お前、どこに……」

「ここにいる、ここにいるから!」

 目も開けられずに倒れ伏す泰介の手を、葵が強く握ってきた。熱を帯びた手は小刻みに震え、葵の動揺と恐怖が伝わってくる。

 場違いだと分かっていたが、それを聞いて安堵した。

 消えたかと、思ったからだ。

 だが――ふと、違和感に気づく。

 今、自分が考えた事が分からなかったからだ。

 何が、消えたかと思った?

 葵が?

 葵が、消えたかと思った?

 ――違う。

 何故か、分かった。葵では、ない。

 そして何故そんな危惧を自分が抱いたのか、本気で分からなかった。

 泰介は、薄目を開けた。横倒しになった視界の中で、倒れた机と椅子の足が見える。そしてすぐ隣には、ぺたんと座りこんだ制服の黒いスカート。

「……葵。悪りぃ。心配すんな」

「……心配、するよ。何。泰介、どうしたの……!?」

 葵は切羽詰まった表情で、泰介の額へ左手を伸ばす。

 だがその瞬間に、泰介は気づいた。

 葵の、背後の存在に。

 気づいた瞬間、咄嗟にその手を受け止めた。

 ぱし、と手首を掴んで引き留められた葵が息を呑む。泰介は上体を床から引き剥がすように跳ね起きると、葵をこちらへ引き寄せた。

「きゃっ!」

 小さく悲鳴を上げる葵へ「お前も立て!」と鋭く叫ぶ。泰介は葵を自分の背後へ転がし、前屈姿勢から強引に立ち上がる。

 そして、身構えた。

「……あ」

 葵も、気づいたらしい。背後で固まったのが、視界の端に過った。

「佐伯! どうした! ……吉野! 無事か!」

 仁科の叫び声が、背後から聞こえた。

 それが聞こえた瞬間、条件反射で危険を感じた。

「来るなぁ! 仁科ぁあ!」

 泰介は、怒声を張り上げた。

「絶対校舎に入ってくるんじゃねえぞ! お前はこれに関わるな!」

 仁科が何事か言い返す声が聞こえたが、泰介は取り合わなかった。背後の声を、きっぱり無視する。額には汗が浮き、頭がずきずきと酷く痛んだ。

 だがそんなものに構っている暇は、既になかった。

「……さく、敬。なんでお前らがここにいるんだよ」

 教室の入り口へ向けて、泰介は言う。

 言いながら、これではあの日の再現だ、と。どこかで思う自分がいた。

 泰介と葵に、敬と、さくら。修学旅行の記憶が、不穏にフラッシュバックする。それでもまだ、分からない。

 分からなかったが、危険だという事だけは、痛いほどに分かっていた。

 葵が、怯えたように泰介の服の裾を掴んだ。その仕草までもがあの日の教室で起こった諍いに、酷似しているような気がして――泰介は、葵を庇うと決めた。

 そんな決意を、不意に思い出す。

「葵。お前、何も覚えてないだろ」

 泰介は、気づけば言っていた。

「え……?」

 葵が、戸惑ったような声を上げた。

「俺も、まだ、全然思い出せてねえけど。でも、はっきり分かってるのは……多分」

 泰介は、言葉を切った。言うべきか、それでも迷う。

 だが、迷うくらいなら言ってしまった方がいい。泰介は、ついに言った。

「俺、修学旅行から帰ってから、ずっとお前の味方側に立ってたと思う。それだけは絶対に、正しいと思ってる」

「泰介っ……?」

 葵が、悲鳴のような声で呼んだ。

 その声には、様々な感情が混ざっていた。戸惑いが多くを占めた葵の声は、不安に揺れて、言葉尻が震えている。

 ――二人だけ、だった。

 それしか泰介は覚えていないのだ。

 そして今は、それ以上の記憶は望まなかった。

「……泰介、葵に会いに来たの?」

 教室の扉の前に立ったさくらが、くすりと笑う。

 そして、言った。


「じゃあさ、これから――どっちが、死ぬの?」


 泰介と葵は級友二人と対峙しながら、ただただ孤独に立ち尽くした。

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