母の浮気

り(PN)

1 母と妹のこと

 偶然とはいえ母の浮気を知ってしまったのは、わたし自身の心の揺れが関係するのかもしれない。

 客観的に評価して母は悪い人間ではないだろう。物心が付く前から母という人間に育てられた子供としての評価は甘くないが、やはり悪い人間だとは思えない。けれども硬い人間であるとは思う。また冷たい人間であるとも……。

 わたしと妹という二人の娘を育て上げたのだから、一般的な母親としては及第点なのだろうが、それは単に義務を果たしただけ、という気がわたしにはする。

 日常生活の中にはもちろん笑顔があったし、おそらくそれは嘘ではないのだろうが、その裏にもう一枚別の表情が隠されているような気がずっとしていて落ち着かない。

 母と娘とのどうしようもないような蟠りは、ある年齢を越え、自分も似たような境遇になってしまえば霧散していくものなのかもしれないが、それでも何処かに鋼のような硬さが残り、それがわたしに対する拒絶のように受け取られてしまうのは何故なのか。

 実際にはそうでないのかもしれないが、子供に対する愛情に欠けているようにも感じられる。

 もっとも広い世間には真の意味で酷い母親もいるわけで、自分の子供を邪魔者としか思えない女もいれば、モノとしてだけ認識している女もいる。それに比べればわたしと妹は十分に母から愛されて育ったのだろうが、最後の一点に違和感がある。

 それがわたしに、本当は――わたしのことが――欲しくはなかったのだろう/間違って産んでしまったのだろう、と感じさせてしまうのだ。

 妹は違う。

 妹は間違いなく望まれてこの世に生を受けている。

 この家における二人目の子供は父も母も本当に欲しかったのだろう、とわたしには思えるし、また知っている。……といって妹が特に甘やかされて育ったわけではないが、わたしよりも長時間、母が妹を構っていたのは事実だ。

 母の愛情を妹に盗まれたと感じる典型的な長女シンドロームのように聞こえるかもしれないが、実際のところはどうだったのか。

 わたしが中学生のときに亡くなった祖母の話を思い出すと、そのような贔屓はなかったようだ。

 どんな親でも最初の子供は初めてなので慣れていなくて大変で二番目、三番目はそれなりに手を抜くものだと聞いているが、それは母にもあったらしい。

 ……とすれば、わたしの方が妹よりもずっと多くの時間を母から受け取ったはずなのだが憶えがない。

 もっともそれはわたしと妹との性格的な違いによるものなのかもしれなかったが……。

 妹自身は生まれたときから甘えることに躊躇がない。逆に厭うことにも躊躇がないが、負の感情が長続きしない。母の性格はどちらかというと穏やかで且つきつく、だから自分と似たような性格をしているわたしとは喧嘩らしい喧嘩をしたことはないが、妹とは日常的に喧嘩をしている。それ以上に仲の良さを見せつけられる場面もある。また幼い妹が風邪を引きかけたときには、すぐに学校を休ませたものだ。わたしの場合は、

「熱っぽいから学校に行きたくない」

 と訴えると怒られる。

「ホラホラ、動いているうちに治るわよ。早く行きなさい」

 と突き放される。

 確かに重い頭を抱えて嫌々ながら足を前後に動かし続けて小学校に登校してみると、当時仲の良かった多くの友だちに囲まれて徐々に気分は戻ったし、下校時までには完治している。だから母の対処は、少なくともわたしに対しては正しかったことになるが、子供心に、わたしはもっとたくさん母に心配してもらいたい、と感じたのだ。

 わたしが長じて初潮を迎えてからもそんな母の対応は一向に変わらず、

「病気じゃないんだから早く学校に行きなさい」

 を繰り返す。

 妹は生理が遅くて中学に上がってからの初潮となったが、母は大事をとって中学校を休ませようとする。結局あのときは妹自身が、

「行く」

 と宣言して学校に出かけてケリが付いたが、母はわたしが高校から帰って来てもまだ妹のことを心配している。

「梓と違って茜は身体が弱いから安心できないのよ」

 と母は説明したが、それは事実だ。

 性格が大胆なせいで傍目には元気一杯な印象を与える妹だが、風邪を引けばすぐに熱を出したし、それが下がらずに数日間寝込むこともままある体質なのだ。中学校の後半からはそんな虚弱体質とも縁を切りつつあったが、母の心配は長く続く。

 わたしも幼い頃には調子を崩して年に数回寝込むことがあったが、母に付きっ切りで看病をしてもらった記憶がない。

 当時はまだ元気だった祖母が家にいたからという理由はあるし、付きっ切りではなくとも母の手のスプーンから直接、缶詰の白桃を食べさせてもらった記憶はあるので、実際には十分構ってもらっていたのかもしれないが 。

 ……というふうに振り返れば、わたしの想いはやはりただの妹に対するやっかみなのだろうか。

「お姉ちゃんは優等生だから、お母さんは安心なのよ」

 と妹は言う。わたしが、

「アンタはお母さんから愛されてて良いわね」

 とふと愚痴を零したときのことだ。

「そうなの?」

「そうだよ。だって高校も、大学も、就職先だって自分でちゃんと決めてきて、旦那さんだって良い人だし……」

「ふうん。でも旦那は関係ないじゃない」

「何言ってんのよ。いまどき国家公務員だなんて全然安泰じゃない」

 そんな妹もようやく結婚することができそうだ。

 得な性格とはあるもので、妹の婚約者の比内(ひうち)くんとの出会いは偶然だ。妹のしていたコンビニ店のバイト先輩の友人で、そのバイト先輩から河口湖へのキャンプに誘われ、

「まあ、いいか」

 と行ってみると比内くんがいたそうだ。

 自分の大学の友人が連れてきた娘だからキャンプ中は妹のことに遠慮していた比内くんだったが、別の機会に今度は映画鑑賞会という名前の合コンで再び出会ったときに打ち解けたらしい。

 それでもまだ二人の間に恋愛感情はなかったようだ。

 そのバランスが崩れたのは妹の友人が不慮の事故で死んだときで、わたしもあんなに感情を毀した妹を見たのは初めてだ。

 亡くなった里佳子ちゃんは小学校後半からの妹の友だちで、中学生の時には擬似恋愛関係にあったようだ。それを通り越してからは互いに仲の良い友人関係に変わったはずだが、相互依存は残ったらしい。

 それで妹の感情の毀れ方が半端ではなかったのだろう。

 号泣という言葉がある。

 いわゆる大声をあげて泣き叫ぶことだが、妹は当然のようにそのような反応を見せていない。ただ黙って耐えたのだ。

 泣けば悲しみが消えるわけではないが、それでもすこしは和らげられる。その和らぎはごくわずかなものかもしれないが、それでもまったくないよりはマシなのだ。

 最初わたしは妹が淡々と悲しみの日々を過ごすのを彼女の気丈さだと勘違いする。だからある日突然呆けたような妹の笑みと空っぽな心に気づいて仰天する。

 妹は何も考えていなかったのだ。

 大切な友人を失ったという大きな悲しみが心と身体を突き刺して妹を毀し、廃人のようにしてしまったらしい。それでいて日常生活は送れるのだからヒトという生き物はやっかいだ。

 ただ感情だけが抜け落ちている。

 そんな妹の内面の変化に逸早く気づいたからには比内くんは妹のことを以前から憎からず思っていたのだろう。

 口は悪いし、頭も悪いし、日頃は男の子のような格好を好む妹だったが、母に似たのか、それなりの化粧をすれば驚くような美人になる。

 妹がわたしよりも美人なことをわたしは子供の頃からずっと認識してきたので、その頃にはもうその事実をもって妹に妬心を抱くことはなかったが、心を失くした妹の人の目を一切気にしなくなって浮かび上がった純粋無垢な美しさに、わたしの妬心が目覚めてしまう。

 が、同時に姉としての立場も感じて、ある日比内くんに助けを求める。

「後のことはどうなっても良いから、今だけ茜を助けてあげて」

 自分のその言葉の何と無責任でキレイゴトなことか。あのとき比内くんはわずかに困ったような目付きでわたしを見つめ、そして間を置いてわたしに答える。

「お姉さんはそれで良いんですか」

「もちろん良いわよ。たぶん今、茜を救えるのは比内くんだけだから」

「お姉さんは本当にそれでいいんですね」

 繰り返された比内くんの言葉に、わたしはどう答えたのか。

「ええ、もちろん」

 同じように自分の言葉を繰り返したか、それとも、

「だって後のことは後のことだから……」

 とズルをしたのか。

 その次に交わされた二人の言葉たちはもう、

「わかりました。できるだけのことはやってみます」

「ありがとう。本当にお願いします」

 という妹想いの姉とその妹の恋人である若い男との会話内容に摩り替わっている。

 あのときの話をわたしも比内くんも以来一度も話題にしたことがない。

 あのときの会話はわたしの心の中では、その後何度も数多の別バージョンとして繰り返されたが、比内くんの方ではどうだったのだろう。

 妹は里佳子ちゃんの交通事故から約三月後に、家族とそれに彼氏の比内くんを伴ったお食事会の席上で突然暴れだしてから元に戻る。

「里佳子ごめん、里佳子ごめん、里佳子ごめん、里佳子ごめん、里佳子ごめん、里佳子ごめん、里佳子ごめん、里佳子ごめん、里佳子ごめん、里佳子ごめん、里佳子ごめん、里佳子ごめん、里佳子ごめん、里佳子ごめん、里佳子ごめん、里佳子ごめん、里佳子ごめん……」

 を繰り返し、最後は比内くんに後ろから羽交い絞めにされて大人しくなる。

 それからの妹の日々は思い出の整理の連続で、里佳子ちゃんのお墓を参ったり、ご両親を訪ねたり、古い写真と対峙(|対決)したりを繰り返したが、そんな妹の傍らにはいつも比内くんの姿がある。

 その後比内くんが先に、次いで妹も社会人になって、互いに何度も別れて何人かの別の相手と恋愛したが、結局自分たちに一番合っていたのがそれぞれなのだと結論して結婚する運びとなったのだ。

 だからもうアレは終わったこと。

 わたしの中で、そしてもちろんそれ以上に比内くんの心の中で……。

 常識的にはそうでなくてはならないし、またそうでなくては比内くんは茜との結婚を決められなかっただろうし、決めなかっただろう。

 だからわたしとのあの一夜は比内くんの遊び。

 だから比内くんとのあの一夜はわたしの遊び。

 あのとき比内くんがわたしに言いかけた言葉、

「あの、オレ、本当は……」

 の先をわたしはどうして言わせなかったのか。とっさに聞いてしまってはいけないと思ったのは事実だが、今更のように振り返ると自分の感情がわからない。

 それにあの言葉の先は、わたしが欲した内容ではなかったかもしれないではないか。単に、

「あの、オレ、本当はいろんな人とセックスするのが好きなんです」

 と続いたかもしれないのだ。

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