巻ノ弐 ノーテッド

第三章 本屋の仲間

3-1 貸本屋の朝は早い

 貸本屋の朝は早い。

 なにせ背負う荷物が大きいので通勤ラッシュを避けて移動しなければならないからだ。


 だいたい朝六時に起きて、七時半には日本橋に行くようにしている。カンダさんも本屋横丁の店兼倉庫に八時頃来るので、そこで昨日戻ってきた本を返して、代わりに今日貸す本を受け取るのだ。前日のうちに交換しておけばいいと思ったこともあるが、夜のうちにいろいろ変更になることが多く、また朝に倉庫で待ち合わせて細かな追加指示を受けてから客先へ行くことが少なくないので、前日店に戻るのはやめてしまった。さすがに朝に店を出発してから予定が変更になることはなかったので、これが正解のようだ。


 返本はカンダさんが全点チェックをするので、結構時間がかかる。カンダさん本人が直接受け渡しをしていれば、取引の現場で確認してしまうのだが、ぼくが代行をしているせいで前日分のチェックをいっぺんにやらなければならない。ぼくらの扱っている古典籍は、古い紙なので当然痛みやすく、破損があった場合は補修費用の一部を借り主が負担することになっていて、チェックは入念に行われる。

 どう壊れたかでも費用が変わってくるから、このチェックをおろそかにすることはできなかった。破損箇所が見つかると、写真を取り、カンダさんが電話で借り主に交渉することになるのだが、やはり本人が直接受け渡しをしていないせいで、交渉がやりにくいようだった。

 カンダさんの借り主たちは年季の入った面子が多いので、破損に気づいた場合は自分でメモを添えてくれるのだが、本人が気づかない破損も多く、そういう場合はカンダさんはしばらく考え込んで、請求しないことにすることも多かった。過去には修繕の交渉がこじれて取引が中止になったこともあったらしい。

 そういうときは修繕費用の請求ができない上に、取引も無くなってしまうので、ここは慎重にならざるを得ない。ぼくが貸本代行をするにあたって、一番のネックだったのはこの点だった。四十八件の取引先を一巡するまではカンダさんが同伴して、借り主に挨拶をして回った。


 返ってきた本のチェックが終わると、倉庫の所定の位置に戻していく。すぐに貸す本は、整理棚に一旦置かれる。貸す本の伝票は、前日のうちにカンダさんが手で書き起こしているが、タイトルがどれも似たものであるので、ぼくの目では正確に判別ができない。結局、朝早くにカンダさんがここに来て、自分でピックアップしてぼくに渡す方式になってしまった。

 カンダさんがチェックしている間に、ぼくがピックできれば効率はいいのだけど、本を間違えると結局は確認と出し戻しが二度手間で面倒になるので、なかなか手が出せない。一度試しにやってみたら正解率が二割程度で呆れられてしまった。なにしろ表紙に書いてある文字がまるで読めないのだからしょうがない。コード番号でも添えれればいいのだけど、そうすればまたそのコード番号が正しいかどうかをカンダさんが判別しなければならないので、結局のところ負荷は変わらない。どのみちぼくは三ヶ月程度の臨時の代役なのだからあまり凝ったことをしても仕方がない、と今のような方式になったのだった。多少早起きしなければならず、手間はかかるが、やり直しがないので結果的には一番効率がいいのだろうと思う。


 貸す本のピックアップが済んだら、長机にルート順で並べる。ルートは借り主の指定時間もあるので、単純に道順になるわけではない。最初は一枚の地図にどんどん矢印を書き足していたが、取引先が複数重なってくると間違えやすくなってしまったので、マップ型からリスト型に変更した。これなら配達の順番を間違えることはないし、無駄な行き来が減って、却って効率的だった。


 ルート順に並べた貸本はまとめて一番上のケースに収める。二段目のケースは空にしておくことにした。ここには返却した本を収めていく。この仕事を始めて最初の頃に、これから貸す本と、返って来た本を間違えて渡すミスが数件続き、試案の末にこのような方式にしたのだ。

 カンダさんが直接取引きしていたときは、戻ってきた本をそのまま次の客に貸すということもできたが、今は破損チェックのために一度この倉庫に戻さないとならない。それで貸本の回転率がだいぶ下がってしまっていた。これは目下のカンダさんの悩みの一つである。かといって、ぼくが数ヶ月やった程度で手助けになるほどの目利きができるようになるわけもなく、やはりこの仕事はカンダさんの腰痛が治るまでのつなぎでしかないのだった。


 三番目のケースは新刊本のケースなのだが、これがなかなか売れなかった。ぼくが上手く既存客に売り込めないのも原因だけれど、新規のお客さんを開拓できていないのが最大の原因だ、とカンダさんは言っていた。

 今は三点ほど各三冊ずつ持ち歩いているが、これまでに二冊しか売れていない。重いし労力が無駄だから、もう持ち歩くのをやめようかとカンダさんが言い出したこともあったが、直後に一冊売れたので、ぼくががんばることにしたのだった。単価が高いので売れると店の収益が跳ね上がる。しかし、求められたその場で現物を持ってなければ、ビジネスチャンスはフイになってしまうかもしれない。欲しい時に現物が無いのでは商売にならないのだ。それに、新刊本は売れるとちょっとボーナスがもらえることになっている。


 四番目のケースは、艶本を隠しているケースだ。今はぼくが対応しきれないので、一応休止ということになっている。残念がる客は多い。なるべく早く再開してあげたいが、大半が禁書指定されていて、貴重な文献も多いのでしばらくは難しいだろう。ミウラさんのような上客のところには、カンダさんが直接出向いているようだ。カンダさんも大荷物を担ぐのでなければ、もう普通に出歩けるのでそれは問題ない。


 空のケースは不要ではあるのだが、四段にしないと結束できない仕組みなので仕方がない。ぼくは空の四段目の上に、三段、二段、最上段と積み重ね、ベルトでぎうと結束した。その上から「四六」の紋が入ったカバーをかければ、出撃OKだ。


 そして荷物を背負い上げて、ルートを確認して本屋横丁の四六の店を出ると今日の業務が始まる。カンダさんはそのあと店に残るが、来客などはほとんどないので昼過ぎにはシャッターを閉めて外商に出るらしい。こないだ飲んだときにいつも店にいるのかと聞いたら、あまり居ねえなあと答えて、そう言っていた。客先に行ったり、組合の事務所に行ったりいろいろ忙しいのだそうだ。とくに組合の業務に関しては、半休養なのをいいことに、組合長のムロマチ氏がじゃんじゃん押し付けてくるらしく、逆に仕事が増えたとボヤいていた。


 ムロマチ氏は小柄だががっしりした体躯の持ち主で、総白髪に白いあごひげが印象的だ。ドワーフなんてものが実在したら、きっと彼のような風貌だろう。「マルサン」という貸本屋の亭主で、蔵書には比較的初期の黄表紙が多かった。恋川春町や大田南畝のような武家戯作者の作品を中心に取り扱っていて、日本刀の鑑定もできるのだとか。昔鍛冶屋で修行したこともあるらしく、今でも趣味で鍛冶をやるという話だ。ぼくは密かに、名実共にドワーフだな、と思っていた。もともと日本刀の文献を漁っていたら、いつの間にか和本の蔵書が増えて、先代のマルサン店主から引き継ぐ形で貸本屋になったそうだ。だから年齢の割にキャリアは長くない。保守的なタイプらしく、先代に義理立てしてか改革や変更を嫌う節がある。

 改革派のカンダさんとは事務所で言い争いをしているのを何度か見たことがあるが、仕事以外のことでは特別仲が悪いということはないようで、よく二人で連れ立って飲みに行っているようだ。

 ムロマチ氏は一般の中高年と同様、天性のITオンチで帳簿は完全に手書きだ。大福帳みたいな帳面に筆ペンでさらさらと何かを書き入れているのを見たことがある。一応ケータイは持っているらしいが、ほぼ受信専用になっているそうだ。そんなだから、ちょうど手の空いたカンダさんに自分ではできない事務所のPC仕事を丸ごと押し付けたというわけだ。カンダさんは座り仕事は腰にくると嘆いていた。


〈つづく〉

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