第45話 再会2

 校舎とグラウンドを繋ぐ階段を駆け上がり、昇降口前に立った仁科が、佐伯葵の姿を見つけるのにそう時間はかからなかった。

「あ」

 思わず間抜けな声が漏れた。こんなにすぐ見つかるとは思わなかったのだ。幼い頃に読んだ絵本「ウォーリーを探せ」でも、もう少し手こずった覚えがある。

 それくらいにあっさりと、葵を見つけてしまった。

 仁科は泰介へ「佐伯、見っけた」と言ってやる。まだ校舎に入ってもいない段階での仁科の言葉に泰介はかなり面食らったようで、「え、おい、どこ!」と急かしてくる。す、と仁科は指でさした。

 すぐ、真上の場所だった。

「あ」

 泰介も間の抜けた声を上げて、頭上を見上げた。

 校舎の二階。窓のいくつかは開け放されていて、カーテンが風に揺れている。そこに瞳を閉ざした少女が一人、ぐったりと窓枠にもたれて立っていた。

 眠って、いるのだろうか。だがそれにしてはいささか体勢が妙だった。腕を後ろに組んだまま微動だにしない様はまるで彫像を見ているようで、生気の失せた肌の白さが、余計にその印象を際立たせた。仁科は、呼んだ。

「……佐伯」

 佐伯葵。

 〝ゲーム〟開始と同時に、仁科達の前から姿を消したクラスメイト。

 やっと、会えた。そんな感慨が湧いてくるかと思ったが、唐突に訪れた再会に心が全く追いつかず、確かな安堵の感覚をきちんと捉えきれなかった。そんな曖昧な感慨がさらに希薄になっていくと、今度は入れ替わるようにして、血の気がすうと引いていく。

 落ちるのではないか。そんな恐れが、まだ心のどこかに巣食っている。何かを吹っ切ったところでそのトラウマは、仁科の中でいまだ強く根を張っていた。格好悪いと自分でも思うが、こんな光景をずっと見ていて平静を保てる自信がない。ともかく再度呼ぼうとすると、丁度、葵の目が開いた。

「ん……」

 とろんとした眼差しで、葵は辺りを見回す。そして何だか痛そうに、身体を微かに捩り――あ、と澄んだ小さな声が、風に乗ってここまで届いた。

「佐伯」

 二階にいる葵に聞こえるように心持ち大きな声で呼ぶと、葵の顔に、ぱっと明かりが射したような安堵が閃いた。

 だが次の瞬間には表情が目に見えて引き攣り、葵は唇を引き結ぶと、ふるふると首を横へ振った。

「?」

 様子がおかしい。それによく見れば葵の立ち姿も異様だった。黒髪は乱れて頬にかかり、ほつれた髪束が片目を覆い隠している。それを直そうともしない葵は、背後を気にするように怖々と身体の位置をずらした。その拍子に葵の手元が見えて、仁科は息を呑み、そのまま呼吸が止まった。

 拘束されていた。髪を直さないのではない。直せないのだ。腕が後ろ手に固定されていて、引っ張られたセーラー服が引き攣れている。腹の辺りには靴型の泥まで捺されていた。

 明らかな、暴行の痕。

 ――どさっ、と。何かが落ちる音がした。

 仁科は弾かれたようにそちらを向き、音の正体にすぐ気づいた。

 泰介が、荷物を落とした音だった。ずっと頑なに持ち続けていた葵の鞄が砂利の上へ落ちていて、白い粉塵が立ち上る。仁科は今更のように、泰介が先程から口を閉ざしているのに気がついた。折角葵が見つかったというのに、最も必死に探していたはずの、泰介が。

「あ……泰介……?」

 葵が、小さな声で泰介を呼んだ。泰介の異変に気付いたらしい。

 だが泰介はそれには一切返事を寄越さず、落とした鞄へ屈み込むと、突き刺していた金属バットをすらりと流れるように引き抜いた。

 ああ、と仁科は思う。少し頭が痛い思いだった。

 泰介の心理状態が、読めた。

「……おい、吉野。落ち着け。まずは佐伯の話聞いて、程度がどこまでか」

 仁科の台詞はそこで切れた。

 泰介が駆け出したからだ。

 昇降口の扉へ突っ込み、簀子を蹴散らすように飛び越えた泰介の姿が瞬く間に見えなくなる。がんがんと床を穿つような足音がここにまで響いてきた。そんな乱暴な走り方をしたら高校の脆い床が抜けるのではないかと冷や冷やさせられるような音だった。呆気に取られて泰介を見送った仁科は、同じく呆気に取られた表情の葵を見上げ、しばし無言で見つめ合った。

「……佐伯。吉野の馬鹿が盛大に足音立てて校舎に入ってった。なんか気になってたみたいだけど、もう声とか気にしても仕方ないと思う」

「……うん」

 葵はそれでもしばらく黙っていたが、くすりと吹き出すと観念したように頷いた。

「泰介、やっぱり怒ってるよね。あっさり捕まっちゃったし、それに私、今こんなだし。髪、変なことなってるでしょ?」

「あー。吉野は怒ってるっていうか、……まあ、放っとけばいいさ」

 おそらく殺意で理性の螺子が飛んだのだろう。怒りも臨界点を突破すると人を無口にさせるらしい。黙ったまま感情を爆発させる泰介など初めて見たので、不謹慎だと分かっていても少し物珍しかった。その感想を伝えて葵を安心させようと思ったが、ふと、仁科は言葉に詰まる。

 先程の自分の言葉ではないが、程度が気になったのだ。

 訊いてもいいものか先程まで躊躇していた仁科だが、葵の様子が思った以上に明るいので深刻味が薄れた。多分大丈夫だろうと判断し、思い切って訊いてみる。

「佐伯、大丈夫か?」

「うん、平気」

「何されたか、訊いても平気か?」

「うん。えっと」

 葵が、少し考えるような表情になる。やがて、一つ一つ思い出すようにゆっくりと言った。

「さく……うちのクラスの人に、教室に連れてかれて、授業受けさせられて、手を握られて、お腹蹴られて、縛られて、転がされた」

 わけが分からなかった。頭を抱えたくなる仁科だが、ぎょっとするような内容も混じっていたので一概に馬鹿にはできない。とはいえ手を握られたというのが一番解せなかった。何なのだろう。変態だろうか。仁科は微妙な表情のまましばらく黙り、考えるのをやめた。これに関しては考えるほど馬鹿を見る気がした。

 しかし、よくそこまでされて落ち着いていられるものだ。肝が据わっていた葵の意外な一面に仁科は少し驚き、呆れ、そしてようやく安堵した。

「よかった」

 だから、素直にそう言った。葵としては全く良くないと承知していたが、腕の拘束とぼろぼろのセーラー服を見た瞬間に最悪の事態も想像したので、それに比べれば遙かにマシだ。泰介の方は被害妄想で誤解しているかもしれないが、放っておけばいいだろう。

「うん、よかった」

 だが葵は、仁科の不躾とも取れる発言に頷いた。

 そして、こう続けた。

「仁科に会えて、よかった」

「は」

 思わず、顔を見返した。そして仁科は目を瞠る。

 葵がいつの間にか笑うのを止めて、ぽろぽろと涙を零している。

 突然の事に、仁科は何も言えなくなる。何故葵に泣かれているのか、全く分からなかった所為もある。後ろ手に拘束された葵は涙を拭う事もできず、ただ零れる涙に嗚咽を小さく洩らしながら、「よかった」と繰り返した。

「仁科、ごめんなさい。私、仁科ともっと話しとけばよかったって、ここに来て、ずっと後悔してた」

「佐伯……?」

「仁科のこと、探そうと思っても、どこ探したらいいのか全然分かんなかったんだもん……!」

 葵は首を振って、はらはらと涙を零した。もどかしさを隠そうともしないで叫ばれた言葉は、周囲を憚る事を忘れてしまったかのような性急さでぶつけられ、痛々しいほどの哀しみが通った声が、凛と響いてここまで届く。仁科は驚き、それに対してどう感情を返せばいいのか分からず、ただ茫然と葵の涙を見つめていた。

 こんな風に、人の目は涙を零す。思わず見入ってしまうほどに、次々と零れていく涙は透明で、現実味がないほど綺麗だった。零れる涙に、茜色の光を宿る。

「会いたかった……無事で、よかった……泰介と一緒にいてくれて、よかった……」

「……ほんとに、お前が無事でよかった。佐伯」

 仁科は、小声で言った。聞こえなくてもいいつもりで言ったのに、葵が「仁科も」と返してきたので苦笑する。そうするうちに葵の言葉が仁科の意識に馴染んでいき、すとんと心へ収まった。

 葵は、どこまでも優しい。こんなにも冷めきった仁科に対してまで、心を砕いて涙に変える。そんな風に身を粉にしては、いつか葵自身が擦り切れてなくなってしまいそうで、泣く葵の姿はいつも薄幸に目に映る。

 だから、泣く葵は綺麗に見えるのだろうか。あまりに詩的過ぎる考えだが、その感覚は、何だか少し温かだった。そしてこの状況が何かに似ているような気がして、すぐに合点がいった仁科は内心で少し驚いた。

 『ロミオとジュリエット』だ。バルコニーから見下ろす女と、見上げる男の逢瀬の図。

 ――可笑しな話だと思う。

 過去で、あれほど関わったというのに。

 シェイクスピアなんて、久しぶりに思い出した。そんな感慨が湧いたのだ。

 仁科は、笑った。

「……さんきゅ。佐伯。もう泣くな」

「……止まらない」

「うん」

「……ごめん」

「いいから」

「仁科、帰ったら」

 葵が、ぐすんとしゃくり上げた。

「帰ったら、もっと三人で一緒にいたい。ずっとじゃなくていいから、いてよ」

「分かった」

「本当に? 学校、もっと来てくれる?」

「ああ」

「……泰介とも、喧嘩しない?」

「それは約束できない」

 葵が、ようやく笑ってくれた。泣き笑いの顔になって、涙が頬を滑り落ちていく。夕焼けの光を受けた顔が、眩しかった。

「……そっち、俺も行くから。吉野がもう着くだろうけど、そこで待っててくれ」

「うん。ありがとう」

 照れ臭そうに言う葵へ頷き、仁科は昇降口へ足を向けた。

 すると、がんがんと床を乱暴に踏みしめる音が聞こえ、次いで机や椅子が倒れる音が聞こえた。からん、と金属が放り捨てられる澄んだ音も聞こえてきて、小さな悲鳴のような葵の声も、最後に聞こえた。

 仁科は足を止めると、もう一度頭上を見上げた。

「……。佐伯見つかって、よかったな。吉野」

 泰介が葵の身体を折れそうなほどに強く抱きしめているのを見た仁科は、そう呟いて、笑った。

 だが、がばっと葵の身体を引き離した泰介が怒りも露わに「誰に、何されたか、今すぐ全部、片っ端から、洗いざらい吐け! ぶっ殺す!」と口にした瞬間、先程の感慨など一気に消し飛び、仁科は思い切り吹き出した。言うとは思っていたが、まさかここまで直球で来るとは思わなかった。これで葵がさっきのような説明をすれば、被害妄想に気づかされて怒りと羞恥で爆発するに決まっている。それはそれで、きっと見物だろう。

「……」

 だが改めて考えてみると、笑って済む問題ばかりではなかった。現に葵は教室に軟禁されていたのだ。軽傷で済んだのは運が良かっただけかもしれない。そんな風に考え出して初めて、仁科の背筋に怖気が走った。

 葵が、死ぬ。そんな不吉な想像から離れる事ができないまま、茫漠と過ごした時間を思い出す。その空虚さを他人事のように眺め、触れて、その冷たさにぞっとした。

 泰介は、短気で軽率だ。だが葵への暴行に対する激昂は、紛れもなく正しい反応だった。葵があまりに暢気に話すので、危機意識が暈けていた。葵が危険な目に遭った事自体を、軽く扱おうとしていた。そんな自分に、仁科は気づく。

「……」

 自分は少し、浮ついていたのかもしれない。

 葵に会って、安堵して、〝ゲーム〟の渦中である事をしばし忘れた。

 そしてそんな事さえ忘れさせるほど、泰介の言葉が自分を変えたのかと気づかされ――煩悶するのが、馬鹿らしくなってしまった。

「吉野。お前って、変な奴だな」

 仁科はぽつりと呟くと、案の定羞恥と怒りで顔をみるみる赤く染めていく泰介の顔を見上げながら、やはり少しだけ可笑しくなって、笑った。

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