第23話 幕間・葵と仁科
初めて言葉を交わした。
そう認識した時にはきっと、既に二度目の会話だった。
御崎川高校三階の、廊下の真ん中より少し端。自分達のクラスを出たところで、急に呼び止められた。
「仁科くん」
黒髪を背中に流したその少女の顔は、記憶の片隅に残っていた。自分がクラスメイトの顔を覚えているなど、珍しい事だと思う。
佐伯葵。
同じクラスに体育会系の運動馬鹿が一人いて、その男子生徒の幼馴染だという少女だ。クラスメイトに興味のない仁科がそんな知識を持っているのは、きっと彼女がその体育馬鹿の名前を、呼び捨てにしているのを聞いた所為だ。
男子の名を、呼び捨てにするような女子には見えなかったのだ。葵はそこそこ活発なようだが、控えめな雰囲気の少女だ。第一印象を裏切って、それが少し意外だった。葵は振り返った仁科へ、ふわりと穏やかに笑った。
「これ、忘れ物。仁科くんのでしょ」
そう言って差し出された物に、仁科は驚く。先日失くした数学のノートだった。
「ああ」
間の抜けた声が喉から洩れて、ノートと葵の顔とを見比べた。
随分久しぶりに、学校で人に話しかけられた。途絶えた人間関係が、仁科に会話を忘れさせたのかもしれない。
ひどく緩慢な、態度だったと思う。
葵に礼を言うという、それだけの行為さえ咄嗟にはできなかった。
「……あれ? えっ、違った?」
だが葵はどうやら違う受け取り方をしたらしい。一度はこちらへ差し出したノートを見下ろして、おろおろと名前を確認し始めた。そしてほっとしたように愁眉を開き、だがやはり不安そうな表情になると、その顔のまま仁科を見上げた。
「えと……? 仁科くんのだよね? はい」
そして受け取ろうとしなかった仁科へ、もう一度ノートを差し出した。
思わず、小さく吹き出してしまった。
この短い間だけで、こんなにもくるくると変わる表情を拝めるとは思わなかった。それが何だか可笑しくて、仁科は葵の言葉に答える事もできずに、口元を手で覆う。学校でこれだけ笑ったのも、随分久しぶりの事だと思った。
「な、なんで笑うの? やだ」
葵は自分の行動が何故か笑われたと気づくと、顔を赤くして抗議の声を上げた。それさえ仁科には可笑しく思えて、しばらく笑いが止まらなかった。だがせっかくの健気な善意を馬鹿にしているようで、これでは感じが悪いだろう。仁科は何とか笑いを収め、「悪い」と謝ってから正直に言った。
「顔。あんまりころころ変わるから、面白くて」
「もう、何それ」
葵は、呆れと羞恥の入り混じった顔で頬を膨らませた。やはりこいつは優しいのだろう、と仁科は思う。ノートを届けてくれた相手にこんな不躾な態度を取れば、普通嫌われるだろうし会話など成立しない。
それに、やはり第一印象よりは活発な印象を持った。この高校で問題児扱いされている仁科に物怖じした様子が全くない。もっと引っ込み思案かと思っていたので、それが裏切られたような印象を、またしても持つ。
噂や又聞きばかりで、仁科はこのクラスの事を何も知らないのだ。そんな風に、気づかされてしまう。
「ノート、さんきゅ。どこにあった?」
特に会話を続けようという意思があったわけではないが、どこで落としたかくらいは訊いておこうと思った。
葵は、すぐに答えた。
「図書室」
やはりか、と仁科は納得する。真っ先に探したが図書室だったが、仁科が行った時にはなかった。行き違いで葵が回収したのだろう。結果的にノートが手元に戻ってきたので、経緯はもうどうでもよかった。
だが、葵が続けた言葉で、仁科は動きを止めた。
「仁科くん、一緒に本借りてたよね?」
「は?」
「ノートと一緒にあったの。図書室の先生がそっちは預かるって言ってたよ。借りた本人以外の人が持ち出しちゃうのは駄目みたい。仁科くんに取りに来てほしいって伝言頼まれたの」
葵は少しだけ申し訳なさそうに、ごめんね、と謝った。
「ノートと別々になっちゃってごめんね。何だかややこしくしたみたい。本はカウンターに行ったら、先生が出してくれるから」
その時教室の中から、「おい、葵!」と男子の声が聞こえた。
すぐに気づく。体育馬鹿だ。
「あ、呼ばれちゃった」
葵は仁科に微笑むと、「じゃあ」とだけ言い残し、声の主の方へ駆けていった。
クラスに満ちる喧騒の中で、短髪の男子生徒が眉を顰めている。そして憮然と唇を尖らせると、到着した葵に早速文句を言っていた。
「ほら、次の英語の宿題のやつ、答え合わせしたいって言ったのお前じゃん。時間なくなるぞ」
「分かってるもん。泰介ってば、そんなに怒んないでよね」
むくれながらも、葵は楽しそうに笑っていた。体育馬鹿の方も根っから怒っているわけではないらしい。その目線は既にノートへ落ちていて、葵と何事かを話している。そんな二人の元へさらに二人ほどクラスメイトが近寄ってきて、答え合わせの輪が広がる。賑やかさが、少し増した。その輪の中で、葵が笑っている。
仁科はそんな情景を、渡されたノートを手にしたまま、ただ眺めていた。
佐伯葵と頻繁に話すようになるきっかけは、実に平凡でありふれていて、全く特別なものではない。
だが、吉野泰介と佐伯葵を遠く眺めたこの休み時間に、仁科は既視感を覚え、その正体に思い至るや否や、自分の表情が複雑に陰るのを自覚した。
本当に、可笑しな話だと思う。
自分は葵に、何を見たのだろう、と。
*
何故葵の事を思い出したのか、仁科には分からなかった。
侑の事を考えて、消えた泰介の事を考えて、結局最後は、葵の事を考えている。
目前に広がる過去へ、倦み疲れたのだろうか。
それともただ、安否が気がかりなだけだろうか。
吉野泰介が、佐伯葵を気遣うように?
――分からない。
ただ、ここに一人でいるという事が途方もない空虚感を仁科に齎し、心を苛んだ。茜色の校舎の中へ、底冷えするような秋風が吹き込む。握り締めた手が、震えた。
ここは、やはり寒い。
――仁科っ。
自分を呼ぶ声。
佐伯葵の、声。
明るく笑う葵の声が耳に残って、それがどうしても離れなかった。
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