第35話 決められた台本

 気づいたら、学校にいた。

 佐伯葵は、はっとする。いきなり自分にスポットライトを当てられて、盲目になったような白い闇。そこから急に視界が開けたような、奇妙な感覚に襲われた。

「あ……あ、れ……?」

 とん、とん、と数歩歩いて立ち止まると、足を乗せた床が負荷に軋んだ。白く暈けた淡い光に、けぶるような木造建築。木目に入った細かな傷は大小新旧様々で、肺に吸い込む空気は冷たい。朝日は廊下に沿って並ぶ窓から、柔らかく射している。

「う、そ……」

 この光景を前にして、自分の感情がどう振れたのか分からない。安堵、驚嘆、不安、恐怖。そのどれもが違う気がして、そのどれもが正しい気がした。

 ここは、御崎川高校だった。

 御崎川高校の、葵の教室の前だった。

 ――帰ってきた?

 肌寒さに腕を抱いた葵は息を呑み、青空を四角く切り取る窓へ近づいた。

 ――閉まってたはずなのに。

 冷えた桟に手をつきながら、反芻した。葵と泰介が今朝ここで登校してくる仁科要平を見下ろした時、窓は確かに閉まっていた。葵は緊張の面持ちで、教室を怖々と振り返った。

 三人で巻き込まれた、不可解な〝ゲーム〟。その渦中で葵は泰介達のいた学校から離脱し、その末にこうして、御崎川高校に立っている。スタート地点とも言うべき学校に帰ってきた事になるのだろうが、それを心から喜んでいいのか、葵は分からなくなっていた。

 ――泰介と、仁科は?

 かたかたと、手が震える。いくら力を込めてもそれを自力で止められず、葵の心に焦燥と、それを超える恐怖が満ちた。

 ――もしかして、二人は……まだ、帰って来てないんじゃ……?

「泰介、仁科……」

 縋るように二人を呼んでも、しん、と無人の廊下に声は吸い込まれて消えていく。もう、最初に感じた安堵などどこにもなかった。

 葵は、一人だった。

「……っ」

 ばっと、葵は振り返った。

 ――探さなきゃ……!

 混乱する頭が弾き出した答えが、使命感にも似た熱っぽさで葵にそうさせていた。何処から探せばいいとか、何処まで探せばいいとか、そんな考えがぐるぐると頭を巡り、空回り、血の気が引いていく。いけない、と葵は自分を叱咤する。混乱が止まらず、半分恐慌状態になっていた。

 その時、かたん、と物音を聞いた。

 そんな僅かな音にさえ過剰に反応した葵は、身を強張らせ、息が止まる。

 教室の中に、硝子を透かして人影が見えていた。

「……!」

 人が、いる。誰もいなかった、この場所に。湧き上がった期待が閃光のように胸を焼いた。葵は扉に取り付くと、がらっと力任せに開け放った。

 ばん! と大きく響いた音に、中にいた誰かがぎょっとした様子で顔を上げた。そしてその顔を見て驚いたのは、葵も同じだった。

「……葵ちゃん?」

 人数は、一人。一番後ろの席で教科書を広げた少女は、舟木朝子だった。

「おはよう。どうしたの?」

 葵はぽかんとしたが、おずおずと掛けられた声に我に返り、「お……おはよう。朝ちゃん」と挨拶を返す。

 完全に予想外だったのだ。ここにいるのは当然〝ゲーム〟参加者だとばかり思っていた。葵の頭に、たくさんの疑問符が浮かぶ。

 そもそも今は一体、どういう状況なのだろうか。

 〝ゲーム〟は、終わったのだろうか?

 それともまだ、続いているのだろうか?

 ――終わっているわけが、ない。

 終わったと安堵するのは簡単だが、葵にはそうではないと確信があった。

 ――多分、別れ際の言葉の所為だ。

 とはいえ今の葵には〝ゲーム〟の進行状況も泰介達の安否も、そして今朝子がここにいる意味も分からない。

 不安で、胸がいっぱいになった。

 泰介と仁科に会いたい。だがようやく会えた人は二人ではなかったのだ。朝子には悪いが切なくなってしまい、葵は意識せずに言っていた。

「朝ちゃんがなんで、ここにいるの……?」

 そしてそれは、明らかにまずい発言だった。

 朝子の表情が、怪訝そうなものへと変わる。あっ、と葵は口元を押さえた。なんて事を言っているのだ。

「葵ちゃん、突然どうしたの?」

「えっ……、と。その……」

 葵は口籠ってしまう。言い訳が厳しい状況だった。何しろ葵はほぼ手ぶらなのだ。あの見知らぬ校舎から〝過去〟へ落ちた際に、自分の鞄は失くしている。唯一の所持品はポケットに入れた壊れた携帯電話と、青いサテン地のリボン一つ。普段は鞄に結いつけているものを握りながら、葵は畳み掛けるように言い訳した。

「ごめんね。朝ちゃん。ちょっとぼんやりしてたみたい」

 無力を感じたが、同時に葵は、こうするしかないと覚悟を決めてもいた。

 もし、これがまだ〝ゲーム〟の渦中なら。

 それは完全に葵の問題であり、朝子には全く関係がないからだ。

 巻き込みたくない、とは多分違うのだと思う。その感情もあるには違いないが、それだけが全てではなかった。

 触れられる事が、こんなにも怖い。所詮葵は、まだまだ弱い葵のままだ。その虚勢はいつも泰介に馬鹿にされてしまう類のものだったが、それでも葵はこうなのだから、仕方がないのだと思う。

「ううん、別に謝る事じゃないでしょ?」

 朝子が席から腰を浮かしたが、葵は悪いと思いつつも、もうそれどころではなかった。葵の足元近くと、少し離れた机の上。その二か所を見ながら、葵は最後に一つだけ確認する。

「朝ちゃん。訊きたいことがあるの。……泰介と仁科を、見なかった?」

「え? 見てないけど」

 すると朝子は、すらすらと話し出した。

「仁科君ならまた遅刻してくるんじゃない? 吉野君なら、陸上部で走ってるんじゃないかな?」

 葵は、黙った。

 しん、と会話の絶えた二人の間に、乾いた空気が流れる。

 何だろう。葵は、微妙な齟齬を感じていた。

 今の朝子の話し方に、違和感を覚えたのだ。

 朝子は、普段の仁科と泰介の日常をよどみなく言った。

 何だか、まるで。

 決められたト書きを感情を込めずに、そのまま読み上げられたような。血の通わない台詞に思えたのだ。

 だが葵は何故自分がそんな風に感じたのか分からず、首を捻った。

「どうしたの? 葵ちゃん」

「え? ……ううん、なんでもないの。ごめん」

 葵は慌てて濁すと、視線を爪先へ落とし、「……そっか」と呟いた。

 何となく、そんな気はしていたのだ。

 手に残った、青いリボン。それを唯一の希望のように握りしめると、葵は朝子へ笑顔を返した。

「ありがと。それじゃ」

 え、と朝子が訊き返した時、葵はもう教室を飛び出していた。

 葵は走った。教室に残された、泰介と仁科の鞄から背を向けて。

 ――まだ、帰ってきていない。

 それが分かっただけで、今の葵には十分だった。辛く思ったが、状況が分からないよりずっといい。泣きそうになるのを、歯を食いしばって堪える。涙を流すのは二人と会えた時でいい。今はまだ早いのだ。こんな事ではまた泰介に呆れられてしまう。「葵ちゃん!」と声が追いかけてきた。葵は心の中で、ごめんね、と謝る。

 今は、いなくなった二人の方が大事だった。


「……教室から出ちゃ、駄目なんだよ。葵ちゃん」


 最後に呟かれた台詞を、葵が聞くことはなかった。

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