第7話 ゲーム・スタート
「この場所に呼び出された人物に、あいつは加えなくていい」
仁科は低い声でそう言った。
「あいつ……って、まさか、さっきの」
「そうだ。この校舎に来る前に見たろ。廊下歩いてった奴」
泰介の言葉を受けて、仁科が首肯する。
――仁科要平が、ようやく話す気になった。
やっとここまで漕ぎ着けたものの、何から訊くべきか泰介は判断に困った。仁科は進んで喋ってくれるわけではないようで、訊かれたら答える、というスタンスを取るらしい。最初の台詞を皮切りに、とんと口を利かなくなった。厄介に思ったがデリケートな問題なのだろう。今回ばかりは追及を躊躇った。
――泰介にだって訊かれたくないことくらいあるでしょ? 私にも、あるもん。
葵の言葉を思い出す。その台詞が、鉛のように重い。他の人間の制止ならば、さほど気には留めなかった。だが、葵だった。葵だから駄目だった。
先日、無理に葵から訊き出した相談事を思い出す。気鬱な表情で顔を伏せる幼馴染の顔を思い出し、泰介の心に重い苦渋が滲んだ。
「じゃあ……あいつの名前は?」
「宮崎侑」
仁科は答えた。
宮崎侑。
それが、あの少女の名前なのだ。
「あの子が、宮崎さん」と、葵が戸惑いの表情で思案している。その様子が少し引っかかったが、ともかく今は仁科だ。泰介は質問を重ねた。
「宮崎って子とお前って顔見知りなんだろ? どういう知り合いなんだ?」
「中学が一緒だった」
「はあ? 中学?」
泰介は驚く。仁科の中学時代の知り合いだったのか。では何故、他校の女子が早朝の御崎川高校にいるのかと疑問は余計に深まったが、こればかりは仁科に訊いたところで分かるまい。あの時一番驚いていたのは恐らく仁科だ。
「じゃあ、その宮崎って奴が俺ら側の人間じゃない根拠は?」
断定するからには、何か根拠があるはずだ。案の定、仁科は頷いて見せた。
――やはり〝彼女〟は、犯人側の者なのか。
「その根拠は何だ?」
「あいつがあの場にいた事。根拠なんてそれで十分だ」
ばっさり切って捨てられた。
冷徹な響きだった。宮崎侑が仁科の中で、特別な存在感を持っていると推し量るには、十分過ぎる声だった。これからどういう切り口で質問をすべきか、泰介の心に迷いが生じる。そうやって逡巡していると、葵が口を挟んだ。
「それが、根拠?」
どことなく淡々とした声だった。感情をあえて抑えて事務的な態度に努めているのだと泰介はすぐに気づく。気づいた瞬間、振り返った葵と目が合った。
任せて。顔に微笑が浮かぶ。何だか哀しい笑みだった。
迷う事など何もなかった。頼んだ、と泰介は目で合図する。葵が再び微笑んで、仁科は苦笑の顔をした。きっとこちらのやり取りに気づいて呆れたのだろう。
「ああ。それで十分だろ。あれが、友好的だと思うか?」
あれ、と言われて泰介は考え込む。正直それは泰介にとって難問だ。泰介は〝彼女〟について知らないのだ。あの微笑が嘘か誠かは判断できない。
ただ――何となくだが、ぞっとした。
「……見えないかも」
葵は言い難そうに、賛同の言葉を口にした。
「大人っぽい子だなって思ったけど、私ちょっと怖かった。あの子は中学生なんだよね? でも顔を見た時、思ったより幼い感じがして意外だったの」
泰介もそれは思った。明るい茶髪と整った容姿が印象的な少女だった。振り向いた一瞬の笑顔だけが第一印象を裏切って、あどけなさを残していた。
「あの格好って学校でだいぶ叩かれたんじゃないかな。
突然挙がった名に気まずさを覚え、泰介は思わず渋面になる。
葵の姉の蓮香なら、泰介もよく知っている。葵の家に上がらせてもらう事もあったので、小学生の頃から何かと世話になっていた。
今でこそ清楚な社会人らしいが、昔はかなり荒れていたと聞いている。
「へえ。……大変だったんだな」
金髪と聞いて何かを察したらしい。含みのある仁科の言葉に、ううん、と葵は首を振った。
「優しいお姉ちゃんだよ? 荒れてた時も口で言うほど不良ってわけじゃなかったし。それに私にはすごく優しいお姉ちゃんだもん。なんで周りがあんなに怒ってたのかよく分かんなかったくらい」
泰介はぎょっとした。そう思える葵が凄いのだ。蓮香の中学時代の写真を見た事があるが、まごうことなきスケバンの姿がそこにあった。金色に脱色した髪と特攻服のインパクトも凄まじく、泰介の記憶に焼き付いている。
「ねえ、仁科。宮崎さんのこと中学が一緒って言ってたけど、友達だったの? どういう知り合い?」
葵の声音が、不意に真剣みを帯びた。てきぱきとして無駄の無い問いかけに、泰介は思わずはっとする。
発言の内容自体は、別に大した事はない。だがそのタイミングは的確で、それでいて物腰は柔らかい。配慮を感じさせる声だった。
「……結構はっきり訊くんだな。そういう言い方は吉野がするもんだと思ってた」
仁科は少しばかり意外そうな顔で言った。葵は「ごめんね」と謝ったが悪びれた様子は見せなかった。
「でも仁科は話してくれるんでしょ? それでも嫌なことはやっぱり黙っててくれていいから」
そんな葵をしばらく仁科は見つめてから、ふっと力の抜けた顔で笑った。
「お手上げだな。降参だ」
「降参してくれるの、ちょっと遅かったんじゃない?」
そんなやり取りを横目に見ながら、泰介は密かに感心していた。仁科は前述の通りの人物なので一匹狼だが、そんな仁科であっても話し相手が一人いる。
その相手こそが葵だった。
心配性で臆病なところのある葵が何故クラスの変人と友人になっているのか。当初クラスメイト達ははらはらと見守っていたが、泰介は周囲ほど驚かなかった。葵なら、と納得できるところがあったのだ。
仁科はそれでも他に友人を作る気がないのか、会話の面子は大概葵と二人か、泰介を交えた三人だ。仁科と泰介の二人、という状況もないではないが、そういった局面に陥った際は大抵身も蓋もない口喧嘩に発展してしまうので、何かと葵が仲裁に入る事が多い。
そんな葵だからこそ、仁科を傷つけずに質問をすることが出来るのだろう。泰介には逆立ちしても出来ない芸当だ。
「宮崎とは、さっきも言ったけど中学が同じだったんだ」
落ち着いた声音で仁科が言う。「そっか」と葵が相槌を打った。
「仁科と中学が一緒ってことは、宮崎さんは今三年生ってことだよね。受験生かあ」
大変だねえ、と葵はしみじみと言う。
だが次に仁科が放った一言が、穏やかな場の空気を一変させた。
「いや、あいつは中学二年だ」
泰介は、一瞬何も考えられなくなった。
計算が、脳裏で狂う。だから単純に仁科が勘違いしているのだと思った。
だが仁科の顔は、嘘をついているようものではなかった。
「ま、待ってよ仁科」
晴れやかさが一転し、困惑気味に葵が言う。
「宮崎さんは今中学生で、その時仁科と同じ学校だったんでしょ? だったら、宮崎さんが中一の時に、仁科が中三だって思ったんだけど……違うの?」
「ああ。違う」
「でも、それじゃおかしいよ。私たち今高二なんだから。中学で同じだとしたら、どう考えてもさっき言ったように」
「でも、違うんだ」
葵の言葉を遮って、仁科は頑なに首を横に振る。
「……おかしいだろ、やっぱり、それは」
泰介も、葵に加勢してそう言った。
仁科の言っている事は滅茶苦茶だ。宮崎侑が今も中学生で、かつ彼女と仁科が同じ中学校にいた時期というのは、侑が一年生で仁科が三年生の時以外ないのだ。葵の言うようにそれ以外はあり得ないし、おかしい。泰介もそう思う。
「あ、まさか。宮崎さんか仁科のどっちかが、もしかして」
「佐伯、ちょっと待て。言っとくが俺、留年はしてないからな。あいつも多分」
葵が全部言い終わる前に、仁科が釘を刺す。泰介はわけが分からなくなった。
「じゃあお前はいつ宮崎と知り合ったんだ?」
何だか、怖くなってきていた。質問せずにはいられないのに、仁科の答えを聞くのが怖い。葵が固唾を呑んで仁科を見守り、泰介もそれに倣って覚悟を決める。仁科は二人分の視線を受けて、ついに唇を開いた。
「……。あいつは」
その瞬間を狙い澄ましたかのように、その音は聞こえた。
ピンポンパンポン――。長く尾を引いて、放送の校内アナウンスが人気のない校舎に響き渡った。
場に満ちていた緊張感が、別のものへと急激に変わった。
はっとして三人は動きを止めた。
「……っ、何っ?」
葵が反射的に天井を見上げ、スピーカーに目を留めた。そこに放送の主がいるわけではないのに、泰介も仁科も釣られてそこを見た。
ぶつ、ぶつん。ざらついた不気味な音が、スピーカー越しに聞こえる。葵が怯えたように身を縮こまらせて後退した。さー……というテレビの砂嵐のような音だけが、沈黙を掻き乱す。やがて三人が見つめる中で、ついにスピーカーは声を上げた。
『……あー、あー、マイクのテスト中。聞こえますか? 私の声』
意味のない第一声は女の声だった。女というより、もっと幼い少女の声。
「だ、誰……っ?」
「しっ!」
声を上げた葵を、仁科が鋭く諌めた。
『敬語って、やっぱり慣れないわ』
声の主の少女は、そんな事を言い出した。口調が、一気に砕けたものに変わる。
『普段の調子で話させてもらうわ。気を悪くしないで。仁科要平と、それから吉野泰介、佐伯葵』
「!」
泰介と葵は思わず顔を見合わせた。「誰なのっ?」と葵が再度叫んだ。泰介は首を振って「分かんねえよ!」と叫び返す。
『なんで名前知ってるのって、驚いたかしら?』
こいつ、誰だ? まず一番に疑問が浮かぶ。瞬間、もしかしてと閃いた。
今、話している少女は、まさか――宮崎侑、なのか……?
黒いスピーカーは少女の声音で含み笑った。
その言葉はひどく場違いで、突拍子もないものだった。
『ねえ皆。私と〝ゲーム〟しない?』
「は?」
「ゲーム?」
葵が呟く。唖然とした表情は、きっと今の泰介と同じ顔だ。
『拒否権はないわよ。今から三人とも、私の〝ゲーム〟に参加してもらう』
「えっ、ちょっと」
困惑した葵がスピーカーと泰介とを交互に見た。そちらに気を取られた時、一陣の風が吹いた。
声も出なかった。驚いて反応が遅れた。黒い学ランの後姿。長身。オレンジ色の髪。それらがみるみる遠ざかっていく。泰介の代わりに葵が叫んだ。
「仁科!?」
仁科が走り出していた。その痩躯はすぐに教室の前を通り過ぎて廊下を曲がり、階段を飛び降りる足音が乱暴に響いた。その音で金縛りが解けたように、泰介の身体も自然と動き出していた。
「待てよっ! 仁科ぁあ!」
叫びながら、泰介は猛然と追い始めた。左右の景色が目まぐるしく流れ去り、風が全身に吹き付ける。廊下を駆け抜けると階段を二段飛ばしで飛び降りて、最後は四段一気に飛んで、踊り場からまた二段飛ばしで跳躍した。背後で葵が何やら必死に叫んでいたが、泰介はその時既に、仁科の背中を見つけていた。
「葵! お前も来い!」
走りながら絶叫した。たとえ振り返っても葵のいる廊下は見えないのだ。それに仁科を見失ってしまう。そうやって焦る間にも放送はまだ続いていた。
『この〝ゲーム〟は、人探しのゲームよ。――どこかに、あなた達をここへ閉じ込めた〝アリス〟がいる』
――アリス?
謎の少女は、わけの分からない事を言い始めた。それを聞きながら泰介は、いつでも追い抜かす事のできる背中に叫んだ。
「仁科ぁ! どこ行くんだよ!」
こちらの怒号に振り向きもせず、仁科もまた叫び返した。
「放送室!」
泰介は、目を見開く。思いがけない言葉だった。
「……でも!」
『〝アリス〟はね、どこかにいるの。さて、どこでしょう?』
がりっと歯を食いしばり、そしてまた怒鳴った。
「でも、場所がわかんねぇよ!」
仁科は黙ったまま走っていたが、ついに観念したのか怒鳴ってきた。
「それなら、俺が分かる!」
「なっ……!」
本当に分からない事だらけだった。放送の主は誰なのか。ここはどこなのか。そして何故仁科は放送室の場所を知っているのか。
だが今は。
「案内しろ!」
泰介が叫ぶと、それに応えるように仁科は走るスピードをぐんと上げた。
『皆には〝アリス〟を探してもらう。誰かが〝アリス〟なの。でもここにいるメンバーに限定はしないわ。あなた達が知り合える全ての人が容疑者。この場にいない誰かって可能性も一応提示しておくけど、あなた達こそがその候補よ。〝アリス〟の男女は問わないわ。野暮なこと訊かないでね。あなた達は、〝アリス〟を探すの』
「あそこだ!」
仁科が走りながら指を指した。その先には『放送室』と書かれたプレートが見える。「ああ!」と泰介は頷くと一気にスピードを上げて仁科を追い越し、扉に全力で近づいた。
『〝ゲーム〟から逃げたって私は別に構わないわよ? でも〝アリス〟を見つけないと後で困るのはあなた達なんだから。――ねえ、アリスが不思議の国から帰ってこれなかったら、どうなると思う?』
扉の前で引き戸に手を掛け、乱暴に開け放った。ばしんっ、と空気を振動させるような音を響かせながら、泰介は室内になだれ込む。
そして、立ち尽くした。
――放送室の機材の前に、一人の少女が立っていた。
豊かな茶髪。振り返って笑う顔に施された化粧。陰鬱に口元を吊らせて笑う、温度を失った白い笑み。夕日の光に照らされた双眸が泰介を捉え、唇からくすりと声が漏れ聞こえた。
泰介が掴みかかろうとした時には、もう全てが遅かった。
少女はすっと踵を返すと、そのまま――正面の窓からの夕日に紛れて、その身体を透かせて、消えた。
「吉野っ」
息を切らせた仁科が放送室に入って来た。そして、只ならぬ様子の泰介に気付いたのか、表情を固まらせる。
「野郎……」
泰介は低く、呟くように言った。
その声に呼応するかのように、くすくすと可笑しそうに笑う声がどこからか聞こえた。もうその声の主はいないのに、声だけがスピーカーから流れている。笑いはどんどん大きくなり、微かな狂気が声に滲み始めた。
ふと、少女の声は、笑うのを唐突にやめて言った。
『名乗るのを忘れていたわ。もう分かってると思うけど、私、宮崎侑よ』
背後で、仁科がぴくりと反応した。泰介は、仁科を振り返る。
「こいつの言ってる事、本当か?」
硬い声で、そう訊いた。
もしこの言葉が事実なら、仁科はきっと声で分かる。
「……だから、走ってきたんだ。ここまで」
端整な顔を苦しげに歪め、仁科は目を伏せた。
『もう一度言うわ』
少女の声が、そんな仁科をいたぶるように甘く響く。赤く染め上げられた放送室の中で、まるで何かの呪文のように――〝宮崎侑〟の声が、響いた。
『アリスが不思議の国から帰ってこれなかったら、どうなると思う? きっと女王様が首を刎ねて、アリスは死んでしまうんだわ』
後に残ったのは、狂ったような哄笑だけだった。
泰介は、無言で機材を蹴っ飛ばした。
そんな自分達を変わらない夕日だけが、いつまでも不気味に照らしていた。
*
「待てよっ! 仁科あぁ!」
叫んだ泰介が走っていって、立ち止まったままの自分から瞬く間に離れていく。
それに焦りを感じてようやく、葵は慌てて二人の後を追い始めた。
だが教室の一つの横を通り過ぎた瞬間、思わず足を止めた。
「あれ……?」
葵は首を傾げた。誰かに呼ばれた気がしたのだ。
泰介や仁科とは別の声で、この放送の少女の声に似ている。ノイズ交じりで笑みを含んだような喋り方ではなく、もっと凛とした響きの声だ。
「……ねえ、泰介っ!」
引っ掛かりを感じて葵は階段へ叫んだが、階下からは「葵! お前も来い!」とだけ聞こえて、そのまま足音は遠ざかった。
「あの、だから今声がっ……!」
負けじと叫び返したが手遅れだった。階下はしんと静まり返り、聞こえるのは変わらない放送と遠くの足音だけだった。
「……ねえ、誰かいるの?」
震える声で問いかけたが、返事は何一つ聞こえない。さっきの声は聞き間違いだったのだろうか。葵は堪えきれずに踵を返した。不安が限界に達していた。
だが葵が駆け出した瞬間、それは起った。
左肩にかけた鞄の感触が、生き物のように蠢いたのだ。
「!」
横から引っ張られたのだと気付いた時には、ぐるんと世界が回っていた。反射で目を瞑った瞬間に身体が平衡感覚を失って、背中をタイルに打ちつけて初めて自分が転んだと気付いた。葵は目を開けると茫然として、タイルの冷たさに震えた。そしてふらふらと上体を起こした葵は、目に飛び込んだものに驚愕する。
教室の扉が細く開いていて、葵の鞄を挟んでいた。
葵は呆然と、挟まれた自分の鞄を見つめていた。ずっと続いている放送が、別世界のもののように遠く聞こえる。
『みんなには〝アリス〟を探してもらう』
――アリス?
放心しているうちに、麻痺した頭が正常に働くようになってくる。強く腕を、というより鞄を引かれた感覚を思い、一気に薄ら寒い気分になった。
――誰かがここへ、葵を連れ込もうとした?
「……っ」
――なんで、開いてるの?
葵はへたり込んだまま、扉の隙間を凝視した。
闇が、そこから覗いていた。鞄へおそるおそる手で触れると、とさ、と軽い音がして、鞄はあっさり床に落ちる。拾おうと手元に引き寄せた葵は、ぴたりと手を、そこで止めた。
リボンが、なかったのだ。
鞄に結わえていた、青いリボンが。
鈴を鳴らしたような綺麗な声が、耳の奥で凛と響いた。
『アリスが不思議の国から帰ってこれなかったら、どうなると思う?』
放送の内容は、かろうじて頭で追っていた。
だが、最早それどころではなかった。
「やだ……ない」
手が、震えた。リボンがない。鞄にずっと結わえ続けていた、青い色が鮮やかなサテン地のリボンが。鞄に結っていたはずなのに。いつから? 分からない。ずっと泰介や仁科と話すのに夢中だった。どこかで落とした? ぐるぐると考えが上滑りして、血が下がっていくのが分かる。
まさか。
立ち上がった葵は、怖々と闇を覗く。心臓が、どくんと脈を打った。
教室の扉の隙間の、僅かな闇。細く開いた教室の扉。空いているはずのない教室の扉。そこへ、手を、差し伸べる。
――少し、覗くだけ。少しだけだから……。
葵は引き戸に手を掛けると、ゆっくりと横へ、スライドさせた。
ずる、と戸が擦れる音がして、闇が、その領域を増していく――。
「ヒントをあげるわ。佐伯葵」
「え?」
背中に、衝撃が走った。
何が起こったのか、葵にはよく分からなかった。
身体が、傾ぐ。前にふらついた身体が支えを求めて引き戸を掴む。
掴み損ねて、手が空を切る。
たたらを踏んだ足は、闇を湛えた教室の中へ、一歩、ぐらりと踏み込んで――。
そのまま、踏み抜いた。
「ひっ――――」
ようやく、気づいた。
自分が、突き飛ばされたのだと。
押し殺した悲鳴を上げた葵は、暗闇の中、底の見えないどこかへと落ちていきながら――振り返った拍子に、人影を見た。
少女の姿をした影は、茶髪を優雅に靡かせながら、落ちていく葵の姿をただただ静かに見下ろしていた。
*
「仁科、戻るぞ。葵が……遅すぎる」
泰介は棒立ちの仁科を放送室から追い出すようにして、廊下に出た。
そして赤い光の射す廊下を、再び走り始めた。
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