第36話 再会

 葵が、ひどく泣いている。

 葵は昔から泣き虫だった。それを吉野泰介は知っている。葵はあまり人前では泣くまいと心に決めていたようだったが、泰介の見る限り、葵はとても泣き虫だった。

 悲しみで陰った表情が歪み、いつの間にか、ふっと姿が消えている。

 涙を誰にも見せまいとしているのかもしれない。それが意地なのかプライドなのかもっと痛ましい理由からなのか、泰介には見当もつかなかった。

 ただ、葵の悲しみはいつも隠されていて、泣く時はいつも一人だった。

 泰介は、それが嫌だった。

 泣き顔を見られるのを嫌う。それは分かる。だから一人にして欲しい。それも分かる。だが、嫌な事まで妥協して、嫌と言わずに影で泣く。そんなものは理解できないし、したいとも思わなかった。

 あの頃泰介は、ひどく怒っていたのだ。佐伯葵の事が気がかりで、それでいて同時に許せなかった。

 なんなのだ、こいつは。見ていて、癪だった。だから泰介は葵の傍にいたのだと思う。癪だからこそ、その怒りをぶつけたのだと思う。

 自分は一歩間違えば、葵の事を嫌っただろう。手酷く、拒絶しただろう。

 その結果として今日共に、〝ゲーム〟に巻き込まれる事はなかっただろう。

 そしてそれを、悔やむのだろう。

 佐伯葵の傍にいなかった事を、全身全霊で悔やむのだろう。

 だから、思う。

 何故葵は、こうもひどく泣くのだろう。

 目の前で、葵がひどく泣いている。頬を濡らし、顔を歪め、嗚咽を漏らして泣いている。その顔を見られまいと、制服の裾からはみ出した指が顔を覆う。指の隙間から流れた涙が雨のように落ちて、アスファルトへ黒い染みを作る。葵の立ち姿も黒かった。そして鮮やかな赤が胸元で燃えている。喪に服したかのような黒に、彼岸花のように咲く赤。曇天の下、モノクロームの絵の中で、葵がひどく泣いている。その場所がどこだったのかを、泰介は思い出せない。

 ただ、あの駅でない事だけは確かだった。あの日小学生の葵がひどく泣いた、あの駅でない事だけは間違いようがなかった。

 だがそんな事は重要ではないと分かっている。分かっているのだ。

 重要なのは、きっと。高校二年の葵がひどく泣いているという、その事実だけに違いなかった。


     *


 眠っている時に、急に落ちた。

 そんな感覚を経験した者は、結構いるのではないかと泰介は思う。ただ寝ているだけなのに、自分がどこか高い所から放り出されて、叩きつけられるような感覚。あれは身長の伸びだとか、骨の成長に因る震えらしい。本当かどうか定かではないが、納得はできる。

 ともあれ。

 その感覚に、それはひどく似ていた。

 どんっ、と一度震えて我に返ると、そこは雑踏の只中だった。

「は……」

 わっ、と音が溢れ出した。人の声。車の音。微かな風。空の光が眩しさに慣れていない目に刺すように飛び込んきた。朝の通勤通学ラッシュ時なのか、目の前を様々な歩調の人間が、都市部の混雑を思わせるほどに入り乱れた。

 その様子を、漫然と見ながら――吉野泰介は状況を把握して、驚愕のあまり仰け反った。

「……うわ!」

 上履きのまま往来に立つ泰介を、通行人の何人かが眉を顰めてちらと見た。その反応が意味が意味する事実にすぐ気づき、泰介は戦慄する。

 ――泰介が、見えているのだ。

 事態の急変に逸る鼓動を抑えながら、泰介は辺りを見回してさらに驚く。

 ここは、見知った場所だった。眼前にはバスターミナルとタクシー乗り場のロータリーがあり、そこを足早に抜けるのは社会人よりも、圧倒的に黒い制服の学生が多い。

 御崎南駅。

 泰介の通う高校、御崎川高校の最寄り駅だ。駅舎に併設された喫茶店の硝子窓に、驚く自分の顔が映っている。金属バットを挿した鞄も、泰介の肩に掛かっていた。

 ――戻ってきた……?

 茫然と、やがて言いようのない苛立ちを覚えて駅舎を睨みながら、泰介は思う。

いきなりの変化だった。気づいたらここにいた。その戸惑いがようやく薄れ、代わりに僅かな疑問が湧く。

 何故かさっきまで、葵の事を考えていた気がしたのだ。

 だがやはり、思い出せる事は少ない。折角のフラッシュバックでも細部がこれほど曖昧では使い物にならなかった。そして苛立った事でどこかで未覚醒状態だった頭脳が回り出したらしく、泰介はあっさりとそれを思い出した。

 仁科に追いつけなかった事を、思い出した。

 ――こん、と。

 近くから、ノックの音が響いた。

 雑踏の中から微かに聞こえた硬音は、澄んだ硝子の音だった。泰介は音源を振り返り、ぎょっとして息を呑んだ。

「!? 仁科……!」

 泰介の目の前の、喫茶店。駅舎の中に埋まるようにして店舗を構える喫茶店。その窓硝子に面したカウンター席で、男子高校生が一人、頬杖をついて座っていた。

 着崩し気味の学ラン。奇抜に染め抜いたオレンジ色の髪。驚く泰介を見て、少し笑ったようだ。そしてもう一度、こん、と窓硝子を骨ばった長い指でノックすると、今度は自分の背後を軽く指で示した。

 ――仁科要平、だった。

 頭の中が、真っ白になる。冷や汗が背筋を伝い落ち、握り締めた手が震えた。笑う仁科を見た瞬間に、過った感情は多様だった。そのうちのどれが最も色濃く浮いたのか、混乱した。泰介は複雑な形相のまま、硝子一枚を隔てた向こうの同級生を、食い入るように見つめた。

 葵から。

 泰介へ。

 仁科が。

 手紙を。

「……っ!」

 緊迫感が張りつめた。仁科を見つけた。仁科がいる。まずは安堵すべきだと分かっているのに、拭いがたい猜疑が心を戒めて、泰介の顔を強張らせていく。

 仁科は蛇に睨まれた蛙のように硬直する泰介を見て、不審そうに眉を寄せた。そして、くい、ともう一度背後を手で指示してきた。

 意図は、すぐに分かる。来い、と。そう言っているのだ。

「……」

 言われるまでもなかった。泰介は纏わりつくような猜疑を断ち切るように、踵を返して歩き出す。仁科は返事さえ寄越さず行動に移す泰介を見て、少しだけ笑ったらしい。どこかほっとしたような笑みは、再会した泰介への気遣いだろうか。そんな感情の片鱗を読み取って初めて、泰介の心にも小さな安堵が灯る。

 ――無事だったのだ。仁科は。

 息をつく。まずは、一人。合流が叶った。萩宮第一中学で仁科とはぐれてから随分時間が経った気がしたが、実際はそれほど長い間離れていたわけではないはずだ。あの過去を巡る時間の流れは、常識の尺では測れない気がする。だがそんな非現実的な憶測は考えるほどに不快になるだけなので、泰介は苛立ちを振り切るように駅に入り、喫茶店のドアを開けた。からん、と軽やかな鈴の音が響く。

 カウンター席から一面に入ってくる朝日が眩しい店内は、シックな調度に囲まれた大人びた内装だった。利用している客層も、年配の社会人や大学生ほどの青年が多い。泰介はふと気になって、自分の姿を見下ろす。

 頬や手に細かな擦り傷と切り傷をたくさん拵え、しかも上履きのまま、鞄に金属バットを突き刺した高校生。普段でもこんな洒落た店など利用しないが、今の状態では最悪としか言いようがない。今日は間違いなく泰介にとって厄日だ。自分のこういった状況にも慣れ始めていた泰介は重い溜息を一つ吐くと、近づいてきた店員に連れがいる旨を伝えてから、真っ直ぐに仁科の座るカウンター席へ向かい、その痩躯の前に立った。

 仁科は泰介を見上げると、口の端だけで笑った。まるでここまで言われた通りにやってきた泰介の事を小馬鹿にしているようにも見えたが、単純に再会を喜んでいる風にも見える。いつもの仁科が浮かべるような、揶揄混じりの笑みだ。その笑みをいつしかきつく睨みながら、泰介は言った。

「お前。いつの仁科だよ」

「電波だな」

 一蹴された。泰介は頭に血が上り、掴みかからんばかりの勢いで言い返した。

「あのなあ……! 俺は真剣に言ってるんだぞ!」

「普通の人間にいきなりそういう口の利き方してると、頭おかしいって思われるぞ」

「なっ」

 腹が立つが、なまじ事実なだけに言い返せない。最初の質問を誤ったこちらの旗色が悪い。泰介は歯噛みしながら仁科の隣へどっかりと腰を下ろし、メニューもろくに見ずにコーヒーを注文した。金銭面の心配が脳裏を過ったが、ポケットに忍ばせた定期入れに緊急用の紙幣が入っているので事足りるだろう。

 注文を済ませると、泰介は仁科を睨んだ。仁科は、揶揄と諦観を滲ませた例の微笑で応えてくる。その表情にはやはり微かな安堵と、信じ難い事に労りが仄見えた気がしたが、ここでほだされるのは癪なので、睨んでおく事にする。

「一つ、確認させろ」

「どうぞ」

 泰介の低い恫喝に、仁科は軽く肩さえ竦めて見せて、頷く。

「お前はあの時の仁科だよな」

 仁科の目が、探るように細められた。

「あの時の、って? どの時を言ってる?」

「はぐらかすな」

 泰介は、苛立ちを隠そうともせずに言った。

「一緒に〝ゲーム〟に参加して、それから一緒にお前の中学時代に飛んだ。それから俺と分断された時の事を言ってる」

 言葉にするのさえもどかしく感じた。そして悠長に会話をしている間に、泰介は確信した。

 この目。この余裕。卑屈な笑み。ふざけた人のあしらい方。間違いない。

「お前、あの時の仁科だな。俺が『いつの』って訊いた時もそこまで馬鹿にしなかった。何も知らない仁科なら、俺を狂人呼ばわりだ」

「吉野は俺に質問してるんじゃなかったのか? 分かってるなら最初から訊くな」

 仁科は笑みを浮かべると、「ああ、そうだよ」とあっさり告げた。

「俺はあの時の仁科要平だ。他の誰でもないよ」

 やはり。泰介は、ごくりと唾を呑んだ。

「仁科……お前も、帰って来れたんだな。いつ帰ってきたんだ?」

「五分くらい前。気づいたらここに座ってて、目の前にはコーヒーがあった」

「はあ? なんだそりゃ」

 泰介は仁科の手元を見下ろす。このコーヒーは、自分で注文したものではなかったのか。まじまじと見ていると、仁科は面倒臭そうに答えた。

「なんだも何も、吉野だって大方ここに帰ってきたばっかだろ。場所と状況と待遇に、少し差があっただけの事だ」

「なんか、釈然としねえんだけど……」

 泰介は駅前に放り出されたのに、仁科の方は優雅にお茶ときている。その格差に微妙な気分にさせられたが、今はそんな事はどうでもいい。

「仁科」

 名前だけを、短く呼んだ。真剣に向き合おうとしたつもりだった。そしてその気配は、仁科にも通じた。仁科は表情を引き締めるとまではいかなくても、身体ごとこちらに向いてくれた。

 それを確認し、口を開こうとしたところで――泰介は、黙った。

 やがて、ぽつりと言う。

「仁科」

「何」

「お前」

 思わず、言葉を止めた。だが、結局言った。

「顔、青い」

 二人の間に、乾いた沈黙が流れた。

 仁科は泰介の台詞に肯定も否定も返さず、表情も動かなかった。仁科の顔は午前中の淡い陽光に照らされて、元々色白の肌を一層蒼白に見せている。

 隣で話をしていたのに、今まで気づかなかった。何故気づけなかったのか分からず、だが次の瞬間には理解が及び、言葉が閊える。

 簡単な事だ。

 笑っていたからだ。

 表情を取り繕うのに最も適当な表情が何かなど、言うまでもない。泰介はそれを長い年数見てきたのだ。仁科の顔には先程までの乾いた笑みが名残のように貼り付いていたが、その名残さえも、泰介の指摘と共に消えた。

「……何、吉野。心配してくれてんの」

 長い沈黙の末に、ようやく仁科がそう言った。

 微かな嘲りを感じる声は、普段通りの仁科の声だ。

 そしてそれが普段通りを糊塗する声だと気づかないほど、泰介は馬鹿ではない。聞いた瞬間、仁科を睨んだ。

「茶化すな。そういうやせ我慢が俺は大っ嫌いなんだよ」

「なんだ。お前、優しいんだな。でもそういうの、ほんといいから」

「おい、仁科……!」

「俺のことは、いいから」

 仁科は繰り返し、戯れを装うように泰介から目を逸らした。オレンジ色の髪が揺れて、仁科の表情を隠す。声には、怠惰が滲んでいた。

 苛立ちが、じりじりと脳を焼いた。

「……。いいわけないだろ。今のお前、普通じゃねえよ。何があったんだよ」

「吉野。それは後にしよう」

 泰介の方を見ないまま、仁科は言った。会話の流れを断ち切るような言葉だったが鋭利さはなく、張りを失くした声は鉛のように重かった。

「それよりも……吉野と別れてから、考えてた事がある。お前には、そっち先に聞いてほしい」

「……」

 返事が、できなかった。

 何も、その台詞が思いがけなかったからではない。

 それを言う仁科の横顔があまりに空虚で、等身大の人形に座られているような異様な雰囲気を、泰介へ伝えてきたからだ。

 泰介は、気圧されていた。仁科の状態が、あまりにも普通ではなかった。元々仁科は〝ゲーム〟開始時から最も情緒が不安定なように見え、その危うさは一度涙を見せた葵よりも、ある意味上のように泰介には思えた。

 そして、その危うさは、今や最悪のレベルに達していた。

 葵が消え、泰介と二人になった時にも同じような虚勢の笑みを見た。その時でさえ仁科はこれほど頑なな態度は取らなかったはずなのに、状況は最早、一変していた。今の仁科はなんとか笑顔で表情を繋いでいたが、それさえこうして剥離してしまうと、本当に何もなかった。

 その異常を、泰介は上手く言葉で言い表せない。葵ならばできるのかもしれないが、泰介には難しすぎた。そんな泰介でも、今の仁科がどれほど追い詰められているかだけは分かる。

 合わない視線に、凄絶な虚無を感じた。あの時仁科を一人にした事が、どれほど仁科の心を追い込んだのか。今こそ本当に思い知らされた気がした。

 ――宮崎侑。

 その名が、脳裏を過る。

 仁科の抱えたトラウマの全貌を、途中までしか過去へ同席していない泰介は知らない。それでも一つだけ理解した。

 仁科が、過去で何かを見た。

 それが一体何なのかを、推し量るのは容易い。

 容易すぎて――反吐が出る。

「……聞いてやる」

 泰介は、吐き捨てるようにそう言った。

 二人の間に、重苦しい沈黙が降りる。その空隙を埋めるように流れるBGMのアップテンポな曲調が、黙る二人を嘲笑う。やがて泰介の注文したコーヒーが運ばれてきたが、それに手をつけないまま二人はやはり無言だった。目の前の窓硝子を睨む時間をひどく長く感じた沈黙の果てに、やがて仁科が、言った。

「……吉野」

「何だよ」

「お前、面倒見いいとか言われた事ない?」

「腐るほどある」

「やっぱりな」

 仁科が泰介を、振り返った。

「俺がお前に謝ったら、気持ち悪いって言っただろ。でもお前が俺に優しくするのも、おんなじくらい気持ち悪い」

 仁科は言い終えると、口を噤む。

 そして――うっすらと、笑った。

 感情が、血を吐くような熱さで喉元までせり上がった。


 ――できなかった。


 無理、だった。今の仁科に、質問をぶつける事などできなかった。

 今までも心を鬼にして、仁科へきつく追及してきた。自分にはできると思っていたし、感情を排してでもやるつもりだった。その気持ちは間違いなく生きていて〝ゲーム〟開始時から今までの間変わる事がなかった。そう疑いもなく信じていた。

 だが、無理だった。できなかった。悔しさと怒りが火を噴くように意識を焦がす。それでも今だけは駄目だった。そんな己の心の変化に、泰介は凄まじいショックを受けた。

 訊けるわけがなかった。こんなにもぼろぼろの仁科に。

 あの過去の顛末を。

 修学旅行の手紙の事を。

 そして、その記憶の事を。

 仁科に問い質したい事は山ほどあって、そのどれもが必要だった。その仁科を目の前にして、何も言えない。歯痒さで噛みしめた奥歯が、がりっ、と音を立てて軋んだ。自分が許せなかった。だが、ここで仁科へ畳み掛けるように追及する自分は、それよりもっと許せない。

 何故か、葵の顔が再び脳裏を掠めた。

 ――泣いていた。

 一瞬の、フラッシュバック。その後味の悪さから、泰介は顔を歪める。

 仁科と仲違いをすれば、葵が泣くだろう。諭す葵の泣きそうな顔が簡単に想像できて、泰介は自分でも正体の分からない感情に震える拳を握りながら、仁科の声に耳を傾け始めた。

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