第34話 修学旅行・午後

「あれ、葵? どっか行くの?」

 風呂上りの髪をタオルで擦りながら、さくらが訊く。

「うん、飲み物買いに。財布だけ取りに戻るから、それからちょっと外すね」

 葵はいつも通りの朗らかさで答えると、乾かした髪をざっくりとまとめ上げてから、ベンチに置いた洗面道具をさっと持ち上げる。そして「じゃ、部屋いこっか」と、さくらを始めとする同室の女子達へ笑いかけた。

 ホテルのラウンジ付近では、何人もの生徒が行き交っている。黒と白のチェッカータイルが蛍光灯の無機質な光を、青白く反射させていた。そこにいるほとんどが入浴を済ませた生徒達で、皆制服からジャージへ着替えていた。

 制服の生徒は、気づけば一人もいない。

 そんな中でただ一人、学ランを身に纏った御崎川の生徒がいる事に気づかないまま、葵は踵を返し、歩き去っていく。


     *


 ぞろぞろとラウンジから引き揚げていく一団を横目に、吉野泰介は憮然とした表情で、ソファに腰を埋めていた。

 現在は、修学旅行一日目の夜。

 あのオルゴール店から一歩足を踏み出すと、ここへいきなり飛ばされたのだ。その現象自体は仁科要平の過去を巡った際にも似たダイジェストを経験したので、あまり驚かなかった。この時間の泰介の方は今頃大浴場から上がる頃だろう。それを予測した上で、泰介は淡々と時間を潰していた。

 もちろん、ただ無為に時間を浪費していたわけではない。

 目の前のテーブルには、ルーズリーフと筆記用具。泰介の隣には葵が残していった鞄と、そこへ無造作に突っ込んだままの金属バットがあった。葵の鞄は開いていて、筆箱もチャックを開けた状態で置いてある。

 三度にも亘って女子の鞄を勝手に開けたのかと思うと、どんどん深みに嵌っていく己の悪党っぷりに微妙な諦観が湧いた。仁科の秘密を暴き立て、学校の硝子を叩き割り、葵の鞄を漁る。こう立て並べてしまうと擁護のしようがない屑だった。理不尽とやるせなさから泰介は首を軽く振る。泰介とて、何も無目的に葵の荷物を漁ったわけでは断じてない。思いついたワードをすぐさまルーズリーフに書き殴った。

 ――敬。

 ――さくら。

 ――喧嘩。

 そこまで書くと三つのワードをぐるりと丸で囲み、隣に自分と葵の名も書いた。そちら側も丸で囲もうとして、手を止め、思案し、結局囲む。そして泰介はシャーペンを握り直すと、矢印でさくらと自分を繋ぎ、喧嘩、と追記した。

「……それは、思い出せるんだけどな……」

 違和感に首を捻りながら、泰介は奇妙な相関図を見下ろした。

 京都観光中に突如湧いた記憶の嵐に、意識が掻き混ぜられて以降。モノクロのフラッシュバックの前と後では、最早見える景色が違っていた。

 泰介が原因の遅刻。四人で歩いた京都の町並み。現れない仁科要平に苛々させられながら、敬やさくらの顔色を窺った事も。それらの記憶は不鮮明なものだったが、今の泰介は思い出していた。

 ――未来じゃ、なかったんだ。

 当初〝未来〟だと疑ったこの光景は、既に経験済みの〝過去〟だった。それを認めた途端、面白いほど色々な事に説明がついた。

 だから、あんなにも既視感が付き纏う。視点が時折ずれて、目の前の泰介へシフトする。大地を踏みしめる自分について歩くだけで、それが呼び水となって記憶が戻る。これから先の事についてはまだ輪郭しか掴めない記憶もあるが、次に起こる事を何となく予想できる程度には、泰介は修学旅行の記憶を取り戻しているらしい。

 不安はなく、恐怖もなかった。先程感じた悪寒と吐き気も、今では鳴りを潜めている。

 ただ、だからといって自分を許せるかと問われれば、それは違った。

 怒り自己嫌悪で、気づけば奥歯を噛みしめている。

 泰介は、忘れていたのだ。修学旅行の記憶を失くしたまま、その欠けに気づく事なく〝ゲーム〟に参加していたのだ。

 何故自分が記憶を喪失していたかは不明だが、それが命の懸かった〝ゲーム〟に強制参加させられている現時点で、どれほど致命的な事なのかは、理解しているつもりだった。異常に気付いたからには、手をこまねいているわけにはいかない。泰介は表情を引き締めて、ルーズリーフを睨み付けた。

 さくらと、泰介の喧嘩。

 そこに日付を宛がおうとしたが、どう頑張っても思い出せそうになかった。後回しにしてもう一枚ルーズリーフを取り出して、そちらに泰介、葵、そして仁科の名を書いた。見出しの部分に〝ゲーム〟と書き、そして日付を書こうとして……また、手が止まる。

 舌打ちした。今日が何日だったか思い出せないのだ。単に忘れているだけなのか記憶の欠けなのかさえ不明だった。泰介はさらにもう一枚ルーズリーフを出して、今度は『修学旅行』と書き殴った。面倒に思ったが班員全員の名を書き連ねる。仁科の名前も付け加えた。これだけは、日付が分かる。泰介は大きく十月二十四日と記し、吐息をついた。

 今朝、〝ゲーム〟に参加する事になるまでの出来事。その時系列を泰介は一人でまとめていた。

 意味のある行為かは分からないが、自らの記憶が不確かな以上、分かっている事も含めて再認識すべきだと考えたのだ。

 そして実際に書き出してみて、泰介はその考えの正しさを確信した。名前以外にほとんど追記できないルーズリーフの空白が、そのまま泰介の記憶の欠けを表現しているかのように寒々しく空いている。

 自分がどれほどの事を忘れているのかを、嫌でも思い知らされた。

 三泊四日の修学旅行。その期間の記憶を泰介は全て保持している自信があった。おぼろげながらも葵やさくら、敬と新幹線で帰った覚えがある。

 〝ゲーム〟に巻き込まれたのは、修学旅行が終わる十月二十八日以降。

 それだけが唯一、泰介が突き止められた事だった。泰介は『修学旅行』と〝ゲーム〟のルーズリーフを脇によけると、一枚目のルーズリーフを手に取った。

「……」

 泰介。葵。

 敬。さくら。

 喧嘩。

「……ちっ」

 これは、いつの事だろう。修学旅行から帰ってきてからの事件。それ以外で泰介に分かる事は少なかった。シャーペンを、握りしめながら反芻する。

 敬の相談事を少し離れた所で聞いていると、突如襲われたフラッシュバック。ぶちまけられた記憶と台詞と感情が、痛々しいまでに錯綜した、あの情景。

 葵の事を、思い出す。

 泰介が何故か、葵の腕を掴んでいた。

 何故自分がそんな行動に出たのかは分からない。だが、葵に抵抗の意思はなかったように思うのだ。怯えたように竦んでいたが、泰介を拒んではいなかった。ただ、自分がその瞬間どんな感情で、どんな意思でそんな行動に出たのかまでは、やはり泰介には分からなかった。

 幼馴染とはいえ女子の腕を、あんな至近距離で掴むとは何事だろう。考えれば考えるほど、決まりの悪さを覚えてくるので困る。泰介はルーズリーフと睨めっこして、結局苦し紛れに『共謀?』と、葵と泰介の名の横へ書いておいた。これでは悪巧みをしているようで、書く言葉を間違った気がした。

「ん……こんなもん、か?」

 だがそこでふと思い立ち、さくらと自分とを繋ぐ矢印の下に追記した。

 喧嘩、の下へ、『発端』、と。


『なんでそんなわけわかんない奴の言うこと聞いて、さくの話は聞いてくれないの? 葵、分かんないよ!』


 台詞が、蘇ったのだ。

 何となくだが、分かっていた。

 泰介達四人の対立の原因は不明だが、おそらく最初に発端となるような大規模な喧嘩をやらかしたのが自分なのだ。

 そして、相手はさくら。

 さくらの言う『わけわかんない奴』は、間違いなく泰介だ。その強固な確信に沿って考えた途端に、泰介はさくらに対して苛立つ自分を感じたのだ。

 ――多分、だが。泰介は。

 〝ゲーム〟としてここへ迷い込む前に、さくらと何らかの確執があった。その確執には、敬と葵が密接に関係している。

 そしてその騒動が未解決のまま、泰介と葵は〝ゲーム〟へ参加する事になってしまった。

 妄想と言われてしまえばそれまでだ。泰介にはそれを否定するだけの根拠がなく、しかも肝心の記憶さえ曖昧なのだ。

 だがそれでも、一つだけしっかりと信じられる感情があった。

 葵の顔が、脳裏を掠める。

「……」

 後悔、していない。葵を思い出す度に、そんな感情がふっと灯る。

 泰介は確信していたのだ。さくらとの対立を、後悔しないと。相手が折れるまで絶対に主張を曲げないと、何故だか堅固に構えていた。それは元々自分らしい感情の発露に思えたが、今回ばかりはいつもの喧嘩とはわけが違う気がした。

 怒りの感情だけではない、何か別のものがある。

「あー……くそっ……」

 とりあえず泰介は、目の前のルーズリーフを並べ直した。修学旅行、喧嘩、〝ゲーム〟。一番上に修学旅行が来る。この組立方で合っているはずだ。ちまちまとした作業は性に合わず筆記の作業に苛立っていると、ふと泰介は仁科の事を思い出した。

 すぐに人を煙に巻こうとする狸だが、ああ見えてかなり頭の回転が速いのは皆知っている。だがこの局面で仁科要平を頼る事に凄まじい抵抗と意地が生まれ、泰介はシャーペンを握る手に力がこもる。

 仁科の手など借りずとも、〝ゲーム〟は泰介が終わらせてみせる。

 そしてさっさと、いつもの仁科に戻ればいい。

 ただ、もし泰介が〝アリス〟の正体を突き止める前に葵や仁科と再会できるのであれば、記憶の混濁や欠けについては確認する必要があるだろう。

 泰介は修学旅行にはまだ行っていないと、かなり本気で信じていたのだ。あの二人が同じ認識でいるのか、修学旅行がいつだと思っているのかが気になった。

 特に、葵には。

 あの喧嘩について記憶があるか、きちんと話を聞く必要がありそうだ。

「……」

 ただ、あまり期待はできなかった。

 今朝別れる前までの葵は本当にいつも通りの葵で、クラスメイトの訃報を受けた時の動揺も、仁科へ乱暴に接する泰介へ文句を言った時の毅然とした表情も、その仁科への気遣いも、それらのどこを取っても無理や演技が感じられないのだ。

 感情に引き摺られやすい葵のことだ。前日までに壮絶な喧嘩騒動があれば、まず間違いなく顔や態度に出る。隠そうとすれば余計に浮き彫りになり、それに泰介が気づかないわけがない。

 葵もまた、忘れているのだろうか。

 そうやって泰介が二人への質問を脳内で組み立てていると、ふと前方に影が差した。ラウンジの細長いテーブルを挟んだ向こう側で、ソファがぎしりと軋む。

 顔を上げて、ああと思った。

 時間になったのだ。

「……」

 葵が、対面に座っていた。

 泰介はそれを覚えていたので驚かなかった。この時間にここへ葵がやってくるのを知っていたので、あえて対面に座るよう張っていたのだ。

 だが、ふとそんな事をしている自分がまるで変質者のように思え、泰介はソファにちんまりと座る幼馴染と向かい合いながら、何とも言えない微妙な表情になってしまった。今日はこんな事ばかり考えて、打ちのめされている気がする。石鹸の匂いが、ふわっと香った。

 対面の葵の表情は、明るいものではなかった。

 きゅ、と引き結んだ唇は頑なで、前髪の向こうで眉が少し寄せられている。落ち込んでいるのか、それとも何かに怒りを感じているのか。複雑な表情だった。

「……はあ」

 小さく溜息を吐いた葵が、ジャージのポケットをごそごそと弄る。

 その動作を見ただけで、泰介は自分の眉が吊り上ったのを自覚した。

 かといって今の泰介が葵の行動を止められるわけもなく、葵はポケットから折り畳んだ紙片を取り出すと、折り紙の要領で広げて、視線を落とした。

 沈黙。

 泰介の姿が見えない葵と、見えていても何も言えない泰介の間に、ラウンジにかかった音楽だけが白々しく流れていく。両膝に乗せた自分の手が、握り絞められて硬く強張る。

 聞えないのは、分かっている。

 分かっていたが、それでも言った。

「……馬鹿だよ、お前」

 気づけば、ラウンジからは生徒の姿が消えていた。ホテル内のゲームセンターへ流れたか、入浴か、部屋で友人と遊んでいるのだろう。寂しいラウンジでたった一人過ごす葵の姿は、寒々しいライトに照らされた中で、一際孤独に目に映る。

 不意に泰介は、葵の持つそれへ手を伸ばした。

 多分このままだと、泰介はそれに触れてしまう。硝子細工を割ってしまった事を思い出す。映像だと思っていたのに、干渉できる不思議を思う。手が、止まる。

「……ちっ」

 結局、泰介の手は葵の腕に伸びた。

 掴めば、思い出せるのではないか。それが期待なのか反射なのかも分からないまま、曖昧にぶれた感情が泰介にそうさせていた。

 馬鹿な事をしていると自覚があった泰介の手は、人目を気にするような、あるいは壊れ物に触るような手つきになってしまった。手は赤いジャージに袖を通した葵の右腕を掠め、透過し、そのまま抜ける。ふい、と風が切れて、何も掴む事のできない空っぽの手だけが、自分に残った。

「……」

 腹立たしかった。葵の抱え込む孤独が、こんなにも癇に障る。

 せめてもの救いは、これからこいつを叱り飛ばす輩が現れる事くらいのものだろう。

 かつん、とラウンジに近づく足音が聞こえた。

 葵が、弾かれたように振り返る。一人だと思って完全に油断していたらしい。紙片がくしゃりと潰れるのも構わずに、それを後ろ手に隠した。泰介は鼻を鳴らす。対面の泰介から丸見えの行動だった。

 そして向こう側に立つ人間も、見え見えの隠蔽工作に腸が煮えくり返ったのだろう。そいつはつかつかと大股で葵の元へやってきた。

 風呂上りにラウンジへ寄って、自販機で牛乳でも買って帰ろうくらいの軽い気持ちだったのに、そこでとんでもないものを見た。

 怒りで我を忘れたのを、まだ生々しく覚えている。

「ひっ」

 葵の顔色が青ざめる。そして「た……たいすけ」とたどたどしく名前を呼ぶと、慌てた様子で立ち上がった。

 吉野泰介がいた。

 その泰介と視線がかち合った瞬間、葵はバレたと気づいたらしい。

 頭からタオルを引っ被ったままの泰介は、逃げようとして咄嗟に反対側へと向いて、ソファとテーブルの隙間に足を取られ、隣の窓にごつんと音を立ててぶつかった葵に迫り、手首を問答無用で掴んでいた。

 葵が短い悲鳴を上げた。泰介の頭からタオルが落ちる。濡れたまま放っていた髪から、滴がぱっと散った。

「……」

 傍から見ていてもかなり乱暴な手つきだったと分かるが、葵は痛いとは言わず、唇を噛んで俯いた。泰介はこれほど自分が我を忘れていた事に今更ながら気づかされ、ひどく居心地の悪い気持ちになってしまった。

 葵は、俯くのをやめて泰介を真正面から見返した。

 だが怒りで強張った泰介の顔を見て、すぐに泣きそうな顔をする。

 嫌な沈黙が、両者の間に流れる。

 その沈黙を破ったのは、泰介の方だった。

「……なんでこれが、ここにあるんだよ」

 低い声に葵は瞳を潤ませると、か細い声で言った。

「……持って、きちゃった」

「持ってきちゃったじゃねぇよ!」

 即座に怒鳴り返されて、葵がまた竦み上がる。

「駄目だって言ったよな。話もついてたよな。何お前蒸し返してんだよ! 馬鹿だろ!」

「だ、だって……このままじゃ……分からないままになっちゃう」

「知りたいわけじゃないって、俺に言っただろ」

「でも、もうやめてって言うことも、できなくなっちゃうでしょ? だから」

「葵」

 泰介は、葵を呼んだ。

「これ、捨てろ」

 葵が、息を吸い込んだ。

「一回捨てられた意味……考えろよ。お前がこんなもの読む意味なんかないって、俺言ったよなあ!」

「意味なら、あるもん!」

 きっ、と葵が顔を上げた。

「私以外が読んだって意味なんかないけど、でも、私だからあるんじゃない!」

 決死の表情の訴えに、泰介の額に青筋が立った。

「それを駄目だって言ったの、忘れたのかよ!」

「なんで、泰介が決めつけるの」

 葵の目に、涙が浮かぶ。泰介の答えは、明瞭だった。

「相談したからだ。お前が、俺に」

 泰介は葵の右手を締め上げていた手の強さに今更気づいたように目を見開き、ばつの悪そうな顔で手を離した。手首は真っ赤になっていたが、葵はやはり何も言わず、ただ涙だけが頬を一筋伝い落ちた。

「……さく達と、カラオケ行くんだろ? だから……行かないって決めたって思ったんだぞ」

 ぼそりと泰介が言うと、葵は涙を手の甲で拭いながら「うん」と答えた。

「迷ってたの。泰介に、話聞いてもらって。……止められて。でも、本当にそれでいいのかなって、私」

「行くな」

「……」

「お前だけの問題じゃなくなる。だから、絶対行くな」

 葵の顔が、悲しみで歪む。だが泰介の言葉に迷いはなかった。

「中学の終わりくらいに、お前の我儘に一回付き合わされた事あっただろ」

「……うん」

「あれ、やっぱ行かせるんじゃなかったって、今でも思ってるんだからな。今回のこれは、泣いたって認めねえからな!」

 泰介は言うだけ言うと、葵の手から紙片をぱっと奪い取った。

 一瞬の手の動きだった。あ、と葵が唖然とした表情でそれを見ている。

「預かる。旅行終わるまで絶対返さねーぞ」

「……あ、えっ?」

 ようやく取られた事に対する認識が追いついたのか、葵は目が覚めたような表情で泰介に奪われた紙片を見た。

「や、ちょっと泰介……っ」

「お前、せっかくの旅行だから楽しむとか言ってたじゃん」

 泰介は紙片を乱暴に丸めてジャージのポケットへ捻じ込む。葵の物だろうとお構いなしだ。それに元々セロハンテープの継ぎ当てだらけで、とても見れた代物ではない。ポケットの底で、紙片が潰れる音がした。

「旅行楽しむのにこんなの要らねえよ。捨てるのだけは勘弁しといてやるから、旅行中は忘れろ」

「……旅行の、次の日なのに?」

「……どうしても行くんだったら。条件がある」

 泰介が葵を睨んだ。

 そして、言った。

「俺を同席させろ」

 葵が息を呑んだ。

「近くの席から見てるとか、途中まで一緒についてくとか、そういうのじゃなくて。同じテーブルまで俺が行っていいなら、許す」

「な……なんで……」

「相手、ろくでなしじゃん」

 泰介は言葉を選ばなかった。

「喧嘩慣れしてないお前じゃ相手にならないんだよ。言いくるめられて同情させられて終わるに決まってる。それに危ないかもしれないだろ。それ分かって行くって言ってんのか? どうせ今回も、蓮香さんに秘密だろ。――俺か、蓮香さん、それかお前の父親か。最低でも一人選べ。……無理なら諦めろ。場所と時間、俺だって知ってるんだからな。先に行って邪魔してやる」

 滅茶苦茶な要求だったが、泰介としては完全に正気の上での発言だった。その感情を、泰介はしっかり覚えている。

 葵一人で、行動させるわけにはいかない。どうしてもそれだけは許せなかった。

 泰介の顔には本当に真剣さと純粋な怒りだけが浮いていて、今も尚葵に対して反対の姿勢を貫いているのが明白だ。

 葵はそんな泰介の台詞を、吟味するかのように沈黙した。葵では頼りないと断言し、しかも家族を差し置いて同席を要求しているのだから、何か言い返されても仕方がないだろう。だが葵は覚悟を決めたような目で、顔を上げた。

「……泰介」

 改まった口調で言って、葵は頭を下げてきた。

「旅行の次の日のお休み。私と一緒に、萩宮の喫茶店に行って下さい」

 その台詞にどんな台詞を返すか、それを知っている泰介は、ようやく不機嫌さを少しだけ解いて笑うと、ぽんと葵の頭を掴み、髪を乱暴に撫でた。

「ドタキャン、許すからな。嫌になったらいつでも言えよ」

「……うん」

「あと、さく達との約束、まだ断らないでおいてやれ。あいつら何も知らねえけど、ドタキャンくらい許してくれるだろ」

「……ありがとう」

 顔を上げた葵が、乱れた髪を掻き揚げながら笑った。涙は止まっていて、そこにいるのはもういつもの葵だった。

「ねえ。泰介。泣いたって分かっちゃうような顔、してる?」

「全然分かんねえから気にすんな。さくは鈍いから気づかないだろ」

 泰介は一瞥すると、ぶっきらぼうに言った。それを聞いた葵が、淡く笑う。

「……ごめんね」

「うん?」

「相談、一回のってくれたのに。それでも迷っちゃって。こんなこと」

「あれで納得してないの分かってたし。別に」

 泰介はそう言うと、居心地悪そうに視線を斜め下へと彷徨わせ、ぼそりと「手、ごめん」と言った。

「……え、なんて?」

 葵はきょとんとしている。泰介の顔が赤くなった。

「……だから! 手! ごめんっつったんだよ! 二回も言わせんな!」

 怒鳴り声がラウンジに響き、一層唖然とした葵は「あ。ああ」と緩慢に反応し、手首を見下ろして笑った。軽くジャージの裾を引いて、隠すような仕草をする。

「別に痛くないから。そんなの気にしなくていいのに」

 真っ赤になった肌を見た泰介としては聞き入れられない強がりだったが、かといってこれ以上拘泥するのも気恥ずかしかったのか、黙った。

 結局、くるりと踵を返して自販機に直行すると、ポケットへ直に入れていた五百円玉をぶち込んで、イチゴミルクのパックと牛乳を買う。そしてぽかんとしている葵へ甘ったるい飲料の方を突き出して「あてとけ」と強引に押し付けた。

「……」

 葵が俯いた。受け取って「ありがと」と呟く。

 こちらも顔を見れなかったので、当時は相手がどういう表情をしているのか分からなかった。だが、ソファに座ったままそれらを見た泰介は、この場から逃げ出したくて堪らなくなっていた。

 自分の言動全てが気恥ずかしく、羞恥心で人間は死ねるのではないかと半ば以上本気で思った瞬間だった。これほど破壊力のある記憶を曖昧にしか覚えていなかった事自体がショックだった上に、実際に再生されると凄まじい抵抗と羞恥で爆発しそうになる。

 だが、これが普通の反応ではないかと泰介は思う。

 あの時の仁科は、隣で過去を見る泰介の事を、どんな気持ちで見ていたのだろう。

 寡黙に佇む同級生の姿を思い出した、まさにそのタイミングでそれは起こった。


「センセー、吉野君が修学旅行で羽目を外して、女子を襲ってまーす」


「……はあ!?」

 泰介が凄まじい勢いで振り返った。

 オレンジ色の髪の青年が口の端だけで笑い、ラウンジへ悠々と歩いてくる。そんなふざけた頭をした御崎川の生徒を、泰介は一人しか知らない。状況が楽観を許さないものだと分かっていても、殺意が生まれた瞬間だった。

「仁科ぁぁっ!」

 だがそんな現状を知る由もない泰介は、顔色を変えて抗議の叫びを上げていた。葵は声を立てて笑っている。

 髪を襟足に流した仁科要平は、泰介の背後にいる葵へ目を留めると薄く笑った。風呂上りだからだろうか、仁科の髪がいつもより長い気がする。何にも頓着していない風に見えながら、普段の髪は一応セットされているらしい。

「佐伯じゃん。何してんのこんなとこで」

「飲み物買いに。でも泰介が奢ってくれた。仁科こそどしたの?」

「吉野が? へーえ?」

 あ、馬鹿、と思ったがもう遅い。仁科は葵の質問には答えず、泰介に揶揄の目を向けてくる。挑発と受け取った泰介は、「こっち見んな」と暴言を吐いた。

「いや、やっぱ旅行で羽目外してんのかなって」

「お前うるせえよ。何しに来たんだよ」

「飲み物買いに」

 仁科はようやく最初の質問に答えると、ポケットから硬貨を取り出して自販機に投入した。仁科の買ったものを見て、泰介が思わずと言った様子で言った。

「おい仁科。お前は牛乳なんて飲まなくてもいいだろ。なんでしれっと牛乳買ってんだよ。生意気だぞ」

「……佐伯、こいつ何言ってんの」

「まあまあ」

 葵が仲裁に入り、とりなすように笑う。

「仁科、なんか久しぶりだよね。今日全然話さなかったもん」

「久しぶりって、何が」

 仁科は可笑しそうに笑った。

「昨日学校で話しただろ」

「だって、今日ほとんどいないようなものだったじゃない」

 葵は可笑しな事を言ったとは思っていないらしく、頬を膨らませてむくれた。すると泰介の方もすっかり忘れていた文句を思い出したのか、同調するように言った。

「そうだ。お前も一緒に朝待ち合わせって訊いてたから一回御崎南で降りたのに、いねーじゃん。あれの所為で余計に遅刻しただろ」

「泰介ってば。もういいでしょ。どっちにしたって大遅刻だったんだから」

 葵が泰介の前に回り込み、少し睨む。

「ああ。悪かったな」

 だが意外にも、仁科はあっさりと泰介に謝った。

 そして同じくらいにあっさりとした声音で、

「でも、俺、いない方がよかっただろ」

 そう、続けた。

「……」

 泰介は思わず黙ったが、葵は黙らなかった。

「気にしないで、よかったのに」

「なんでお前はそういう顔するかな。気にしてるのは俺じゃなくて、佐伯だろ」

「……迷惑、だった?」

「いや」

 仁科は首を横に振る。そして、やはり薄く笑った。

「おかげで京都に来れたし。じゃなかったら多分、旅行来てなかった。怠くて」

「……もう、怠いとか言わない」

 葵はようやく微笑むと、泰介を振り返った。

「やっぱり、久しぶりだよね。三人」

 泰介は返答に困ったのだろう、持ちっぱなしだった牛乳パックにストローを突き刺して、黙殺の姿勢を取っていた。葵はそんな泰介の心を見透かしてか、笑った。

「まあ、今までは……狭山だっけ。あいついたし。そうなるな」

 沈黙する泰介をよそに、仁科が葵にそう答える。その言葉に葵は悲しげな目をしたが、「ねえ、仁科は明日どこら辺を回るの? 私たちとは来ないんでしょ?」と話題を変えた。

「ん。寺でも巡るつもり」

「いいね」

 葵の顔がほころんだ。

「皆お寺にあんまり関心ないみたいだから、初めてそういう風に聞いたかも。京都らしくていいね」

「寺ぁ? 仁科が? 何だそれ。くそ似合わねえ」

「泰介!」

 葵が泰介を睨むが、聞いた仁科は笑っていた。どうやら自覚があるらしい。

「……」

 泰介はそんな三人を無言でソファから見上げていたが、やがて『修学旅行』について書いたルーズリーフを手に取ると、シャーペンでさらに追記した。

 ――修学旅行前。

 ――葵から相談。

 ――手紙。

 やはり日付が何日の事なのか思い出せない。だがこれは記憶の混濁などではなく、単なる度忘れだと知っていた。

 葵の手紙が何なのか、何を泰介が憤っているのか。そんな事は、〝ゲーム〟開始時から知っている。

 日付は多分、修学旅行の三日ほど前だろう。

 つまり、あの手紙にまつわる会話の記憶までは、泰介の記憶は確かなのだ。

 泰介は、ラウンジで会話する三人へと視線を戻す。

 葵がこの時言った久しぶりという言葉が、どれほど的を射たものなのか。それを今の泰介ほどよく分かる者はここにはいないだろう。言いようのない歯痒さが喉元まで込み上げて、泰介は拳を握り込んだ。

「じゃ、そろそろ部屋戻ろっかな。部屋の子待たせちゃってるかも」

 葵がそう口にしたのが、解散の合図だった。泰介と仁科がてんでに頷き、エレベーターの方へ皆で歩く。

 ただし、女子と男子では乗るエレベーターが違った。二つあるうちの右側が五階まで行くエレベーターで、もう一方は三階止まりだ。葵は両方のエレベーターを呼び出して、先に到着した五階行きの扉が開いたのを見ると、泰介と仁科を振り返って微笑んだ。

「おやすみ」

「ん」

「また明日」

「ああ。おやすみ」

 手を振った葵を乗せて扉が閉まると、同時に、チン、と軽い音がして、もう一方のエレベーターも到着した。

 泰介と仁科は二人でそこへ乗り込んだが、不意に泰介が「あ、やべ。タオル」と言って、ぱっとエレベーターから降りた。

「忘れ物か?」

 特に興味もなさそうに訊く仁科に「扉、まだ閉めんなよ!」とだけ言い残して、泰介はソファへと走ってくる。

 吉野泰介の元へ、戻ってくる。

 その時、仁科が何事かをエレベーターから呟いた。

 だが泰介はソファの端に引っ掛かったタオルを拾う途中で、その言葉に注意を払わなかった。それでも仁科が何かを言ったのは分かったので、泰介は振り返り様に叫ぶ。

「なんか言ったか?」

 しん、とラウンジに沈黙が降りた。

「?」

 泰介は訝しそうにしたが、曲がりなりにも仁科を待たせているので、特に拘泥せずにエレベーターへと引き返していく。

「なあ、お前俺に何か言った?」

「空耳だろ」

 仁科は素っ気なく言った。そして退屈そうな表情を一切変えずにボタンを操作して、扉が閉まる。

 二人の姿が、視界から消えていく。

 それを、見送りながら。


 泰介は鞄に荷物を乱暴に押し込むと、立ち上がっていた。


 エレベーターの上昇を示すランプがオレンジ色に明滅し、上へ上へと昇っていく。それを視界の端に捉えながら、足は既に階段を目指してタイルを強く蹴っていた。鞄が激しく揺れて、金属バットが腹を打つ。

 追いかけなければならなかった。今。仁科を。

 泰介は非常口を示すランプが煌々と緑色に光る薄暗い廊下を疾走し、階段を数段飛ばしで駆け上がる。踊り場を抜け、二階に降り立つ。階段を踏みしめる荒々しい音がかんかんかんと反響し、その余韻が耳朶を打つ。三階まであっという間に上りつめた泰介は、すぐさま廊下へ飛び出した。

 ――仁科!

 何が自分をここまで急き立てているのか。泰介は全力で走りながら、その実全く分かっていなかった。

 だが、泰介は見てしまった。

 エレベーターに乗った泰介が、忘れ物に気づいた時。身を捩り、背後へ向けて一歩踏み出したあの瞬間に、ジャージのズボンのポケットから零れ落ちたものに、泰介は気づいていた。

 仁科の骨ばった手が、それを拾う。

 よしの。

 おまえ、なにか、おとし

 そこで止まる、唇の動き。

 泰介がソファに落ちたタオルを回収している間に、仁科はそれを、開いていた。

 長い指が、広げた紙。一度ばらばらに細かく千切ったものを、不器用ながらもセロハンテープで貼り合わせた、継ぎ接ぎだらけの痛々しい紙片。

 葵の持つ、手紙。

 蓮香が、泰介が、再三捨てろと叫んだ忌まわしい手紙。

 それが、仁科の手に渡っていた。

 思い出す。

 泰介は結局あれを、葵へ返せたのか?

 覚えている。知っている。

 できなかった。

 返せなかったのだ。

 帰り際にいくら探しても出てこない手紙に苛立ちながら、同時に失くした事をどこかで喜ぶ自分を感じた。

 葵は泰介のそんな心の動きにすぐ気づき、本当は捨てたんじゃないの? と少しからかうように笑っていた。そんな余裕が葵の中に生まれていた事も、多分、嬉しかったのだと思う。

 だが。

 現実は。

 ――仁科、お前は……!

 部屋番号が打ち付けられた扉を幾つも通り過ぎる。廊下を行き交う生徒達の顔は皆一様に楽しそうで、旅行という非日常から浮き立つ空気は軽かった。真横を必死の形相で駆け抜けていく泰介は、誰にも顧みられずに床を蹴る。焦りで呼吸が乱れた。心臓が、早鐘を打つ。

 今追いつかなくてはならなかった。

 今追いつけなかったら、何かが壊れる気がした。

 仁科があの手紙を読んだところで、何にもならないと分かっている。意味など、分からないと。

 それなのに、胸騒ぎが止まらなかった。

 気づけば全身に、あの時の悪寒が戻っている。頭の奥が、微かに軋んだ。

「なんでだよ」

 苦痛を噛み殺し、乱れ始めた呼吸を無視し、走りながら泰介は叫んだ。


「出て来い! 仁科ああああぁぁあ!」


 瞬間。

 床を蹴る足が、ふわりと浮いた。

 身体が、傾ぐ。まるでスローモーションのように自分の身体が前のめりになっていく。風を切って走っていたはずなのに、その風がひどく緩やかに学ランを揺らし、髪を撫でた。泰介はその瞬間になって初めて、周りに生徒の影がなくなっている事に気づく。

 前方に、目を凝らす。

 廊下に、果てがない。ただただ暗い淀みが目の前にあるだけで、そこには突き当りの壁さえ存在しなかった。唐突に始まった緩やかな傾斜の先に、闇がぽっかりと口を開けている。前だけを向いて走っていたのに、何故こんな事になったのか本気で分からなかった。

 そして気づいた時には遅かった。

 ウサギを追ったアリスが落ちるように、泰介の身体は暗がりの中へ落ちていく。

 斜に構えた仁科の笑みが、泰介の脳裏から離れなかった。

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