ふたつ文字 うしのつの文字 騒動記
タオ・タシ
第1章 なんで男の子のことで、あんなに盛り上がれるんだろう?
1.
5月の爽やかな風が田園を吹き抜けてくる中を、3台の自転車が走っている。乗っているのは、この市内にある鷺島高校に通う2年生の女の子たち。彼女たちはとめどもない会話を交わしながら、市の南部にある神社に向かっていた。
そもそも、ゴールデン・ウィークの真ん中である今日この日に、神社に行こうと言い出したのは
そして「2人じゃ寂しいから、ハナっちも誘おう」と言い出したのもチサトで、なにがどう寂しいのかまったく説明はなかったが、友人2人の誘いを無碍にする気にもなれず、
前の2人の会話は、最近何かと話題のあのこと。
「この間ね、佐藤君が話しかけてきたんだ、あたしに!」
そう大声を上げているチサトの声はどことなく上ずっていて、華からその顔は見えないが、きっと高くて可愛い鼻をツンとすましていることだろう。
「えーっ! なにもしかしてもうコクられたとか?!」
黒髪を風になびかせる五月の声も上ずっている。
「んなわけないじゃん、なんのために神社行くってのよ」
「あ、そか。いいなぁ、伊藤君なんか、チラチラ見ても、なんにも反応ないんだもん」
佐藤君も、五月のいう伊藤君も、他所のクラスの同級生だ。
華はチサトや五月と、お昼にお弁当を一緒に食べる。そうなると、もう話題はその男子2人のことで、女子2人は持ちきり。やれ球技大会で大活躍だっただの、笑顔がめっちゃかわいいだの、毎日キャッキャやっていて、おかげで華も毎日がおなかいっぱいだ。
(同じ女ながら、よく飽きないよね、あの2人)
そんな友人2人を、華は羨ましいと思えない。
(なんで男の子のことで、あんなに盛り上がれるんだろう?)
そんな3人が向かっている
こんな晴れた休日にわざわざ向かっていることや、先の会話から、3人共に彼氏がいないことが分かるだろう。
(やっぱ、来なきゃよかった)
自転車を駐輪場に止める。『午後6時ころから天候が急変して雨が降るかも』という予報を信じて自転車に差してきた傘は、どうせすぐに戻るからと差したままにして。
やけに
女、女の子、男の子、女の子、女。こういうものに男性がいかに関心がないかが、境内を行き交う人間の男女比率をみればよく分かる。そして、それに混ざる自分が、華は気鬱だった。
思春期を迎えてこのかた、華は男の子に友人より上の感情を抱いたことがない。
母は随分と悩むかと思いきや、『ま、そのうち色気づくわよ』なんて言って見守ってくれている。それがありがたいような、やっぱりそのうち男の子に興味を持つようになるから、というプレッシャーがかかっているような。華は複雑な気分だ。
同性に興味があるわけでもないし、なにか男の子に対してトラウマを抱くような事件があった覚えもない。ただ単に、彼女にとって男の子は『いやらしい眼で自分を見てくる異性』でしかないのだ。
……あえて言えば、それがポイントなのだろうか。同年代の女の子の誰もが華を、『いい身体してる』と言う。身体が細めだから、胸とお尻が大きく見えるだけだと思うし、そういうリアクションを毎回しているのだが、他人、特に男の子には通じない。
授業中の教室。体育の時のグラウンド。廊下。視線を感じる。五月が『あいつ、また華の胸見てるよ』とか『ハナっち凝視すんな!』とチサトが男子をにらんでくれたりとかしてくれるから、自意識過剰でないとは思うのだが。
そんなことを考えているうちに、華たちは本殿のさらに奥、“
楽しそうだなとは思えど、同調する気がない華。同調する気がないくせに、チサトと五月に付き合う華。
(結局、気が小さいから友達の誘いを邪険にできないだけなんだな)
そう自嘲気味につぶやいた時、華たちは鈷斐路石に辿りついていた。
それは、華たち3人が手を繋いで伸ばしても足りないほど外周が大きく、天辺が平らな石だった。平らな面には幾筋かの、明らかに人が掘ったと思われる溝が、途中で分岐しながら付いている。高さは彼女たちの腰までくらいのこの石に、チサトと五月は眼を輝かせた。
「ハナっちは初めてだよね、ここ。あそこの看板に、お参りの仕方が書いてあるよ」
チサトが、自分から見て右手にある看板を指差した。看板が取り付けられた柵は、鈷斐路石を中心に5メートルほど開けた端にある。
「えーとなになに、『石の上に両てのひらをおいて、次の言葉を3回唱えてください。その際、想い人のいろいろなことを考えながら唱えると、祭神である
華がしかめつらしく読むと、チサトが吹き出した。
「本格的でしょ?」
早速始めようとした2人を、華が止めたのはその時だった。
「ちょっと待って。まだ何か書いてあるじゃん。えーと、『なお、想いが強すぎて、たまに裏山まで飛ばされる方がおられますが、その際は、この看板左の門に通じる山道がございますので、気をつけて下山してください。夜間の下山に不安を覚えた方には宿泊施設(無料)もございます。』……て」
「キャハハハ、そうそう! いつ読んでもウケるそれ!」
チサトが爆笑し、他の2人も釣られて笑う。神秘性を出すつもりなのかユーザーフレンドリーなのかよくわからないし、いささかやりすぎだ。そんな釣り文句に引っかかるほど、私たちはウブじゃない。それが、華の率直な感想だった。
「さ、始めよう! 始めよう!」
いつもは落ち着いた雰囲気を醸し出している五月が、ノリノリで両手を石の上に置いた。チサトが続き、華も、渋々という態度が出ない程度に素早く手を置く。
「えーと、呪文は……」
3人で看板をもう一度見てから眼を閉じ、声を揃えて正確に3回。儀式は終わった。
「これでよし、と」
目をつむっていたチサトと五月が目を開いた。その時――
「え?」
3人の全身が、淡く発光し始める。
「ちょ、ちょっと?!」
光は急速に強くなり、すぐに眼を開けていられないほどの光量となって――華の眼前は闇となった。
2.
闇。何もない、闇。
華はその闇の中に立っていた。いや、足が何かに付いている感覚がないのだから、『立っている』というのは奇妙かもしれない。が、感覚として、仰向けでもうつ伏せでもないのだ。
ここは、どこだろう。
いったい自分がいつからここにこうしているのか、華には覚えがない。
チサトや五月は、どこへ行ったんだろう。
周りを見回して、声に出して――声は出た。そして、すぐに無意味だと悟った。呼びかけに応える友人たちの声どころか、木霊すら帰ってこない。
歩いて、捜しに行くべきだろうか。
だが、それもできない。足が動かないのだから。そして、どこへ、誰のところへ行こうというのか。
なぜ?
母のところ? 父のところ? 友人のところ? 普通はその誰かのところへ行くべきなのに。あるいは、学校とか家とか、そういうところがあるはず。なのに、なぜ。
わたしの周りには何もないの?
<<当然じゃ>>
突然聞こえた声に、華は吃驚して震える。女性?
<<ここはわらわの庭じゃもの。ここに父や母や友人など、いられるはずもない>>
誰? だれ? ダレ?!
華の問いに女性の声は答えず、しばらく沈黙を保ったのち、また唐突に声が聞こえた。
<<誰もおらぬ……おらぬとは……クククククク>>
怖い。
華の恐怖は、女性のひきつったような笑い声が聞こえた後、さらに増した。
華の前に、1人の女性が突如姿を現したのだ。ざんばら髪に縁取られた顔は、美人といってもいいほどのレベル。年のころは20歳前だろうか。古式ゆかしい装束を身にまとい、裸足で立つ、美女。
<<やっと見つけたぞ>>
そう高らかに宣言した女性がにこりと笑い、すーっと華のほうに近づいてくる。
恐怖で震えることもできないほど硬直した華の顔の近くまで来て、女性はふっと消え、そして華の意識もまた闇に溶けた。
3.
(……な……はな……)
誰かが、呼んでる。
華はうっすらと眼を開けた。そして、自分が五月に抱きかかえられていることを知った。
「よかった……華だけ起きないし、なんかうなされてるから、どうなっちゃったかと思ったよ」
「ん……ありがと」
お礼を言って起き上がった華は、すぐに周囲の異変に気付いた。
「ここ、どこ?」
自分たちは境内の奥にある、鈷斐路石の周りにいたはず。なのに、見渡した限りではそのような石などどこにもなく、注連縄で飾られた巨木が眼を引くばかり。こんなもの、あの場所にはなかった。それとなく分かることは、ここがどこかの山の、森の中だということ。注連縄を揺らすひんやりとした風が華の頬もなぶり、それを教えてくれる。森のどこかで鳴く鴉の声が、不気味なことこの上ない。
「なんか、風も冷たくなってきちゃった……」
チサトはもはや泣き出しそうだ。華はふと気が付いて、携帯を確認する。18時50分。どおりで辺りが暗いわけだ。
「――ええ? てことは、3時間近く寝てたってこと?」
驚く華に、五月がうなずく。
「うん。私とチサトもついさっき眼を覚ましたところなんだ」
何かないかと辺りを見回した五月が一点を凝視して、つぶやく。
「あれは……看板?」
3人で――おびえて足がすくむチサトを2人がかりで引っ張って――看板に近づき、スマホのバックライトで看板を照らす。そこにはこう書いてあった。
『 お帰りはあちら ⇒ 』
矢印の指す方向を見ると、確かに下り坂に道らしき筋が、暗闇越しに見える気がする。それに、彼方には明かりが。
「どうする?」と問いかけた華の額に、雨粒が落ち始めた。
「わああ、降ってきちゃった!」
「嫌でもなんでも、行くしかないってことね……」
取り乱すチサト、ため息をつく五月。よし行こう、と言いかけた華の友人への気遣いは、結果として無駄になった。
ワウワウ! ワワウワウ!
「きゃあああああ!!」
3人のごく近くの背後の闇から、犬としか思えない突然の咆哮が湧き上がったのだ。それに背中を押されて、というか弾き飛ばされて、3人は坂道を下り始めた。
吼え声は止まず、下り坂は勢いを加速させる。止まろうにも、激しく降りだした温い雨は足元をすでにぬかるませていて、うかつに止まれば転びそう。
ガンガン下って、ドンドン明かりが近づいてくる。それがなんの明かりなのか確かめる間もなく、3人の女の子は次なる脅威に心をすくませながらも止まらない止まれない。
明かり――平屋建ての小屋から、人が出てきていた。顔は逆光でよく見えない。
「いやああああ! 人、ヒト、ヒト!」
チサトと五月が絶叫する中、華はなぜか声が出ない。ぐんぐんその人に近づいて、でもさりげにブレーキを掛けて――その胸に体当たり、いや飛び込んだ!
「わああっ!!」
声からすると若い男なのだろうか。確認する間もないことであったが、男は勢いに押されながらも華を抱き止めてくれた。そのことに華が思わず安堵し、次に動転がやってくる。
(お、お、男の人、に……ッ!?)
そして次にやってきたのは、友人2人のバックアタックだった。
「きゃあああ!」
もんどりうって転倒する4人。
「うう……いてて」
その声に、はっと顔を上げた華は、信じられないものを眼の前に見た。
「西沢君……?」
華が抱きついていたのは、クラスメイトの
20分後。3人は山小屋の中に招き入れられ、雨と泥で汚れた服の代わりに浴衣を貸してもらって、リビングでぐったりしていた。西沢は着替えに配慮してくれたのだろう、『ちょっと作業してくるから』と言って、雨合羽を着て外に出て行っていた。
「ねえ……」
チサトが声をひそめる。
「あれって、"ぼっち君"だよね?」
ぼっち君。誰が呼んだか、それは西沢に付けられた、そのまんまのあだ名。
別にコミュニケーション不全というわけでもなく、話してみれば西沢は普通に受け答えができる男子だ(だから"ぼっち"という表現は、多少の誇張と悪意を含んでいると華は思う)。背もそれなりにあり、顔も流行の顔つきではないものの、凛々しいと形容できるかもしれない。学業は優秀。体育で見る限り、スポーツも苦手ではないようだ。
だが、彼はつるまない。放課中にクラスメイトと雑談に興じるでもなく、お昼のお弁当も独りで食べ、授業が終わるとさっさと帰る。もちろん下校も、なのは言うまでもない。
「なんでこんなところに一人でいるんだろうね?」
チサトの横に座る五月も声をひそめる。まさか、ここまで"ぼっち"を極めているとは。そんな口調だ。
そう言われて、改めて華はリビングを見回す。テーブルが1つに、2人がけのソファが対面になるように置かれている。薪が控えめに燃えている暖炉と、その上に掛けてある柱時計。いつのものか分からないCDコンポと、その脇にうずたかく積まれたCDジャケット。さらにその脇には、文庫本やコミックが幾つも山を成している。
部屋の隅には、たしかボトルシップというのだろう、瓶に入った帆船がぽつんと置かれていた。作りかけなのだろうか、難破した船に見えるくらいあちこちのパーツが足りていない気がする。
扉は2つ。先ほど華たちが入ってきた、玄関に続く廊下に通じているものと、建物の奥にさらに通じている扉。そちらには寝室、トイレ、風呂があると聞いていた。
「ここに、住んでるのかな?」と五月が黒髪を梳きながら首をかしげる傍で、
「ていうかここ、神社の裏山じゃん!」
茶髪にタオルを乗せたままのチサトが、スマホを見て叫ぶ。華と五月が重い体を動かして画面を覗き込むと、GPSアプリで現在地検索したらしく、ここから南方向に鈷斐神社があった。
その時、玄関側の扉が開いて、西沢が入ってきた。雨合羽は玄関で脱いだのだろう、黄色い長袖Tシャツに濃紺のジーパンというラフな格好になっている。
「お疲れ。大変だったな」
いま、お茶持ってくるから。そう言い置いて、西沢はまた扉の向こうに消え、5分ほどしてお盆と共に戻ってきた。
出されたお茶を口に含む。じわ、とぬくもりが身体に広がり、やっと人心地がついた気がする。
「ありがとう。助けてくれて」五月が礼を言い、他の2人がそれに倣うと、西沢は笑って手を振った。
「ううん。オレの仕事だし」
「仕事って?」
華の問いに、西沢はちらっと彼女のほうを見やると、言葉をつないだ。
「君らみたいに裏山の御神木まで飛ばされてくることが、月に何件かあるんだ。オレはそういう人たちがちゃんと下まで降りられるように案内するし、もし今日みたいに夜になっちゃったら、宿泊の世話をしてあげる。そういう仕事してるんだ」
呆然としたまましばらく。華が口をようやく開く。
「そういえば鈷斐路石の看板に宿泊がどうこうって書いてあったけど、それは……バイトなの?」
「ううん、違うよ」西沢は首を振る。
「オレの家、鈷斐神社の神職だから」
「ていうか、なんで飛ばされちゃうの? 迷惑!」
チサトが声を張り上げる。
「そう言われてもなあ。コヒガミさまがやってることだし」
チサトがなおも声を張り上げるのを制止して、五月は西沢に尋ねた。
「で、帰りたいんだけど、どうしたらいいの?」
「それがなあ」西沢は渋い顔。
「もう夜だし、この雨だろ。道が危ないんだ。土と石の道だから、雨が降ると滑りやすくなるし」
以前女性がどうしてもと言って下りていったら、滑って転んで2時間位かかったんだよ。そう言われて、華たちは愕然とする。
「どーする? 泊まる?」
「嫌だよあたし!」
五月の問いかけに、チサトはマジで嫌そう。
だが、弱まる気配すらない激しい雨音と他の2人の説得に、チサトはしぶしぶ泊まることにした。
「親になんて言う?」
「わたしの家にお泊り、にしよう」五月が胸を叩いた。
「うちの両親、旅行でいないから」
華とチサトが親に電話して承諾を得ている間、西沢はあごに手を当てて思案顔。電話が終わった華がそれに気付いた。
「なにか、まずいことでもあった?」
「え? いや別に」
西沢は首を振って立ち上がると、3人に言った。
「えーと、とりあえずメシにしようか。といっても、大したものないけど」
できたら持ってくるから。そう言い残して、西沢は部屋を出て行った。
「ねぇ――」
チサトが待ってましたとばかりに2人に顔を寄せる。
「なんともない?」
「なにが?」
五月の問いに、チサトはテーブルの上のお茶を指差した。
「眠くなったりしてない?」
「……別に」
華と五月が顔を見合わせてチサトに答えると、チサトは腕を組んでうなる。
「おかしいなぁ。絶対入れてくると思ったんだけどな、眠り薬」
「なんで?」
チサトの言葉に、なぜかむっとする。いつもちょっと妄想癖のある子だけど、そんなことをこの場で言うなんて。
「ハナっちはもうちょっと危機感を持ちたまへ」
ふんぞり返って、上から目線で華に講釈を垂れてくるチサトがうざい。
「眠らされて、襲われたらどーすんの!」
「……そんなこと、思いもしなかった」
と五月も気味悪げに、口を付けてしまった自分の湯飲みを見つめている。
「そんな人には見えないけど……」
重ねてチサトに指摘されて、華の反論も勢いがなくなったとき、また扉が開いて西沢が顔を出した。
「そういえば、嫌いなものってある?」
「ピーマン」「にんじん」「たまねぎ」
その回答に、西沢が押し黙った。
「なによ」と五月がにらむ。
「いや、別に……。肉類は大丈夫?」
チサトが魚嫌いなことを確認すると、西沢はまた向こうへ行き、15分ほどして華たちのテーブルにはハンバーグとソーセージ、キャベツを千切りにしたサラダ、ご飯が運ばれてきた。
「ごめんな。野菜以外は冷凍ものだから」
西沢はすまなそうに言いながら、テーブルに華たちの食事とカトラリーを並べる。それからお茶を湯呑に注ぎ直すと、ごゆっくり、と言って扉の向こうへ消えた。
しばしの沈黙。
「ハナっち。食べてみて」
「わかった」
チサトの言葉にまたむっとしながら、華はナイフとフォークを手に取り、ハンバーグを口に入れた。
「ん……おいしい」
そしてまた、しばしの沈黙。ついに五月が我慢できなくなった。
「いただきます」
手を合わせ、五月もハンバーグにナイフを入れ始める。
そこからさらに5分ほどして、チサトも食事を始めた。やせ我慢していたのだろう。いつもよりがっつくペースが速い。
「そういえば、西沢君、来ないね?」
五月が扉のほうを見やる。
「わたし、ちょっと見てくるね。まだ何か用意しているかもしれないし」
華はそう言うと、ナフキンで口を拭って立ち上がった。
「うわぉ、華、積極的!」
「なんでそうなるかな……」と五月をにらむ。
「ハナっち、気をつけてね。すぐに大声出すんだよ」
チサトの心配に手を振って、華は扉を開けた。
玄関へと続く廊下の途中にある部屋の入り口から、明かりが漏れている。
「西沢君? そこにいるの?」
「ん? ああ、ここだよ」
華の呼びかけに、その入り口から西沢がひょこっと顔を出す。
「まだなにか作ってくれてるの? 運ぼうか?」
「ううん。残念ながら、もうないよ」
「じゃ、そこでなにしてるの?」
「ん、メシ食ってるの」
西沢の答えを確かめるべくその部屋に踏み込んだら、本当にキッチンで食事をしているではないか。
「なんであっちに来ないの? わたしたちと一緒に食べるの、いや?」
聞いてすぐに後悔する。彼が他人とつるまない人間であることを一瞬忘れたのだ。だが、次に来た西沢のリアクションに、華は完全に意表を突かれた。
「え? 一緒に食べていいの?」
そして、恐らく初めて見る、西沢のはにかんだような笑顔。華はしばらく、立ちすくんでいた。
4.
「オレが同じ部屋にいること自体を嫌がる女の子もいるから、なるべく裏に引っ込んでるようにしてるんだよ」
結局、西沢の食事はほとんど終わってしまっていたので、華たちの食事を片付けた後、コーヒーとお菓子を囲んで雑談となった。といっても西沢は、キッチンから持ち込んだ椅子に座ってであるが。
「嫌じゃない? そんな態度取られて」
華に言われて、西沢が笑いながら答える。
「しようがないっしょ、オレ男だし。警戒してもらったほうがむしろ楽だし」
「ほら、やっぱりあたしは正しかった!」
チサトがぺったんこの胸を反らせて得意顔。
「いや、本人の前であからさまにそれもどうかと思うよ、わたし」
五月のツッコみに怪訝顔の西沢。華がここまでの会話を要約して説明した。
「ああ、なるほど。気になるなら、お茶のペットボトルとお菓子渡すから、寝室に篭ってくれてもいいよ」
そういう女の子もいたし。いたって快活に話す西沢が、ふと顔を曇らせた。
「どしたの?」
「ん? そういや、その子さ、夜中にトイレに行きたくなっちゃったんだけど、トイレは寝室の外にしかないんだ」
どうにも我慢できなくなって鍵を開けようとしたんだけど、パニックになっちゃって。とまで言って、西沢の顔がさらに曇る。
「結局間に合わなくって……その……」
「ああ、お漏らししちゃったのね」
西沢の遠慮などお構い無しに、五月が先読みした。
「ギャハハハ、かっこわるーい!」
「いやチサト、あんた、西沢君の存在が気になるならそうなるんだよ?」
華の指摘に、どうしようかと真剣に考え込み始めるチサト。それを見ながら、西沢が話題を変えた。
「そろそろお湯も暖まったと思うし、風呂、入る?」
「あ、うん」
華と五月は顔を見合わせたが、すぐに応じた。雨と泥は借りたタオルで拭き取ったが、入れるものなら入りたい。女の子だし。
「じゃ、仕組みを説明するから、ついてきて」
西沢の言葉に、またもチサトが過敏に反応した。
「仕組みって、やっぱりなにかあるんだ! 『風呂を貸す代わりに身体で払え』とか言っちゃうんだ!」
西沢は虚を突かれた様子で感心している。
「すごいな、それ」
「うん、西沢君、チサトはあーいう子だから、ほっといて」
華と五月は西沢を促して、風呂場へと向かった。
「ちょっと! 一人にしないでよぉ~!」
チサトが髪を振り乱し、半泣きで追いかけてきたのをなだめながら風呂場に入る。
「……なにこれ?」
そこには、一風変わった風呂があった。外壁に取り付けられた風呂桶は、色とりどりのタイルで外周が飾られている。そしてなぜか、風呂のふたが外周に足りず、湯船に浮いてしまっているではないか。外壁に付いているのは、窓以外には灯りと鏡、そして、水道の蛇口のみ。床にはシャンプー類1セットと手桶が一つ所に固められて置いてある。
「じゃ、説明するね」
華たちの疑問を置き去りにして、西沢の説明が始まった。
「風呂桶に入るときは、ふたに乗っかって、ふたを沈めて入る」
「……は?」
華たちの怪訝そうな顔を見た西沢は、笑って補足説明してくれた。
「これ、五右衛門風呂だから」
「ギャハハハ! ゴエモン! なにそれ!」と爆笑のチサト。
「……なんか、アニメのキャラでそんなのがいたような」と形のいいあごに手を当てる五月に、
「そうそう、そいつのご先祖様が名前の由来になってる風呂だよ」
西沢はそう説明して、さらに付け加えた。
「お湯が熱かったら、そこの水道で調節して。ぬるかったら、ここから大声でオレに言ってくれれば、熱くするから」
「……なんでぼっち君を呼ばなきゃいけないの?」
チサトの疑念は華と五月にとっても同じだったが、西沢は意に介さずケロッとした顔で答えた。
「だってこれ、薪で炊いてるんだし」
その後、女子3人で相談とじゃんけんの末、チサトが一番に入り、彼女の提案で西沢を華と五月が監視することになった。このかなり無礼な提案を、西沢は笑って許してくれた。
30分後。次は華の番である。恐る恐るふたの上に載ってみると、最初こそバランスがとれずぐらついたものの、華の体重でふたは底まですーっと沈んでいった。そして。
「……ぬるい」
チサトが思いっきり水を入れたらしい。しかたなく、大声で西沢に依頼する。ものすごく恥ずかしかったが。
仕方がないので先に頭と身体を洗い、改めて湯船に浸かると、先ほどよりそこはかとなく熱くなっている気がする。ふーっと息を吐く。
「それにしても、まさか本当に飛ばされちゃうなんて……しかも、たどり着いた先が、西沢君の……」
華は別に西沢に興味を持ったこともないし、会話もあまりしたことがない。それでも、自分の見知った顔がいて、その人がこうして助けてくれたというのは奇遇というべきなのだろうか。
「どうして、いつも一人でいるのかな……」
雨の中、胸に飛び込んだわたしをしっかりと抱きとめてくれた。家の仕事とはいえ、着替えも、食事も、お風呂まで用意してくれた。それに、あの笑顔……あれ? なんでわたし、西沢君のこと考えてるモノローグ入れてるの? それにしても。
「人嫌い、ってわけじゃないなら、なんで……」
「たなかさーん、お湯加減、どぉー?」
突然壁の外から聞こえた声に、華はびくっと震えた。そういえば、西沢がすぐ外で薪を炊いてたんだった。
(しまった。独り言、聞かれちゃった……!)
華が恥ずかしさで顔どころか全身まで真っ赤になっていると、西沢の声が再び聞こえてきた。
「おーい! たなかさーん! だいじょーぶかー?」
と窓をコンコンと叩いて、安否を確認してくる。
「だ、大丈夫! だいぶ熱くなったから」
慌ててそう答えると、華は鼻の下まで湯船に沈んだ。
5.
「じゃこれ、ペットボトルと、お菓子。それから、部屋の鍵ね」
リビングにはテレビもパソコンもなく、つまらないと言い出したチサトのために西沢がトランプとウノを出してきてくれたが、それも1時間ほどしてお開きとなった夜9時半。しかたなく就寝となった。
西沢から手渡された鍵は、大きな南京錠。今日何回目か分からないくらいの怪訝顔をする華たちに、西沢もさすがに苦笑して説明する。
「内側から掛けて、トイレに行きたい人が外せばいいんだよ」
「……大変だね、西沢君」
西沢は暖炉の前で寝るために、寝袋を外の倉庫から持ってきていた。華の気の毒そうな表情に、西沢は笑って手を振る。その笑顔を見て、華はまた赤面。さっきの独り言、聞かれたんだろうか……?
「怪しい」
突然、チサトがうなりだした。びくっと身をすくめた華だったが、チサトの疑念は斜め上に向かっていた。
「実は秘密の扉があって、寝室に出入りできるんじゃないの?」
「……チサト」
華は心底呆れていた。いたって真顔のチサトに腹が立ってくる。
「妄想も大概にしなよ! そんなに襲ってほしいの? 西沢君に。しかも本人に向かって、失礼じゃない!」
五月も呆れ顔で続く。
「確かに。それはあれ? 『イヤとかぶりを縦に振る』みたいな」
「そ、そんなわけないじゃん!」
プリプリし始めたチサトに、西沢の苦笑交じりのフォローが入る。
「いやいや、そのくらい警戒しても別にいいんじゃない? あいにく、そんな奇天烈な仕掛けはないけどね」
華は、かっとなった。
「西沢君! もういい加減怒っていいところだよ! なんでヘラヘラ笑ってるのよ!」
そこまで言って気が付いた。西沢だけじゃない。チサトや五月までびっくりしている。
「……いや、ごめん。言い過ぎた。さ、寝よ」
華は赤面を隠すようにくるりと扉のほうへ向きを変えると、急ぎ足で寝室へ向かった。やっぱりおかしい、今日のわたし。
がさごそ。とんとん。がさごそ。
「で、ほんとに探してるし」
華は呆れ果てていた。チサトは寝室の壁を舐めるようにへばりついて、穴はないか、隙間はないかと探しているのだ。
「それで、あったの?」と五月。チサトの探索行を眺めながらポテチをぱくついていた友に、
「なかった」
と答えるチサトはやっと満足したようだ。ここまで20分。飽きっぽいところのあるチサトにしては頑張ったといえる。
「まったく、チサトがそんなに西沢君を気にしてるとは思わなかったわ」
五月の感想に、チサトが心外だと言わんばかりの表情を見せた。
「別に、ぼっち君なんか眼中にないし。だってあたしの眼には、鈴木君しか映ってないんだもの」
(え?)
華は、自分が聞き間違えたのかとチサトのほうを見やる。鈴木君?
「五月こそ、なにぼっち君にフォロー入れてんのよ」
「フォローなんか入れてないし! ていうか、こんなところに泊まったこと、絶対みんなにはナイショだよ? 高橋君に知られちゃったら――」
――また、華は聞き間違えたのだろうか。高橋君って、だれ?
焦る五月と、それをからかうチサト。華の眼に宿る驚愕に、2人は気付かなかった。
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