第25話思弁・思索
「形容と説明、描写は悪手」と、「メッセージをどう書くか」、「読むとはどういうことか」とも関係しますが。
思弁や思索をどうするかは、どの文芸においても考える必要があることでしょう。
私はSF人であって、SFとはスペキュラティブ・フィクション(あるいはスペキュレイティブ・フィクション)である派です。そうであるとともに、作の中で思弁や思索を書くのは避けたほうがいいとも考えています。
「スペラティブ・フィクション派であるにもかかわず、それを書かないのか?」と思われるかもしれません。
はい。書くのは避けたほうがいいと考えています。理由は、「形容と説明、描写は悪手」に書いていることと同じです。また、「メッセージをどう書くか」に書いていることと同じです。
作中における思弁はメッセージとは違うという意見もあるでしょう。これについては、違う場合もあれば、そうでない場合もあるとしか言えません。
ここで問題になるのは、思弁の主体は誰なのかということです。主体は作者でしょうか。もちろん、そうです。しかしそれは半分でしかありません。思弁・思索の主体は作者と読者です。思弁・思索において読者は受け取るだけの存在ではありません。「読むとはどういうことか」に書いたように、読むとは能動的な行為です。
読むという行為を能動的なものとするのは、誰でしょうか? もちろん、読者であり、読者の姿勢です。ですが、これもまた半分でしかありません。作者と読者が、読むという行為を能動的なものにします。
ここで、問題がおこります。というのも、作者の思弁をそのまま書いてしまうということです。それがキャラクターの思弁という形をとっていたとしてもです。
そして、こう言ってかまわなければですが、そのような思弁をありがたがる読者が存在してしまいます。そして、思弁を作者が述べる小説をこそ思弁小説だと誤解する読書が存在します。さらには、思弁を作中で述べる小説こそが思弁小説だと誤解している作者がいます。それは、プロでさえです。
「形容と説明、描写は悪手」では、書く内容は疑問であり思想だということを書いていました。作中の思弁において、キャラクターにおいては答えを出していないとしましょう。ここで、「メッセージをどう書くか」を取り入れて、その疑問や思想をどう書くかのハードルを上げましょう。
つまり、思索や思弁は作中に現れないのが望ましいと考えます。ついでにこう考えてみましょう。思弁や思索を書くのは簡単です。ですが、それを書いてしまうのは逃げです。
作中には思索や思弁は現れないにもかかわらず、まさにその疑問を読者が考える機会を用意する。あるいは、それは設定にさえ現れないのがベストかもしれません。まったく現れないというのは、思弁や思索の内容によってはかなり無理があるでしょう。そこでこう考えてみましょう。「設定も記述もどこまでそれに直接的には触れずに書けるか」。あるいは、「疑問を訴えるにしても、設定や記述はどこまで削除できるか」。もし、その設定や記述がなくてもかまわない可能性があるなら、それらはおそらくいらないのです。あるいは、使わない、書かない方向を検討する必要があるのです。
もし、それでも書かなければならないと感じるのであれば、それは「わかりやすさ(世界・設定)」に書いたように、それが何なのかを書き手自身がわかっていないのかもしれません。そしてもう一つ。「わかりやすさ (用語)」に書いたように、思索・思弁も、書くにせよ書かないにせよわかりやすさが第一です。それは、簡単な疑問という話ではありません。もちろん、根本的な疑問こそ、単純な疑問の形をとるということは言えます。ですが、複雑な思弁をどれだけわかりやすく書けるか、そしてさらには書かずにすら書くことができるのか。
面倒くさい話です。ですが、おそらくはただ、それが何なのかを書き手自身がわかっているならば、それができる可能性はあるだろうと思います。
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