第22話 折り合いと、別離

「宮崎さんはヤバイって」

 六限目終了後、教室を出た仁科を呼び止めたのは塩谷だった。

「俺、家の手伝いあるから」

 軽い苛立ちを覚えながら、仁科は答えた。というのも、塩谷を振り返った拍子にすれ違った生徒とぶつかったのだ。こちらは謝ろうとしたが、相手は相手はそそくさと去っていった。

「いや、急に声かけて悪かったけど、それって僕の所為なの?」

 現場を見ている塩谷には、仁科が腹を立てたように見えたのだろう。「別にお前の所為にしたつもりはない」と、仁科は手短に返して踵を返す。

「あ、待ってよ仁科! 僕まだ何も話してないよ」

 待って、という言葉が何となく耳に障った。

 そういえば侑も、仁科に言った。待って。待って、仁科。

 仁科はいつも、追いかけられてばかりいる。

「忠告してるんだから、ちゃんと聞いてよ。仁科、宮崎さんとどんどん噂になってるんだよ?」

「へーえ?」

 顔だけで振り返り、笑ってやった。

「随分と噂の回り早いんだな。萩宮中二年の情報網ってこえーよ」

「暢気だなあ」

「お前だって知ってるだろ。俺と宮崎は昨日初めて会ったんだ。たかが二日の付き合いだ。それだけでぎゃあぎゃあ騒げるなんて、ここは暇人だらけだな」

「仁科!」

 塩谷はまだ仁科を帰らせる気がないらしい。温厚な同級生にしては珍しく、口調が厳しかった。

「宮崎さんって、かなりの有名人だよ。ちょっとだって話したら、宮崎さんがおかしいのだって分かったはずだよ?」

「おかしい」

 台詞をなぞって呟くと、うんうんと塩谷が頷いた。

「会話、成立した? 誰も話にならなくて、うんざりしてる。精神病院通ってるって噂もあるよ」

「……塩谷」

「何?」

 お前、何が言いたい? そう訊くはずだった。だが仁科は気づけば、全く関係のない事を訊いていた。

「お前、俺の友達なのか?」

「え?」

 塩谷は、ぽかんと口を開けて固まった。

 驚いて当然だ。あまりに脈絡がなさ過ぎる。

 だがそれには、質問をした仁科自身も驚いていた。

 何故仁科は、それを塩谷に訊いたのだろう。そもそもこんな質問を自分が他者に投げかけたという事自体が、仁科にとって驚きだった。訊いた所で何にもならない、くだらない質問のはずなのに。答えを得たからといって何かが変わるわけでもない。ただ無為なだけの質問なのに。

「そりゃ、友達でしょう」

 驚きから立ち直った塩谷からは、あっさりとそう答えられた。その答えを得てもやはり、仁科の中で何かが変わったわけではない。塩谷の答えは仁科にとって、訊くまでもないものだからだ。ああやっぱりかという感慨だけが、胸にぽつんと落ちた。

「……そうか」とだけを返事をして、仁科は塩谷に背を向けた。律義に答えてくれた塩谷には悪いが、これ以上話していたら、さらに余計な言葉を連ねてしまいそうだった。

 その時、声が背後から聞こえた。


「仁科君、宮崎侑に絡まれてるって本当なんだ」


 背を向けかけた姿勢のまま、仁科は止まる。

 今の声は、女子生徒のものだ。塩谷を見下ろすと、目が合った同級生は怯えの顔で固まった。こんな顔は本来名を挙げられた仁科がすべきものだろうに、お人よしな奴だと思う。そんな場違いな感想を持てるほど、今の仁科は冷静だった。

「本当だよぉ。昨日も階段で見たって噂聞いてたけど、それだって本当かもよ。今朝宮崎さんが仁科君追っかけてるの、あたし、見ちゃった」

 さっき出たばかりの教室から、その囁きは聞こえていた。密やかな声には好奇心が漲っている。それが誰の声なのか、今の仁科には分かっていた。確か、左奈田という名の女子生徒。思い出せてすっきりしたが、思い出す必要もなかったと思う。

「宮崎さんって話した事ないなあ。クラス一緒になった事ないし」

「話さない方がいいよ。あいつ、頭おかしいもん」

 箒を持った四・五人の人影が、曇り硝子に映っていた。薄い硝子一枚を隔てた向こうで、宮崎侑という一人の個人が暴かれていく。捕まえた虫の腹を抉って中身を引き摺り出すような、小さな子供がやるような残虐行為にどこか似ていた。塩谷が首を竦めながら、「だから言ったんだよ、噂になっててヤバいって。こういう女子、すごく怖いんだよ」と呟いた。

「ねえ、知ってる? 宮崎さんね、やってるんだって」

「あ、聞いたことある。それ」

「援助交際」

「ほんとに?」

「何考えてるのか分かんないのも納得だよね」

「あははっ、分かったらヤバイでしょ? 援交してるやつの事なんか!」

 あははははは。ははははははは。

 黒板に爪を立てたような、不快な音が溢れ出した。潮騒のようなその響きに、身体のどこかがざわざわした。チェシャ猫のような笑い方が、何故だか脳裏にちらついた。仁科。呼んでいる。待ってよ、仁科。呼んで、ふざけた事を言っている。ぱちんとシャボン玉が弾けるように、唐突に自分の声が脳裏に響いた。

 ――嘘だな。

「……」

 振り回されて、ばかりだった。

 妄言に振り回され、戯れに連れ回され、迷惑ばかりを被った。侑が仁科に向けた言葉の中に「嘘」ではなく「本当」の事など、果たして存在しただろうか。あの言葉の海の中に、たとえ何か一つでも、確かなものはあっただろうか。

 まだ、それは分からない。

 分からなかったが。

「わ、仁科っ」

 塩谷が慌てたように小声で叫んだ。その制止を無視して仁科は歩き、目前に迫った教室の扉を、力任せに引いた。

 ばしんっ、と乾いた音が鳴った。教室の喧騒が一掃され、しん、と嘘のように静まり返る。生徒達が何事かと振り返り、硬直した。窓からの風が、前を留めていない仁科のブレザーを揺らす。伸ばした黒髪が、頬にかかった。それを直そうともせずに、仁科は左奈田を中心とする女子の群れをじっと見た。左奈田の顔が、青ざめていくのが分かった。取り巻き達は、怯えの顔で立ち竦んだ。

 十秒にも満たない見つめ合いの末に、仁科は女子生徒達からふいっと視線を外した。その姿はまるで、全ての興味を失ったかのように周りの目には映っただろう。実際、興味などなかった。

 歩き出した途端、棒立ちになっている塩谷とぶつかりかけた。見下ろすと、青い顔をしている。さっきの女子生徒達に似ている顔だ。怖がっているのだ。

 笑いたくなった。

「仁科……」

「お節介」

 淡々と言って、口の端だけで笑ってやった。そのまま塩谷を置いて歩き出す。

 やはり、早く帰るべきだった。立ち聞きなどせずに、塩谷を置いて帰れば良かった。それをせずに衝動に身を任せたから、こんな事になってしまった。

 熱っぽいこの感触に、今以上に取り込まれたら。そうなったら最後、間違いなく自分は無様を晒す。それは仁科にとって、自分が死んだも同然だった。首を横へ振って、仁科は初めて経験するよく分からない感情を徹底的に拒絶した。

 教室は、沈黙を守ったままだ。塩谷は追ってこなかった。仁科は帰路を、急ごうとした。

 そして、足を止めた。

 行く手を阻むように立つ、女子生徒に気づいたからだ。

「宮崎……」

「やっとお前呼ばわりを卒業できたわけね。私」

 距離にして二メートルもない。そんな位置に宮崎侑は立っていた。立って、嫣然と微笑んでいる。その表情を、毒気を抜かれて仁科は見返す。己の口から、ふっと小さな吐息が漏れた。

「あれ、仁科。なんで笑ってるの?」

「俺、笑ったか?」

「うん。ちょっとだけ。笑ってるか笑ってないか判断できない、超微妙な顔で」

「ずっと思ってたけど、お前、かなり失礼だな」

 仁科が嘆息すると、「またお前に戻った」と侑は頬を膨らませた。

「ねえ、仁科、なんで笑ったの?」

 もう一度訊いてくる侑に答えないまま、仁科は歩き始めた。自然、侑に近づく形になる。みるみる距離は縮まって、二人は廊下ですれ違う。すると侑は当然のように、仁科の隣を歩き始めた。仁科はそれを、昨日のように鬱陶しく思わなかった。全く思わなかったかと訊かれたらそれは確実に嘘になるが、だからといって、振り切ってしまうほどではない。

「大したもんだな。分かってるんだろ? よくあの状況で笑えるな」

 仁科は廊下を歩き、前を見据えたまま、言った。

 きっとにやにや笑っているのだろう。そう思って横目で見ると、案の定チャシャ猫のような顔で笑っていた。

「どういう状況か、ほんとに分かってんの?」

「当然よ。あの高い声の子、自分の声の大きさ把握してないんじゃない? それとも聞こえるように言ってたのかしら」

「ここに来たのは、偶然?」

「偶然も何も、私の教室仁科の隣なんだから。あれくらいの声、聞こえるわよ」

 あっけらかんとした侑の言葉を聞きながら、仁科は思う。やるじゃないか、と。自然と、笑みが零れた。今度ははっきりと自覚があった。

 実に他愛のない事だ。自分の陰口を受け入れた。文章にすればたったの一行で片が付く。だが他の誰にとって他愛のない出来事でも、仁科にはその行為が、波長良く響いた。

「お前は俺のストーカーで、神出鬼没の変人で、滅茶苦茶気持ち悪い奴だけど、さっきの態度は悪くなかったって思うよ」

「だから笑ったの?」

 その問いかけに、仁科はきちんとした返事をしなかった。

 ただ、侑が仁科に対してよくやるような、どこか噛み合っていないピントのずれた返事を、答えの代わりに寄越したのだった。

「さっきの、いい。気に入った」


     *


 仁科要平は廊下に立って、じっと自分を見下ろしていた。

 正確には、二人。まだ黒い髪をしている自分と、明るい髪色の女子生徒。並んで学校を出て門へ向かう二人を、校舎の窓から目で追った。

「追わなくていいのか?」

 吉野泰介が、斜め後ろから声を掛けてくる。今まで寡黙に佇んでいた同級生の声は、長い間喉を使わなかった所為かしゃがれていた。

「いいと思う」

 仁科は答えた。実際、仁科達はろくに移動をしていなかった。中学生の自分が下校すれば、舞台は自然と家へ移る。

 それはさながら、劇か映画のようだった。無駄がなく滑らかで、そのくせ人の感情や泥臭さだけは、確固たる存在感を放って残り、如実に何かを訴えてくる。

「追わなくても、多分見せられる。だから無理に追う必要はないと思う」

「……そうか」

 泰介はまた、それきり黙りこんだ。

 そうなると、周りが急速に静まり返っていくのを仁科は感じた。

 喧騒も、風の音も、人の気配さえも、潮が引くように消えていく。ついには廊下を歩く生徒達の姿まで、電灯のスイッチをオフにしたかのように数をぽつぽつ減らし出した。あっという間にそこは、がらんどうの空間に成り果てた。

 その不可解な現象に、驚かされる事はもうなかった。仁科は無感動に現実を受け入れて、次に起こる事を待つ。

 案の定、動きがあった。

『――し、な』

 ざ、とスピーカーが唸る。

『に、し、な……』

 ああ、と思った。甲高い、その声は。中学二年の秋に聞き、高校二年の秋でもスピーカー越しに聞き、そしてさっきまで目の前で聞いていた、あの声だ。

『どうして』

 声は、言った。仁科は、答えない。

『どうしてよ』

 声は、言った。仁科は、答えなかった。

 答えられるわけがないのだ。何を言えばいいのか、何を言うべきだったのか。その答えを、十七歳になった今でさえ仁科は掴めていない。いくら成長しても、大人に近づいても、それは仁科にとって分からないままなのだ。

 だから、仁科は言う。

「分からないさ。そんなの」

 仁科は、言う。もう一度。

「分からないんだ。俺には」

 これは、束縛だ。仁科はまだ、ここへ囚われている。今もこの場所へ雁字搦めに繋がれて、床に転がされたままなのだ。

『……。分からないの?』

 声が突然、凛とした張りを帯びた。


『それなら――分かるまで、返してあげない』


 その言葉にただならぬものを感じ、ばっと仁科は振り返った。

 理屈ではなかった。ただ、背後の人物が気に掛かった。

 そして、絶句する。

 そこにいたはずの泰介の姿が、忽然と消えていた。

 哄笑が上がり、ふっとその声が途切れた瞬間、わっと喧騒が溢れ出した。

 気付くと、放課後の風景が復元していた。生徒達が廊下を行き交い、教室の傍には塩谷がまだ立っている。教室内では佐奈田が錯乱していて、泣き出す女子生徒も出始めた。侑の姿は、校門の向こうへ消えている。

 先程と、何一つ変わらない光景だった。

 映像の隙間に差し込まれた歪みは、この場の誰にも感知できない。

 ここにいる、十七歳の仁科要平を除いて、誰も。

「吉野……」

 呼びかけた声も、消えた同級生ものと同様に、ひどく掠れたものだった。

 悪趣味な悲劇の第二幕が、始まろうとしていた。

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