せんもんてん街
松葉葉志
はじめに
欲のない人間など存在しない。
人は常に何かしらを欲している。
金、時間、食料、洋服、本、家電製品……挙げればきりがない。
しかし、これらに教室して言えることがある。それは《癒し》である。
おしゃれな洋服を着ることも、好きなミュージシャンや歌手の曲を聴くことも、好きなお店で美味しいものを食べることも、すべて癒しなのだ。
癒しを拒む者などおそらくいないであろう。
もう15年以上前のことになる。私はそんな《癒し》を求めて、この街へとやって来たのだ。
大都会に本社を構える一流商社で営業マンをしていたあの頃の私は、春夏秋冬汗水垂らし、日夜営業本数を取るため寝る間を惜しんで働いていた。家に帰れず会社に寝泊まりをする日々など当たり前で、残業を終えようやく我が家に帰れると思えば終電を逃す。そんな日は予約せずとも泊まれるビジネスホテルか、それが叶わなければシャワー付きのネットカフェの深夜料金で夜を越した。仮眠を取れ、その上勢いのない安いシャワーで汗を流せるのだから、それでも贅沢なものだった。
忙しさに比例して、私の身体は日に日に痩せこけていった。細くなる手足に鞭を打ち、当時の私は灼熱の陽射しも、身を削るような大粒の雨も、血管を凍りつかせようとする雪もはね退け、営業まわりをし続けた。
成績が芳しくない月には上司から大目玉、優秀な部下達にはどんどんと追い越され、同期達は昇進し家庭を持つ。思い出すのも嫌になる地獄の日々だった。
身体だけでなく、心までもが疲弊する。31歳の春、私は不眠症を患った。どんなに身体が疲れていても、夜になって眠ることが出来ないのだ。瞼を閉じてもそこに見えるのは瞼の裏側の黒い景色、夢ではなかった。
どうにか時間を作り心療内科を訪れ、処方された導眠剤と精神安定剤を服用する日々が続く。はじめは飲んでいてもあまり効果がなく、イライラする日々が続く。二週間に一度訪れる度に医者は処方する薬の種類や量などを少しずつ変え、ようやく自分に合った薬に巡り会えたのは初めて受診してから二ヶ月程経ってからだった。
だが、私が患ったものは不眠症だけではなかった。意味のない不安や焦り、イライラに手足の痺れ、罪悪感や悲観、被害妄想、無気力………《うつ》と呼ばれるものだ。
うつ病だと診断された私は会社を休職し、薬物治療と定期的な通院を繰り返す日々を過ごす。仕事もないのに朝早くに目が覚め、何もせずただぼぉーーとする。それなのに、苦しいのだ。
私が求めていた《癒し》とはかけ離れ過ぎた虚無感。底なし沼のように深い深い悲しみに溺れ、ただ涙を流す。
___あの頃の私は、孤独だった。
だか、そんな若き日々を乗り越えたからこそ、私はこの街でこうして自らが開いた《癒しの楽園》と共に暮らせているのだろう。
苦い苦い種が、甘い甘い果実となったのだ。
そういえば、明日からこの楽園に一人、新しい仲間が加わるのだったな。
小さな女の子だ。とても可愛らしく、笑顔の素敵な明るい小柄な少女だと聞く。年齢は、もしも私に娘がいたとすれば彼女と同じぐらいになっていただろうと思える歳だ。
早く彼女に会ってみたいものだ。今から楽しみである。
そうだ、明日に備え、今から楽園の手入れをしよう。今日は休日だ。時間はたっぷりとある___
※この作品は、松葉葉志というネームのもと、別サイト『小説家になろう』でも公開しております。
http://ncode.syosetu.com/n8196db/
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