眼鏡を外せば皇帝陛下!

@ichiuuu

第1話 王者の伝記

【眼鏡を外せば皇帝陛下!】


 ――その日、セント・エレナ島には海をわたる凍てつく風が吹いていた。ここを称するには絶海の孤島、と言えばよかろうか。画家であれば黒と白と茶色の絵の具のみを使うであろう。すなわち闇夜にさざめく波の色と、その波涛、白いしぶき。そして木枯らしに吹き荒ばれる、月桂樹の落葉の色。いたく単調なつまらない絵になるのは、誰に描かせてもまず間違いない。

 さびれた町には人っ子一人いない。ただ丘の上に墓標のように、寂しく小さな古城があるのみだ。その古城には、かつて国を治めた英雄が棲んでいた。そう世を忌むようにして。その者の名は――。

「ナポレオン・ボナポルト将軍、紅茶が入りましたよ」

 部下が部屋を訪うと、ナポレオン・ボナポルトは、黒ぶちの眼鏡を取り去り、

「すまんな」

と短く答えた。その恰好はすすけたシャツと緑のズボン、元軍人にはありふれた赤のチョッキ。顔立ちは整いながら、どこか挑戦的なまなざしをしている。ボナポルトは、紅茶をあおり、ふうと息をついて、再び足の折れそうな座椅子にて足を組みなおした。外はまだ暗い。

「しかし、アランよ。よく紅茶など手に入ったな」

「今のフランセーヌの王政をよく思わない、英国系の密輸船がよくやってくるもので」

「そいつらをなだめすかし、脅して手に入れた訳か」

 くく、とボナポルトがほくそえむ。その笑みは無比の魅力があり、相手が女ならば胸をときめかせたかもわからない。しかしその笑みを向けたのは、自分を常々慕い付き添う兵士へ、であった。

「ところでアランよ、俺をまだ将軍と呼び続ける気かね」

「無論」

この部下の、愚問をと言わんばかりのいらえに、くくと、ボナポルトがはにかむ。

「祖国の為に闘い、祖国の為に生き、そして祖国によって裏切られこの地にて一人死ぬ、この俺を、ねえ」

「まだ分かりません。あるいは再起する可能性も……」

「まあ、いい」

 暖炉に細い薪木を入れるボナポルト。部屋には紅茶の香りが薄く漂っている。

「ところでボナポルト将軍、ひとつ、私に案があるのですが」

「案?」

 自分を崇拝する部下へ、ボナポルトは訝し気な視線を送る。

「せっかく時間が出来たのです。この地にて、あなたの伝記を書いてみませんか」

「伝記? 俺の生涯を書き残すというのか?」

 ボナポルトは、部下のアランを一瞥してから、はは、と渇いた笑いを発した。

「この俺の、この俺様の半生を描く、ねえ。悪くはない。一介の兵士から、フランセーヌ皇帝に登り詰め、そして今、この島で一人生涯を終える男の話。確かには、つまらなくはないかもしれんな」

「ええ」

 アランが黒髪を揺らし、顎を引く。アランの持つ羽ペンの羽がそよいでいる。それへボナポルトはふむ、と目をやり、そらした。

「――不世出の皇帝の生涯は、そう、あの日にさかのぼる。あの日、あの島で、あの女に出会った日から――」


◆◆第一章


 「暑い……めちゃくちゃ、暑いです……」

  十年前のあの日、彼がセント・エレナに流されるよりずっと前のこと。その不世出の皇帝は今、うだるような暑さに辟易していた。彼は見晴らしと日当たりのよすぎる城郭の隅にある、石畳の牢に押し込められていた。時折、強面の看守が鉄の柵越しに

「水を……」

 と訴えられるのを、声なき威嚇で払いのけていた。ヒビの入った黒ぶち眼鏡をかけたナポレオン・ボナポルトも、

「どうかお恵みをくださあい」

と必死に懇願するが、強面看守は厳しい目つきをするだけである。それどころか、鉄の柵の隙を縫ってボナポルトの腹を足蹴にし、ほくそえんではこう叫ぶのであった。

「おら、黙れこの王党派の下っ端軍人が! 生かしてもらえているだけ感謝しろ!!」

 外は新緑の眩い六月、牢より少し歩いた崖の下には波涛が翻っては舌なめずりしている。

「くっそお、このままじゃ、僕たちゆでだこになってしまうよ。なんとかならないのかな」

  フランセーヌ軍部下士官、ボナポルトは、こげ茶のややねこっけな髪を包む帽子を取り去って、悔しそうに呟いた。それへ彼を慕っている(ことになっている)部下のアランが、ごろ寝スタイルのまま主人をたしなめる。

「そううじうじしなさんな。あんたらしいが、あんたらしくないぜ、ボナーさん」

「ボナーさん!? ボナーさんって誰!? もしや僕のこと!?」

 この部下のまったくなっていない呼称に、腹を立てたいがそんな気力もないボナーさんである。そのまま彼は熱された鉄の柵の一本を握り、ふうと嘆息する。

「まさか本土で捕まって、こんな僻地に送られるなんて! 僕はただ平和に争いなく生きていきたかっただけなのにい!」

「まあまあ、待てば果実も熟すように、何かいいことありますよ。ナポっち」

「さっきからどんどん敬意薄れていってない!?」

 ボナポルトは自分をなめまくる部下へと思わず突っ込んだところで、この熱された牢へと近づく足音を耳にした。その足音は二人分。一人目、このどたどたした偉そうな足音はまず看守のものと思われる。もう一人の足音、それは聞き慣れぬ、貴婦人のドレスがそよぐような優雅な足音であった。

「おらっ入れっ」

「ちょっと、やめて頂戴! 乱暴はよしてっ」

 あっ! と牢に押し込まれて、よろけたその女はボナポルトの膝へすがりついた。ボナポルトの膝に女の柔らかい感触が伝わる。

「そこで三人して、仲良く干上がりな!」

 看守の捨て台詞のあと、その偉そうな足音は遠のいていった。

「いたた……」

ボナポルトは、そう言いながらようやっとこうべをもたげた女を見据えた。その瞬間、心臓が止まるかのような愕きが彼の胸のうちを走った。

(なんて美しい女だろう……)

 牢に突如押し込まれた、白い粗末なドレス姿の女の美しさは、確かに言いようもなく、妖艶な魅力に満ちていた。その波打ったブロンドが、しなだれた彼女の足に絡んでいる。瞳は紫水晶のように、色合を様々に変じ、鼻は高く、唇は薔薇の咲き誇るような華やかさに紅く匂っていた。その女も、自分に瞳奪われる青年に気が付いたのであろう。実に優雅に立ち上がって裾を広げ、

「あら、ごきげんよう?」

 と挨拶した。挨拶されても、返す言葉もない程女に魅入られているボナポルトへ、部下アランはすかさず耳打ちをした。

「落ち着いて下さいよボナーっち! こういう女は確かに並外れて綺麗だが、大概悪女に決まっています! そうたやすく御されないでくださいよ」

「い、いや、だけど……」

 ボナポルトはためらいがちに、微笑をたたえる彼女に声をかけた。

「いかにも貴族らしい気品に満ちていて、美しい、女性だと僕は思うよ……」

 「まあ! ありがとう」

 と、女は歯を少しばかり見せて笑った。決して大口をあけない。その仕草がどこかエレガントで、彼女が着ると貧しいドレスも、花弁のように石畳に散り広がるように思われた。

「ああ、挨拶を忘れたわね。あたくしの名はジョセフィーヌ・ド・メルシャンよ。あなたたちは?」

「ぼ、僕はナポレオン・ボナポルト。そっちで寝ころんでいるのは部下のアランだよ。僕らはただ王族の警護を任されていたという咎で、革命政府に睨まれここへ送られたんだ」

「へえ」

 さしたる興味もないようにジョセフィーヌが頷く。

「君はどうしてここへ来たんだい? 名前から察すると貴族の出みたいだけど」

 これへジョセフィーヌが苦い顔つきをして、くちどに答える。

「あたくしね、フランセーヌ本土の子爵の家に嫁いだの。もともとはこの島の出身なのよ。父がこの離島の総督だったの。ご存じだと思うけれど、今フランセーヌ王国は革命によって民衆の手で王政が打破され、王族貴族僧侶はみんなシトワイヤンによってギロチンにかけられているわ。逃げ遅れて捕まったあたくしの夫も、無論殺されたわ。あたくしも逃げるように亡命してこの島に帰ってきたはいいものの、新総督によって捕まり、ここに籠められたってわけ。このあたりのことは、もちろんご存じよね? 田舎者さん」

 「……僕も一応貴族だよ」

 ボナポルトが淡く自嘲の様を見せたので、ジョセフィーヌは眉根を寄せたまま

「それは知らなかったわ。ごめん遊ばせ」

 とそっぽを向き言い捨てた。

 ボナポルトはしかしこの無礼な対応に腹を立てなかった。今までうだつもあがらず、一兵士として生きてきた自分である。イタリア訛りのフランセーヌ語と、このさえない容姿とふるわない身分で、軽視されることは分かっていた。寂しげに俯くボナポルト。対するジョセフィーヌは昼の薄い月を見あげ、ぼそりと呟いた。

「まったく、なんてことかしら……今宵は六月の満月の日だというのに……」

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